中里雷電神社
美里町中里地区は、松久丘陵の北部に位置する丘陵上の村で、南の白石地区との境を中世の鎌倉街道上道が通っていて、天正19年(1591)の「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)には「甘粕 中里共」と記され、元は甘粕村と共に一村であった記録がある。
中里に鎮座する雷電神社は、旧鎌倉街道上道西側に面していて、当地ではこの通りの坂を「雷坂」と呼んでいた。また国道254号線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する位置関係にある。当社、甘粕神社(甘粕)、東大澤神社(猪俣)の三社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられていて、通称「雷電三社」と言われている。
・所在地 埼玉県児玉郡美里町中里8
・ご祭神 大雷神
・社 格 旧村社
・例 祭 新年祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 11月23日 大祓 6月・12月
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1589805,139.1827507,17z?hl=ja&entry=ttu
中里雷電神社は、国道140号バイパス秩父往還線を小前田駅方向に進み、「花園局」交差点を右折。その後小前田駅を見ながら道なりに進み、埼玉県道175号小前田児玉線を用土駅から美里町方向に暫く直進する。その後「野中」交差点を右折するとその道は埼玉県道31号本庄寄居線と変わり、天神川を越えた最初のT字路を左折すると右側に甘粕神社が鎮座する社叢と鳥居が見えてくるので、そのまま直進するとT字路にあたる。国道254線と埼玉県道175号小前田児玉線が変更する地点で、そこを右折すると、すぐ変則的な交差点があり、そこを越えた左側奥に雷電神社の鳥居が見える。
今回甘粕神社近郊のある関係から、甘粕神社までのルートを参考にして記載したが、もっと分かりやすいルートとしては、国道140号バイパスから寄居警察手前の三つ又に分かれる分岐点を美里方向(国道254号線)に15分程進めば左側に雷電神社の鳥居が見えてくる。
県道沿いの一角から鳥居方向の広い空間に駐車することは可能だが、安心して駐車したいのであれば、変則的な交差点を越えたすぐ先のT字路を左折し、また次の十字路を左折すると中里雷電神社の比較的広い境内に入ることができる。
因みに中里雷電神社西側に北西から南東方向に通じる道は嘗て旧鎌倉街道上道と呼ばれ、現在の河越・児玉往還と呼ばれる街道である。
中里雷電神社 鳥居 鳥居から見た中里雷電神社社殿
社殿が石垣の上、一段高い位置にあり、丘陵地であることが分かる。この辺りは「雷電神社裏古墳」と呼ばれている古墳丘陵で、社殿は丘陵の上に鎮座している。古墳は旧鎌倉街道上道を東西に横切る道に分かれていて、中里雷電神社の北側の浅間大神の塚のあたりまでになっているとの事だ。規模は径10m、高2mの円墳(横穴式石室)で推定築造6世紀半~7世紀代と言われている。
中里雷電神社案内板
〇雷電神社 鎮座地 美里町大字中里八番地
由緒
当社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神三社を祀ったのが始まりと伝えられる。猪俣、甘粕の地にも雷電社が祀られ、当社を含めこの三社を雷電三社と称する。雷電三社は国道二五四線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する。当社西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を雷坂と呼んでいる。
春日造りの本殿は、地元の大工である岡田伊右衛門が建てたもので、この伊右衛門が寛政七年(一七九五)に児玉町秋山の十二天社を造った時の「建立覚書」に当社の本殿と同じ造りにする旨が記されていることから、当社はそれ以前に建てられたものであることがわかる。
また『風土記稿』中里村の項では「愛宕社は村の鎮守なり、満正寺持ちは諏訪社、雷電社、天神社、村民持ちは稲荷社」とあるように、江戸期には愛宕社が村の鎮守であったが、明治元年の社格制定に際しては当社が中里村の村社とされた。更に愛宕社も含め当社以外の神社はいずれも小規模であったため、明治四十一年に政府の合祀政策に従ってこれらの諸社は当社の境内に移された。 案内板より引用
拝 殿
社殿の西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を「雷坂」と呼んでいて、日本武尊の伝説があるそうだ。社殿は、旧鎌倉街道上道といわれる道に対して背を向けた形で鎮座していて、現在の国道に面した方向に向かって建てられている。
社殿周辺に鎮座する境内社・合祀社(写真左・右)合祀社に関しては、左から神明社・白山社・菅原社・愛宕社・稲荷社・諏訪社が祀られている。
案内板近くには浅間大神等の石碑あり 社殿から境内を撮影