古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鬼石神社

  藤岡市鬼石町区域は市の南部に位置し、東西に約10.7km、南北約5.3km、面積は約52.5k㎡で、その8割程度が山林に覆われている。地形は、西端部にある東御荷鉾山を頂点とした褶曲山地であり、この谷間を三波川が流れている。 また、西は神流町、東と南は神流川を県境として埼玉県と接し、清流と緑の山並みに囲まれ、潤いと安らぎのある豊かな自然に抱かれた地域である。200611日に藤岡市へ編入された為消滅した
 古くは尾西と称した。「上毛風土記」「上野志」には鬼子の名も見られる。
 この地域名の語源は諸説あり、「昔々、御荷鉾山に住んでいた鬼が人里へ下りてきては田畑を荒らし、人々に危害を加えていた。困り果てた村人は、旅の途中で立ち寄った弘法大師に退治を懇願。大師が読経し護摩をたくと、鬼はたまらず大きな石を投げ捨てて逃げ去った。その石の落ちた場所が鬼石町と伝えられ、石は鬼石神社のご神体として、今も町民の信仰を集めている」
『上野国志』では「昔弘法大師が御荷鉾山に住む鬼を調伏した折鬼の持っていた石を放り投げ、その石の落ちた場所が鬼石であると伝える。また一説には古来御荷鉾山から山中・三波川・鬼石・秩父にかけて鬼の太鼓ばちと呼ばれた石棒などの石器の用材が産出され、鬼石がその製造地・集散地であったことによるともいわれる」
 またアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説などがある。
        
             ・所在地 群馬県藤岡市鬼石7221
             ・ご祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 夏祭 71415日に近い土日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点までは前項「浄法寺丹生神社」と同じだが、この交差点を左折する。
 交差点は左折するが、道路は国道462号線のまま旧鬼石町方向に進路をとる。この国道は通称「十石峠街道」ともいい、中山道新町宿(高崎市新町)から神流川(かんながわ)に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井(しろい)の各宿を通って上信国境の十石峠(じっこくとうげ、標高1351m)を越えて信州に入り、佐久を経て下諏訪宿で中山道や甲州街道に合流する街道である。
 十石峠の名の由来は、山が川に迫る神流川沿いの地域は平地が少なくて米作りができないため、信州から1日十石(約
1,500㎏)の佐久米が「十石馬子唄」を唄う馬子によって上州に運び込まれたことによると言われている。
        
                   鬼石神社正面
 神流川の流れを左手に見ながら南北に通じる国道462号線を暫く進むが、「諏訪」Y字路の交差点で右方向に変わり、神流川と離れる。ここから旧鬼石町市街地内に入る。「諏訪」交差点から南に行くこと500m程で右手の高台上に鬼石神社の赤い鳥居が僅かに見えてくる。
 境内に入る為には、一旦正面鳥居の石段附近を過ぎてからすぐ先にあるT字路を右折して、鬼石神社の裏手に回り、社殿と神楽殿の間に数台分の駐車スペースが確保されているので、そこに移動してから参拝を開始した。
        
           鬼石町市街地を見守るような西側高台に鎮座する社
『日本歴史地名大系 』「鬼石村」の解説
 [現在地名]鬼石町鬼石
 北は浄法寺(じようぼうじ)村、西は概して山地で三波川(さんばがわ)村に隣接。東と南とは神流川を隔てて武蔵国渡瀬(わたらせ)村と上・下の阿久原(あぐはら)村(ともに現埼玉県児玉郡神泉村)に相対する。東部を南北に十石(じつこく)街道が通じ、南部で武州側・山中谷(さんちゆうやつ)・三波川村の三方面に分岐する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎「七拾貫文 鬼石」とある。同六年五月一〇日に武田信玄との申合せによって「鬼石村」は北条氏から安保氏に与えられる(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。その後、高山氏に与えられたらしく、検討の余地があるとされる元亀元年(一五七〇)一二月二七日の武田信玄判物写(「高山系図」所収)で鬼石の替地として若田(わかた)郷(現高崎市)を高山山城守に与えている。「甲陽軍鑑」伝本には「おにのつら」「鬼面」とも記している。また年月日未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)には「おにす」とある。
 地形を確認すると、上流域にある神流湖からの神流川の流路が東方向から北方向に変わり、神川町上阿久原地域の北端で再度真東方向に変えながら、左方向に大きくカーブするように突出部を形成する、その左岸にできた河岸低地と低地西側にある高台の間に鬼石市街地は形成されている。
 旧十石峠街道沿いには大きな伝統的な商家建物や、土蔵造りの商家建物も見られ、古い町並みが今なお残る懐かしい地域でもある。
        
                                  創建時期 不明
            御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命の3柱
 江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
 鬼石神社の御祭神筆頭である「磐筒男命」は「イワツツノオ(イハツツノヲ)」と読み、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。      
        
