古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

根木勝丸稲荷神社

 美里町・根木地域は北東方向から東側に流れる志戸川が、支流・天神川と合流する西側に位置し、沼上・阿那志・古郡・十条地域と接している区域で、今は一面長閑な田園風景が広がっている。
 嘗て律令制度時期には、根木周辺地域は県指定史跡である十条条里遺跡が存在し、大化の改新の制により実施された班田収受法の遺跡でもある。条里は、古代に行われた地割制度のことで、広い土地を6町(654m)ごとに線を引いて、碁盤の目のように区画し、東西の線を「条」、南北の線を「里」と名付け、それぞれ区画された土地は、「何条」・「何里」で示している。
町内には、条里制に由来すると思われる地名がいくつもあり、南十条、北十条、十条堀(根木)、四条ヶ島(沼上)、十二町(下児玉)、五郎町(北十条)、八反田(南十条)などがあげられる。根木地域にも条里制による区画整理事業を行われていて、当時先進的な場所であるともうかがわせる。 
        
               ・所在地 埼玉県児玉郡美里町根木337
              ・ご祭神 軻遇突知命 倉稲魂命 瓊々杵命 木花咲耶姫命
                   須佐能男命 菅原道真公
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 317日 例祭 415日 大祓祭 729
                   新嘗祭 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1920552,139.1822689,17z?hl=ja&entry=ttu
 根木
勝丸稲荷神社は、埼玉県道75号線熊谷児玉線を美里町、児玉町方向に進み、「関」交差点を左折する。埼玉県道31号線本庄寄居線に変わり、3本目の十字路を右折。暫く道なりに進むと正面にこんもりとした社叢が道を隔てて2か所見える。埼玉県道31号線本庄寄居線を右折して4500m程にて、根木勝丸稲荷神社が右側に、嘗て愛宕山という直径30mの円墳の上に鎮座する。 因みに勝丸稲荷神社の南側に隣接した道灌山も古墳であり、名称は山頂に太田道灌供養塔が祀られていることに由来するようだ。
 駐車スペースは道路神社側脇に舗装されていない路肩状部があり、そこに車を停めて参拝を行う。
        
               
根木勝丸稲荷神社南東の方から撮影
                         
勝丸
稲荷神社御由緒  美里町根木三三七
御縁起(歴史)
 当社は、大字根木の集落南端にある「愛宕山」と称する小高い塚に鎮座している。県道本庄・寄居線からは、田畑の中に浮かぶように鎮守の杜が望まれる。
 この鎮座地には、元々は無格社の愛宕神社が祀られていたが、明治四十年に字勝丸の村社稲荷神社・字紫渡川の無格社二柱神社・字根木の無格社八坂神社・字向居の無格社菅原神社の四社を合祀の上、社号を勝丸稲荷神社と改めた。
 愛宕神社は、口碑によれば、戦の火矢がもとで根木の集落が全焼した際に火防の神として勧請したという。『風土記稿』根木村の項には「愛宕社村の鎮守なり、積蔵寺持」とあり、更に積蔵院は「新義真言宗、栗埼村宥勝寺末、愛宕山地蔵院と号す、本尊地蔵を安ぜり」とあり、その山号から積蔵院の法印が当社の勧請にかかわった可能性が高い。ちなみに、積蔵院は神仏分離により廃寺となった。一方、社名の本になった稲荷神社は『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳ならず、古老の口碑に天正十八年(一五九〇)当地の郷士猪俣党の旗下勝丸仁左衛門が稲荷明神の社殿を再興して、深く崇敬したるを以て、後ち勝丸稲荷大明神と称すと云ふ」とあり、『風土記稿』には村持ちの「稲荷社」として載る。従って、明治初年の社格制定の際には、鎮守が村の愛宕神社から稲荷神社に交代したことになる。                     
                                       案内板より引用

