福田熊野神社
三匹獅子舞(さんびきししまい)は、関東地方を中心とした東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞であり、一人立三匹獅子舞、三頭獅子舞などと言うこともある。篠笛とささらが伴奏につき、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ちながら舞う。中には、天狗・河童・猿・太夫・神主・仲立といった道化役がいるものもある。
地域の神社の祭礼として、五穀豊穣、防災、雨乞いなどの祈願や感謝のために行われるものが多い。地元の人たちは「獅子」、「獅子舞」、「ささら獅子舞」、あるいは単に「ささら」などと呼んでいたりする。正月にみる獅子舞や神楽での一般的な獅子舞、いわゆる古代に外来からの影響を祖とする伎楽系(神楽系)の獅子舞とは系統を異にする中世・近世に発達した風流系の獅子舞である。
市街部の多くの氏子に支えられた神社の祭礼とは違い、「村祭り」的な小規模な祭礼に行われるものがほとんどで、地元氏子以外には認知度も低く、後継者難は深刻である。古来、伝承者を農家の長男に限定しているところが多く、これは本来は、その土地を離れる心配のない者を選び、伝承を安定させる目的があったものとされている。しかし現代においてもこの条件を頑なに守り、舞が絶えてしまったところも多い。反対にそのような条件にこだわらず、地元の小中学校の児童生徒にまで教えているところもある。(*Wikipedia参照)
・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田1734
・ご祭神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命
・社 挌 旧指定村社
・例祭等 例祭 4月15日 天王様 7月15日 秋祭り 7月17日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0782891,139.3483419,18z?hl=ja&entry=ttu
福田熊野神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線を東松山方向に進み、福田交差点にて一旦県道に沿って進む道路を南下し、最初のT字路を右折、そのまま道なりに進路をとると正面左側に福田熊野神社の鳥居が見えてくる。
駐車場は鳥居の横に駐車できるスペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
福田熊野神社正面
鳥居を過ぎてから石段を登る先に拝殿が見えてくる。(写真左・右)
階段を上り終えると左側に案内板がある
熊野神社 滑川町大字福田(下福田)
祭神 速玉男命 伊邪那岐命 事解男命
由緒
当社は紀伊国牟婁郡に鎮座する熊野速玉神社の分社として祀られたと伝えられるが創建の時代 は明らかでない。新編武蔵風土記稿によれば当熊野社は天台宗普光寺持と記載され、同寺は資料から見てその開山は鎌倉時代に遡り、室町後期までは下福田地域で寺耺を司る寺と推察されることや、境内に樹齢五百年を越えると見られる杉の大樹が繁茂していたことから、当社の創建は室町以前と推察される。明治四年三月村社となり、昭和八年指定村社に昇格した。
祭事
例祭 四月十五日 夏祭 七月十五日
秋祭 十月十七日 大祓 十二月三十日
獅子舞奉納
毎年七月十五日と十月十七日に氏子により熊野神社前の庭でささら獅子舞が行われる
平成二十三年十二月吉日 滑川町観光協会 滑川町教育委員会
案内板より引用
拝 殿
熊野神社 滑川町福田一七三四
当社が鎮座する福田は、滑川支流の中堀川の開析谷の低地と丘陵部に位置し、隣地に接する大沼のほか、大小多くの沼地が点在する。祭神は、伊弉冉命・事解男命・速玉男命の三柱で、熊野三所権現像が内陣に奉安されている。この像は、付近の分山から切り出された石材によって作られており、宮本倭蔵と称する石工の銘がある。倭蔵は、越後国から寛政期(一七八九-一八〇一)ごろに当村に移住して来た人だといわれている。
当社は、紀伊国に鎮座する熊野三社を勧請して奉祀したというが、その年代は不詳である。したがって、推定するしかないのであるが、『風土記稿』によれば、当社はかつて地内にあった天台宗普光寺が別当寺であると記載されており、また、同寺の開山賢意の寂年が貞享元年(一六八四)となっていることから、恐らくは、このころに当社も地域の鎮守として勧請されたのであろう。なお、古老の話では、その創建は室町期以前にさかのぼるとしており、当社本殿近くの樹齢五百年の杉がそれを物語っているという。
明治初年の神仏分離により普光寺の管理下を離れた当社は、明治四年に村社となった。大正二年三月には、地内の伊勢・八雲・稲荷の三社を合祀した。
「埼玉の神社」より引用
福田熊野神社参道から見る下福田地区
「一人立三匹獅子舞」のような伝統文化はその特別な技術や知識を持つ人々や組織が存在し、表現・伝承していかなければ受け継がれていかない。農山等では、近年の過疎化と高齢化の進行により、貴重な「伝統文化」の担い手消滅の危機にあり、担い手づくりは重要な課題である。担い手不足により一度中止した祭りや後継者の居なくなった技術は、復活が非常に難しくなるという。
そこで、これまではある世代・組織だけが担っていた技術、地域内に住む人だけが参加していた祭りや行事等、地域社会の合意の上で、参加者のすそ野を広げたり、しきたりを拡大解釈することで、地域活性化の資源に生まれ変わる可能性があり、まず地域社会により価値評価された様々な資源を、これまで担ってきたのは誰なのかを理解し、どのような経緯で変化・発展し、あるいは弱小化しつつあるのか等、現状を見据えた上で、地域の課題に対し地域社会全体で共通認識を持つことが重要となると浅学菲才な若輩者の言とは感じつつも、愚考した次第である。