                                  拝殿に掲げてある扁額
        
                 拝殿向拝部の龍の彫刻
 
    向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
        
            拝殿左側には御神木の切り株が残っている。
 樹齢
500年と思われる程の径幅が大きな大杉があったそうだが、平成259月の台風18号の際の強風で倒木したそうだ。但しその際に、本殿や南側に祀られている境内社群には一切被害が及ばない場所に倒れていたという。ご神木が自らの意思で安全な場所に倒木したのであろうか。
        
  ご神体は鬼が御荷鉾山から投げたといわれる「鬼石」と呼ばれる石が本殿床下にある。
 本殿を左方向からぐるっと回る。すると「鬼石」の名前の由来となった石が本殿の床下にあるという札が貼ってある。但し遠間から見る為筆者には暗くてよく見えなかった。

 鬼石町北西部には古くから地元の方々の信仰の山である「御荷鉾山(みかぼやま)」が聳え立つ。通常は西御荷鉾山(1,287m)と東御荷鉾山(1,246m)の二峰を指すが、東西の御荷鉾山とその間にある標高1191mのオドケ山を加えて総称することがある。その三つの峰「三株」「三ヶ舞」が「みかぼ」山の由来という説もあるらしい。また日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、この山を越えるとき、鉾を担われた伝説から、この字が当てられたともいう。古来より地元の人々の信仰の山で毎年428日の山神祭には神流町・万場を挙げて賑やかに山登りが行われている。
 西御荷鉾山の山頂付近は大の字に刈り込まれている。これは昔麓の村で疫病が流行し、西御荷鉾山の不動尊に平癒祈願したところ疫病が治まったため、大願成就を記念してかり出されたとのこと。
 東西の御荷鉾山の間の峠を投げ石峠といい、麓の町を鬼石という。昔、御荷鉾山に棲んでいた鬼を弘法大師(空海)が退治したとき、鬼が石を投げて逃げた。この石を投げたところを投げ石峠と呼び、石が落ちたところを鬼石と呼ぶようになったという。
 なお、弘法大師が登場しない伝承もあり、この場合鬼は御荷鉾山を一晩で富士山より高くしようとし、それに失敗して石を投げることとなっている。

境内は社殿から左方向、つまり南側に敷地が広がり、そこには幾多の境内社が祀られている。
 
 拝殿左側に祀られている境内社・石祠等(写真左・右)右側の写真の石祠・石碑は八坂神社。
        
                        境内一番南側に祀られている境内社 
       神明調の社殿造りであることから「護国神社」の類かもしれない。 
        
                        社殿左側奥に祀られている境内社・合祀社
                     中央に神明宮(春日大神・天照皇大神・八幡大神)
                   中央左隣に琴平神社・天満宮・神虫除神社・疱瘡神社
                  中央右側隣が稲荷神社・秋葉神社・猿田彦神社・三峰神社
 
       境内社・五角注の社日神          拝殿右側に祀られている境内社
        
                                       神楽殿
 拝殿前方右手には神楽殿がある。毎年7月の中旬に開催される夏祭りは、勇壮な屋台囃子と屋台巡行で知られ、「関東一の祭り囃子」と言われている。
 鬼石夏祭りの始まりは、江戸時代の後期、当時は、「鬼石祇園祭り」の名称で、花車と言われる万灯型の笠鉾3台が、揃って鬼石神社に登上したそうだ。文政7年の棟札が鬼石神社に残されている。
 明治18年以降、人形が飾られる形の組み立て式の山車が引き出されるようになり、昭和になると屋根つきの屋台が作られ、昭和45年に相生町が屋根つきを新造して5台となり、現在の姿になった。昭和50年に祇園祭の名称が、宗教色があるとの理由で「鬼石夏祭り」に変更された。
 5台の屋台によるお囃子は、関東一と言われている。また、勇壮な新田坂(シンデンザカ)の駆け上がりは、祭りの見どころの一つとなっている。地区ごとに独自の調子を持つお囃子と、屋台の屋根に若者が上がり、高速で引き回す勇壮な姿には大きな拍手と歓声が寄せられる。また、二日目の本祭りの夜には、おまつり広場で笛や太鼓の技とお囃子の音色を競い合う「寄り合い」が行われる。「寄り合い」」では、各町内で受け継がれてきた独自のお囃子の打ち回しの後、5町一斉の乱れ打ちが行われ、お祭りが最高潮を迎える。
 尚4月の第2日曜日に鬼石神社太々神楽が奉納される。
        
            正面鳥居から参道、及び町市街地方向を望む。


参考資料 「上野国志」「日本歴史地名大系」「藤岡市鬼石商工会HP」「Wikipedia」等

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