美里町史による勝丸稲荷神社の由緒
・勝丸
稲荷神社
 大字根木にあり、倉稲魂命ほか五柱を祀る。創建の年代・由来は不詳であるが、伝えによると天正18
年、当地の郷士で猪俣氏の旗本であった勝丸仁左衛門が稲荷神社の社殿を修理して再興したといわれ、勝丸稲荷大明神ともいう。
        
                 
根木勝丸稲荷神社 鳥居
        
                     拝 殿
        
         
御嶽大神・三笠山大神・八海山大神を祀る富士山のような塚
              良く見ると真ん中のお地蔵様の首部がない。

 根木勝丸稲荷神社は、勝丸稲荷神社古墳墳頂に鎮座しているが、
路を隔ててほぼ反対側に位置する道潅山古墳で、古墳の名称の「道潅」は、墳頂に太田道灌が祀られていると言われているが、近づいて墳頂に行くことができない程の状況だ。
 東西約42.5m、南北約43m、高さ約4.1m5世紀前半築造の円墳(推定)。道潅山古墳と勝丸稲荷神社古墳のそれぞれの埋葬者は、どのような関係性を持った人物だったのであろうか。
 
        
道潅山古墳全景             近隣に位置する2基の古墳。

 ところで、
勝丸稲荷神社古墳や道灌山古墳の北方600m程に阿那志地区・堂山古墳が存在する。径40m 高5mの円墳で、発掘された周溝や木棺直葬又は粘土槨から推定築造年代は5世紀中旬~後半と言われ、勝丸稲荷神社古墳や道灌山古墳よりは新しいが、古墳の規模は大きくなっている。阿那志にこれだけ大きな古墳が築造された事は、南志渡遺跡の稲作が発展して、さらに人口が養える様になり村落が形成された事を意味するのではなかろうか。
        
                  
阿那志地区・堂山古墳


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駒衣稲荷神社

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町駒衣595
            ・
ご祭神 倉稲魂命
            ・
社 格 旧村社
            ・
例 祭 天神祭 1月25日 初馬 2月6日 春の大祭 4月15日
                 秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月28日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1736646,139.1698324,16z?hl=ja&entry=ttu
 駒衣稲荷神社は国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居方向に進み、国道254号線との分離地点で右折、美里町から児玉町方向に進む。国道254号線は美里町 天神橋交差点付近で埼玉県道175号小前田児玉線に名称変更するが、そのまま道なりに直進。
 その後「松久小学校入口」交差点を右折し、約
700m程進むと右側に駒衣稲荷神社とその社叢が見える。駒衣の集落の北端に位置し、すぐ北側は長閑な田園地帯が広がる。
                
                       駒衣稲荷神社 鳥居正面 
       
               駒衣稲荷神社御由緒案内板
〇御縁起 美里町駒衣五九五
 駒衣は、古くは「駒絹」「駒木野」とも書き、南端を鎌倉街道上道が通ることから民家は南部に集中し、北部には東田が広がる。地内には、駒衣古墳群をはじめ、四世紀中葉の集落跡である志渡川遺跡や奈良・平安時代の寺院跡である駒衣廃寺、中世の土嚢の館跡である新堀屋敷などと遺跡が多く、古代から太の住みやすい環境であったことがうかがえる。
 当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している。創建については詳しい伝えはないものの、古くから駒衣の鎮守として厚く信仰されてきた神社であるという。また「児玉郡誌」は「元亀年中(一五七〇-七三)武田信玄の旗下・吉橋和泉守、武運長久を祈願し社殿を改築せりと云ふ、社蔵に係る文書には駒絹村正一位稲荷大明神とあり、宗源の宣旨は伝はらざれど、神階を授けられたること明らかなり」と載せ、当地は養蚕が盛んであることから、その守護神として勧請したものかと考察している。
 一方、『風土記稿』駒衣村の項には智徳院持ちの稲荷社と円福寺持ちの稲荷社の二社が記載されているが、当社はそのうちの智徳院持ちの稲荷社で、円福寺持ちの稲荷社は新田で祀っていた神社である。神仏分離により智徳院の管理を離れた当社は、明治五年に村社になり、同四十年には新田の稲荷社をはじめ地内の無格社三社を合祀した(以下中略)        案内板より引用
     
