古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川角八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角1233
             
・ご祭神 (主)誉田別尊 (相)天照皇大神 春日大神
             
・社 格 旧川角村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭1010日前後
 東武越生線川角駅から北方向に進むこと1㎞程、埼玉県道114号川越越生線と交わる信号のある丁字路に達し、そこを左折する。県道を西行すること1.3㎞程にて「川角」交差点に到着、そこを右折する。道幅の狭い道路ながら両側には新旧の住宅が立ち並び、速度を落として安全に進んでいくと、正面遠方には越辺川右岸の豊かな山林が一面に広がり、その中に川角八幡神社の石製の白色鳥居が小さいながらもハッキリと見えてくる。社とは道を挟んで東側に「社務所・集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                  
川角八幡神社正面
『入間郡誌』による川角村の解説によれば、「川角村は入間郡の西北部に位し、北は比企郡今宿村に境し、東北に入西村あり。東南に大家村あり、西に毛呂村及越生町あり。川越町を去る四里。地勢西北境は丘陵なれども、村内概して広濶なる平原地にして、林野連り、河流の流域には水田を見る。土質も西北部は粘土或は砂土にして、其他は大抵黒色若くは赤色の軽鬆土也。農業の外、養蚕、製茶等の業盛にして、絹、麦、米、茶等は主要なる産物也。川角、西戸(さいど)、箕和田(みのわだ)、苦林(にがばやし)、大類(おおるい)、西大久保、市場、下川原の八大字より成る。
 川角村の地方古墳甚だ多し。殊に大字川角の東部及其飛地玉林寺の如きは其類頗る多く、玉林寺には一望一二町歩の間、約二十七八個の古墳を存する処あり。古は殆ど一面の古墳なりしならん土人呼で塚原と云ふ。塚を崩して出てたる玉石は道路普請等に用ゐ、石棺の板石は橋梁敷石等に用ゆ」と記載されている。
 また同じく『入間郡誌』には「大字川角」の解説も載せていて「川角は元川門とも記し、村の西部より中央部に及び、別に大類を隔てゝ、玉林寺と称する飛地を有せり。戸数一百十余。鎌倉街道の跡は其東部にあり。道に接して寺地の蹟あり。宿駅の存せし処あり。今や草生蟲嗚古の面影を見るべからず。小室氏、清水氏、岸氏、仲井氏を以て古しとなす」と、嘗て川角村は「
川門」と記されていたこと、また「玉林寺」と称する飛び地がある事(現在でも同じ地に飛び地はある)等を解説している。
              
                          入り口付近に建つ「道祖神」の石碑
  それぞれ側面には「右 川越道」、左側面には「左 坂戸道」と、嘗ての道標となっている。
            昔から人の往来が盛んな道であったのであろう。
        
 川角八幡神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代にはすでに存在していたと伝えられていて、鎌倉時代には、源頼朝が奥州征伐の際に八幡神社に戦勝祈願をし、勝利を収めたことから、八幡神社は武神として広く信仰されるようになった。貞治2年(1363)の苦林野合戦により焼失、社地を当地に改めて応永年間(13941428)再建したという。江戸期には江戸幕府より社領55斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
『新編武蔵風土記稿 川角村』
 八幡社 天照大神春日明神を相殿とせり、社領五石五斗の御朱印は、慶安二年に賜ひし由を云へど、小名に神田の名あり、もし當社の領地を唱へしならんには、舊くより社領ありしこと推て知るべし、南藏寺の持、
 南藏寺 新義眞言宗、今市村法恩寺の末、金剛山地藏院と稱す、前住英純今法流開山と定む、本尊薬師は銅立像にて、長一尺餘、天竺渡来の像なりと云、
 古碑 延文三年十二月十日と彫せり、

