肥土廣野大神社
創建には諸説あり、『児玉郡誌』には天平宝字三年(759年)とあり、『明細帳』には一条天皇御字正暦五甲午年(994年)創立とある。後に「八幡天神駒形明神合社」となり、「神流川神社」とも呼ばれ、明治39年神名帳に載る社号に戻したものと思われる。
・所在地 埼玉県児玉郡神川町肥土380
・ご祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命
・社 格 旧郷社
・例 祭 節分祭 2月3日 例大祭 3月19日 大祓式 7月31日
秋季大祭 10月19日
肥土廣野大神社は神流川の東側に南北に細長い神川町肥土地区に鎮座する。JR八高線・丹荘駅を起点として、西側方向に八高線線路に沿って進み、埼玉県道22号上里鬼石線に合流するT字路を右折し、ガソリンスタンドやJAひびきの神川支店がある信号を左折する。道なりに進み、八高線の踏切手前の道を右折し、線路に沿って600m程進むと突き当たるので、そこを右折し、暫く進むと左側前方に肥土廣野大神社の一の鳥居が見えてくる。
駐車スペースは一の鳥居の北側130m程先に肥土廣野大神社が鎮座し、東側に駐車可能な空間があり、そこに停めてから参拝を行った。
社号標柱
肥土廣野大神社 一の鳥居
肥土廣野大神社境内からずいぶんと離れた所に社号標と一の鳥居(神明式)が立つ。
肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという。
肥土廣野大神社は神流川を挟んで西側近郊に本郷土師神社が鎮座しているが、この土師神社は古代の土師部の集団で元を辿れば出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考える。
ご祭神である天穂日命は天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(うけい)をした際、天照大神の珠(たま)から生まれた五男神のなかの一神でありながら、出雲国津神に味方した神でもある。「古事記」「日本書紀」で葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達が大国主神の子である事代主神や建御名方神を平定し、地上の支配に成功すると、不思議と大国主神に仕えるよう命令され、子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。
因みに現在埼玉県久喜市鷲宮に鎮座する鷲宮神社のご祭神も天穂日命と建比良鳥命である。この社は「土師宮」とも称し、関東神楽の源流とされる「鷲宮催馬楽神楽」は正式には「土師一流催馬楽神楽」と呼ばれていて、土師集団との関係も深い。
肥土廣野大神社の南方には「出雲神社」も鎮座していて、この地域周辺は出雲族・土師部との関係性がかなり強かったと考えられる。
一の鳥居から長い参道を経て(写真左)、社の境内に到着。二の鳥居前には神橋(同右)がある。
天穂日命は天津系の神でありながら、国津系の神々に心服した二面性のある神で登場しているその背景を考えると、もしかしたら本来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、葦原中国平定譚の成立時、出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し,膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになったのではなかろうか。
二の鳥居
二の鳥居の近くにある案内板
廣野大神社御由緒 神川町肥土三八〇
□御縁起(歴史)
当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(一七〇一)から武蔵国に属するようになった。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。
当社の社宝として、上野国司が作成した国帳で永仁六年(一二九八)に改写された『上野国神名帳』一巻が蔵されている。これに載る緑野郡十七座の内「従三位廣野明神」が当社に比定されている。その創建については諸説あり、『児玉郡誌』には「淳仁天皇の御宇、天平宝字三年(七五九)上野国司の創立なりと云ふ」と記すが、『明細帳』には「一条天皇御宇正暦五甲午年(九九四)創立」とある。
当社の社号は、『上野国神名帳』にあるように、「廣野明神」と記され、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号である。しかし、当社は化政期(一八〇四~三〇)には『風土記稿』に見られる「八幡天神駒形明神合社」と号し、更に『郡村誌』には「神流川神社」と記載されている。社殿の背後に「奥宮」と呼ばれる神流川神社(祭神天穂日命)を祀ることを考え合わせると、三間社の本殿は八幡天神駒形明神合社として造営し、廣野明神を奥宮とした経緯が考えられる。それが、明治三十九年の郷社昇格に際し、神名帳に載る社号に戻したものと思われる。
□御祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命
案内板より引用
拝 殿
拝殿の左側には五社の石祠が並ぶ(写真左)。左から野原神社・太元神社・産泰神社・倭文神社・若宮八幡神社。五社の石宮の並びには三社の境内社が鎮座している(同右)。左から八坂神社・琴平神社・摩多羅神社。この摩多羅神社にはご神体である石棒が祀られている。
三社の境内社と拝殿との間には境内社・今宮神社が鎮座している。
拝殿の右隣側には境内社・稲荷神社が鎮座。 稲荷神社の手前には石祠が4基。
住吉神社・伊勢神社・千勝神社・戸隠神社。
稲荷神社の隣に聳え立つご神木
ところで古代上野国で埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られているが、藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点が知られている。生産地があるという事実は、それに伴う供給地もあり、その流通ルートは神流川を利用する水運による交易が主流であったことは想像に難くない。
古代この地に居住していた土師一族集団はこの水運を利用して各地に流通ルートを広げていたことだろう。河川に近い場所に社を鎮座させることは、水運交通の無事と共に度々発生する洪水等の自然災害を防ぐために祀られるケースが多い。河川近郊に鎮座する社は、このようなメリット・デメリット両方併せ持つ地に対しても、命を賭して果敢に挑戦しようとする人々の本能的な欲求に帰依したことで、その精神は現代の我々にも受け継がれていると筆者は信じたい。
社殿の後方には、神流川神社が鎮座。 この石宮が奥宮になっているという。
静かに鎮座する肥土廣野大神社
「肥土」という地区名は一見「地味が豊かで、土地に作物を育てる養分が多い 肥土・肥沃」との意味があり、豊かで肥えた土地という印象を持つ。他方で「肥土」の地名由来として、嘗て「阿久津(アクト)」と称していたらしい。
この「阿久津(アクト)」は「悪戸(アクト)」が語源の佳字で、熊谷市・河原明戸諏訪神社でも紹介した通り、上流から流出した土砂が堆積した場所、川添平地の意味であるから、この土地は水害がひんぱんに起こり、更に湿地であったため耕作にも適さず、人々は(おこって)悪字を用いて悪戸と書いたともいう。
字数の関係でこれ以上の考察は省くが、さて真相は如何であろうか。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「藤岡市HP・はにわ窯と土師神社」
「Wikipedia」等