       
                    拝 殿         
 
  向拝柱の水引虹梁には彫刻が施されている           本 殿

「美しい里の町」をキャッチフレーズとしてホームページ等でも紹介されている埼玉県美里町は、東京都心より約80km、埼玉県の北西部に位置し、東部は深谷市、北部・西部は本庄市、南部は寄居町および長瀞町にそれぞれ隣接している。面積は33.41km2、東西5.5km、南北9kmと南北に長く、南部の山間地帯と中央以北の平坦地により構成されている。
 この埼玉県北西部の狭い区域に位置する美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡など、「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 
               神楽殿           駒衣稲荷神社社殿の左側に鎮座する境内社
        
                   駒衣稲荷神社 遠景
 美里町は、埼玉県内で最も多く古墳が造られた地域であり、主な特徴は、方格規矩鏡を出土する長坂聖天塚古墳を始め円墳が大多数で、前方後円墳がほぼないことである。また規模が15mに満たないような小規模の円墳ばかりの後期の古墳群が多いことも特色のひとつである。

 ここからは筆者の勝手な解釈であることをお断りするが、この地域には中央集権的な絶対王権は存在しておらず、階級制度から発生する上層・下層の区別も顕著ではなく、共に汗を流して土木、治水工事等行い、祭りを祝う、そんな平和的な日常の営みをしていたのではなかろうか。案内板に記述されている「
当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している」という記述にも、太古の昔から社とそこに住んでいる氏子等普通の人々との信頼関係をうかがわせる。
 美里町の文化財のひとつに「さらし井」が登録されている。美里町大字広木地内のねり木川の端にあるこの遺跡は、奈良時代、織布を洗いさらすために使用された井戸で、ここでさらされた布は、多く調庸布として朝廷に貢納されたという。万葉集第9巻には「三栗の那賀に向かえる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」とうたわれているように、ここは当時の女性達の共同作業場であり、社交場でもあったといわれている。
 当時そこで交わされている女性達の会話の中に、日々貧しいながらも日常生活を一生懸命に謳歌しようとしている人々の息吹を感じるのは、筆者の妄想であろうか。
       
          駒衣稲荷神社  社号標       駒衣の伊勢音頭の看板もあり
 駒衣の伊勢音頭  昭和52329日指定  埼玉県指定無形民族文化財
 駒衣の伊勢音頭は、今から300400年前に、伊勢参りのみやげに伊勢古市の女郎の踊りを習い覚えてきた人たちによって伝えられたのがはじまりだと言われています。その後、この地域の人々の中に育ち、今日に及んでいます。
 この行事は、725日に稲荷神社末社の八坂神社の祭典当日、鎮守の森に村中の若衆が集まり、養蚕も大当り、水の心配もなく、農作業が無事に終わって秋に五穀の豊穣が迎えられますように、また悪疫が流行しないように踊りを奉納して祈願するということです。
 この踊りは、とくに「ヤートコセー」のはやしことばが特徴的です。
 曲目は、手踊りと段物(当地では「台詞入り伊勢音頭」と言う)があり、前者には「伊勢は津でもつ」、「目出度」等、後者には「本朝二十四孝筍掘之場」、「いざり勝五郎」等が現在もさかんに行われています。
 埼玉県教育委員会・美里町教育委員会   
                                      案内板より引用
 

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下児玉金鑚神社

 金讃神社は、総本社である神川町二ノ宮に鎮座している式内社、旧官幣中社という格式の高い同名社が有名であるが、本庄市、美里町にもその関連する社が非常に多く分布している。元々この地域は武蔵七党の一つ、「児玉党」の本家筋にあたる児玉氏の本拠地とも言われ、氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国、武蔵介として下向し、その子息の有道惟行が児玉党の祖となったといわれている。
 児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、 そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。児玉氏の嫡流は多くの氏族(支族)に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出(庄氏)である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行(児玉氏の本宗家3代目)の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。
 児玉郡に居住した児玉党一族は嫡流の庄氏を含む庶流に至るまで一族の守護神として金鑚神社を崇敬し自らの居住地には当該神社を勧請しており、そのことから金讃神社の分布図は児玉党一族の勢力範囲を示すものとも言える。

