木部松久神社
美里町木部地区は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む木部氏の在所であった所といわれ、地内には、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと思われる木部氏館跡もある。
○猪俣党木部氏 那賀郡木部村より起る。
小野氏系図(畠山牛庵本)「猪俣時範―家兼―木部次郎行兼」
中世においては、那賀郡に所属し、元亀元年(1570)の発給と推定される鉢形城主北条氏邦印判状の中には、木部村内に高柳源左衛門の屋敷地を安堵した旨が見える。
○木部勝蔵文書(東京浅草区馬道町)
「元亀元年五月五日、北条氏邦の奉行中村は、高柳源左衛門に印判状を発給し、木部村の寄居に取立候屋敷の一円不入を命ず」
「天正二年六月九日、氏邦奉行桑原左馬助は、高柳源左衛門に印判状を発給し、知行方、八貫五百文松村帯刀跡、七貫文岡部弥七郎分之内、以上十五貫五百文の地を宛行ふ」
・所在地 埼玉県児玉郡美里町木部549
・ご祭神 建御名方命 多津乃神 伊邪那岐命 伊邪那美命
建速須佐之男命 応神天皇
・社 格 旧村社
・例祭等 祈年祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 11月23日
大祭 6月・12月
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1718479,139.1752739,18z?hl=ja&entry=ttu
木部松久神社は、埼玉県道31号本庄寄居線を本庄市方面に北上する。「甘粕」交差点を直進すると「美里町 踏切手前左折 遺跡の森総合公園」の看板の先のT字路を左折、道なりに700m程進むと真東寺や木部松久神社の社叢が見える。木部松久神社に隣接する真東寺の駐車スペースを利用して、そこに車を停めて参拝を行った。
参道の入り口が分かりづらく、今回は真東寺の駐車スペースからのスタートとなったが、本来参道の入り口は丘陵下の民家の横の田んぼのあぜ道があり、そのあぜ道の先に標石がある。
社は丘陵地、斜面上に鎮座。
やや急な角度の石段を登ると鳥居が見えてくる。
鳥居から撮影
鳥居に掲げてある社号額 更に石段を登ると社殿が見えてくる。
拝 殿
○松久神社 鎮座地 美里町大字木部五四九番地
由緒
木部は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む木部氏の在所であった所といわれている。木部氏は猪俣家兼の子行兼と称したのが始まりであるという。地内には、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと思われる木部氏館跡もある。
元来、木部の鎮守は、「風土記稿」木部村の項に「聖天社二宇共に村の鎮守にて、一は真東寺持、一は村持」と記されているように、二つの聖天社であり、この二社は共に明治五年に村社となり、真東寺持ちの聖天社は西二柱神(字西に鎮座)、字持ちの堅天社は東二柱神社(字森下に鎮座)と称するようになった。一方、当社地には、古くから真言宗の真東寺の寺鎮守として諏訪社と八幡社が祀られており、諏訪社は、弘化二年(一八四五)に地頭の松前氏から祈雨竜神を拝領して神社を再建したとの伝えがあることから、神仏分離の後は、諏訪竜神神社と称した。
明治四〇年四月、政府の合祀政策に従って、この諏訪竜神神社に、東西の二柱神社及び宇道場の無格社八坂神社及び字前山の八幡神社が合祀された。これを機に社号を松久神社に改称し、社格も村社となった。因みに「松久」の名は、その当時木部が属していた松久村の村名を採ったものである。
案内板より引用
拝殿に掲げている標額 本 殿
社は「美里町遺跡の森」のある丘陵の北斜面・標高約100m上に鎮座している。木部松久神社が鎮座している木部地区は南北に伸びる地区で、「美里町町役場」から「遺跡の森 総合公園」までの美里町の主要施設を含む地区(JR八高線 松久駅周辺は甘粕地区)で、東から南にかけては甘粕地区、一部白市地区にも接し、北側には古郡地区、西側には駒衣地区と接している。
因みにJR八高線「松久駅」があり、嘗ては松久村も存在していたが、大字には現在存在していない。但し上記「松久駅」もそうだが、「松久公民館」や「松久小学校」「松久保育園」のように、旧村名「松久」を使用している施設等も多く存在する。
社殿の奥に輪座する末社。詳細不明。 末社群に隣接する境内社合社
左から八幡神社・八坂神社・稲荷神社
ところで、木部松久神社に隣接する真東寺は、梅樹山地蔵院と号する。創建年代は不詳だが、文明3年(1471)に真言宗醍醐派から真言宗智山派に宗派替したと伝えられている。天明3年(1783)浅間山の大噴火の後、火災に遭い天明6年(1786)本堂を再建、宥勝寺より延命地蔵菩薩像を譲り受け、院号を地蔵院と改めました。広大な境内には四国八十八ヶ所の写しが造作されており、多くの巡拝者を集め、また児玉三十三霊場26番霊場となっている。
四国八十八ヶ所写しの風景 真東寺天満宮も鎮座する。