福田浅間神社
平安時代以降、事実上律令制度が崩壊し荘園制が盛んになると、その荘園警備の必要から多くの武士集団が発生した。その中で特に源氏と平氏の二大勢力が台頭し、平安時代後期に入ると、政権の行方が栄華を極めた貴族の手から武家へと移る。保元・平治の乱後、平氏に一度敗れた源氏は源頼朝が挙兵すると、木曽義仲、源義経、源範頼らが呼応、各地で奮戦して平氏を壇の浦で滅亡させた。その後全国を掌握した源頼朝は、1192年鎌倉に幕府を開き、武家政治がここに確立した。
一方木曽義仲は、源氏嫡流である義朝の異母弟で、帯刀先生源義賢の子供として誕生し、幼名を駒王丸といった。源氏の勢力争いが原因で起こった大蔵合戦で、義朝の長男である義平勢に敗れた父義賢が討ちとられ、駒王丸は義平らの執拗な詮索の目から逃れ、遠く信州木曽に隠れ養育された。 この木曽で成人したのが、あの木曽義仲である。
ところで前述した大蔵合戦で、敗れた源義賢の遺臣がこの福田の地に移り住み、元久二年 (1205年) 義賢の霊を祭ったのが浅間神社で、武蔵武士の崇拝の山であったという。
・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田2954
・ご祭神 木花開耶姫命 帯万義賢公
・社 格 不明
・例祭等 夏季大祭7月15日 秋祭り10月17日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0902143,139.3516852,16z?hl=ja&entry=ttu
福田浅間神社へのルートは途中までは「福田淡州神社」と同じで、「ふれあい農園谷津の里」の駐車場前のY字路を右折し、暫く直進する。その後、細い十字路に差し掛かり、そこは2本右方向に向かう道があり、そこは奥の道を進む。やはりそのまま道なりに進む(細い道で、進行方向も最初は南方向だが、そのうち北方向に道は変わる為、やや心細いが、そこは辛抱。南方向に向かう途中右側に「比企の丘キッズガルテン」という牧場があり、そこが進行方向の目印となる)と、右側に「浅間神社」の木製の標柱がある。
標柱付近には十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めて参拝を開始する。一見するとこんもりとした古墳の感もあるが、案内板には山全体が凝灰岩で形成されている岩山との事だ。
社の南側に浅間神社参道もあり、そこから参拝をスタートさせる。舗装もされていない参道だが、それが却って昔からの雰囲気とそこから醸し出す悠久の歴史を味わえることもでき、深遠な気持ちになる。だがすぐ右側に目を向ければ、「埼玉県道173号ときがわ熊谷線」を利用する車両が頻繁に走っていて、現代と昔の風情を同時に感じることができる不思議な空間でもある。
参道スタート場所には2本に門柱があり、 参道に沿って電柱があるのが少し残念。
そこから参拝開始。
鳥居正面
福田浅間神社の案内板
浅間浅間神社 滑川町大字福田
遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで凝灰岩が露出して独特な雰囲気がある。
伝えでは、久寿二(一一五五)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で、鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。天福の福、田圃の田で福田の地名となったというが、これについては定かではない。
戦時中、山頂辺りから宝徳二(一四五〇)年奉納の鰐口及び刀一振出土している。
山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信仰されていたことも考えられる。近年までこの水を飲めば安産であるといわれた。
平成三十一年三月吉日 滑川町観光協会 滑川町教育委員会
案内板から引用
鳥居の右側には整備されていない急勾配の坂道があり、社殿に繋がる道があるが、行きに関しては社殿西側のなだらかなルートを選択(写真左)。晴天で暖かな天候の中、新緑の芽も芽吹き始め、菜の花も咲き誇る時期で、自然と散策する足取りも軽い。細いルートを進むと頂上付近となり、左側正面には社殿風の建物等が見える(写真右)。
正面福田浅間神社社殿
(福田村) 淺間社
當社は帶刀先生義賢の靈を祀れりと云、久壽二年義賢討れし時、其家臣等此邊に落来りて土着せしもの八人あり、その子孫等天福年中此社を造建して、鎮守と崇めし由、馬場村舊家の條に載たり、猶其村に幷見るべし
『新編武蔵風土記稿』福田浅間神社の由緒を引用
社殿内には富士講(浅間講)の絵馬が掲げてある。 社殿内から本殿を撮影
本 殿
社殿と本殿の間には石橋が架かっている。 本殿に掲げている「浅間神社」の扁額
源義賢は現在の嵐山町に住み、1153(仁平3)年から1155(久寿2)年までのわずか2年余りだったが、この地で生涯を閉じた。義賢の墓と伝えられる五輪塔が大蔵館の近くの新藤氏宅内に所在しているのをはじめ、多くの伝承が嵐山町と近隣に残されている。
ときがわ町萩日吉神社において三年に一度流鏑馬(やぶさめ)が行われている。この流鏑馬は、義賢の遺臣といわれるときがわ町の馬場・市川・荻窪家と、小川町大塚の加藤・横川・伊藤・小林家が代々執り行っていて、また、鎌形八幡神社の競馬も、この七氏によって奉納されていた。
また別説では、同町に鎮座する萩日吉神社に伝わる『木曽家引略記』という文書によれば、義仲の遺児義次郎が母方の姓馬場にあらため、馬場義綱と名乗り、そしてかつての家来七氏をたよって明覚郷(ときがわ町明覚)に住んだという。流鏑馬の神事はこの七氏が奉納し、現在まで継承されている。
境内社 不明 境内社雷電神社 境内社津島神社
境内社の配置
社殿から南方向に参道を進むと境内社が3社鎮座している。尚参道の入口から社殿までは凝灰岩が露出していて、山全体が岩で覆われているのが足で踏みしめる度に実感できる。「岩信仰」は日本古来からの信仰形態の一つだが、改めてこの地が古より信仰の対象であったことが五感全体で体感できた。
福田浅間神社 遠影
福田浅間神社は、決して高くない小山の上に鎮座しているが、短いながら急勾配の参道を登り、頂上に佇むと、悠久の歴史が蘇るような深遠な気持ちにさせる何かが存在するから不思議なものである。
この社では、 雨乞いの山としても信仰厚く、昭和40年頃までは、獅子舞が奉納されていた。昭和20年頃、 拝殿わきの土中より偶然、鰐口が発見された。鰐口とは、神社の拝殿や仏道の前側の軒下つるす円く扁平な中空で、金属製の器具。横から見ると、下側の割れ口の形が鰐の口に似ていることから、この名前がある。この鰐口は、宝徳2年 (1450年) の銘で「福田郷」の文献でみる初めての登場で貴重な文化遺産である。