古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小泉稲荷神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市小泉町231
              
・ご祭神 稲魂命(宇迦之御魂命) 大己貴命
              
・社 格 旧小泉村鎮守
              
・例祭等 月次例大祭 415日 中祭 121日 他
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3385264,139.2549405,17z?hl=ja&entry=ttu
 下渕名大国神社から国道17号上部バイパスを伊勢崎方向に進行し、4.4㎞程先の「あずま跨道橋」交差点を右折する。群馬県道68号桐生伊勢崎線を北東方向に1.3㎞進むと、「小泉稲荷神社」の立看板のある変則的な十字路があり、そこを右折、その後早川に架かる朱色の「小泉稲荷橋」を渡るすぐ先に有名な小泉稲荷神社の大鳥居が見えてくる。
        
              小泉稲荷神社に通じる巨大な一の鳥居
       回りに大きな建物等がないため、鳥居の大きさがひときわ目立つ。
                
高さは22.17m。竣工は昭和56
                この大鳥居から東方向に500m程先に小泉稲荷神社が鎮座する。
『日本歴史地名大系』「小泉村」の解説
 利根川右岸で、北は下之宮(しものみや)村、南は沼之上(ぬまのうえ)村・飯倉(いいぐら)村、東の利根川対岸は柴(しば)町(現伊勢崎市)。下之宮村境に矢や川の旧河川敷が低地をなす。
 正保五年(一六四八)前橋藩によって検地が行われ、反別合計一九町余(小泉村誌)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二六石余・畑方八八石余。近世後期の御改革組合村高帳では旗本戸田領、家数一六。前掲村誌によると天明三年(一七八三)浅間焼けによる降灰は七、八寸に及び、水田三町歩が利根川を流下した泥土で埋没したと伝える。この泥入りで沼之上村との境界が不明となり、両村の村方三役が立会いで境界を定めた(「取替議定書」高橋文書)。

        
                          東向きの小泉稲荷神社正面鳥居
   この鳥居に対して横向きに奉納・寄進した大小300基もの鳥居が参列に並んでいる。
 嘗て京都の伏見稲荷神社に参拝したことがあったが、そこには不思議な美しさと神聖性が辺りを包んでいたように感じたが、この社はやや窮屈そうな印象は正直ぬぐえない。
        
         東向きの正面鳥居に対してズラリと並んだ南向きの鳥居群
       
                        濃密な鳥居のトンネル
          奥行きもあるため、鳥居の先がここからでは見えない。
       
           鳥居のトンネルを抜けると正面に拝殿が見える。
             
      境内には「拝殿屋根改修記念碑」があり、社の由緒等が記されている。
 拝殿屋根改修記念碑
 幾百年の歴史を胸に社前にぬかづくとき、なぜか心の安のやすらぎを感じる小泉稲荷神社
 御祭神稲魂命(うかのみたまにみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神天皇の御代に豊城入彦命が東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉紀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられている
 其の後、慶長五年(1600年)この地の領主久永源兵衛は崇敬の念が篤く社殿を修理し敬神の範を示したために領民からは氏神としたと云われる。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常に賑わったと云われている。
 明治・大正時代を経て昭和初期社殿を改築する。その後、昭和三十六年四月社殿運営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により現在の社殿を造営する。以来、稲荷大明神の御神威益々輝き、霊験あらたかな御神徳を仰ぎ、幸福を願う崇敬者は現在数十万人にも及ぶ賑わしさになる。
 社前には二百数十基にも及ぶ鳥居が奉納されている。尚崇敬者の真心を顕現し小泉稲荷神社の神域の基礎と神威の象徴を明らかにするため大鳥居建設奉賛会を組織し、万余人に及ぶ崇敬者の御協賛をいただき昭和五十六年四月高さ二十二・一七メートルの大鳥居を竣工する。
 平成十七年十二月に拝殿屋根改修を行う。

 小泉稲荷神社の創建は、崇神天皇の時代に、毛の国開拓の祖神とされる豊城入彦命が、東夷征討の折に山城国伏見稲荷の分霊を祀って創建したものと伝えられている。但し伏見稲荷大社の創建時期は和銅年間(708年〜715年)といわれているので、「崇神天皇」の御代とは年代は会わないが、それだけ歴史も古く由緒もあったのであろう。
 平安時代には、耶無陀羅寺という阿弥陀寺の境内社になっていたという。その後、安土桃山時代の慶長5年(1600年)、当地の領主である久永源兵衛に篤く崇敬された。
 大正2年に大東神社に合祀されたが、後に戻されて氏子の管理となる。
 現在は、大東神社とともに国定赤城神社の兼務社。
        
