東大澤神社
美里町猪俣地区の西南西にそびえる陣見山は古代・中世の那珂郡と秩父郡との境をなす山だったといわれ、東西に走る尾根の北側に広がる丘陵地帯が那珂郡で、中世は武蔵七党猪俣党の拠点となっていた。
中でもその本貫地となっていたのが当地で、南部の境山頂上には、かつての猪俣城があった。また、地内を鎌倉街道上道が通り、当社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社望別を通る道が鎌倉街道といわれている。
・所在地 埼玉県児玉郡美里町猪俣63
・ご祭神 大雷命
・社 格 旧指定村社
・例祭等 新年祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 11月23日
大祓 6月・12月
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1589805,139.1827507,17z?hl=ja&entry=ttu
東大澤神社は国道140号バイパスから寄居警察手前の三つ又に分かれる分岐点を美里方向(国道254号線)に進み、「猪俣」のY字路を右折する。埼玉県道31号本庄寄居線に合流して、数分北上し「野中」交差点を左折。今後は埼玉県道175号小前田児玉線に代わるが、最初の十字路を左折し、暫く道なりに進み、次のT字路を右折すると右側に東大澤神社が見えてくる。
「雷電三社」である中里雷電神社の東南方向、甘粕神社からは南方向にあたるので、地図を見ると分かりやすいが、文章にすると社までの道順の説明が細かくなってしまう。その点はご容赦の程お願いしたい。
社伝によれば、当社は、征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため、当地に至った所激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために、当社(旧雷電社)を含む、雷電三社を祀ったこと由来すると伝えられる。明治43年3月2社を合祀し、東大澤神社と改称した。当社前を通る道が鎌倉街道と云われている。
東大澤神社 社号標
入口石段を越えて左側にある案内板
〇東大澤神社 鎮座地 美里町大字猪俣六三番地
由緒
当地の西南西にそびえる陣見山の尾根の北側に広がる丘陵地帯が古代・中世の武蔵国那珂郡で、中世は武蔵七党猪俣党の拠点となっていた。中でも本貫地となっていたのが当社で、南部の城山頂上には猪俣城があった。また地内を鎌倉街道上道が通り、当社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社の前を通る道が鎌倉街道といわれている。
当社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷電三社を祀ったことに由来すると伝えられている。この雷電三社とは、当社(旧雷電社)・甘粕神社(旧雷電社)・雷電神社(大字中里鎮座)のことで、雷電三社は国道二五四号線に架かる天神橋を中心に三角形を形作る。江戸期には本山派修験の五大院が別当を務めていた。同院の開山は「法印仙翁」で、明応二年(一四九三)に入寂していることから当社もこの頃には既に祀られていたと思われる。
明治五年当社は村社に列せられ、同四十三年三月字明神裏(字栃久保)の村社春日神社と字海道南(字小栗)の村社三島神社の二柱を当社に合祀し、当時の大澤村の東に位置することから社号を東大澤神社と改称した。また同時に合祀した村社の境内社並びに村内の無格社十六社を境内に移転し、関連する社ごとに合祀を行い、当社の境内社として祀られた。 案内板より引用
〇猪俣村
雷電社三宇。
一は高台院持、一は歓蔵院持、一は五大院(注:廃寺)司れり。 『新編武蔵風土記稿』より引用
一の鳥居から社殿を望む
東大澤神社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社のすぐ近くを通る道が鎌倉街道上道といわれている。また鎌倉街道上道沿いに鎮座する雷電三社(東大澤神社・中里雷電神社・甘粕神社)は北東方向に流れる天神川を挟んで見事な三角形を形成している。
拝 殿
東大澤神社拝殿に掲げている扁額 本 殿
境内社 琴平神社 琴平神社に並列している合祀社等
また琴平神社の手前には「田壱段七畝五歩」と刻まれた石碑がある。この「段・畝・歩」とは土地面積を示すのに用いる昔の単位名で、令制では,1町=10段,1段=360歩,1歩=6尺平方で,中世には240歩=大,180歩=半,120歩=小も用いられた。太閤検地では,6尺3寸=1間,1間平方=1歩,30歩=1畝,10畝=1段,10段=1町とする町段畝歩の制を採用し,江戸時代には,6尺平方=1歩(1坪)としたという。
合祀社に関しては、左から八坂神社・蚕影山神社・諏訪神社・天神社・天照皇大神・稲荷神社・愛宕神社・八王子神社・山神社・石祠2基で鎮座している。
境内の様子
「雷電三社」の「三」という数字に関して、気になったので今回その考察をすることをお許し願いたい。というのも日本人にとって数字の3は好ましい数字の1つとされ、3で何かをくくることが多い理由としていい加減さの象徴で大小や白黒どちらかと割りきらずに3つめの候補を出すことで懐の深さや柔らかさを好む国民性に合っているとする説や、その読みが「みっつ」であることから、思いや願いが叶うという意味の「満ち」や、充足を意味する「充つ(みつ)」でいっぱいになるめでたい気持ちがある説、2つの候補では心の余裕がない傾向があるためでもある。
和食の世界では切れたり割れることに繋がらないように奇数が好まれ、日本人の名字には三が一番多く使われるのは元々地名として「御」の字が使われていたのが神や天皇を意味する字だったことから憚って「三」に変化したとされる。
それ故か社にも「三」のつく名称は多い。「熊野三山」「出羽三山」「秩父三社」「三輪明神 大神神社」「三峰神社」「三社祭」等。
東国において特に著名な三社といえば、「鹿島神宮」「息栖神社」「香取神宮」の所謂「東国三社」である。この三社を巡ることは「お伊勢まいりの禊の三社参り」と言われ、関東以北の人が伊勢神宮の参拝を終えた後、帰る途中で東国三社を参拝するという風習があったそうだ。実はこの3つの神社がある場所を線で結ぶと、見事直角二等辺三角形が形成されている。
埼玉県で「〇〇三社」で有名な社として、埼玉県の一ノ宮・さいたま市大宮区にある「大宮氷川神社」だが、古来より一ノ宮氷川神社は三社あったといわれ、「中川の中氷川神社(現・中山神社)」と「三室の氷川女体神社」を加えた三社が一ノ宮氷川神社と伝えられている。こちらの三社は、龍神伝説で結ばれ、一直線に並んでいる「光の道」と考えられていて、太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、極めて意図的な配置である。文字通り「三位一体」の社なのである。
「雷神三社」と比較するには、おこがましいかもしれない。なにしろ対象となる社が「東国三社」の「鹿島・香取・息栖」、氷川神社であれば猶更だ。
社としてのネームバリューや旧社格・規模こそ違いはあるものの、そこは敢て問わない。所詮社とは「神」の「仮宿」、つまり単なる受け皿に過ぎないからだ。真に重要なことはその神々に対する尊崇・尊敬の念である。
「雷電三社」の鎮座地をこのような配置にした、当時の人々が社に託した何かしらの深い思いがあったはずだ。昨今の神秘のパワーか、都市伝説なのかは、読者の判断に任せるものの、現在に伝わる「獅子舞」や「雨乞い行事」「ささら舞」等の「神頼み」的な伝統行事や神事も当時の人々にとっては当然合理的な儀式の一つだったと考えられる。それを現代に生きる我々は迷信の類と軽々しく決めつけてはいけないことなのだ。
「目に見えない何かにすがりたい」と思う気持ちは、昔も今も変わらない事でもあり、その思いがあるからこそ、八百万の神を信奉する日本人としてのアイデンティティが縄文以前から形成された根本精神であると、昨今ふと感じる事柄でもあるから。