古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

荒川上田野若御子神社

 旧荒川村は嘗て埼玉県の南西部、秩父郡に位置していた村であり、東は秩父市、西は大滝村、南は東京都西多摩郡奥多摩町、北は両神村・小鹿野町・秩父市に接していた。北部を西から東に荒川が流れ、同川には町の西部で贄川(にえがわ)沢と谷津(やつ)川、中央で安谷(あんや)川、東部で浦山川が合流する。荒川に沿って国道140号線と、秩父鉄道(地内の三峰口駅が終点)が通る。南部は県境にある酉谷(とりだに)山から北西方と北東方へ延びる尾根に挟まれた急峻な山地で、集落はおもに北部の荒川河岸段丘上に集中している。
 2005年(平成174月秩父市に合併・消滅し、現在は秩父市の中央部を占める。
 旧村名は荒川が流れることによる。養蚕が盛んであったが、昭和40年代から衰退し、その後はソバ、野菜の栽培が行われ、ブドウ、クリなどの観光農園が多い。
 荒川上田野若御子神社は旧荒川村上田野地域に鎮座する村の鎮守様であり、秩父地方に点在する狼信仰の一社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市荒川上田野698
             
・ご祭神 神日本盤余彦尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭(春祭り)4月第三日曜日 神幸祭81日 
                                
新嘗祭 1123
 上影森諏訪神社から国道140号線で2㎞程西行し、コンビニエンスストア手前の十字路を左折する。因みにその十字路左手には「清雲寺・若御子神社 表参道入口」の看板がある
その後300m程進んだ細い路地の正面に荒川上田野若御子神社の一の鳥居が見えてくる。
 秩父市街地からも離れ、国道に沿って西側は秩父山系の山脈がまじかに見える。山好きの筆者にとってこの風景がたまらない。時に車を降り、澄み渡る空気を体いっぱいに吸う。
標高もやはり高いせいかひんやりと感じる中、何より一帯の空気が違う。埼玉県内にありながらもここまで違うものかと感じ入る。ここまで来れば三峰口までもうすぐの距離だ。
        
               
荒川上田野若御子神社の一の鳥居
             鳥居の前には一対の狛「狼」が迎えてくれる。
 参拝日は紅葉が見頃ギリギリの季節で、風は冷たかったが、周囲の景色も相まって素晴らしい参拝を満喫することができた。
 鳥居から真っ直ぐに伸びた先に二の鳥居があり、そこからが境内となる。社に隣接して「
清雲寺」があり、また専用トイレも併設されていて、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
        
                     荒川上田野若御子神社・二の鳥居付近を撮影
『日本歴史地名大系』には旧「上田野村」の解説が載っている。
 [現在地名]荒川村上田野
 
荒川の上流右岸に位置し、西は安谷(あんや)川を境に日野(ひの)村、東は浦山(うらやま)川を境に久那(くな)村、北も荒川を境に同村。南には天目(てんもく)山等の高山が連なり、集落は北部に集中している。秩父甲州往還が荒川に沿い東西に通る。近世初めは幕府領、寛文三年(一六六三)忍藩領となる。田園簿では高三九一石余・此永七八貫三一七文とある。文政六年(一八二三)の書上帳(井上家文書)によると村高五五九石余、うち五二三石余は慶安五年(一六五二)の検地高、残る三六石余は寛文三年から文化三年(一八〇六)まで一三回行われた改畑高であった。「風土記稿」によると水田は少なく、ほぼ畑三分・山林七分の村方で、南に連なる高山のため雨期には水害を受けやすかった。耕地が石地のため干害もあり、また猪・鹿の害もあった。
        
 二の鳥居手前の道路沿いに設置されている「県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群」の案内板。

