藤岡富士浅間神社
・所在地 群馬県藤岡市藤岡1152
・ご祭神 木花開耶姫命
・社 格
・例 祭 例大祭 4月1日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2563401,139.068042,15z?hl=ja&entry=ttu
中栗須神明宮の南側に鎮座する。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線を上越自動車道・藤岡I・C方向に北上し、「七丁目」交差点を左折、その後すぐ先にある「古桜」交差点を右折し直進すると、 道路沿い左側に藤岡富士浅間神社の大きな社号標柱、広大な駐車場があり、その参道の奥の高台上に社は鎮座している。
藤岡富士浅間神社正面
藤岡市藤岡地域に鎮座。全国約1,300社といわれる浅間信仰の神社の1つで、木花開耶姫之命を主祭神とし、安産と子育てのご利益があるとされる。
『日本歴史地名大系』には藤岡町(現藤岡市藤岡)に関して以下の解説がされている。
「東は小林村など、西は上・中・下大塚村など、南は矢場村など、北は中栗須村などと接し、町央を東西に下仁田道、南北に十石街道が通る。近世には両道が交差する交通の要衝にあり、継場、日野絹の集散市場として賑った。享和三年(一八〇三)の富士浅間神社縁起書によると、文応元年(一二六〇)日蓮が常が岡鮭塚に経を納め、富士山の分霊を勧請し鎮守として以来富士岡(ふじおか)と称したという。「続太平記」には永享の乱に、上杉憲実が平井ひらい城攻めにあたり、藤岡などに陣を張ったとあり、「鎌倉物語」などによると当時の藤岡城主有田定景は足利持氏の遺児永寿王丸をのがしたという」
境内は広く整備もされている。また長く伸びる参道(写真左・右)は石製の鳥居まで約100m程続く。
道路沿いにある鳥居を過ぎると、天高く伸びそうな巨木がお出迎えしてくれる(写真左・右)。
「孤高」という表現が似合う趣のある大木。
参道途中には3枚の案内板が設置されており、右から「富士浅間神社 祭礼絵巻」「富士浅間神社具足4種」が案内され、夫々重要文化財に指定されている。もう1枚は社の案内板である。
一番右側には「市指定重要文化財 富士浅間神社祭礼絵巻」の標橋や、及び案内板である。藤岡富士浅間神社には、神輿をかつぐ行列が描かれている絵巻物が宝物として伝わっている。菊川英山という浮世絵師が描いている。絵巻は四mという長さで、行列の人数は357人。藤岡市指定重要文化財として、藤岡歴史館に保存されている。
真ん中には「富士浅間神社具足4種」の案内板がある。市指定重要文化財で指定日は平成21年6月25日。富士浅間神社に伝世したもので、当世具足(とうせいぐそく)3点・鎖具足1点からなる。その造作は簡素・実戦的であり、上級武士の着用と見られるものである。製作上の特徴から、ほぼ同時期の所産と考えられるもので、近世の江戸前期に位置づけられる。
これらの具足がどのような経緯で寄進されたのかは今後の課題であるが、全体に保存状態が良く、本県並びに藤岡市周辺地域の歴史的な美術工芸資料として貴重な資料である。
・朱漆塗切付碁石頭伊予札二枚胴具足
・朱漆塗桶側四枚胴具足
・黒漆塗切付小札二枚胴具足
・鎖具足
一番左側には「富士浅間神社 由緒」の案内板が設置されている。
富士浅間神社 由緒
ご神徳 安産 子育て
当社のご祭神は、富士山をご神体とする木花開耶姫命である。天照大神の孫の夫人であり、海の幸の神、山の幸の神らの母親である。火を放った産屋で無事に子を産んだ言い伝えにより、子授け、安産、子育ての守り神として古くから信仰を集めてきた。
富士山は日本一美しい山だが、かつて火山としてたびたび噴火を繰り返していた。その激しい噴火を鎮め、同時の新しい生命を生み出す神として、火中で無事に子を産んだという言い伝えから木花開耶姫命をご祭神としている。女性の守護神、子授け、安産、子育ての神と言われる理由である。
当神社の設立年は不詳だが、当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け、平安時代の主要な神社である従五位上郡御玉明神の一社として藤岡の地の守護神としたのが始めと伝えられている。1274年(文永11年)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻るときに、この地を訪れ八軸の経を納め、同時に富士信仰の厚かった上人は、そのご祭神である木花開耶姫命の御霊を当神社に移し、以来社名を富士浅間神社と改め当地の守り神として広く信仰を集めてきた。
1590年(天正18年)藤岡の領主となった芦田康貞が、藤岡城を築くに当り、北面の守護として当神社の社殿を大規模に拡張・改築し、神官広瀬清源を奈良の吉野より招き宮司とした。江戸時代には庶民の間で冨士講が盛んに組織され、多くの人が当神社を中心にして富士山詣でを行った。「藤岡」の地名は当神社の社名に由来し、「富士岡」が変じて定まったといわれている。
案内板より引用
石製の大鳥居
参道は当所西方向に進むが、この鳥居からは北側に変わる。
鳥居の南側には重厚感のある神楽殿がある(写真左)。南向きに鎮座する拝殿に奉納する舞をお見せできる絶好の場所にあるようだ。また鳥居の西側には神興庫であろうか(同右)。
鳥居前にて一礼を済ませた後、鳥居の先で、左側にある手水舎にてお清めをする(写真左)。よく見ると手水舎の奥にかなり古い形態の手水舎があった(同右)。今回はそこでお清めはしなかったが、奥にある手水舎も使用できるとの事で、次回参拝の際にはぜひお清めしようと思った。
参道を進むときから気が付いていたが、石垣に似た高台上に社殿は鎮座している。広々として開放的な境内と相まって、まるでお城と勘違いしてしまう位の規模である(写真左)。鳥居を過ぎて石段を登り、その頂上部に社殿が見える(同右)。
