上影森諏訪神社
中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄期(1688~1704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。特に盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。
農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向(演目が都市の歌舞伎そのままであったこと。派手な衣装や大道具等)を基盤にしつつも、村々で独自の特徴を持ち、何百年にもわたって伝承されてきた。
農村歌舞伎の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整える。
こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、映画等 新しい娯楽の出現と共に衰退した。
農村での娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の影響で廃れていきたが、埼玉県秩父郡小鹿野町の「小鹿野歌舞伎」のように、今でも地域文化として大事に受け継がれている地域はある。
秩父市上影森諏訪神社には「諏訪神社附設舞台」がある。間口約11m、奥行7m、木造の舞台で建造年代は江戸末期から明治初年のものと推定される。
この舞台は、秩父地方の農村歌舞伎舞台の典型的なものの一つで、二重、下座、セリ上げ装置、廻り舞台などの内部構造は古い構造をそのままにとどめており、歌舞伎等郷土の伝統芸能が隆盛であった往時を偲ばせている。
・所在地 埼玉県秩父市上影森255-1
・ご祭神 建御名方命 八坂刀賣命
・社 格 旧上影森村鎮守 旧村社
・例祭等 節分祭 2月3日 春祭り 4月29日 夏祭り 7月第4日曜日
大野原愛宕神社から国道140号線を秩父市街地方向に進む。「道の駅ちちぶ」を越え、4㎞程南西方向に進行すると、さすがに市街地を抜け、国道が大きく左カーブし、「上影森歩道橋」を過ぎた先の信号手前にあるY字路の細い路地を左斜め手前方向に進む。因みにこの細い路地は嘗ての「秩父甲州往還」の旧街道であったという。その路地は上り傾斜であり、高台に向かって進むと左手に上影森諏訪神社の鳥居が見えてくる。
上影森諏訪神社正面
「秩父甲州往還」と旧街道の分かれ目という位置に鎮座。
平野部に鎮座する社とはまた違った地域独特の雰囲気を醸し出している。
『新編武蔵風土記稿』には「村名の起りは武甲の大山を東南にうけし村なれば、山の影なる森と云名義とぞ土人云へり」と「影森」地名由来を説明している。またこの社は当地方にはめずらしく、かつて「椿森」と呼ばれたほど椿の多い杜であったという。
社の入口から参道を進むとある朱色の両部鳥居
鳥居の先には記念碑があり、そこには「椿の森に鎮座する諏訪神社参道に建つ両部大鳥居は明治時代の末下影森琴平神社に建立されたものだったが 第二次世界大戦中当椿森諏訪神社に申し受け今日に至った」との記載がある。
参道に設置されている案内板
諏訪神社 御由緒 秩父市上影森二五五-一
◇御神木の大杉は市指定の天然記念物
秩父市の南西に位置する上影森は、南東に武甲山がそびえ、西に荒川が流れ、『新編武蔵風土記稿』には「村名の起りは武甲の大山を東南にうけし村なれば、山の影なる森と云名義とぞ土人云へり」とある。
当社は当地方にはめずらしく、かつて椿森と呼ばれたほど椿の多い杜であった。現在、社殿は武甲山に向いて建てられているが、昭和三四年に焼失する以前は、氏子区域を見守るように建てられていた。
昭和三六年(一九六一)再建の棟札には、天正五年(一五七七)・享保六年(一七二一)・宝暦十二年(一七六二)・安永二年(一七七三)・天明六年(一七八六)・文化三年(一八〇六)の本殿造営及び屋根葺き替えの棟札の写しが記されており、造営の足跡を知ることができる。