         
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町下児玉322
             ・御祭神 天照皇大神 素戔嗚命 日本武尊
             ・社 挌 旧下児玉村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 43日 大祓 728日 例祭 1019
                  新嘗祭 1215
 地図  https://www.google.com/maps/@36.2049214,139.1605877,16z?hl=ja&entry=ttu 
       
 下児玉金讃神社は、埼玉県道75号熊谷・児玉線を旧児玉町方面に進み、コンビニエンスが右側にある十条交差点を右折し、道なりに真っ直ぐ進み、小山川を越えた最初のY字路の交差点を左折すると右側に同神社が鎮座する社叢が見えてくる。残念ながら駐車場はなく、社の右側手前に社務所があり、そこに細長い道があり、そこに停め参拝を行った。
           
                           下児玉金讃神社正面
  
         入口付近にある社号標石              住吉社、一心霊神、北辰尊星神等
  「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているが、これは北向神社の伝承とほとんど一緒であろう。
 元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられている。
 
         下児玉金讃神社正面参道                                    社殿手前左側にある神楽殿
                          
                                     拝 殿
            
                        拝殿左側に設置されている案内板
金讃神社 御由緒     美里町下児玉三二二 
□御縁起(歴史)
 児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(一三九〇)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正十年(一五一三)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
 このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(一六八九)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
 一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。(以下略)
                                                         境内案内板より引用
            
                      境内社 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社
                       
                     境内にあった「享保10年(乙巳=1725年)」の石碑
 この石碑は「二月吉日」より下がやや読み取りづらい。1725年でこの地域に関係している事項としては明和元(1764)年に発生した「伝馬騒動」の首謀者である義民遠藤兵内の生年であるが、それに関連した石碑だろうか。
                  
                             下児玉金讃神社 遠景

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関兒玉神社

 
       
             ・所在地 埼玉県児玉郡見美里町関374
             ・御祭神 仁徳天皇他13柱の神
             ・社 挌 旧関村鎮守 旧指定村社
             ・例祭等 関兵霊神社祭 213日 八坂神社祭 725
                  例祭 1015
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.194797,139.1846486,16z?entry=ttu 
 
 関兒玉神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方向に進み、関交差点の約1㎞手前右側に静かに鎮座してる。村の鎮守様という言葉がピッタリくるような地元の人たちに親しまれている社という第一印象だった。ちなみに神社の鳥居の前には車を止める駐車スペースが広く確保されており、そこに停めて参拝を行った。
       
                    神社遠景 小ざっぱりした開放的な空間
               一の鳥居に掲げてある額には「児玉」ではなく「兒玉」と書かれている。
           
                               神楽殿
 参道を進みすぐ右側に神楽殿がある。柱の間に斜めに伸びている筋交(建築物や足場の構造を補強する部材 )が正面、両脇に見える。構造上下部が安易な構造で上部の瓦の重みを支えきれないためだろう。
「美里町の文化財」には、関の兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられているといい、現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しているという。
           
                                拝  殿
 兒玉神社の創建年代は不詳だが、言い伝えによると鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したという。明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したという。
             