      参道途中で、境内右側にある芭蕉句碑とその案内板(写真左・右)
 毛呂山町指定記念物 史蹟 芭蕉の句碑
 昭和三十七年四月一日指定
   道傍の むくげは馬に 喰れけり(芭蕉翁)
 この句は、松尾芭蕉が馬上からむくげの花を眺めていた時、乗っていた馬が花をぱくっ、と食べてしまった様を詠んだ一句です。
 左側面と裏には<三世春秋庵連中 文政十二歳次(一八二九)己丑春三月>とあります。三世春秋庵とは、毛呂山の俳人川村碩布のことで、建碑の当時、この地の俳壇は春秋庵の最盛期でした。碩布は、文化十三年(一八一六)に春秋庵を継承し、三世と称しました。
 この句碑は、碩布の一門が建てたもので、句を記したのも碩布であると言われています。
 当初は、大字川角にあった南蔵寺の境内に建てられていましたが、大正三年(一九一四)に当地に移転しました。(以下略)
                                      案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 八幡神社  毛呂山町川角一二三三(川角字宮前)
 当社の鎮座する川角は、越辺川流域の低地・台地に位置し、その地名は、地内で越辺川が大きく屈曲することから名付けられたという。
 社記によれば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、当地は既に村落を成していたとあり、当社は敬神の念が厚いその村人によって創建された社であるという。
 中世においては、鎌倉街道が地内を通っていたため、川角の村は繁栄し、人家も田畑も増え、当時近郷に並ぶものがないほどの大伽藍を誇った崇徳寺が建立されるに至った。
 しかし、貞治四年六月、足利基氏と芳賀高貞との戦いの際、兵火に罹り、当社も崇徳院も烏有に帰した。当社はその後、応永年間に社地を改めて再建されたが、崇徳院は再興ならず、地名にその名を留めるばかりとなっている。
 近世においても、当社は真言宗南蔵院を別当として栄え、慶安二年には五石五斗の朱印地を賜っている。
 明治初めの神仏分離により南蔵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、大正元年に字原の稲荷神社を合祀したが、同社の氏子であった人々の強い要望により、昭和二九年に旧地に戻された。
 祭神は誉田別尊で、天照皇大神と春日大神を配祀するが、これは室町末期から流布された三社託宣によると思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「苦林野合戦」とは、南北朝時代の貞治2年(1363年)に、鎌倉公方・足利基氏と宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可が鎌倉街道沿いの苦林野で戦った合戦である。
  室町幕府を開いた足利尊氏の子、足利基氏は、鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役である関東管領に上杉憲顕を起用した。また下野の武将宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し、憲顕に与えた。
 宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可(はがぜんか)は処遇に腹を立て、憲顕が鎌倉へ出仕するのを見計らって襲撃しようとした。この動きをきっかけに、足利基氏は総勢3,000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、一方芳賀禅可は、嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いに向かわせた。
基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げ、足利基氏側が戦に勝利し、芳賀軍は宇都宮へ敗退したという。
 合戦の舞台となった苦林野一帯には、古墳時代の古墳(67世紀頃の豪族等のお墓)が数多く残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の「苦林野図」には、前方後円墳のほか、多数の古墳が描かれている。 
 その中の1基である苦林古墳(大類1号墳)の上に、苦林野合戦供養塔がある。前面に千手観音像、背面に貞治4年(1365年)617日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれている。
 
     拝殿向拝・木鼻部の細やかな彫刻        拝殿上部にある「八幡宮」の扁額
        
                                       本 殿
 当社の信仰としては、この地域では嘗て「八幡神社」の掛け軸が氏子の各家を回る信仰があった。八幡様と呼ばれるこの掛け軸は、箱に納められてあり、回す順番を記した板と共に一年中各戸に受け継がれた。八幡様が回ってくると、各家では床の間に掛けて、御飯を供え灯明をともして祀った。翌朝、当主が八幡様の前に座り「おかまいもできなくて申しわけありませんでした」と拝礼してから、隣の家に持参し「八幡様が来ましたので、おたの申します」と言って受け渡した。八幡様が泊まっていただく期間は一軒の家に一日から三日間ぐらいが慣例であった。また、ブク(忌服)の家は四十九日を終えるまでの間は八幡様を頂いてはいけないといわれ、この家を寄らずに隣の家に回された。

