下川原星宮神社
『古事記』では神々の中で最初に登場する神である。別天津神にして造化三神の一柱。『日本書紀』の正伝には記述がなく、異伝(第一段の第四の一書)に天御中主尊として記述されている。
『古事記』『日本書紀』共にその事績は何も記されておらず、『延喜式神名帳』にも登場せず、祖神として祀られたことがほとんどない。このため、国文学者の守屋俊彦は、中国文化の天一神や日本神話の天照大神などをもとに考案された神格ではないかと推測している(『日本大百科全書』)。またこれを否定する意見もある。
神名は天の真中を領する神を意味する。
天之御中主神は哲学的な神道思想において重要な地位を与えられることがあり、中世の伊勢神道では豊受大神を天之御中主神と同一視し、これを始源神と位置づけている。江戸時代の平田篤胤の復古神道では天之御中主神は最高位の究極神とされている。
現在、主にこの神を祭る神社には、妙見社系、水天宮系と、近代創建の大教院・教派神道系の3系統がある。
1 妙見社系の端緒は、道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、熊本県の八代神社、千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。
2 水天宮は、元々は天之御中主神とは無関係だったが、幕末維新の前後に、新たに主祭神として追加された。
3 明治初期に大教院の祭神とされ、東京大神宮や四柱神社などいくつかの神社が祭神に天之御中主神を加えた。また大教院の後継である神道大教を中心とする教派神道でも、多くの教団が天之御中主神をはじめとする全ての神々(神祇)を祭神としている。
その他、島根県出雲市の彌久賀神社などでも主祭神として祀られている。出雲大社では別天津神の祭祀が古い時代から行われていた。現在も御客座五神として本殿に祀られている。出雲大社が古くは高層建築であったことは別天津神の祭儀と関係があるとする説があるという。
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町下川原248
・ご祭神 天之御中主神
・社 格 旧下河原村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭(妙見祭り) 10月28日
下川原星宮神社は下川原地域のほぼ中央にあり。南西から北東方向に蛇行しながら流れる高麗川の北方に位する台地上に鎮座している。途中までの経路は森戸国渭地祇神社を参照。
この森戸国渭地祇神社の南側には東武越生線・西大家駅がすぐ近くにあり、その駅北口から社の西側に接する南北に走る道があり、そこを北上し、東京国際大学坂戸キャンパスの運動場を左右に見ながら高麗川に架かる「森戸橋」を渡る。その後、埼玉県道114号川越越生線と交わる十字路を左折し、200m程先の信号のある丁字路を再度左折し、暫く進むと東武越生線・川角駅に到着する。要するに左回りしながら大きく迂回をするようなイメージである。東武越生線・西大家駅から川角駅はお互い繋がっている駅であるのだが、間に高麗川があり、高麗川の両岸は段丘崖となっている関係からか、最短ルートのような道路がなく、このような細かい説明となってしまう。
東武越生線・川角駅の南口から城西大学方向に行く道路の西側にもう一本南側に伸びる細い道があり、そこを南下すると、進行方向左手に下川原星宮神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
下川原星宮神社参道
参拝日は平日の午前中で、通学する学生さん方や通勤する方々も意外と多くいて、正面鳥居の撮影はその邪魔になることを考慮してできなかった。
緩い上り坂の参道(写真左・右)
下川原星宮神社の創建年代等は不詳ながら、嘗ては星宮と称されていたが、江戸時代の元和年間(1615-1624)に妙見社と改称し、村の鎮守として祀られていたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領7石の御朱印状を受領、明治維新後の明治5年旧称の星宮に復し、村社に列格、明治40年日枝神社、稲荷神社を合祀している。
参道の両側には大杉等が立ち並び、周囲の環境とは別世界の雰囲気を醸し出している。
当日は青天の天候にも関わらず、境内は薄暗く、やや湿気もあるようだ。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下河原村』
淺間社 村の鎭守にて、社領七石は慶安二年に賜へり、延命寺の領、
星宮神社 毛呂山町下川原二四八(下川原字久保裏)
下川原は高麗川と葛川に挟まれ、台地から低地に移る所にある。縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が地内にあり、成立の古さを物語っている。また、当地は両墓制の行われる所として著名である。
当地方には、流星に対する信仰を源としたと思われる、星を祀る社があり、飯能長沢の借宿神社、飯能南の我野神社、名栗の星宮神社、毛呂山の出雲伊波比神社(飛来大明神)などである。当社もこれらと同様の信仰を持つ社である。
