古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三波川惣社姥神社及び三波川琴平神社

 三波川(さんばがわ)は、群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
 上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
 三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
 嘗てこの地域は古墳時代、神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれていて、昔から発達していた地域でもある。また平安時代には、三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残っているロマン溢れる地域でもある。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市三波川114
              
・ご祭神 石凝姥命
              
・社 格 不明
              ・例祭等 不明
 国道462号線沿いに鎮座している鬼石神社。一旦国道に合流後、南方向に進路を取り、群馬県道177号会場鬼石線.との交点である「三杉町」交差点を右折する。県道とはいっても決して道幅は広い道路ではない。「三杉町」交差点から県道合流後、暫くの間は民家も立ち並ぶ中で走行しているが、そのうちに山道の中での道路の両側、特に進行方向右側は急傾斜の斜面が続き、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板も見える地域。時折民家が進行方向左側にポツポツと見える中で心寂しさも過る中で車を県道に交わる交差点から800m程進むと、辺りは明るく開け、民家が立ち並ぶ場所に到達し、その右側高台上に三波川惣社姥神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「姥神社」は漢字通り「うばじんじゃ」と読む。
        
              県道沿いに鎮座する三波川惣社姥神社
『日本歴史地名大系』には 「三波川村」の解説が載せられている。
 [現在地名]鬼石町三波川
 東御荷鉾(ひがしみかぼ)山(一二四六メートル)の東、神流川支流の三波川が東西に貫流し、北は高山村・多胡郡上日野(かみひの)村・下日野村(現藤岡市)、東は浄法寺(じようぼうじ)村・鬼石村、南は甘楽郡譲原(ゆずりはら)村・保美濃山(ほみのやま)村・坂原(さかはら)村、西は同郡柏木村(現万場町)と接する。地質は大部分が古生層三波川式変成岩類で、随所に美しい結晶片岩の露頭がみられる。
 天文二一年(一五五二)北条氏康が関東管領上杉憲政を敗走させた後の三月二〇日、北条氏は「三波川谷北谷之百姓」の在所帰住を令する。その朱印状(飯塚文書)は「北谷百姓中」に宛てられ、三波川流域は北谷(きただに)と称されていた。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「北谷村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。のち長井政実が上杉氏から武田氏に服属して北谷の実権を握り、三波川の飯塚氏に知行宛行・安堵をしている。同九年七月一日には本領「北谷大なら馬助分」八貫文と同所抱分二貫文などの安堵の判物(飯塚文書)を与え、天正六年(一五七八)二月一二日の判物(同文書)で近世には当村の枝村となる琴辻(ことつじ)の知行高を一貫五〇〇文に定め、同八年七月二日にも「大奈良」三貫文などの安堵の判物(同文書)を出している。
 戦国期には飯塚氏や根岸氏など「北谷衆」とよばれる土豪がいた(天正一三年三月二一日「北条氏邦朱印状写」同文書)。同一四年に「北谷之郷」の検地が北条氏によってなされ、本増ともに一〇三貫一七六文の年貢高となり、増分は二三貫文余あったが、うち一一貫文余が免除された(同年一〇月一九日「北条氏邦朱印状」同文書)。同一五年八月二三日に「北谷百姓中」に宛て、当年秋の穀物すべてを箕輪(みのわ)城(現群馬郡箕郷町)に納めるように令し(「北条氏邦朱印状」同文書)、同一七年八月二九日には飯塚氏に北谷年貢銭で黄金と綿をそろえ納めるよう令している(「北条氏邦朱印状」同文書)。

「日本歴史地名大系」に記されている「飯塚氏」や「根岸氏」は嘗て「北谷衆」とよばれる土豪であり、児玉郡御嶽城主長井政実の家臣でもあった。
「飯塚氏」
 〇飯塚馨文書
天正六年二月十二日、琴辻一貫五百文赦免手形、飯塚弾正忠殿、政実花押(長井)」
「天正六年七月一日、知行方、本領北谷・武州安保等を宛行う、飯塚和泉守殿、政実花押」
「天正十三年三月二十一日、御蔵銭五貫文を預け漆を調進させる、北谷衆飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門、北条氏邦朱印」
「根岸氏」
三波川飯塚文書
「天正十三年三月二十一日、北条氏邦は、北谷衆に御蔵銭五貫文を預け置き、その代物として漆を調進せよと命ず。北谷飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門・北谷衆中」
       
                           石段上には新しい神明鳥居が立つ。
       
                                      拝 殿
        創建等は不明。但し大同年間(80610年)の創建とも云われる由緒正しい社。
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 三波川惣社姥神社のご祭神は「石凝姥命(いしこりどめのみこと)。通常伊斯許理度売命と表記されることが多い神である。この神は、日本神話に登場する天津神系の女神で、作鏡連(かがみづくりのむらじら)の祖神、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊(いしこりとべ)命と表記されている。
 日本神話において、太陽神である天照大御神が建速須佐之男命の度重なる乱暴(田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らす等)に怒り、天岩戸に引き篭り、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
 そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談する。その際に神々がとった行動の一つとして、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命(石凝姥命)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせたという。

               本殿内部を撮影(写真左・右)

 拝殿手前左側に祀られている境内社・石祠群  正面鳥居の右側に祀られている「道祖神」等

 伊斯許理度売命・石凝姥命(いしこりどめのみこと)の神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説があり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。 
       
                                 拝殿からの一風景

 三波川惣社姥神社から県道を5㎞程西行すると、「三波川琴平神社」に到着する。同じ三波川地域に鎮座する社でもあり、実のところこの社を散策するのが今回の目的の一つでもあった。
 しかし、昨今の「クマ出没」件数の多さ、加えて怪我・死亡事故等のテレビ等の報道もあり、現実この県道を走らせている途中にも「クマ出没 注意」との看板も設置されており、今回は遠目からの撮影にて終了させて頂いた。
 また残念なことにインターネット等で紹介されていた「アーチ形の赤い橋」は既に撤去・解体されていた。写真でも分かる通り、端を設置した際の基礎部分だけが残り、在りし日の情景を思いふけるのみである。
        
               三波川琴平神社を対岸より撮影。



参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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