古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

妻沼若宮八幡宮

 熊谷市には不思議なお社がある。元妻沼町の最北端、利根川右岸堤防沿いにポツンと鎮座する「妻沼若宮八幡宮」。地形的には決してありえない場所に、「立派な本殿」がほぼむき出し状態(実際は屋根はついているが)で、見事な彫刻等が施されているのだが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある、という印象が頭から離れない。
「立派な本殿」という言い回しは決して誇張表現ではない。この本殿の姿を見た人ならば一応にそう言うと思う。現在利根川河川敷特有の激しい雨風にさらされた為か、塗装等ほぼ欠落してしまい、屋根下部に僅かながら着色していて、当時の絢爛豪華なイメージを想像するほかない状態である。路面もコンクリートで舗装されてはいるが、鳥の糞もあちこちに見られ、「侘《び》・寂《び》」を信条とする我が日本人の美意識とはかけ離れた「朽ち果てられつつある」ものがそこに存在している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼
               
・ご祭神 誉田別命(推定)
               
・社 格 旧若宮村鎮守(推定)
               
・例 祭 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2373134,139.3650602,15z?hl=ja&entry=ttu
 国道407号線を北上し、「刀水橋」交差点のすぐ先にある信号のある十字路を左折し、利根川堤防沿いに走って行くと「大里郡利根川水害予防組合第三号水防倉庫」の少し先に妻沼若宮八幡神社が見えてくる。
 周辺に適当な駐車スペースはないため、土手脇のスペースに路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
              利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する社
 写真を見ても分かる通り、利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する本当に小さな社である。創建・由緒等も不明。但し景観まちづくり地域ディスカッションHP」において、妻沼若宮八幡宮の事にふれている箇所があり、そこにはこのような記述がある。
かつて源頼朝が群馬の新田に来たときに奉られたという八幡宮が利根川の河川敷内にあったが、河川改修に伴い、土手の上に遷宮され、若宮八幡宮となっている。見事な彫刻等が施されていたが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある(以下略)」
 つまり以前は利根川河川敷内に鎮座していたのだが、時期不明の河川改修の際に、現在の地に遷宮、若宮八幡宮となっているという。
        
                   鳥居の社号額
 由緒は不明。但し断片的な資料・書物等で、僅かにこの社を取り巻く地理的な環境がわかる。
・東山道武蔵路の、利根川の渡河地点は、現在では妻沼町の刀水橋付近を想定している説が有力視されている。この橋の付近は近世には「古戸の渡し」と呼ばれる渡し場があったという。古戸は「古渡」で、近世には既に古い渡しであったことを意味している。
『新編武蔵風土記稿 幡羅郡妻沼村条』
「渡場 当村より上野国へ達する利根川の船渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、此道は熊谷宿より上野への脇往還なる」
【源平盛衰記】に、足利又太郎宇治川先陣の時の語に、足利より秩父に寄けるに、上野の新田入道を語て搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり、搦手は長井の渡と定たりと云々」
「【東鑑】治承四年十月右大将頼朝義兵を発し、大井・隅田南河を越て来り賜し條に、畠山次郎重忠長井渡に参会す」
        
          拝殿はなく、玉垣に囲われた屋根の下に本殿が鎮座する。
       
                    瑞垣と屋根で覆われた中に本殿が見える。
    本殿は流造りに妻入りの屋根を重ねた権現風で、周囲に彫刻が施された立派な造り
 玉垣の隙間からでも彫刻の雰囲気がよく見え、これほどの彫刻レベルを真近かで見られるのは、
                  少し興奮ものだ。
      
                                   本殿(写真左・右)
 江戸時代に頂点に達した「装飾建築物」の担い手である「上州の彫物師」は、この当時「妻沼歓喜院本殿」の再建に取り掛かっていた。この本殿もこの彫物師たちが手掛けたものであったのかは不明である。
        
                    社の手前右側にある庚申の石碑と八幡宮湧泉之記碑
八幡宮湧泉之記碑」
 延享5年(1748)造立。砂岩製。高93cm。裏面には、若宮八幡神社建立の縁起と、寛保の大洪水(寛保2年:1742)の際、井の水は濁り飲めず民衆が憂いていたところ、寄しくも清泉が湧き邨を救ったと記載されています
 社主:内田惣兵ヱ
 願主:橋上五郎兵衛、橋上茂右ヱ門
 本碑は、聖泉湧出碑(妻沼歓喜院)と同年銘のものであり、2基とも寛保の大洪水の際に泉が湧き民衆を救ったと刻まれています

寛保の大洪水
「寛保の洪水」とは、寛保2年(174281日に発生した利根川の氾濫のことで、近世最大の水害と言われている。この年が戌年であったことから「戌の満水」とも呼ばれているという。利根川上流・千曲川流域では、727日から降り出した雨が8月2日まで降り続き、水位の上昇は、平常より2mから場所によっては6mにも及んだことが記録されている。
 この時歓喜院では、丁度大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になる。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われている。
 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めている。妻沼周辺の工事は、岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっていう。
 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られているという。
                                「熊谷Web博物館HP」より引用


 ところで、旧妻沼歓喜院の東側に鎮座する旧村社・大我井神社の境内で、参道にて拝殿に通じる途中に「
唐門」がある。この唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立されたという。
        
                          現在は
大我井神社のある「唐門」
             
              唐門の柱に飾られている由来の木札
 大我井神社唐門の由来
 当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した

 この立派な唐門を配置した江戸時代・明和年間当時の妻沼若宮八幡宮とは如何なる社であったのであろうか。少なくとも現在のような小規模な社ではなかったろうし、鎮座地も現在の利根川土手南岸ではなく、河川敷内にあったのであろう。現在の規模の社で、江戸時代当時のイメージをすると、この唐門ばかり目立ってしまい、社としての纏まりを欠いてしまう。
 また木札に記載されている大正2年10月に移転したという経緯も、もしかしたらこの時期に利根川の河川改修があったとも考えられる。どちらにしてもこの場違いな程見事な唐門を包括していたこの社は『新編武蔵風土記稿』にも「若宮八幡宮 持同上」としか記載されていない。謎多き社である。
*この妻沼若宮八幡宮の創建に関して、妻沼村の土豪「田久氏」の関与を考えているが、まだ推測段階で、しっかりとした考察ができているわけでない。検討課題がまた一つ増えてしまった。
        
                            利根川土手沿いに静かに鎮座する社
 筆者が長年悩んでいでいて、今現在でもしっかりとした解説ができないでいるため、この社をなかなか紹介できなかった理由は正にここにある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館HP

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