 社の境内から急な山道を10分ほど登っていくと、「若御子断層洞」という洞窟がある。これは秩父盆地と南側の奥秩父山地との境界をなす断層「日野断層」の一部で、断層がずれて岩石が砕けたところが水によって洗い流されてできた洞窟を「断層洞」という。
 断層がずれた際に擦り合わされて磨かれた「鏡肌(かがみはだ)」という箇所があり、線状のすり傷が見られ、 断層面が直接観察できる場所は珍しいとの事だ。

 県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群
 指定日 昭和3531
 若御子断層洞は、若御子神社の南約100メートルのところにぽっかりと口をあけています。断層洞のある崖は、秩父中・古生層のチャートというとても硬い岩石でできています。
 断層洞とは、断層破砕帯の中の粘土や礫が、地下水によって洗い流されたために生まれた空間のことで、世界的に見ても例の少ない、貴重なものです。洞内の岩肌には、断層によって生まれた、平らで磨かれたような断層の面(鏡肌)が見られます。また、鏡肌には、断層が生じるときのすり傷(条線)も観察できます。
 また、この一帯には、無数の断層がほぼ東西方向に走っていますが、このような断層の集まりを断層群といい、ここは「日野断層群」と呼ばれています。
 以上のように、この地域は、断層面・鏡肌・条線・断層粘土・断層角礫など、断層に関連する種々の現象が観察できる、学術的に貴重なところです。
 平成63月 埼玉県教育委員会 秩父市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                       二の鳥居
 二の鳥居前には石段があり、そこを過ぎると神楽殿や社務所が設置された広い空間があるが、そこからまた数段の石段を登らなければ社殿に通じる空間に到着できない。境内は思った以上に複雑であるが、山岳斜面上に鎮座している社であるが故に斜面を均して平地面をつくり、土台を補強して境内を作り出す作業は困難を極めただろう。斜面を補強するために積み上げた石垣は、灯篭等の奉納品がなければまるでお城のようだ。この地にこれ程の社を作り上げたことに対する畏敬の念を感じずにいられない。
 
            二の鳥居前に鎮座する狛「狼」(写真左・右)
 この「狼」の石像は、全体的には「瘦せ型」・頭部は「扁平」。口には「牙」もあり、よく見ると左側の像は「歯」も生え揃っている。また一の鳥居の一対の狛「狼」は参道側正面を向いているが、こちらはお互い向き合っている。他の社に関しても、複数狛犬が配置されている場合で、このように「狛犬」の向き方が違うケースも時折見られるが、向き方の違いには何か法則、ないし因果関係があるのであろうか。
        
             二の鳥居を過ぎると左手に設置されている「神域改修事業奉賛記念碑」
 神域改修事業奉賛記念碑
 当平成元年は大正四年当神社若御子山旧社より御遷座七十五周年に相当す此間昭和十五年は当社御祭神「神日本磐余彦尊」神武天皇紀元二千六百年の挙国奉賀を機し境域及参道の整備等行い現今の整然たる神域を成せり以後幾度か改修もなされしが年古るに従い森厳の気漲るも風雨寇なし築礎崩壊の兆現るを危惧す此を憂い当社宮司故岩田真久氏は氏子総代と相計り神域改修事業を計画するや関与者昼夜力を合せ奔走六百有余名の氏子及当社崇敬者より浄財を蒐め工を起す併て神殿築礎の石積構築改修を行い境内新玉垣奥宮社の覆屋神宝舎の新築又境内整備等神域の大改修を行えり為に景観至処神韻瑞気漲り神徳宏大無辺弥栄に高し嗚呼偉業善哉関与者の熱誠賛助者の協力高邁也此に其功を碑に刻し永く後世に伝う
正に神明之を嘉し賜うべし(以下略)
                                   奉賛記念碑文より引用

        
                       神域改修事業奉賛記念碑の並びにある神楽殿
    神楽を奉納する舞台の右脇には、笛や太鼓等演奏用のスペースもあるあまり見ない形態。
  舞台の神楽同様に演奏者を正面に置くこの配置は「見せる演出」としては面白いと感じた。
        