 また古くから氏子により続けられている芸能として、毛呂山町滝ノ入から伝わったものといわれるササラ(獅子舞)があり、現在でも例祭等にて奉納されている。獅子舞は、五穀豊穣や無病息災を祈願したもので、獅子頭をかぶった舞手が、勇壮な舞を披露している。
 獅子は雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、判官は、その舞い方から別名「暴れ獅子」とも呼ばれている。そのほかの役割は、ササラッコ四名・笛吹四名から八名・蠅追い(はいおい)一名・法螺貝一名である。曲目は「前街道」「摺り込み」「宮廻り」「礼拝」「土俵の入」「塵摺り」「花掛り(はながかり)」「女獅子隠し」「發綾取」「七ッ五歌」「宮ぼめの歌」「並び摺り」「一列回り」「九座のササラ(漢字変換)」「一列並び」「水引上げ」「魚へん+尊 猫」「網掛」「發上げ・發下げ」の二十通りである。
 
        境内にある「宝篋印塔」とその案内板(写真左・同右)
 毛呂山町指定
 有形民俗文化財 八幡神社の宝篋印塔
 この宝篋印塔は、現在の川角小学校の場所にあった越生町法恩寺の末寺である南蔵寺の境内に置かれていたものである。南蔵寺は、明治時代初めの廃仏毀釈により廃寺となり、宝篋印塔も大正三年(一九一四)二葉学校(現川角小学校)の拡張に伴い、現在はる八幡神社の境内に移動された。江戸時代の天明八年(一七八八)正月に建てられたもので、当時多くの餓死者を出した天明の飢饉に対する供養塔と考えられる。平成二年(一九九〇)二月十五日、現在位置に移転改修する際、塔身(中段の方体部)の中に宝篋印陀羅尼経、観音経、般若心経等が納められているのが確認された。宝篋印塔は、平安時代末期から建立され始め、鎌倉時代から江戸時代にかけて数多く建立された、塔身に宝篋印陀羅尼経を納める供養塔である。町内に残る石塔の中では大型で優美な造りであり、たいへん貴重である。
 平成三年二月二日

                                      案内板より引用
 
       「大黒天」の石碑           拝殿手前で、道路側に祀られている
                              境内社・八坂社 
       
                          荘厳な雰囲気を醸し出している境内 

 ところで、越辺川右岸の台地上に位置している川角八幡神社に沿って南北に走る道路を北上すると、下り坂となり、その先には越辺川が流れ、その川に架かる「宮下橋」を渡る。越辺川の右岸一帯は豊かな山林となっているのに対し、左岸は景色が一変し、なだらかな平原となる。「西戸グラウンド」という運動場もあり、学生さんたちが暑い天候の中、汗を流しながらスポーツを楽しんでいた。
       
                                越辺川右岸方向を撮影 
       
                                  長閑な越辺川左岸
 目の前にある長閑な風景は、一見平穏そのものの印象が強いが、20191012日台風19号が日本に上陸し、関東・甲信・東北地方を中心に記録的な豪雨災害をもたらした。毛呂山町も、河川の越水や、土砂崩れ、住家浸水など大きな被害を受けた。この西戸グラウンドも、越辺川の越水により冠水したという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」「境内案内板」等
        
      
        
          
   

