川角稲荷神社
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角2201
・ご祭神 稲荷神(推定)
・社 挌 旧無格社
・例祭等 秋祭り 10月17日
川角八幡神社から一旦南下して「川角」交差点に戻る。この交差点は埼玉県道114号川越越生線と同県道39号川越坂戸毛呂山線との分岐点でもあり、交差点を左折し、県道39号川越坂戸毛呂山線に合流、東行する。2㎞程進んだ後、そこの十字路を左折し、350m程北上した丁字路の角付近に川角稲荷神社は静かに鎮座している。
川角稲荷神社正面
当地は毛呂山町の北東に位置し、坂戸市に隣接する。大字川角ではあるが、大字大類を隔てて川角の飛び地の形となっている。古くは勝呂郷玉林寺村と称し、『風土記稿』に「かく古より開けし地なるは勿論なれど、其地広からずして、一村落とするに足ざるをもて、昔より川角村に隷して、村民の戸数も本村の内に籠りし」とある。
古来、川角の飛び地である玉林寺村では当社を氏神としてきたが、大正元年に川角の八幡神社へ合祀したため、八幡神社の氏子となり、更に旧知へ復したことから昭和二九年以降は再び当社を氏神としている。
「玉林寺村」の名称由来は、『風土記稿』等には全く記されていない。但し『日本歴史地名大系 川角村』には「村名は越辺川の大屈曲部にあたることからという。もと川門と書き、九日市場村(のち市場村)を含んでいた(風土記稿)。枝村に玉林寺(ぎよくりんじ)村がある。応永一八年(一四一一)没した京都建長寺前住持如春少林が一時玉林寺に住していた(空華集)」と記されていて、その当時、この地域にあったのであろう「玉林寺」が名称由来となっているように思える。
当地の小字塚原の地名は、六・七世紀の古墳が数多く散在していることによる。塚原の地内からは太刀・玉などが出土して、その古墳群の主塚を中心に「苦林野(にがばやしの)古戦場跡」といい、貞治二年足利・芳賀(はが)の両軍が戦陣を張った所で、県旧跡となっている。長塚の上にはその供養塔が建ち、近隣の小塚は合戦戦死者を埋めた跡とも伝えている。
またこのあたりは丘陵地域で畑が多く、養蚕の盛んなころには一面の桑原であった。戦後は養蚕も少なくなり、農業をしながら勤めに出るようになった。こうした変化に伴い,作神として尊ばれていた榛名・御嶽・大山の代講も中止となり、畑に立つ雹除け・嵐除けの神札も見られなくなった。
拝 殿
稲荷神社 毛呂山町川角二二〇一(川角字塚原)
鎮座地である玉林寺は川角の飛び地とされ、永禄年間には太田大膳亮が領していたと伝え、当社は開村のころからその鎮守として祀られている社であるという。
当地は江戸時代には玉林寺村と称し、川角村に属し、年貢は川角村と一本であったが、他の面では一村とみなされていた。『風土記稿』は、川角村に隷すと記しながら玉林寺村を一村として扱い、当社について「稲荷社 村の鎮守なり、百姓持」と載せ、社蔵の宝歴三年の棟札にも「奉修覆當村鎮守稲荷明神社天下泰平攸 武刕入間郡玉林寺村氏子」とある。しかし『郡村誌』には川角村の項に当社を挙げ、「東方飛地にあり宇迦魂命を祭る」と、飛び地として扱っている。
明治五年に川角村の八幡神社が村社となり、当社は無格社となったが、その後のいわゆる一村一社制により、大正元年に八幡神社へ合祀された。しかし、合祀後も旧来信仰してきた神社を一朝にして廃することは忍び難く、また、川角の八幡神社へは当地が飛び地として扱われていたことから距離があり、参拝の便も悪いため、合祀後もそのまま旧地に残された社で祭祀が続けられていた。このような中で、戦後まもなく旧氏子により社を元に戻そうとの働き掛けが行われ、昭和二九年登録認証されて現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
こじんまりと佇む社
古くから玉林寺の鎮守として信仰されている。氏子の間では、稲荷様は何事もかなえて下さるありがたい神様といわれ、様々な事が祈願される。
10月17日の秋祭りの前日、夕方には灯籠に灯が入り、氏子は「宵待(よいまち)」と称して神社に参拝する。以前は拝殿に若衆が籠って一晩中飲み食いし、各戸から薪を出して境内で焚き、子供たちが太鼓でにぎやかに囃したという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等