古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

木呂子吉野神社

 小川町木呂子地域は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があったという。
 因みに「
木呂子」は「キロコ」と読み、なかなか個性的な地域名で趣もあり、響きも良い。旧蔵国男衾郡木呂子邑発祥ともいわれる名前である。
 木呂子氏は『埼玉苗字辞典』によると、男衾郡木呂子(現比企郡小川町木呂子)の出身でその在郷名を名乗ったものと記され、戦国時代には武州松山城主上田氏の家臣として、上田・難波田氏と姻戚関係を結び重要な地位にあったことが推測される。同氏は木呂子丹波守元忠-丹波守新左衛門元久-新左衛門元次と続き、後北条氏滅亡後には深谷上杉氏の重臣であった秋元氏に仕え同氏の家臣岡谷氏と姻戚関係を結んだとされている。
『平姓木呂子氏家譜』
「木呂子丹波守元忠(室上田能登守長則女。弟日遠は身延山僧、其弟下野守則貞は小田原滅亡後・百人組与力として歴仕・維新に至る)―丹波守新左衛門元久(鳥居土佐守家中、室難波田因幡守憲次女)―新左衛門元次(これより秋元但馬守家中、室岡谷門左衛門泰勝女)、元次の弟兵左衛門―清兵衛久庵―清兵衛」

        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町木呂子303
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧木呂子村鎮守・旧村社
             
・例祭等 山神社例祭 117日 稲荷例祭初午祭 3月初午日
                  
八王子神社例祭 423日 秋例祭 1015
 勝呂白鳥神社から東行し、兜川を越えた丁字路を左折、国道254号線に合流し、400m程北西方向に進んだ路地を再度左折する。木呂子地域の街並みを眺めながら約300m進んだ「木呂子区民センター」の見える路地を左方向に進行し、暫く進むと、緩やかな山なみの稜線の先に木呂子吉野神社が見えてくる。
        
                 木呂子吉野神社正面
『日本歴史地名大系』「木呂子村」の解説
 勝呂村の北東に位置し、男衾郡のうちで玉川領に属した。竹沢六村の一(風土記稿)。地名は戦国期に松山城(現吉見町)城主上田氏の家臣であった木呂子氏にちなむと考えられる。政所改戸(まんどころかいと)・政司改戸(しようじかいと)などの地名が残り、中世には開発されていたことがうかがえる。延宝元年(一六七三)の竹沢村水帳によれば、木呂子分は高一三六石余、反別は田七町七反余・畑二一町余・屋敷七反であった(小川町史)。
『新編武蔵風土記稿 木呂子村』
 木呂子村は古勝呂・木部・靱負及び比企郡笠原村原川分等六村を合て、一村にて竹澤村と唱へ當郡に屬せしが、後年六村に分ちし時。笠原村原川分の二村は比企郡に属せりと云、されど鎌倉圓覺寺所藏應安二年の文書に、武藏國比企郡竹澤郡内、竹澤左近將監入道跡事云々と載たれば、古くは比企郡に屬し、中頃當郡に隷し、後又六村に分れし時、兩郡に分れしならん、按に【太平記】に載たる延文三年十月、新田義興を矢口の渡に於て畠山道誓と同〱謀殺せし竹澤右京亮も、此左近将監の一族なるべし、又天正十八年小田原攻の時、松山籠城人数の内に木呂子丹波守あり、是はまさしく當所の在名を名乗しならん、
 又此村の一名を吉野と呼べり、其由來は詳ならず、
 吉野川 村内山間の谷合より出る清水、落合て一篠の流れとなる、吉野は則當村の一名なり、

        
             静かな雰囲気の中、ひっそりと佇む社
 木呂子吉野神社の創建年代等は不詳であるが、『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、所有していた村民武藤家では、鎌倉時代作の薬師如来像を所有していることから、天神社で祀っている天満天神座像も鎌倉時代の作ではないかと伝えている。その後、天保15年(1844)に壱岐天手長男神社を勧請した天手長男神社、安政2年(1855)に養蚕を奨励した領主小野朝右衛門を讃える梅之宮神社の2社を天神社の摂社として村全体で祀っていたという。明治8年に武藤家が天神社を売却したのを機に、明治9年村社に列格、明治41年に無格社山神社・八王子神社・稲荷神社を合祀、大正15年には、旧地名「吉野の里」から吉野神社と改称したという。
        
                    拝 殿
 吉野神社(てんじんさま)  小川町木呂子三〇三(木呂子字上耕)
 竹沢六村の最も西に当たる木呂子は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があった。
 木呂子には、古くから天神社があり、武藤氏が氏神としてそれを祀ってきた。『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、武藤家にある薬師如来像が鎌倉時代の作であることから、当社の内陣に安置される天満天神座像も鎌倉時代の作と伝えられている。明治八年、武藤又兵衛が社地と大杉を地内の松本吉兵衛に売却したのを機に、当社は近隣八戸を氏子とするようになり、翌九年には村社になった。更に、明治四十一年(『明細帳』では四十二年二月)には地内にあった無格社山神社・八王子神社・稲荷神社が当社に合祀され、大正十五年には、木呂子が古くは「吉野の里」と呼ばれていたことにちなんで、社名が吉野神社と改められた。
 当社には、摂社として天手長男神社と梅之宮神社が祀られている。前者は、天保の初め、当地に大火災があり、以後、火災を恐れた村人が天保十五年(一八四四)に寄居町小園にある天手長男神社の分霊を奉斎したものであるという。後者は、養蚕を奨励し、村に繁栄をもたらした領主小野朝右衛門を讃えるために、安政二年(一八五五)に領主から賜った鏑矢と矢じりを神体として祀った社である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
狛犬右手には、天手長男神社と書かれた大きな石銘が建てられている。
 因みに天手長男神社は、摂社の一つで、現在は梅之宮神社と共に本殿覆屋内に祀られている。

 天手長男神社のご祭神は櫛明玉命とされているが、氏子・崇敬者の間では「お手長様」と呼ばれている。「お手長様」は火防の神としてご利益があるといわれ、木呂子ではこの社を祀って以来火災もなく、安心して暮らせるようになったという。
 梅之宮神社は、通称「こかげ様」といい、木花咲耶姫命がそのご祭神といわれている。この社は、養蚕の神として木呂子だけでなく、隣接する勝呂(すぐろ)の人々からも崇敬され、423日に行われる例祭では、養蚕倍盛が祈願されるという。大東亜戦争以降、養蚕は不振の傾向にあるが、同社は養蚕に限らず、諸産業繁栄の神として信仰が厚い。
 このほか、当社に合祀された山神社の例祭が117日、稲荷神社の例祭(初午祭)が3月初午日、八王子神社の例祭に関しては、ご祭神が同じであるという理由から梅之宮神社の例祭に合わせて行われているという。
        
                  社殿からの眺め
 木呂子地域は、小川町から寄居町へ通じる街道が通る要衝の地であり、天正年間にその在郷名を名乗った木呂子氏が領していたことの意味は非常に大きい。
 木呂子地域の南側に隣接する勝呂地域には白鳥神社が鎮座しているが、この社の創建には、増尾氏が関わってきたという。詳しい説明は勝呂白鳥神社に載せているが、この増尾氏は平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」。「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、増尾氏と共に木呂子氏も畠山一族の出身であるといわれている。





参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
 

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