        境内に設置されている案内板                     本 殿
○兒玉神社  御由緒    美里町関374
□御縁起
 
美里町関は山崎山丘陵から志戸川流域に広がる農村地帯で、川輪・倉柱・八幡関・大関・小関・芝原・田中の字がある。川輪は猪俣党川勾氏の本貫地とされ、江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。社伝によると、当社は鎌倉時代に関村出身の関城院という修験者が、大和国大峰山で修行を行い、満願後に帰村の途中、鶴岡八幡宮に通夜して霊夢を感じ、当地に若宮八幡宮を創建したのが始まりという
 明和元年(1764)には、関村名主遠藤兵内を中心に過酷な伝馬助郷の免除嘆願の直訴(伝馬騒動)が起きた。これにより増助郷課徴は中止されたが、兵内は獄門の刑に処せられた。しかし、郷土を救った義民として崇敬が強く、文久三年(1863)白川家御近習席中嶋数馬により、神祇伯白川家より正一位の官位を受け「関兵霊神」として境内社に祀られた。
 明治四十年四月十七日に近郷の十三社を合祀し、社号を若宮八幡社から児玉神社と改称した。例祭には相模国から伝承された獅子舞と「川輪の神楽」が奉納される。また関兵霊神祭や例祭には「兵内くどき」が奉納される。
                                                           案内板より引用                                                    
            
                            社殿の奥にある石祠群
 明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀したという。
            
        石祠群の並びで、本殿の後ろ側に祀られている義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)

○義民義民遠藤兵内お宮改築記念碑
 義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。 
                                                         美里町史より引用
         
                          鳥居の左側にある御神木
            

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猪俣二柱神社及び猪俣の108燈

 猪俣党(いのまたとう)とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町 の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団である。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す 横山党の一族である。小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げた。
 美里町猪俣地区に鎮座する猪俣二柱神社は伊邪那岐命・伊邪那美命を主祭神とする社で、正円寺の西側、山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっている。

       
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町猪俣2145
             ・御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
             ・社 挌 旧猪俣村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭日 415日・1015
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1484768,139.1808087,16z?entry=ttu
  
 猪俣二柱神社は国道254号線を寄居方面に北上すると「猪俣の百八燈」の案内標識が右側にあり、その手前の細い道を右折すると猪俣氏墓所が所在する真言宗高台院が見え、そのまま道なりに進むと、左側に真言宗猪俣山正円寺があり、またその入り口には二柱神社の鳥居もある。
 社が鎮座する場所は地形上鐘撞堂山(標高305m)から北に派生する尾根の麓上にあり、社とはいえ北から南東の広角度を関東平野が広がっていて遮る物も無く、物見の砦としては絶好の立地条件ともいえる。
           
       高台院からの道を道なりに進むと一の鳥居があり、その正面には正円寺が見える。
           
                        猪俣二柱神社 二の鳥居
 
         鳥居に掲げてある社号額                    鳥居周辺に案内板あり

○二柱神社 御由緒    美里町猪俣二一四五
□御縁起

 猪俣は、武蔵七党の一つである猪俣党の本拠地であったことで知られる。猪俣党は、横山党の祖である武蔵介小野義隆の弟横山時資をその祖とし、那賀郡・榛沢郡に勢力を広げたとされ、とりわけ、猪俣小平六は保元の乱(一一五六)や平治の乱(一一五九)では源義朝に従って武功を上げ、のち源頼朝に従って一ノ谷の合戦(一一八四)で平盛俊を討ったことで名高い。地内には、この小平六の居館と伝えられる平安時代の館跡や、室町時代にその子孫が築いた山城の猪借俣城などがあるほか、猪俣党にかかわる旧跡が多い。
『児玉郡誌』によれば、当社は、古老の口碑に猪俣氏が代々崇敬した社であると伝え、永禄六年(一五六三)天正十六年(一五八八)の二口の鰐口が伝来するという。しかし、永禄六年の鰐口は江時代に別当であった正円寺に現存するが、天正十六年の鰐目は現存せず、代わりに当社に元禄十五年(一七〇二)の鰐口及び寛政三年(一七九一)の棟札が現存する。また、当社は江時代の『風土記稿』猪俣村の項に「聖天社二宇村の鎮守なり、正円寺の持云々」とあるように、元来は聖天社と称したが、神仏分離後に二柱神社と社号を改めた。
 御神前に野菜(二又大根)が供えられる事がある。これは江戸時代、聖天信仰が盛んに行なわれた事で、聖天様は二又大根が大好物であることに由来する。当二柱神社も聖天様として沢山の参拝者があったと言われている。
                                                            案内板より引用