社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」とある。
『風土記稿』には、妙見社の名は見えず、「浅間社村の鎮守にて社領七石は慶安二年に賜へり、延命寺の領」がある。『郡村誌』もこれをうけて「慶安二年己丑浅間社に領七石を付す。明治四年辛未浅間社領韮山県に合す」と載せている。これは『風土記稿』において妙けんと浅けんを誤ったためと考えられる。
別当は隣接する真言宗息災山吉祥院延命寺であった。
一間社流造りの本殿には、五八センチメートルの白幣を安置し、文政五午九月十七日造之の墨書があり、祭神は天之御中主神である。
明治五年に村社となり、同四〇年三月には字矢島の日枝神社、字船原前の稲荷神社を合祀した。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
「埼玉の神社」によると、この社の氏子区域は大字下川原全域であり、150戸である。古くは農業が中心であったが、戦後は宅地化が進み、現在八割が会社員である。
社の運営は、城西・上組・中組・久保・船原の各組から3年交替による5名の氏子総代と、家並順1年交替の神社当番10名により行われる。運営費は星祭りに集まる神社費を充てる。
当社は女の神様だといわれ、婦人たちの信仰は厚い。古くは婦人の日参・月参りが盛んであり、現在も正参道向かって左に「女道」と呼ばれるゆるやかな参道が残っている。婦人たちを中心に月1回組単位で神社清掃奉仕がある。氏子全員の草刈り奉仕は古くから8月の初めで、現在は第一日曜日に行われている。
今も赤飯を神社に上げる習慣が残っているが、戦前は各家で10月29日(現在は28日)のお九日には夜中に赤飯を炊き、炊き上がると競って神前に供え、これをお籠もりをしている子供たちが頂いた。現在も祭礼日に供える家が何軒かある。
10月28日の「妙見祭り」別名星祭りとも呼ばれている。午前9時に総代と神社当番が社務所に集合し、干菓子を紙に包んで「お供物」を作る。これを午後から手分けをして氏子に配り、神社費を集める。祭典などは春祭りと同様であるが、戦前は脚折から神楽師を招いて一日にぎわったという。
拝殿手前で参道左側にある星宮神社倉庫 参道を挟んで参道の右側にある
「星宮神社 社殿新改築記念碑」
「星宮神社 社殿新改築記念碑」
御祭神 天之御中主之命
創立年月 不詳 星宮神社ト称ス
元和年間(西暦一六一五-一六二四) 妙見社ト改称
慶安二年(一六四九年)徳川三大将軍家光公ヨリ村内七石ノ御朱印地ヲ賜フ 以後歴代将軍公ノ朱印状保管
明治五年三月(一八七二年) 星宮神社ト改称シ村社ニ列ス
明治四十年三月(一九〇七) 無格社日枝神社稲荷神社合祀ス
大正六年(一九一七年) 旧社屋殿改修拝殿新築
昭和二十六年(一九五一年)旧社殿瓦屋根葺替
昭和五十五年(一九八〇年)新改築決議
昭和五十六年十月(一九八一年)旧社殿解体(以下略)
本殿奥に祀られている石祠。稲荷社か。 本殿右手に祀られている境内社・三峰社。
境内に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
但し、境内には多数巨木・老木ともいえる大木が残されている。
ところで、妙見信仰とは北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれている。
日本の妙見信仰は妙見菩薩に祈る信仰であるが、同一の仏神でありながら形を変え時代に沿った信仰形態を展開してきたということができる。そして時代の変遷を経て信仰の形態が変化していくとともに、日本各地に伝えられていった。特に信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い信仰形態でもある。
参道からの一風景
秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域であるが、この信仰が最初に伝わった時期はハッキリとは明らかではない。但し「秩父神社社記」等には「天慶年間(938~947〕)、平将門と平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが、秩父の妙見社の創建である」と伝えている。
平良文はその後下総国に居を移したが、彼の子孫は秩父に土着し武士団「秩父平氏」を形成、武神として妙見菩薩を篤く信仰したという。
「埼玉の神社」では、社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」との記述から、妙見社と改称する以前は「星宮」と称していた。この下川原地域は、縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が発掘されていて、開発の早い地域であった。当然その地域には多くの人々が生活を営んでいたろうし、その地域独自の信仰もあったであろう。
では、妙見信仰前の信仰の中心であった「星宮」のご祭神は一体だれであったのだろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内社殿新改築記念碑文」等