 神楽殿や社務所のある境内から社殿に向かうには、数段の石段を登らねばならず、その途中には少し広めの遊び場があり、石段を中心に左側には手水舎が、右側には神賓舎が設置されている。

          手水舎                                      神賓舎
       
            手水舎のすぐ奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 拝殿は石段が上り終えた、その正面には鎮座していない。そこから一旦進行方向左側に曲がり、その先に鎮座している。社殿のある空間は斜面が比較的目の前に見える為、奥行きはほどほどにして、左右を広げるように削平したのでろう。そのため社殿は正面参道、ないし石段からは横を向いているように見える。
*追伸 この社は確認すると西向き社殿である。西向きという事は、その延長線上のお祭りする対象は、奈良県にある神武天皇の御陵墓か、または狼信仰のメッカである三峯神社だろうか。
 当社の由来
 当社は若御子神社と申し御祭神神日本磐余彦尊神武天皇様が奉斎されている
 若御子神社の称号は御祭神「神武天皇様」の別御呼名若御毛沼命の若御毛からではないかと推察される
 御創立は人皇第四十五代聖武天皇御宇、天平年間(西暦七三〇年代)上田野の主峰若御子山の頂きに祀斉されたのが、当神社創始の起源とされ、後延暦十三年(西暦七九四年)若御子山の峰岳にお社が造営され、若御子十二社宮と称される
 社伝縁起には醍醐天皇の御宇、延長八年(西暦九三〇年)神官従五位守屋大和守物部吉清再建とあり神社宝物の御神鏡に刻されて居る
 当社は古くより武将達の崇敬が厚く、天慶年間、藤原秀郷、平将門を討伐の時当社に戦勝を祈願したとあり、建久二年鎌倉幕府源頼朝、戦勝と武運長久を当社に祈願する。天文十四年足利将軍義晴、当社の社殿を造営せしむ。神社はこの時峰岳より旧社地若御子に遷座され、若御子十二社権現宮と称される
 永禄十二年武田軍の兵火に罹り、社殿、宝物旧記等ことごとく消失す
 慶長六年五月社殿を造営す。現在の本殿は即ち是なり
 明治二年若御子十二社権現宮を改め、これより若御子神社と称する
 大正四年神社の移転許可され、大正五年若御子山より現在地に遷座される
 昭和十五年御祭神神武天皇御即位二千六百年を記念し神域の大改修が行われる
 平成二年、当社御遷座七十五周年事業として、現神域の大改修が行われる
                                     境内案内板より引用
 
   拝殿に掲げてある扁額と神武天皇          拝殿脇から本殿を撮影
                          (関係者以外立ち入り禁止の為)
 十二所權現社
 若御子山にあり、本社二間に九尺、三社合殿、造上屋三間に四間、神體木の坐像長九寸五分狩衣烏帽子を着せり、その餘不具なる木造幾體もあり、いづれも古色なり、又十一面觀音の木立像長一尺二寸、三寶荒神の木立像長一尺七寸なるを安ず、共に古色なり、貞享年中再造の棟札に、天文十四年の建立とのせたり、一段三畝廿四步の除地あり、神職は吉田家の配下にて、守屋豐前なり、
 風穴橋 社前にあり、巨岩によりて道を設けり、長三間餘、幅四尺許、屋根ありて廊下の如し、其下盤岩に穴あり是を風穴と云、徑リ一尺四五寸、深さ知るべからず、土人是より靈風を吹出すと云う、
 鳥居 社より三町ばかり山下にあり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

     
                     社殿前方にあるご神木(写真左・右)
       
 境内にあるご神木の近くで、斜面上に祭られている境内社。一番左は稲荷社か、それ以外は詳細不明。
       
                                  境内での一風景
        
             荒川上田野若御子神社西側に隣接している御霊神社
     「静かに佇む」という表現がピッタリの社。ご祭神、由緒、創建等全く不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・石碑文」等
 

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