実はこの社が古墳の上に建てられているといわれていて、案内板にも「由緒書の途中に「当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け…」と載っている。「藤岡町1号墳」とも呼ばれていて、南北40m、東西44m、高さ5mの円墳。前方後円墳という説もあるそうである。
拝 殿
藤岡富士浅間神社のご祭神である「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」は、日本神話に登場する女神である。父神は大山津見神、母神は鹿屋野比売神(野椎神)。一般的にこの「木花之佐久夜毘売」は『竹取物語』の主人公「かぐや姫」のモデルともされ、桜の美しさとやがて散る儚さを象徴する美しい女神といわれている。アマテラス大神の孫ニニギ尊と結婚。子授け安産、農業や漁業のご利益があり、酒造業の守護神としても信仰されている。
実はこの女神、別名も多く、『古事記』では本名を「神阿多都比売(かみあたつひめ)」「木花之佐久夜毘売」、『日本書紀』では「神吾田鹿姫(かみあたつひめ)」「神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)」「木花咲夜姫」、『播磨国風土記』では「許乃波奈佐久夜比売命(このはなのさくやひめ)」と表記され、また「豊吾田津媛命・木華開耶姫・木花之開耶姫・木花開耶媛命・神阿多都比売・神吾田津姫・神吾田鹿葦津姫・鹿葦津姫・桜大刀自神・身島姫神・酒解子神」等とも言われている。
現在富士山を神体山とする富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社にこの女神は主祭神として祀られているが、歴史的に見ると、古代や中世には富士山の祭神(権現)を木花之佐久夜毘売とする文献は見当たらないとされ、近世に林羅山が元和2年(1616年)の『丙辰紀行』で諸説の中から三島神社の祭神が父神の大山祇神であり、三島と富士が父子関係にあるとする伝承を重視し、これを前提に「富士の大神をば木花開耶姫」と神話解釈を行ったことで権威をもつようになったといわれている。因みに富士講では富士の祭神を仙元大日神としており、仙元大日神の子孫が木花之佐久夜毘売と結婚したとしている。
本 殿
浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神が木花之佐久夜毘売となった経緯としては、木花之佐久夜毘売の出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火を抑えるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。
浅間神社の語源については諸説ある。
・「あさま」は火山を示す古語であるとする説。
・「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説。
・「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に習合した結果といわれている。
・「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
・坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の皇大神宮の摂社である朝熊神社を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。
社の西側は正面参道とは違った、本来のお社の風景が広がっているようだ。
社殿西側に祀られている境内社 境内社・秋葉神社か
詳細不明
木花之佐久夜毘売の本名は「神阿多都比売(かみあたつひめ)」という。「阿多」は実は地域名で、鹿児島県南さつま市から野間半島にわたる地域、また薩摩国(鹿児島県西部)にちなむ名といわれ、「鹿葦」も薩摩の地名という。ということは、原義としての「神阿多都比売」とは「阿多の都」の姫という意味となり、現在の鹿児島、つまり薩摩地域の姫様という意味になるかもしれない。
また神名は一般的には「植物」と関連づけられているそうだ。神阿多都比売の名義は「神聖な、阿多の女性(巫女)」とされ、木花之佐久夜毘売の神名の「木花」は木花知流比売と同様「桜の花」、「之」は格助詞、「佐久」は「咲く」、「夜」は間投助詞、「毘売」は「女性」と解し、名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば 「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売」となるとされる。
境内の一風景
桜は春を象徴する花として日本人には馴染みが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。
日本人はまた「花見」を好む民族だ。但しこの「花見」の起源に関して調べてみると、奈良時代には貴族が「梅」を好み、花鑑賞をしていたようだ。現代では花見と言えば桜を指すが、当時は中国から伝来した「梅」の花が主流だった。これは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたがためである。実際、「万葉集」には桜を詠んだ歌も残されており、古代神話以前から桜は神の宿る木として信仰の対象ともなっている。
桜の人気は平安時代から始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。
昔も今も理屈抜きに日本人は「桜」が好きな民族である。故に木花之佐久夜毘売は「桜の神」であり、身の心も美しい人なのであったのだろう。色々書いたが結論はそういう事に帰するのだ。
参考資料「富士浅間神社HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等