大類十社神社
児玉惟行の次男である児玉経行(こだまつねゆき)の次男行重は秩父重綱(平姓、平重綱)の養子となり、姓が平となり「秩父平太行重」と名乗り、秩父平氏の庶流となる。その3代目の子孫である行義が武蔵国入間郡へ来住、大類邑(おおるいむら)を開拓し、在地名である「大類氏」と名乗ったという。
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町大類29
・ご祭神 金井新左衛門以下九士の霊
・社 格 旧大類村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭り3月5日 秋祭り(獅子舞)10月10日
川角稲荷神社から南側に東西方向に走る道を西方向に進む。正面には豊かな森林が広がる中、一対ののぼり旗ポールが見え、その右側に大類十社神社の鳥居が見えてくる。その距離僅か150m程。至近距離に大類十社神社は鎮座している。
大類十社神社正面
鳥居の左側に建つ社号標柱 鳥居の社号額 「十社神社」と表記
『日本歴史地名大系』 「大類村」の解説
川角村の東、東は同村枝村(飛地)の玉林寺村で、越辺川右岸の台地上に立地。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の紫藤新六の所領として「拾八貫七百六拾三文 入西郡大類」「六貫三百四拾五文 入西郡大類之内」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿では田高一一石・畑高二四二石、旗本安藤・水野氏の相給。その後水野領は上知後旗本肥田領となり、幕末に至った(「風土記稿」・改革組合取調書など)。検地は宝永四年(一七〇七)安藤領で実施(風土記稿)。
鬱蒼とした杉林の間を参道が伸びる。
『毛呂山町HP』には「十社神社にまつわる伝説」として「貞治2年(1363)の苦林野合戦の際、足利基氏の家臣岩松治部大輔は、基氏の鎧を身につけ、主君の身代わりとして参戦した。芳賀軍の岡本信濃守が斬りかかってきたところ、岩松の家臣金井新左衛門が立ち塞がり、馬から落ちざまに岡本と差し違え、討ち死にしてしまった。
十社神社は、主君の身代わりとなって戦死した金井新左衛門ほか9名の武将が祀られていることから、古くは十首明神と称し、境内に数多く残る古墳は、戦死者の墓という言い伝えがある」との解説を載せている。
境内の風景
社の境内周辺には、他の社と違う雰囲気の不思議な凸凹のある場所が目視しただけでも数カ所もあり、後日資料等にて確認すると、大類十社神社境内周辺には「大類古墳群」と称されている小古墳が密集しているという。但し「埼玉の神社」では社殿奥には「苦林合戦に関わる古塚がある」とも記載されているため、一概に古墳と決めつけることは早計とも思える。
参道左側にある社務所の奥にある小高い塚。 参道を挟んで右側にも古墳らしき塚が見える。
拝 殿
十社神社 毛呂山町大類二九(大類字神明台)
当地は、越辺川と高麗川に挟まれた台地上に位置する。西境には往時上州と相州とを結ぶ主要交通路として利用された鎌倉街道が、今も雑木林のなかに一条の古道として残る。地内には六、七世紀の古墳が散在し、更に当社の鎮まる字神明台の辺りには、中世に活躍した児玉党の一族大類氏の館跡がある。地名の由来も同氏の土着によるとされ、この地が古くから開けていたことがうかがわれる。また、当地の中心となる宿場町の街道は、敵からの防御のため上・下の外れがそれぞれ鉤の手状に作られていた。
由緒は『明細帳』に「該社創立ノ年月日ハ右社ニ附属セシ古記録等往時別当当村大薬寺享保慶応両年度火災ニ罹リ焼失シタルヲ以テ詳カナラスト雖モ古来伝ヘ云フ貞治二癸卯年足利基氏芳賀某ナルモノト当郡苦林野ニ戦フ其時僧秀賀ナルモノ戦死者芳賀臣金井新左エ門外九名ノ霊ヲ祭レリト因テ右ハ十士明神ト称ス後今ノ社号ニ改ムト云フ旧来産土神タルヲ以テ明治五年ニ村社ニ列セラル」とあり、主祭神は金井新左エ門以下九士の霊である。なお、往時別当を務めた真言宗大薬寺は、大類氏の菩提寺であった。
合祀は、明治四〇年に同大字字愛宕台の愛宕神社、字神明台の神明社、字諏訪台の諏訪神社、大正三年に大字苦林字清水の鹿島神社、字木下の稲荷神社について行っている。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側奥にひっそりと祀られている弁財天像
社殿左側にある神興庫 神興庫と社殿の間に祀られている
境内社・稲荷神社
本 殿
当社は10人の武将の霊を祀ったところからその社名が起こったといわれているが、現在祭神にまつわる行事は残っていない。
氏子内で今に伝承する行事として飯能市長沢の諏訪神社から伝わったとされているササラ(獅子舞)がある。この行事は、昭和40年代に若年層の減少により新習いが不足したため一時期絶えていたが、ササラ関係者の努力により見事に復活されている。
ササラの諸役は「お役人」と呼ばれる。獅子は、雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、その他の役割として蠅追い・花笠・法螺貝・笛吹がある。古くは氏子内に新しく入った養子に任される「天狗」と称する役もあった。ササラは神社境内で舞うほか、村内を回る途次に、当社に合祀された字神明台の神明社と愛宕台の愛宕社の元地及び浄国寺の各方角に向いて一庭ずつ奉納する習わしがる。
ササラの曲目には「岡崎」「雌獅子隠し」「竿掛(さおがかり)」などがあり、それぞれの曲の前に「願ザサラ」を摺るところに、当地の獅子舞の特色がある。
正面鳥居の先にあるご神木の大杉(写真左・右)
ところで、冒頭で解説した大類氏は武蔵七党の児玉党出身で大類五郎左衛門尉行義を祖としている。行義は秩父次郎行綱の子で、秩父平氏庶流であり、本貫地は秩父であろうと推測しているが、上野国群馬郡大類村発祥とする説もあり、ハッキリとは分かっていない。
『新編武蔵風土記稿 大類村』
「大類村は、川越城及び江戸よりの行程前村に同じ。松山領にて入西(にっさい)に屬す、按に大類氏は當國七黨の一兒玉黨の人なるに、此邊同じ兒玉黨なる越生氏等が住せし由を傳へたれば、當村も恐らくは大類行綱が一族など土着の地にして、在名をもて氏には名乗しならん、かく古き村なることは論なし、既に上野國群馬郡宿大類村は、昔兒玉黨大類氏の居住せし地なる由傳へり」
「小名 鎌倉道
西方川角村の境を云、こゝに鎌倉への古道あり、北の方苦林村より村内九町を過て、南方大久保・市場二村の間に通ぜり、今は尤小徑となれり、是は鎌倉治世の頃、上下野州より鎌倉への往來なれり、今も此細徑を北へ往ば、越邊川を經て兒玉郡本庄宿へ通ぜり、南の方は市場・大久保の境を過、高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり」
参道から入り口鳥居を望む。
『風土記稿』においても、上野国群馬郡宿大類村は児玉党大類氏が居住していた地である事が記されている。また通説で大類五郎左衛門尉行義は、武蔵国入間郡へ来住、大類邑(おおるいむら)を開拓し、在地名である「大類氏」と名乗ったというのだが、行義が来住時、すでに当地は「大類」という名称であったという矛盾を生じてしまう。
結果論でいうと、『風土記稿』に記載されているように、この大類行義はこの当地土着の一族である可能性は否定できないのではなかろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」等