羽生八雲神社
江戸期まで「宮元」と呼ばれていた上町・本町地区が社経営に参画し、以来、羽生市の発展に伴い当社祭礼にも商工観光祭に組み入れられたが、慣例として、神社行事の中心となる上町・本町は社負担金を支出し、現在も社護持の任に当たっている。
・所在地 埼玉県羽生市中央4-3-2
・ご祭神 素盞鳴命(牛頭天王)
・社 格 旧羽生領七十四ヶ村鎮守
・例祭等 例大祭(羽生夏祭り) 7月第二週目 土日
羽生八雲神社は羽生護国神社のすぐ南側に鎮座する。『日本歴史地名大系』によると、この地域は「町場村」と呼ばれ、羽生市の中央やや北西寄り、旧利根川の乱流低地に位置し、旧利根川の河道にあたる葛西用水と会の川に挟まれた埋没台地上にあるという。
『日本歴史地名大系』 「町場村」の解説
現羽生市の中央やや北西寄り、旧利根川の乱流低地に位置する。旧利根川の河道にあたる葛西用水と会の川に挟まれた埋没台地上にあり、東は上藤井村・下藤井村と北袋村、南は上羽生村・桑崎村、北は小須賀村・蓑沢村。村名は慶長一九年(一六一四)に廃された羽生城の町場であったことによる(風土記稿)。羽生城跡地は寛永八年(一六三一)関東郡代伊奈忠治が検地を行い、城中部分を見取場として耕地化した。承応三年(一六五四)南条金左衛門の検地により高入地になったという(風土記稿)。田園簿には羽生町場とみえ、田高四七六石余・畑高三五九石余。幕府領で、ほかに古城跡見取場(田方四町一反余・畑方一七町五反余)があった。
羽生八雲神社入口 一の鳥居
鳥居上部には「八雲神社」と表記されている。
羽生市の大通りである「プラザ通り」の民家が並ぶ狭い路地の間に社に通じる参道がある。
羽生市街地で一番大きな社という印象で赴いただけに、この狭い路地は意外。
『新編武蔵風土記稿 町場村』
町場村 當村は羽生領の本鄕にして、昔城下に屬せし町の蹟なれば名となれり、町の入口に昔は木戸門ありて備とせし由、今はそこを番屋蹟と呼べり、(中略)按に當所は昔利根川に添たる地なりし由、今も近村小沼新鄕等の間に會川と云あり、これ古利根川の流なりといひ、【萬葉集】埼玉の津などよみ、且近き邊岩瀬村も古歌に入たる岩瀬の渡などゝいへば、古江もこゝのことなるべし、又羽生の唱の起る所は、古き書にはいまだ見ざれど、上羽生村正覺院に藏する永祿九年の文書に、武州太田庄羽生云々とあり、この餘成田分限帳に、永樂百五十貫文埴生大膳亮長員、同六十貫文埴生出雲守、同三十貫文埴生助六郎とのす、これも在名をもて呼べる者ななるべく、既に村君村鷲大明神天正十八年の神鏡に、太田埴生庄と載たれば、羽生の唱はこれより前起りし事にて羽生埴生とも書し事しらる、且當村正保の頃迄は、羽生町と呼び、元祿改定の圖には、町場村とのせたり、
この狭い参道を進むと二の鳥居が見えてくる。
二の鳥居を過ぎると子供が遊べる遊具やベンチ等が設置された広い境内が見えてくる。
社が二社並列にて鎮座している。手前が羽生神明社で、奥に見えるのが羽生八雲神社。「埼玉の神社」によると、羽生神明社は、昭和25年(1950)、境内地が手狭なため、現在地に移転したという。但し祀職は、羽生八雲神社と同じ宮司が奉仕しているとの事だ。
境内に設置されている文化財指定「八雲神社御輿渡御等行事」の案内板
八雲神社御輿渡御等行事 (無形民俗文化財 羽生市指定第64号 平成19年3月19日)
八雲神社の祭礼で御輿渡御が行われるようになったのは、棟札写によれば寛永2年(1625)とされています。かつては旧暦6月7日の御輿渡御にはじまり、6月末日の芋の輪くぐり行事までが祭礼の期間でした。現在は7月7日に近い土曜日に催されています。
御輿渡御は午後2時頃から始まり、お旅所を出発した御輿は八雲神社へ向かいます。その後往来を渡御したあと、再びお旅所へ戻るというものです。シンボルである大御輿(通称おんな天王)は、天井板に書かれた記録によると享保8年(1723)に新調されました。
渡御は、先導、神職、稚児、幟、太刀持ち、太鼓、獅子、七五三持ち、榊、賽銭箱、来賓、巫女、提灯が行列をなします。往来では神官が紅白の紙片、続く稚児が塩をまきながら進みます。
午後5時頃から、各町内の御輿及び山車が曳き回されます。この祭礼の主体は、近隣が屋台(山車)なのに対し、江戸時代当社から御輿であることに特色があります。
平成30年3月28日 案内板より引用
細い参道と二の鳥居の正面先にある神興庫
神興庫の左側にある古い建物は祭器庫
羽生八雲神社 本殿
八雲神社(てんのうさま) 羽生市中央四-三(羽生字町並)
当社の創立は、例祭祝詞に「清和の御宇悪疫国内に猖獗(しょうけつ)、天皇御心を悩まし給い、山城国八坂の郷に素盞鳴命の神霊を斎き祀り、疫病退散の祈願を籠め給う。験し現れければ国内に素盞鳴命鎮祭を奨め給う。僻遠の当地なれば凡百年を経し天禄三年命により京の公卿隼人正下向し箕沢の地に社殿を造営、羽生領七十四ヶ村の鎮守とす」とある。
また、社記の棟札写には「当社勧請は天禄三年壬申六月七日也是人皇六十四代圓融院の御宇也其時柳隼人正箕沢町ヱ奉勧請其後慶長年中当町場ヱ奉遷座從其時厄神禦(ふせぎ)之札羽生領中へ引来並祭體御輿町内ヲ渡ル事寛永二年乙丑六月七日ヨリ始ル者也 神主柳喜内藤原清治」とあるが、棟札は所在不明のため、年号等を確認することができない。
古くは牛頭天王との称したというが、前記の社記には八雲大神棟札写とあり、このように称した時期もあったのかと思われる。明治二年一月に八坂神社と改称した。
境内に「利根川水害防護堤謝恩碑」がある。これは享保年中当地を支配した代官安藤惟泰が利根川の水禍を防ぐため、上羽生新田裏に堤防を築いて被害を少なくした恩を感謝して、明治二三年に地区民が建立したものである。
「埼玉の神社」より引用
「八坂ヨ―八坂祭はソレ羽生の誇りソレ勇み若衆とサー舞の花車ヨイヨイヨシコノ舞の花車」と羽生音頭に歌われる当社の例大祭は、八雲祭・八坂祭・羽生の夏祭りなどと呼ばれて賑わうという。
社記によると、例祭に神輿の渡御が行われた始めを江戸時代初期の寛永二年(1625)とし、当時は祭礼の期間が二四日間であったと伝えていて、その後、昭和三〇年代までは七月七日から三日間行われていたという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市観光協会HP」「埼玉の神社」
「境内案内板」等
