古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

代八幡神社

 国道407号と17号熊谷バイパスが交差する地域を「代」という。
「代」という地名の由来として一般的に言われている事は低地から仰ぎ見て高地に広がる平担地を意味しているといい、土地の形状・特性を表わす地名と考えられている。
 荒川はその名称通り、「荒ぶる川」との異名を持ち、有史以来,多くの水害を被っていて、扇状地内において河道変遷を繰り返し(一説では8通りの旧河道が考えられるとしている),現在の自然堤防と旧河道を形成した。また荒川扇状地は勾配が 1/300 と比較的緩やかであるため,自然堤防が発達しているのが特徴であり、形状も平地の自然堤防帯に見られるような細長いものとは限らず,楕円や四角形など様々な平面形を持っているという。
 代八幡神社はその昔の自然堤防帯上の、微高地の一角に鎮座している。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市代1343
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 挌 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 219日 例祭 1015日 新嘗祭 1124
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1730434,139.363084,17z?hl=ja&entry=ttu  
 代八幡神社は熊谷市役所の北西約3㎞の国道17号線熊谷バイパスの直ぐ南側に鎮座していて、くまぴあ交差点を左折し、最初の信号である「くまぴあ前」交差点を右折、私立学校給食センターを左側に見ながらさらに直進すると左側に八幡神社の社叢が見えてくる。
 鳥居前に車が止められるだけのスペースが有るので、そこに駐車してから参拝を行った。
               
                 
鳥居前から境内を撮影
       
         鳥居を過ぎる手前で左側に
ケヤキの大木があり、その奥
            にはイチョウの大木が並ぶように聳え立つ。
        
                     拝 殿
 八幡大神(代)の由緒
 八幡神社  熊谷市代一三四三
 当社の由緒について、次のような伝承がある。鎌倉時代、上州岩松に土着した清和源氏の流れをくむ新田義重は、源氏の氏神である八幡神を山城国石清水八幡宮から勧請した。その後、新田家から分家し、里見家を興した義重の弟から一五代目に当たる里見義次が、天正六年(一五七八)の上州大間々要害山の戦に敗れ、武州代村(当地)に落ち延びた。代村に土着した義次は同八年(一五八〇)に郷里の岩松から八幡宮を分霊して当社を創建した。下って、慶長十八年(一六一三)行者三海を開山として顕松院を建立し、当社の別当とした。これより同院は九世にわたり、当社の祭祀に専念したが、文化四年(一八〇七)に廃寺となるに至った。このため、里見助左衛門が祀職となるべく上京し、白川家の許状を得、当社の社家となったという。
 現在、拝殿に掛かる文化二年(一八〇五)惣氏子中奉納の「新田義貞」と文化十二年(一八一五)当所里見氏奉納の「新田義貞鎌倉攻め」を描いた二枚の絵馬は、右の言い伝えにちなむものであろう。 
『明細帳』によると、明治五年に村社となり同四十一年に代の地内にあった熊野神社・磯崎社・八坂神社・諏訪神社の四社を合祀した。
なお、祀職は、昭和三十七年まで先の里見家が務めていたが、その後、古宮神社社家の茂木家が継いで、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用                                

        
                  境内社諏訪社・八坂社

 荒川扇状地(あらかわせんじょうち)は、埼玉県の寄居町を中心とした巨大な扇状地で、その中央には荒川が流れている。熊谷市、深谷市が扇端にあたり、数多くの勇水があり、湖沼が発達している。近年水量が減少している。なお、扇頂から約8km下流から扇状地中に河岸段丘を生じ、植松橋付近(深谷市川本)を扇頂として大芦橋(鴻巣市吹上)付近を扇端とする新たな扇状地形が形成されていて、これを「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも)と称している。(Wikipedia参照) 
 嘗て荒川扇状地では有史以来,多くの水害を被ってきており,また江戸時代に行われた荒川の西遷事業を皮切りに,嘉永2年水害や明治43年水害などで甚大な被害を受けてきた。現在でも熊谷市街地に存在する水塚や,軒先に小舟を下げている民家が残存することから,この地域がいかに水害と近い存在であるかが窺える。
 因みに縄文時代,弥生時代,そして古墳時代の集落と自然堤防との関係は,奈良・平安時代に見られる遺跡と自然堤防の関係に一致していると言われ、扇状地周辺に見られる住居位置の割合も,旧石器時代を除いて大きな変化はないとの事だ。これにより,時代や生活様式に関わりなく自然堤防は集落の形成に大きく関わっていたことが分かる。
       
                 境内の一風景を望む

 熊谷市は、埼玉県の北部、荒川扇状地の東端に位置し、地形的に見ても市内に多くの自然堤防などの微地形が存在し,現在でも道路や宅地などへの土地利用から目視でも確認できる。
 荒川扇状地内において,集落の遺跡は自然堤防上に多く存在している。自然堤防が水害を軽減する効果を持っていて、例え自然堤防は0.5mほどの微高地であっても、これらを上手に活用し,また,堤内地の微地形を考慮に入れることで,より経済的かつ効果的な氾濫水の制御を行える可能性が大であることも、遺跡の発掘等により少しずつ分かっている。
 但し沖積地の全ての遺跡が自然堤防上で発掘されていたわけではなく,また,全ての自然堤防で遺跡が発掘されていたわけでもない。自然堤防と集落がどのような関係にあるか,更なる研究が必要であり、今後,自然堤防の治水に与える今日的役割について、詳しく調べていく予定でもある。


     

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