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下川原星宮神社

 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、日本神話の天地開闢において登場する神であり、日本神話において最も初めに現れる神である。
『古事記』では神々の中で最初に登場する神である。別天津神にして造化三神の一柱。『日本書紀』の正伝には記述がなく、異伝(第一段の第四の一書)に天御中主尊として記述されている。
『古事記』『日本書紀』共にその事績は何も記されておらず、『延喜式神名帳』にも登場せず、祖神として祀られたことがほとんどない。このため、国文学者の守屋俊彦は、中国文化の天一神や日本神話の天照大神などをもとに考案された神格ではないかと推測している(『日本大百科全書』)。またこれを否定する意見もある。
 神名は天の真中を領する神を意味する。
 天之御中主神は哲学的な神道思想において重要な地位を与えられることがあり、中世の伊勢神道では豊受大神を天之御中主神と同一視し、これを始源神と位置づけている。江戸時代の平田篤胤の復古神道では天之御中主神は最高位の究極神とされている。

 現在、主にこの神を祭る神社には、妙見社系、水天宮系と、近代創建の大教院・教派神道系の3系統がある。
1 妙見社系の端緒は、道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、熊本県の八代神社、千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。
2 水天宮は、元々は天之御中主神とは無関係だったが、幕末維新の前後に、新たに主祭神として追加された。
3 明治初期に大教院の祭神とされ、東京大神宮や四柱神社などいくつかの神社が祭神に天之御中主神を加えた。また大教院の後継である神道大教を中心とする教派神道でも、多くの教団が天之御中主神をはじめとする全ての神々(神祇)を祭神としている。

 その他、島根県出雲市の彌久賀神社などでも主祭神として祀られている。出雲大社では別天津神の祭祀が古い時代から行われていた。現在も御客座五神として本殿に祀られている。出雲大社が古くは高層建築であったことは別天津神の祭儀と関係があるとする説があるという。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町下川原248
             ・ご祭神 天之御中主神
             ・社 格 旧下河原村鎮守・旧村社
             ・例祭等 例祭(妙見祭り) 1028日 
 下川原星宮神社は下川原地域のほぼ中央にあり。南西から北東方向に蛇行しながら流れる高麗川の北方に位する台地上に鎮座している。途中までの経路は森戸国渭地祇神社を参照。
 この森戸国渭地祇神社の南側には東武越生線・西大家駅がすぐ近くにあり、その駅北口から社の西側に接する南北に走る道があり、そこを北上し、東京国際大学坂戸キャンパスの運動場を左右に見ながら高麗川に架かる「森戸橋」を渡る。その後、埼玉県道114号川越越生線と交わる十字路を左折し、200m程先の信号のある丁字路を再度左折し、暫く進むと東武越生線・川角駅に到着する。要するに左回りしながら大きく迂回をするようなイメージである。東武越生線・西大家駅から川角駅はお互い繋がっている駅であるのだが、間に高麗川があり、高麗川の両岸は段丘崖となっている関係からか、最短ルートのような道路がなく、このような細かい説明となってしまう。
 東武越生線・川角駅の南口から城西大学方向に行く道路の西側にもう一本南側に伸びる細い道があり、そこを南下すると、進行方向左手に下川原星宮神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                 下川原星宮神社参道
 参拝日は平日の午前中で、通学する学生さん方や通勤する方々も意外と多くいて、正面鳥居の撮影はその邪魔になることを考慮してできなかった。
 
               緩い上り坂の参道(写真左・右)
 下川原星宮神社の創建年代等は不詳ながら、嘗ては星宮と称されていたが、江戸時代の元和年間(16151624)に妙見社と改称し、村の鎮守として祀られていたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領7石の御朱印状を受領、明治維新後の明治5年旧称の星宮に復し、村社に列格、明治40年日枝神社、稲荷神社を合祀している。
        
   参道の両側には大杉等が立ち並び、周囲の環境とは別世界の雰囲気を醸し出している。
      当日は青天の天候にも関わらず、境内は薄暗く、やや湿気もあるようだ。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下河原村』
 淺間社 村の鎭守にて、社領七石は慶安二年に賜へり、延命寺の領、

