浄法寺丹生神社
その上野国神名帳・緑埜(緑野)郡十七社の中に「従三位 丹生大明神」と記されていて、これが当社・浄法寺丹生神社といわれている。
・所在地 群馬県藤岡市浄法寺1259
・ご祭神 高龗神 罔象女神
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭(太々神楽) 4月9日に近い日曜日
国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点を右折する。群馬県道・埼玉県道13号 前橋長瀞線合流後600m程北上すると進行方向左側に「広厳山般若浄土院浄法寺」「佛教大師金色尊像」の看板が見え、そこから更に100m程行った十字路を左折すると、左側に浄法寺丹生神社の正面鳥居が左手に見えてくる。
社の東側には道路を挟んで「藤岡市第七十五区平公民館」があり、駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
浄法寺丹生神社 正面鳥居と社号標柱
珍しい北向きの社
『日本歴史地名大系 』には「浄法寺村」の解説が載っている。
[現在地名]鬼石町浄法寺
東境を神流かんな川が北流し、東は武蔵国新宿(しんしゆく)村(現埼玉県児玉郡神川村)、北は保美(ほみ)村(現藤岡市)、西は高山(たかやま)村(現同上)・三波川(さんばがわ)村など、南は鬼石村と接する。東部を十石(じつこく)街道が南北に走る。村名は浄土院浄法寺による。
応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実が長谷河山城守の押妨から鎌倉明王(みようおう)院領として安堵した地に「浄法寺内平塚牛田岩井三ケ所」がある(「関東管領家奉行人連署奉書」明王院文書)。しかし岩井は現吉井町内に比定され、地域的に浄法寺の内とは考えがたい。あるいは上杉憲方に永徳二年(一三八二)に安堵した地の再安堵状である明徳四年(一三九三)一一月二八日の足利義満下文(上杉家文書)にみえる「浄法寺土佐入道跡」、また康応元年(一三八九)八月一六日の明王院への大石重能の打渡状(明王院文書)にみえる「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」につながるものと思われる。
朱を基調とする木製の両部鳥居が2基参道に並び(写真左・右)、氏子の方々奉納と思われ燈篭も数多く設置されている。参道の回りにある植樹も綺麗に剪定されて、日頃から地域の方々がこの歴史あるお社を如何に大事にしているのがこの雰囲気でも伝わってくる。
拝 殿
御祭神は神川町・上阿久原丹生神社と同じく高龗神 罔象女神。
「上野国神明帳」に記載がある由緒正しい社であるが、創建等の詳細は不明。
「Wikipedia」にはこの社に関して以下の説明を載せている。
丹生神社(藤岡市浄法寺)
丹生神社(にうじんじゃ)は、群馬県藤岡市の神流川沿いにある神社。祭神は高龗神、罔象女神の二神。旧社格は村社。
平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載される古社である。
浄法寺の開祖「最澄」が当時の比叡山に倣い、丹生都比売神を祀ったことが起源とされている。
浄法寺の字塩、八塩地区よりに鉱水が出ている所があった。神流川沿いは鉱石が採れる地域で、当社以外の丹生神社も多数存在する。社名の起源は、『丹』が土または鉱石、『丹生』が鉱石が取れる場所の意味とされている。
上毛野君稚子は、当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した。なお、魚籃観音は、近世に盗難にあい、現存していない。
拝殿上部の扁額
「Wikipedia」での説明の中に登場している「上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)」は、飛鳥時代の地方豪族であるが、その当時、皇族以外滅多に名乗れない「君」の称号を受けていることから、国内でもかなり有力な勢力であったことは確かである。
この人物が登場する時代は、国内外でかなりの激動の時代であった。
大陸では長らく混迷を極めていた分割時代は「隋」国によって統一され、其の後「唐」国に取って変わる。「隋」時代から半島計略は行われていたが、「唐」国もその方針は継続され、高句麗征伐を行ったが、そこは失敗したため、矛先を半島内部に変える。当時朝鮮半島は「新羅・百済・高句麗」の3国がしのぎを削って争っていたが、その3国でも「新羅」国は最も弱小であった。そこで新羅国は唐国と同盟し、自ら臣下となることにより、唐国の援助を受けてから次第に強大となり、ついに660年百済国を滅ぼした。
百済国と同盟関係にあった当時の倭国(日本国)は、百済国再興を目指す元有力貴族である「鬼室福信」からの要請を受けて、当時倭国内に人質としている豊璋(ほうしょう)王子と5,000名の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送り、その後王位につけた。
そして天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間での戦争がおきる。
当時倭国軍3派の中の主勢力である第2派に属し、その中でも前軍という、まさにこの軍団の主力を担っていた人物が上毛野君稚子であった。
社殿右手奥に祀られている境内社・天照皇大神宮 天照皇大神宮の並びに祀られている境内社
大神宮の左側奥にも石祠があるが詳細は不明 群と、その間にある「丹生神社改築記念碑」
社殿の傍に聳え立つご神木(写真左・右)
神楽殿
『日本書紀』巻第二十七
「天智天皇2年(663年)3月 前将軍(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)・後将軍(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ の おみ かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ」
と記されていて、その後6月にはこの倭の軍団は「新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)、二つの城(さし)を取る」功績をあげている。
但し当初の勝利もつかの間、2か月後の8月28日まずは海上戦である「白村江」での戦いにおいて「百済遺民・倭国」の連合軍は「唐・新羅連合軍」に完敗し、その前後にあった陸上戦もまた唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、ここに半島での戦いは幕を閉じる。
上毛野君稚子はこの一連の戦いでの詳細な記録はないので、どのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、残念ながら不明である。それならば「Wikipedia」に記されている「当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した」というが、この説文の真偽の程はともかくとして、上毛野君稚子がなぜわざわざこの地に「魚籃観音」を奉納する理由があったのであろうか。
少なくとも上毛野君稚子が、この地域に何かしら関係する人物である可能性を暗に仄めかしているようにも思えるのだが…。しかし現時点でこれ以上の勝手な考察は控えたいと思う。
参考資料「日本書紀」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等