上野本八幡神社
八幡社
在家の鎮守なり、氷川雷電を相殿とす、當社往古は雷電社一社にして、祭神別雷の神なり、然るに白鳳元年志貴廣豊といへる人、八幡を勧請し、後又氷川を合祀せりと云傳ふれど、白鳳中の配祀など云こと甚疑ふべし、遥の後天正年中地頭渡邊忠右衛門より、八幡免田を寄附し、寛文二年再興ありしと云。神主布施大和。吉田家の配下なり。
白鳳元年は西暦672年にあたる。この年に志貴廣豊(しきひろとよ)なる人物が、当地に八幡様を勧請したという。八幡様が東国に広がった時期はかなり後代であるので、風土記の編者の言い分にも妥当と考えるが、それよりここで気になるのは「志貴廣豊」なる人物で、ホームページ等にて調べても身元不明で、全く確認できない。
「志貴」は「しき、シキ、シギ」とも読め、埼玉県にも「志木市」があり、決して埼玉県人には馴染みがない名称ではない。
どのような素性、経歴の人物だったのだろうか。
・所在地 埼玉県東松山市上野本1812
・ご祭神 大山咋命(推定)
・社 格 旧野本村在家鎮守
・例 祭 例祭10月15・16日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0223835,139.4098935,18z?hl=ja&entry=ttu
旧野本村在家鎮守である上野本八幡神社は、国道254号東松山バイパスと国道407号が交わる手前の「八幡神社(北)」交差点を右折して暫く道なりに進むと、右側に上の元八幡神社が見える。南端の一の鳥居付近には適当な駐車場はないため、南北に長い参道の中間地点に「老人憩いの家」という集会所らしい建物があり、そこには駐車スペースも確保されているので、そこに停めて参拝を行う。
上野本八幡神社正面一の鳥居
道路沿いにある鳥居の右側には市指定文化財である「野本八幡神社の絵馬」と「上野本の獅子舞」の標が掲げられていて、案内板も設置されている。
〇野本八幡神社の絵馬(市指定文化財・有形文化財) 昭和四九年七月一〇日指定
明治二五年(一八九二)、都幾川の堤防工事(明治二二~二四年)の完成を記念して、その労苦を後世に伝えるとともに、将来に渡って洪水から野本耕地が守られることを願って、拝殿に奉納されています。
絵馬には、奉納のいきさつ(漢文)と当時の土手普請の様子が細かく描かれています。
絵は山口曲山、漢文は嵩古香によるもので、いずれも野本出身の文人です。
東松山市教育委員会 案内板より引用
〇上野本の獅子舞(市指定文化財・無形民俗文化財) 昭和五五年一月一〇日指定
一〇月一五日に近い日曜日、ここ八幡神社の秋祭りに厄除け、家内安全、五穀豊穣の感謝の奉納舞として行われます。一人立ちの三匹獅子舞で、舞の構成は「ドヒヤリ」・「三匹ぞろい」の二曲形式で、「街道くだり」・「雌獅子隠し」・「歌の舞」となっています。獅子舞に先立ち、二人の青年によって「出棒」、「ずり棒」、「込め棒」の棒術が行われるのが特色となっています。「宝暦二年」(一七五二)銘の貼り紙を持つ太鼓や神社明細帳に「嘉永五年獅子頭再調」(一八五二)から少なくとも江戸時代後期には獅子舞が行われていたといわれています。
東松山市教育委員会 案内板より引用
鳥居より参道正面を撮影
参道は長く、桜も満開の時期、周辺に住む人であろう方々が子供と一緒に春のひと時を楽しむ微笑ましい場面も見られた。
拝殿周辺を撮影
拝 殿 拝殿に掲げている社号標
「志貴廣豊」なる人物はどのような素性を持っているのか。その鍵となるのは「志貴」という苗字である。「志貴」は「鴫(シギ)」とも読め、「志義、新儀、信議」とも記されることもある。
・川越宿志義町条
「志義町は昔鴫善吉と云し鍛冶の開きし所なり、故に鴫町と号せり、今志義町とかくは假借なり」。
・鍛冶町条
「天文弘治の頃鍛工平井某と云もの相模国より当所へ来りて住す、その門人鴫惣右衛門、同内匠などと云ものあり」。
・三芳野神社由緒書
「新儀惣兵衛允則重と云へるものは、其の先は新儀巧匠守と称し小田原北条家の麾下也。天文弘治の頃に小田原から門人十四人を率いて川越に移住す」。
・寛永十七年太刀銘 「武州川越住・新儀惣兵衛允則重作」。
・日蓮宗行伝寺過去帳
「宗善院淨心・鴫惣右衛門舅・卯年十月。妙受・鴫前ノ惣右衛門内・辰年八月。巌王院宗念・鴫惣兵衛・巳年七月。妙伝・鴫惣兵衛息女・寅年四月。妙千・鴫殿内千代・午年十二月。妙悦・鴫町衆・二郎右衛門母・寅年十一月。法悦・鴫町与三右衛門・辰年十一月。妙栄・鴫横町ノ甚右衛門内・未年十一月」
上記の記述では、「志貴」由来の地は志木市や川越市方面に多く存在し、「鴫・志義・新儀」等と記載されることもあるようだ。その一派が比企郡・野本地区に移住したと考えられる。またどうも古代鍛冶にも関連している地名・苗字でもあるようだ。「志貴廣豊」もそのような関係の人物である可能性も否定できない。
拝殿の奥に静かに鎮座する本殿(写真左・右)。
社殿の東側には御神木が聳え立つ(写真左・右)。
拝殿手前に咲き誇る桜の大木
桜はどの場所にあっても美しいことに変わりはない。
まさに「日本の春」を象徴するような木。
社殿の右側にある境内社 参道左側に並列している石碑・石祠等
一の鳥居の右側にある庚申塔
上野八幡神社が鎮座する野本地区は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士である野本基員が始祖とされる野本氏がこの地域一帯を領有していた。
『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長の子である藤原利仁は、藤原秀郷と並び藤原氏が武家社会を創出していく時代を象徴する重要な人物である。延喜11年(911年)上野介となり、翌延喜12年(912年)に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守といった坂東の国司を歴任し、延喜15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千(蔵宗・蔵安)を鎮圧し武略を天下に知らしめたことが『鞍馬蓋寺縁起』に記され、同年鎮守府将軍に就任。後代、中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原保昌・源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されている。
平安時代後期において堀川大臣と称された藤原北家基経の警護役である、藤原利仁の次男で、従五位上・斎宮頭である藤原叙用の子孫という片田基親(かただ・もとちか)の子基員(もとかず)が当地に住み野本姓を名乗ったとされる。
上記の内容のほとんどはWikipediaを参照としているが、「基員は御家人として源頼朝の信頼を受け、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した」との記述ひとつにも謎があり、京都では藤原氏の中でも主流の系図からはかなり外れてしまい、出世の見込みもなくなったであろう(片田)基親・基員親子が何故か何の縁もなさそうな武蔵国比企郡に移住している。
偶然とは思うが、「志貴廣豊」と「野本基員」は同じく野本地区に移り住んでいて、時代背景の違いこそあれ、何故か似た者同士のような境遇に重なってしまうのは、筆者の思い過ごしであろうか。