                     拝 殿
 
              拝殿の扁額                 本 殿
「拝殿屋根改修記念碑」に記載されている「久永重勝(ひさなが しげかつ)」は、戦国時代から江戸時代初期の武将。別名  源五・源六・源兵衛。
 久永氏は石見国久永を名字の地とする賀茂氏(賀茂吉備麻呂)の末裔を称する一族で、祖父重吉の代に三河国額田郡に移って松平氏・徳川氏に仕えた。
 徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵兵2人を射殺す武功を上げ、家康より葵紋入りの矢筒と弓立を拝領し、遠江国榛原郡に200石を与えられた。天正18年(1590年)小田原征伐、天正19年(1591年)九戸政実の乱での陸奥岩出山城出張、文禄元年(1592年)肥前名護屋城出張に従う。名護屋城出張の際には自ら銀鞘の佩刀で出仕したために家康の感心を買い、兵糧300俵を賜っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにも従軍。
 慶長8年(1603年)からは徳川秀忠に属し、武蔵国児玉郡に550石を与えられる。のち弓頭となり、同心10人足軽50人を預けられ、所領も武蔵・上野・常陸に52百石を与えられた(ただし、内2千石は同心足軽の知行)。慶長10年(1605年)秀忠の上洛に随行。慶長14年(1609年)武者船没収が発令されると、九鬼守隆・向井忠勝とともに淡路国へ出張している。慶長16年(1611年)常陸・下野に群盗が蜂起すると、服部保正・細井勝久と共にその鎮撫を命じられ、案内人を催してこれらを鎮定した。のち下野大光院の普請奉行となる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣のために出陣し、休戦後の大坂城総堀埋め立ての奉行となる。慶長20年(1615年)夏の陣にも出陣。家督は子の重知が継いだ。
 
   社殿左側奥に祀られている白狐納所     本殿奥には奥宮が鎮座。平成2210月に新築

 小泉稲荷神社の南西部は、東小保方町地域があるが、その地域に鎮座する大東神社境内周辺は嘗て「旗本久永氏陣屋跡」と云われている。現在の東小保方地区は江戸時代には東小保方村と呼ばれ、徳川家の旗本久永源兵衛重勝の領地であった。久永氏は石見国(島根県)の出身であり、埼玉や茨木にも領地が点在する禄高三二○○石の旗本である。
 東小保方村は石高が1182石の村であり、久永氏は村の支配のためにこの地に陣屋を設けました。陣屋は東西75m、南北120mの大きさで、濠や土居が構えられていた。濠はその後拡張されて池となってしまい、現在では南池の南端と西池の東端にわずかに当時の面影が残されているのみであるという。
 南面には正門を有し、更に南へと通路が続いて細長い大手枡形となり、南端には木戸が設けられていたものと思われ、この形は陣屋特有のものであり、県内でも吉井や岩鼻の陣屋がこれと同じ形になっている。
 明治維新後陣屋は廃され、一時期小保方小学校として使われると共に、大正2年には周辺の神社を合祀した大東神社がおかれ今日に至っているという。
        
                          元小泉神社の奉納手洗盤
        
             伊勢崎市指定重要文化財 元小泉神社奉納手洗盤
 この手洗盤は江戸時代末期の元治元年(1864)、現在地より約二百メートル西にあった稲荷社の御宝前に奉納されたものです。その後大正二年にこの稲荷社が大東神社に合祀された時に、手洗盤も大東神社に移されてしまいました。以後長い間大東神社に置かれていましたが、昭和六三年、関係者の協力により現在地へ移転されたものです。
 手洗盤の正面には、旗本久永領陣屋元役人清水氏の時に近郷の香具師の張元(伊勢崎の銭屋、境の不流一家、赤堀の小松屋)が世話人となって奉納された事が記されており、残り三面には願主の田村丹治良・惣治良をはじめとする小泉・大原等近村の百姓約百名の献金者の名前が記されています。
 江戸末期において商業資本が農村地域に浸透しつつあった事とあわせて、現世利益の稲荷信仰の歴史をみる上で大変貴重なものです。(以下略)
                                      案内板より引用
 
                現在の手水舎(写真左・右)
        
           駐車スペース角に並んで祀られている石祠・石碑群
 境内の目立たない場所にひっそりと祀られているわけではないが、何となく丁重な扱いを受けてないような気がする。筆者としては、むしろこちらのほうが、地域に密着した歴史をもつ大切な宝物ではなかろうか、とふと感じた次第だ。


参考資料「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
    

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