 星宮神社  毛呂山町下川原二四八(下川原字久保裏)
 下川原は高麗川と葛川に挟まれ、台地から低地に移る所にある。縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が地内にあり、成立の古さを物語っている。また、当地は両墓制の行われる所として著名である。
 当地方には、流星に対する信仰を源としたと思われる、星を祀る社があり、飯能長沢の借宿神社、飯能南の我野神社、名栗の星宮神社、毛呂山の出雲伊波比神社(飛来大明神)などである。当社もこれらと同様の信仰を持つ社である。
 社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」とある。
『風土記稿』には、妙見社の名は見えず、「浅間社村の鎮守にて社領七石は慶安二年に賜へり、延命寺の領」がある。『郡村誌』もこれをうけて「慶安二年己丑浅間社に領七石を付す。明治四年辛未浅間社領韮山県に合す」と載せている。これは『風土記稿』において妙けんと浅けんを誤ったためと考えられる。
 別当は隣接する真言宗息災山吉祥院延命寺であった。
 一間社流造りの本殿には、五八センチメートルの白幣を安置し、文政五午九月十七日造之の墨書があり、祭神は天之御中主神である。
 明治五年に村社となり、同四〇年三月には字矢島の日枝神社、字船原前の稲荷神社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
「埼玉の神社」によると、この社の氏子区域は大字下川原全域であり、150戸である。古くは農業が中心であったが、戦後は宅地化が進み、現在八割が会社員である。
 社の運営は、城西・上組・中組・久保・船原の各組から3年交替による5名の氏子総代と、家並順1年交替の神社当番10名により行われる。運営費は星祭りに集まる神社費を充てる。
 当社は女の神様だといわれ、婦人たちの信仰は厚い。古くは婦人の日参・月参りが盛んであり、現在も正参道向かって左に「女道」と呼ばれるゆるやかな参道が残っている。婦人たちを中心に月1回組単位で神社清掃奉仕がある。氏子全員の草刈り奉仕は古くから8月の初めで、現在は第一日曜日に行われている。
 今も赤飯を神社に上げる習慣が残っているが、戦前は各家で1029日(現在は28日)のお九日には夜中に赤飯を炊き、炊き上がると競って神前に供え、これをお籠もりをしている子供たちが頂いた。現在も祭礼日に供える家が何軒かある。
 1028日の「妙見祭り」別名星祭りとも呼ばれている。午前9時に総代と神社当番が社務所に集合し、干菓子を紙に包んで「お供物」を作る。これを午後から手分けをして氏子に配り、神社費を集める。祭典などは春祭りと同様であるが、戦前は脚折から神楽師を招いて一日にぎわったという。

  拝殿手前で参道左側にある星宮神社倉庫      参道を挟んで参道の右側にある
                          「星宮神社 社殿新改築記念碑」
「星宮神社 社殿新改築記念碑」
 御祭神 天之御中主之命
 創立年月 不詳 星宮神社ト称ス
 元和年間(西暦一六一五-一六二四) 妙見社ト改称
 慶安二年(一六四九年)徳川三大将軍家光公ヨリ村内七石ノ御朱印地ヲ賜フ 以後歴代将軍公ノ朱印状保管
 明治五年三月(一八七二年)  星宮神社ト改称シ村社ニ列ス
 明治四十年三月(一九〇七)  無格社日枝神社稲荷神社合祀ス
 大正六年(一九一七年)  旧社屋殿改修拝殿新築
 昭和二十六年(一九五一年)旧社殿瓦屋根葺替
 昭和五十五年(一九八〇年)新改築決議
 昭和五十六年十月(一九八一年)旧社殿解体(以下略)
 
  本殿奥に祀られている石祠。稲荷社か。        本殿右手に祀られている境内社・三峰社。
       
                       境内に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        但し、境内には多数巨木・老木ともいえる大木が残されている。