また、境内にある歌舞伎舞台は大正六年(一九一七)に造られたもので、回り舞台になっていることから、市指定有形民俗文化財であり、当社の御神木である杉は推定樹齢約六〇〇年、胸高周囲五八〇センチメートルを超える大木で市指定天然記念物となっている。
◇御祭神 建御名方命 八坂刀賣命
◇御祭日
・元旦祭(一月一日) ・節分祭(二月三日) ・春祭り (四月二十九日)
・夏祭り(七月第四日曜日) ・月次祭(毎月二十七日)
案内板より引用
鳥居脇に設置されている「神苑整備記念碑」
神苑整備記念碑
椿の森に神鎮まります諏訪の大神の大前に齋き奉る大鳥居 社務所など 奉齋以来いく多の星霜を閲みて腐朽著るしく早急にこれが改修をせまられた折
この神やしろの神庭に 遠つ世の氏子諸びとたちが大神をおろがみ御神德の洽く四海に及ぼされんことを祈念し神賑の館として築ける歌舞伎舞台もまた県内まれにみる貴重な文化遺産でありながら永い風雪に耐えて破損夥しく この際両者復元により 旧態を保存して神威の昂揚につとむべしとの結論に達し神社積立金を基金としひろく氏子崇敬者の浄財寄進を勧募して神域整備の議成り過ぐる年秋工を起せしに神威たちまちにして顕現悉皆順調に進捗当初計画を容易に 凌駕して浄財の寄進を得たり
仍ち付帯工事たる社務所増築をも併せてその完きを見面目を一新するに至る
折しも歌舞伎舞台は秩父市有形民俗文化財の指定を受け いま先人の偉業ここに認めらる
是偏に大神の御稜威と氏子崇敬者の篤い敬神の念の賜に他ならず 因って神苑整備と文化財指定を記念し 寄進者名の石ぶみを営みて永く感謝の誠を示すものなり(以下略)
「記念碑文」より引用
上影森諏訪神社には案内板や記念碑等が多く設置されている。これも歴史の深さから来るものであろう。
拝 殿
拝殿手前左側には秩父市指定有形民俗文化財である「諏訪神社附設部隊」がある。
大正六年(一九一七)に造られたもので、回り舞台になっているという。
秩父市指定有形民俗文化財 諏訪神社附設舞台
間口約11m、奥行約7m、木造の舞台で、建造年代は江戸末期から明治初年のものと推定されます。かって上影森村が戸数八十五戸であった時代に村の若者たちの手によって木材の伐採に始まり、運搬・建築と幾多の困難を克服して完成したと言われております。
以来、諏訪神社の祭礼や農休みの年中行事として歌舞伎などが上演されて参りましたが、時代の変化とともに舞台を使用しての公演が困難になるとともに舞台も荒廃してまいりました。
この舞台は秩父地方における農村歌舞伎舞台の典型的なものの一つで、その特色は二重・下座・セリ上げ装置・まわり舞台等内部構造は古い形をとどめています。
昭和五十三年氏子の皆さんの浄財により一部補強修理を完了し、その保存をはかることになりました(以下略)
案内板より引用
上影森諏訪神社本殿
社殿の奥には幾多の境内社が祀られている。社殿左側奥に鎮座する境内社・椿森稲荷神社(写真左)。社殿正面奥にも境内社あり(同右)、こちらは由緒等不明。
由緒等不明の境内社の並びには五基の境内社群が祀られているが(写真左)、こちらも詳細不明。また石垣祀られているいる「磐座」らしきものもある(同右)。
社殿右側に祀られている境内社・八坂神社
境内社・八坂神社の奥に聳え立つ御神木である大杉(写真左・右)
秩父市指定天然記念物 上影森諏訪神社のスギ一本
秩父市大字上影森二二五~一番地
昭和四五年九月四日指定
このスギの木は、上影森諏訪神社の神木で樹齢六〇〇年から七〇〇年と推定され、地表より一〇メートル付近で八本の幹にわかれ特異な樹相を呈しています。
幹の中には楢の宿木があり、子育ての名木として珍重されています。スギの木の大木としては市内最大です。
樹高 四〇メートル
目通り 五・六メートル
枝張り ニ六メートル
平成五年三月 諏訪神社 秩父市教育委員会
案内板より引用
境内から眺め見える武甲山
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父市HP」「Wikipedia」
「日本大百科全書(ニッポニカ)」「境内案内板・碑」等