         
                                拝 殿
 猪俣二柱神社が鎮座する箕郷町猪俣地区は、『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代「猪俣村」と呼ばれ、「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残っているという。
 
    拝殿に「二柱神社」と書かれている扁額                   本 殿
            
                          社殿の左側に並ぶ境内社
 境内社(写真右)は伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社等
                   
                      社殿の右奥、山の斜面上にある境内社            
           
                       拝殿前から二の鳥居方向を撮影
二柱神社
大字猪俣にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする。創建の年代は明らかではないが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ古くは聖天宮と称した。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の指定文化財であってその一つ「永禄の鰐口」と呼ばれるものは、永禄6年(1563)10月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄12年(1569)7月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正10年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれている。もう一つ「天正の鰐口」と呼ばれるものは、天正16年(1588)に鋳造されたもので、同年4月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものである。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したということからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいう。
                                                          美里町史より引用

猪俣の108燈
 二柱神社の北側にこんもりとある小高い山、堂前山というらしいが、8月15日に「猪俣の108燈」と呼ばれる伝統行事が行われる。「猪俣の百八燈」は400年以上続く盆祭りの行事で、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともす幻想的な行事だ。地元:猪俣地区では、平安から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力をはせた武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領:猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと伝えられている。範綱は猪俣党の宗家で、始祖である時範から数えて5代目の子孫にあたり、小平六と称して剛勇無双とうたわれ、早くから源氏に仕え、保元の乱、平治の乱で勇壮華麗な戦いで活躍し、一ノ谷では源義経のもとで激闘の末、平家の猛将:越中前司盛俊を討ち取り勇名をはせ、更に壇ノ浦に転戦して手柄を立てた人物だ。
 この猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示している。
           
猪俣の百八燈
 この行事は、8月15日に村はずれの丘の上に築かれた108基の塚に百八の灯をともす盛大な行事である。地元では武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁・猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるための行事と伝えられている。
 この行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色である。この行事の準備は、道こさえ・草刈り・塚築き・人別集めなどがあるが、いずれも親方の指示に従って子供たちが行う。
 15日の夕刻、寄せ太鼓の音が鳴るとともに一同が高台院へ集合し、猪俣氏の霊に拝礼後、笛・太鼓の拍子に合わせた提灯行列が塚のある堂前山へと向かい、百八の塚に火を点火する。
 猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示しているといえる。
昭和62年1月8日指定 
重要無形民俗文化財
                                                            案内板より引用
            
                    
  
                     猪俣の百八燈が行われる麓から見た堂前山
 この「猪俣党」は当初から源氏と協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。「保元物語」には猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎らとともに源義朝に従ったという記述があり、これが義朝の十六騎の記述となり、さらに平治の乱でも源義平の十七騎のなかに「猪俣小平六範綱」の名前が見受けられる。その後源頼朝の挙兵にも従い、「一ノ谷の合戦」で源義経配下で平盛俊を討ち取り武勲を挙げ、鎌倉幕府では御家人となった。
                   
                       二柱神社に隣接した正円寺の案内板
 時代は下って戦国時代、「猪俣党」は小田原の北条勢力下に組み入れられ、北条の家臣として「猪俣党」の末裔「猪俣邦憲」が登場する。「猪俣邦憲」は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物だ。(*名胡桃城の奪取が結果的に小田原征伐の口実を与えたことについて、多くの史書で邦憲を「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。それに対して近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。)

 「猪俣党」はまさにこの猪俣の地で生まれ、育って名を馳せたということだ。そしてこれら猪俣一族の霊を慰める為に行なわれたのが「猪俣の百八燈」ということで、この地域に根付いた由緒ある伝統行事であり、大切な文化遺産である。後世に残してもらいたいものだ。

 

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