 ところで、妙見信仰とは北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれている。
 日本の妙見信仰は妙見菩薩に祈る信仰であるが、同一の仏神でありながら形を変え時代に沿った信仰形態を展開してきたということができる。そして時代の変遷を経て信仰の形態が変化していくとともに、日本各地に伝えられていった。特に信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い信仰形態でもある。
        
                 参道からの一風景 

 秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域であるが、この信仰が最初に伝わった時期はハッキリとは明らかではない。但し「秩父神社社記」等には「天慶年間(938947〕)、平将門と平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが、秩父の妙見社の創建である」と伝えている。
平良文はその後下総国に居を移したが、彼の子孫は秩父に土着し武士団「秩父平氏」を形成、武神として妙見菩薩を篤く信仰したという。

「埼玉の神社」では、社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」との記述から、妙見社と改称する以前は「星宮」と称していた。この下川原地域は、縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が発掘されていて、開発の早い地域であった。当然その地域には多くの人々が生活を営んでいたろうし、その地域独自の信仰もあったであろう。    
 では、妙見信仰前の信仰の中心であった「星宮」のご祭神は一体だれであったのだろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内社殿新改築記念碑文」等

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出雲伊波比神社

  出雲伊波比神社が鎮座する毛呂山町は、律令時代入間郡と言われた。入間郡は武蔵国のほぼ中央部、入間川の支流、越辺(おっぺ)川と多摩丘陵に挟まれた地域で、四囲を足立・新座・多摩・秩父・高麗・比企の各郡に接している。おおむね現入間郡に属する町村(名栗村を除く)、川越市、坂戸市、鶴ヶ島市、狭山市、入間市、所沢市、富士見市、上福岡市の地域で、『和名抄』は「伊留末」と訓じている。

 7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている(所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある)

 例祭(11月3日)には、町内の家の長男(小・中学生)が乗り子を務める流鏑馬神事があり、一の馬・二の馬・三の馬に別れ、白(源氏)・紫(藤原氏)・赤(平氏)に色分けし奉納される。因にこの流鏑馬が埼玉で見られるのは当社だけとなっている


・所在地    埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1
・主祭神    大名牟遅神 
         天穂日神  
         品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命 他16柱

・社  格    旧郷社 延喜式内社武蔵国入間郡五座筆頭
・創建年代  景行天皇53年(123年)
・例  祭    11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納
                             

 雲伊波比神社はJR八高線毛呂駅から徒歩で5分、毛呂山町のほぼ中央に位置し、毛呂小学校北接、臥龍山の頂に鎮座する。毛呂山町の中央に位置していることでもわかる通り、神社を中心に町が形成された、と言っても過言ではない。
 この社の歴史は古い。社格は郷社ながら延喜式内社武蔵国入間郡五座筆頭を誇り、本殿は享禄元年(1528)9月25日毛呂三河守顕繁が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財建造物・旧国宝である。
            
                         雲伊波比神社 正面一の鳥居         
 
                      
参 道                                                 神楽殿
             
                                二の鳥居
            
                                                                拝  殿
                        昭和三十八年・五十八年に修復・改築されたもの
 
        拝殿上部に掲げてある扁額            向拝部位等には精巧な彫刻が施されている。
 
           
国賓出雲伊波比神社 本殿 社号標                 拝殿横にある案内板

出雲伊波比神社
 祭神 大名牟遅神・天穂日命・品陀和気銘・(応神天皇)・息長帯比売命 他

 出雲を中心として国土経営・農業・産業・文化を興され全ての災を取り除かれた大名牟遅神、天孫のため出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに□支された大名牟遅神が杵築宮(出雲大社)に入られたのちそのみたまを斎き祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で家内安全・病気平癒・開運招福・商売繁昌の神としてあがめられる。
社地 古く出雲臣が祭祀する社であった。景行天皇53年に倭建命が東征凱旋の際侍臣武日命に命じて社殿創建・神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名 出雲伊波比の神名初見は宝亀3年の太政官符においてで当社は□□によってその証拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝7年には官幣に預る□□社となり延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社よよばれるゆえんがここにある。
本殿建築
 流造一間社で屋根は桧皮葺型式、大永8年9月25日毛呂三河守藤原朝臣顕繁再建によるもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永8年・宝暦12年の棟札2面とともに国指定重要文化財。
 昭和32~33年文部省は解体修理を行った。
例祭 11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。920年の歴史を持つ。
 昭和61年8月
                                                                                                             社頭掲示板より引用


