古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

牛重天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市牛重3821
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧牛重村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 225日 例大祭 725日 秋祭り 1125
 日出安駒形神社の東側にある埼玉県道38号加須鴻巣線を南西方向に進み、騎西文化・学習センター内にある騎西城に一旦立ち寄る。史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館であったようで、現在の広く騎西城として認知されている天守風の建物は、1974年(昭和49年)8月に建設された模擬天守であるといい、道路を挟んだ反対側には。土塁の一部が唯一の遺構として残されている。
        
                 旧騎西城の復元店主
 この城は戦国最強武将である上杉謙信が本拠地である越後国から関東へ侵攻した際に、本来の目的である松山城救出に間に合わず、その報復として永禄6年(15633月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城を攻め、助三郎は自害し、騎西城は落城したという。この騎西城は本丸を沼に囲まれた堅牢なお城で、北条氏対上杉氏の覇権争いの最前線の城でもあったため、激しい戦いの舞台となってしまった悲しい歴史があるのだが、現在は、綺麗な図書館や公園内に天守があり、加須市騎西地域のシンボルとして存在している。
        
               公園内に設置されている案内板
 騎西城の見学後、改めて牛重天神社に向かう。騎西城の交差点を南下し、すぐ先の丁字路を左折、そのまま1㎞程道なりに進むと進行方向右手に牛重天神社が見えてくる。
        
               像路沿いに鎮座する牛重天神社
『日本歴史地名大系 』「牛重村」の解説
 根古屋村の南東方にあり、南西方は備前堀川を隔てて広く鴻茎(こうぐき)村に対し、東は油井ヶ島沼を隔てて油井ヶ島村(現加須市)。田園簿によれば田高三二〇石余・畑高一一二石余、川越藩領。ほかに妙光寺領三〇石がある。寛文四年(一六四四)の河越領郷村高帳では高八一六石余、反別は田方五二町七反余・畑方三三町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに三一九石余があった。明和四年(一七六七)の川越藩主秋元氏の転封に伴って出羽山形藩領になったと考えられ、化政期には同藩領と根古屋村金剛院領、妙光寺領(風土記稿)。同藩領は天保一三年(一八四二)上知となり(秋元家譜)、幕末の改革組合取調書では幕府領と川越藩領・旗本領。
 天神社が鎮座する「牛重」は「うしがさね」と読む。その地名由来は不明となっていて、筆者としては大変興味深い。
「牛重」(うしがさね)という地名は『新編武蔵風土記稿』にも載っていて、江戸期からあるようだが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は埼玉県北部に鎮座する金鑽神社の「さな」の同類後であるならば、「鉄」つまり「製鉄」に関連する地名とも思える。加えて、牛重地域に隣接する「種足」地域という名称も、どことなく古代の製鉄のイメージがする地名なのだが、それらを証明するしっかりとした書物や資料はないので、あくまで筆者の推測にすぎない。
        
               参道を進む先に見える二の鳥居
 牛重天神社の創建年代は不明。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、そのころには既に存在していたものと推測される。隣の万福寺が別当寺であった。そのため、昭和後期の当社の氏子総代と万福寺の檀家総代は兼任している。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。そのうちの一つの「浅間社」は、当社の隣にある日露戦争を記念する「日露戦役記念碑」がある塚の上にあった神社で、萬福寺の山号が「浅間山」であることからもわかるように、当社とともに萬福寺と密接なつながりがあった。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 牛重村』
 天神社 村の鎭守とす、〇第六天社 〇淺間社 三宇共に萬福寺持、
 萬福寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、淺間山と號す、開山空鑁天正十三年十月十八日寂す、本尊彌陀を安ず、 鐘樓。寛政八年の鑄造なり、十王堂

 天神社  騎西町牛重三八二(牛重字中前)
 当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
 当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
 このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
 一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿上部に掲げてある凝った扁額      拝殿前には一対の力石が置かれている。
        
               境内に設置されている案内板
 天神社  例大祭 七月二十五日
 当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
 明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
 本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。
(以下略)
        
                    本 殿
        
              本殿の奥にある「日露戦役記念碑」
    「埼玉の神社」のよると、境内社・浅間社はこの記念碑のある塚上の一角で、
          南向きに祀られているようだが、今回確認はしなかった。
        
                                   社殿からの一風景
ところで、『新編武蔵風土記稿 牛重村』では、浅井長政の家臣であった黒川家の祖が、長政の嫡男・万福丸の菩提を弔うために当地にあった真言宗智山派である万福寺を創建したという。信憑性はとにかく、なかなかロマンある説話ではなかろうか。
『舊家者喜右衛門』
 黒川を氏とす、家系によるに祖先は村岡小五郎の後裔、會津新左衛門政義の嫡子にして、三郎左衛門忠重と云、忠重始て黒川姓を稱し、天文年中淺井備前守亮政に仕ふ、その子大助忠親の時、淺井家より藤丸の紋の陣羽織を興へし由、其子家忠淺井下野守久政備前守長政に仕へしが、久政長政信長の爲に生害せしかば、家忠も、薙染して僧となれり、又其子忠友は萬福丸を守護せしかども、萬福丸も又秀吉の爲に生害せられければ、これも出家せり、夫より家忠の二男忠晴より、この子實忠に至るまで、下野國にありしが、實忠の子忠好、天正年中故有て武州騎西に來り住す、夫より子孫連綿して今の喜右衛門に至れりと云、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」
    「境内案内板」等
        

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