日向長井神社
村の鎭守なり、源賴義奧州征伐の時此地に止宿し、軍陣の首塗を祝して、勸請する所なりと云、按に此地當時の奧州道に屬せしこと、慥ならずといへども、府中より高麗郡へかヽり、上野ヘ入しは必定なれは此事なしとも云難し、今當社の緣起あり、建久・大永・文祿の三度に書繼し由なれど、本書にはあらず、其建久の記に曰、天喜五年源賴義奧州征戰之時當郡に滯留、其頃式部太輔助高郡中西城に居城、城の東に四町四方の池有、大蛇栖て村民を惱、然るに賴義の命に寄て、島田大五郞道竿と云者、彼大蛇を退治し、其地より利根川迄掘をほり水を通る、是を道竿堀と名く、其蛇を退治有しを、賴義征伐の吉事なりとて、當所に八幡を祭る、天喜五年八月也、建久三壬子年八月十五日日向彌五郞記錄寫畢此記書信すべからずといえども姑載す、天喜五年の勸請實ならんには、前年賴義首途の時土人に命じ置て、此時成就せしなるか、又曰其後治曆二年島田大五郞道貞に此地を給り、神職付置といえども、亂世故興廢有、曆應元年尊氏再興、文和元壬申同人新田義興退治之節、嶋田山城守・長井大膳大夫、於戰場鬱憤を夾み、合戰の時社頭竝屋敷燒失す、嶋田備前守上州岡山の城に遷る、大永三年八月十五日、島田山城守書次之此書繼によれば、一旦中絕の時昔の傳は失て、その萬一のみを傳ふるならん、又曰其後永祿四年上杉謙信小田原發向之時、嶋田山城守又當村に遷、新田を寄附す、夫より成田長康信仰して、年々納物有、天正十八年忍落城故、成田・嶋田兩家社荒廢せり、文祿元年八月十五日嶋田源次郞書記す此源次郞は則別當三學院の先祖なりと云、
・所在地 埼玉県熊谷市日向1090
・ご祭神 品陀別命、息長帯姫命、外八柱
・社 格 旧指定村社
・例 祭 例大祭 4月18日、10月18日 他
上須戸八幡大神社の南側には埼玉県道263号弁財深谷線が東西に通っていて、東方向に進み、同県道303号弥藤吾行田線との交点をそのまま真っ直ぐ進むと、900m程先で、進行方向右側に日向長井神社が鎮座している。駐車スペースは境内にあるので、そこに駐車してから参拝を行った。
日向長井神社正面
社は社殿等、東向きの配置となっていて、鳥居から社殿まで長い参道が続く。
因みに「日向」は「ひなた」と読む。
参道の手前には鳥居が立っていて(写真左)、その上部社号額には、明治9年に長井神社へ改称される前の「八幡宮」と表記されている(同右)。
参道は長く、その両側には豊かな社叢林が広がる。
手入れも行き届いていて、荘厳さもある社。
参道を進む途中、右に曲がるルートがあり(写真左)、その先には境内社(同右)が鎮座している。狐様の置物がある為、当初は稲荷社と思ったが、他のHPを見ると違う社との事だ。詳細不明。
100m程参道を進むと、ようやく社殿が見えてくる。
境内に入ると左側に案内板が見える。
長井神社略伝
この神社は、品陀別命・息長帯姫命外八柱の命が御祭神である。
1057年(天喜五年)に、源頼義が安部貞任を討つため東北地方へ行く時、当地に滞在した。この時、竜海という池に大蛇がすんでいて村人を悩ますと聞き、島田大五郎道竿(みちたけ)という者に、弓矢と太刀を与えて大蛇退治を命じた。
道竿は利根川まで道竿(どうかん)堀を掘り、川を落として大蛇を退治した。これは東北地方平定の吉事として、この神社を祭った。
当社は日向の鎮守として御神徳を仰ぎつつ、家族や地域の平安をお守りしている。特に、昔から安産、血の道などの婦人病に霊妙な御利益ありと伝えられる。
案内板より引用
拝 殿
拝殿に掲げてある扁額 本 殿
社殿右側手前で、聳え立つご神木(写真左・右)
「熊谷Web博物館」によると、昭和30年、1町4カ村が合併して「妻沼町」が誕生する前、この地域は妻沼町・男沼村・太田村・長井村・秦村とそれぞれ行政区域は分かれていた。秦村は明治22年の新町村制施行いわゆる明治の合併の際に、葛和田、日向、俵瀬、大野、弁財の各村を併せて誕生した比較的新しい村名ではある。
秦という名前の起因は『埼玉県大里郡郷土誌』を要約すると、「和名抄の上奏郷及び下秦郷が今の本村(秦地区)であるという記載に依るもので、吉田東伍博士の説にも、中古時代の上下秦郷の地は今の成田・中条あたりから本村にかけてであり、この地方は元々秦郷と称えていたとしている。しかし、一方『国郡志』では和名抄の指す秦郷は今の熊谷市奈良付近であるとしている。したがって、今の本村(秦地区)を完全な秦郷の地と判断するには多少疑問が残る。」とある。
神興庫 神興庫の脇に並ぶ石祠群
歴史的に秦と呼ばれた地域は、現在の妻沼町秦地区だけを限定していない。『日本地理志料』も奈良村から葛和田にかけての広範な地域の地名であるとしている。また、『埼玉県史』も長井村、秦村から奈良村上奈良にかけた大部分をあてている。
秦の範囲について、どちらかといえば『日本地理志料』や『埼玉県史』の説により、奈良村から葛和田にかけての広範な地域の地名であると考えたい。そう考えれば、むしろ明治の合併の際、この地に秦の地名を用いたことは、賢明であったと言えるのではないだろうか。
境内にあるイラスト入りの長井神社略伝 社殿左側に鎮座する天満宮
利根川の流域に属するこの秦地区は、昔から常に洪水にさらされ、地形の変化が激しく、概ね今のような集落が形成されたのは徳川氏の江戸入府以降のことと推測される。それ以前は洪水の浸水地として農耕が極めて不適で土着に耐え難い状況であった。そのため、集落の固定化はそれなりに難儀であったと思われる。
また、当時の様子を『埼玉縣大里郡郷土誌』から要約すると、「利根川は村の北境を東流し、福川は長井村より来て村の南境を東流し利根川に合流する。更に道閑掘も長井村より入り、村の中央を東北流して俵瀬にて利根川に注ぐ。また村内に沼が三カ所あり、日向にある沼を次郎兵衛沼、辨財にある沼を辨財沼、俵瀬にあるを大池と呼んでいた。」このように秦地区は平均的に低地で、三つの川に挟まれ、池沼も多く洪水の被害を受けやすかった。しかし、逆に水運には適していた。そのため交易・交通の要となる条件も有していたと言えよう。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉縣大里郡郷土誌」「埼玉県地名辞典」「熊谷Web博物館」等