 本殿は流造一間社という所謂ポピュラーな建築様式で、こじんまりとしているが、享禄元年(1528)9月25日再建という埼玉県最古の神社建築で、国の重要文化財に指定されている。一般的には神社の形式では権現造りなど新しい様式ほど拝殿と本殿が幣殿を通じて繋がっているものが多い。がこの社は古い様式で拝殿と本殿には距離がある。それはそれで違和感が全くなかった。
                     
                                         本 殿 
                      
                         品陀和気命が祀られる八幡宮
                  瑞垣内にはないが、形式上本殿と並列配置となっている。
            

  この八幡宮は、康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる。

出雲伊波比神社由緒

創立
 景行天皇53年8月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり、平国治安の目的が達成せられたことをおよろこびになられ、天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝とし、侍臣武日命に命じて創立された社である。
歴朝御崇敬
 成務天皇の代、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に崇敬祭祀され、また孝謙天皇の代天平勝宝7年(755)官幣にあずかり、光仁天皇の宝亀3年(772)には勅により幣を奉られ、以後歴代天皇御崇敬厚く御祈願所とされていた。醍醐天皇の御代[延喜7(907)]の頃延喜式内武蔵国入間郡五座の中に列せられた。
武士崇敬
  康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる(やぶさめの起こり)。(県指定民俗資料)。それ以後、例年この神事を執行し、山鳥の尾羽の箭一本を慶応3年まで幕府に献上したのである。建久年間(1190ごろ)源頼朝は秩父重忠に奉行させて檜皮葺(ひはだぶき)に造営し、神領をも寄附した。なお重忠も陣太刀・産衣(うぶぎぬ)の甲(よろい)を寄進したと伝える。
  後花園天皇の代永享年中(1430ごろ)に足利持氏が社殿を瓦葺に造営、それも大永7年(1527)6月社殿炎上、また文禄年中(1590ごろ)社家が兵火にあい古文書などを失ったのである]大永7年に消失はしたものの翌8年、正しくは享禄元年9月25日に、毛呂三河守顕繁が再建した棟札が現存している点から、再建にすぐ着手されたと考えられ、県内最古の神社建築である(檜皮葺)。天文2年(1533)屋根檜皮葺大破のため瓦葺にし、天正2年(1574)北条氏政は大板葺(柿葺-こけらぶき)に修営、社領十石を附せられた。天正16年北条氏の乞により、鍾を寄進した(文書北条氏鍾証文)。寛永年間、幕府に神符献上の際白銀二枚を寄進せられ、以後七ケ年毎に神符を幕府に献上することを永例とした。寛永10年(1633)三代将軍家光修営、同13年には社殿を筥(はこ)棟造にし、棟上前面に葵の紋を附し、五七の桐の紋と共に現存、また慶安元年(1648)8月社領十石並に境内拾町九反五ほ畝歩を先規により寄進せられ永く祭祀修営の料としたのである。また寛永年中、代官高室喜三郎の時から元禄15年(1702)代官井上甚五右衛門、河野安兵衛にいたるまで毎年御供米一俵ずつ下附され、後、その例にならって毛呂郷中の地頭所から明治2年まで毎年御供米を附せられた。文政8年9月「臥龍山宮伝記」の著者斎藤義彦が神主幼少のため補佐して社殿解体修理。
明治以後
  明治4年には社領を奉還し、逓減禄を賜わり明治6年毛呂郷中の惣鎮守の故をもって郷社に列し、明治22年8月20日内務省より保存資金壱百円を下賜され、同38年5月18日上地林壱町九反八畝二十四歩境内編入許可、39年4月勅令により神饌幣帛料供進することを指定され、同41年9月会計法適用指定、大正3年9月建物模様換認可をえて本殿を往古倭建命創立及び武蔵国造崇敬当時の旧地に遷殿し、中門祝詞屋を新築し、拝殿再営、透塀増延、大正5年10月模様換工事落成、千家男爵参向された。昭和13年7月4日当社本殿国宝指定、戦後文化財保護法制定により重要文化財建造物として指定され、昭和25年9月5日境内地譲与、測量、調査等に一年余日を費やして報告書作成大蔵省に提出中央審査を経て、9185坪04勺を譲与許可された。
(以下は由緒書に記載)
本殿昭和重修
  当社は国史上顕著な社であり、県内最古の社であるが、腐朽甚しいので昭和32年3月国庫補助金、地元負担金総額290万円の工費をもって工事監督工博田辺泰氏、現場主任北村泰造技官を中心として解体復元工事着工、屋根、鬼板、箱棟、正面扉金具、縁廻り登階段等その痕跡に基き他の室町期の形式手法にならい復元を行なった。解体調査資料に基き現状変更したため総工費358万円を要し、昭和33年3月、一ヵ年の工期をもって完工、貴重な文化遺産として偉彩を放つこととなった。昭和58年拝殴改築。
平成4年8月
                                                                                   
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁

  また埼玉県内で唯一、毎年奉納される流鏑馬は埼玉県指定無形民俗文化財。900余年の伝統を絶やさず行なっていることにも頭が下がる。県内で流鏑馬を行なっている社は当社と萩日吉神社(都幾川村)のみか。萩日吉神社は三年に一度の奉納であり、県内では唯一の通年奉納の流鏑馬である。

 
                 流鏑馬の案内板                         社殿の西側にある流鏑馬の道
 
毛呂の流鏑馬
  出雲伊波比神社の流鏑馬(やぶさめ)の神事は、毎年11月3日・文化の日に行われている。その起源は康平6年(1063)に奥州平定をした源頼義、義家父子が凱旋の際に奉納した事によるといわれ、以前、埼玉県内各地で行われていた流鏑馬も、毎年行われているのは毛呂山町だけとなっている。毛呂山町の流鏑馬では一の馬・二の馬・三の馬によって奉納され、それぞれ色分けされ、白は源氏を、紫は藤原氏を、そして赤は平氏をあらわしているという。
 神事までは10月上旬から準備され、当日は午前0時のもちつきから始まり、朝的(あさまとう)、野陣、夕的(ゆうまとう)と続く。夕的の神事では願的、矢的、扇子、のろし、みかん、鞭などがあり、これは戦国時代の武士の鍛錬・出陣から凱旋までを表現しているといわれ、乗り子は町内の家の長男(小・中学生)が務めている。乗り子の服装は陣笠、陣羽織、袴で騎射の際に烏帽子をかぶり、そして花笠に馬印や母衣を背負い、帯刀した正装は夕的の出陣の時に見ることが出来る。

  毛呂山町の流鏑馬神事は昭和33年に県の選択選択無形民族文化財に指定されている。

                                          
  全国的な知名度は決してないけれども、このような郷土に根づく伝統を守るという地元の方々の厚い思いと日頃の努力には敬意を感じずにいられない。
 決して流鏑馬の維持する環境は良いものではないと思う。有名な神社で催される流鏑馬とは違い、地方の神社は地元、氏子がどうしても中心となる。それでも920年という長きにわたって面々と続く伝統を保持、そして子孫に継承させる地元の方々の思いが根底にあるのではないか、と深く感じた。


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