羽生護国神社
・所在地 埼玉県羽生市北1-5-17
・ご祭神 日清戦争から大東亜戦争までの羽生地区出身
戦没者の方々
・例祭等 祭日 4月3日
羽生護国神社の鳥居
社名は護国神社だが、社号標柱には「忠魂社」と刻まれている。
大天白公園から徒歩にて南下、その後「プラザ通り」と接する歩道橋の脇に羽生護国神社は鎮座。
護国神社本殿、その右側に祀られているのは厳島神社
護国神社 羽生市北一-七(羽生字大道)
日清戦争以来、全国的に戦没者を顕彰、慰霊する気運が興り、各地で神社境内や小学校内に忠魂碑を建立し招魂祭が行われた。
当地においても日清・北清・日露の各戦役で、七名の戦没者を出し、これらの英霊に対し、帝国在郷軍人会羽生町分会の主催で毎年招魂祭と墓参が行われていた。この御霊(みたま)を迎え、子々孫々に至るまで守り仕え奉らんと、遺族をはじめ在郷軍人会、住民らが英霊の誠忠を偲び、永遠に亀鑑として敬迎すべく社殿の奉建を画した。
昭和七年一月一三日、起工の運びに至り、四月二九日、天長節の佳日を卜して厳かに鎮座祭が挙行された。社地は明治四十一年一一月八日古城天神社に合祀された厳島神社の跡地があてられ、現在、昭和三二年七月二日に厳島神社が氏子の総意により旧地に遷座したため、二社並立の形となっている。厳島神社は弁天様と称し、社記に「寛永年中該町悪水堀四円空地ヲ見立テ弁財天ヲ勧請ス」と伝える。護国神社は元来、忠魂社と称していたが、昭和一四年に政府は指定・無指定護国神社制を定め、当社はこれを機に、現社名に改めた。
祭神は先の七名に加え、太平洋戦争に至るまで、各地で戦陣に倒れた羽生地区出身者であり、その名を名簿に記して奉安する。
「埼玉の神社」より引用
合祀社 厳島神社
道路沿いに設置されている厳島神社の由緒と起文
由緒
寬永年中羽生町市街ノ西北隅悪水四方ヲ圍統スル一空地ヲ見立弁財天ヲ勧請ス明治四年神仏混淆御取分ノ節嚴島社ト改稱シ無格社タリ
明治四十一年政府ノ勧誘ニ基キ信徒等相謀リ村社天神社へ合祀出願同年十一月廿八日許可翌明治四十二年三月廿五日合祀セリ
備考本文中ノ悪水四方ヲ圍統スル一空地ハ現今ノ字大道壱番地ナリ(以下略)
起文
昭和三十二年三月三日午前二時頃高橋工業有限会社足袋工場ヨリ出火池浦内田大沢川野辺長谷川五月女ノ六世帯類焼浅井小火偶々浅井義松氏ノ夢枕ニ弁財天ノ存立ニ思ヲ致サレ宮司柳八重氏ニソノ旨報告確ニ天満社ニ合祀トノ事種々協議ヲナシ直ニ獨立安置サル可キ気運ヲ主張サレ上町委員会ニ上申上町氏子中挙ツテ社殿建立ヲ決議宮大工入江瀧治郎氏ニ依頼シ昭和三十二年七月二日由緒アル現位置ニ厳島神社ヲ鎮座イタシ毎年五月九日ヲ祭日トシテ町内安泰財宝護持火災除トシテ御守護セラル(以下略)
案内板より引用
護国神社という特殊な社であるだけに、一般の神社と異なり、氏子区域及び氏子は存在しない。ただ、身をもって国難に殉じた英霊を祀り、国家の礎となった人々を軍神として崇め、その御霊を慰め誠を尽くすことは、神道として欠くべからざる要素である。当社を含めて全ての護国神社の拠って立つ由縁はここに存するものである。尊い生命を捧げた英霊勇士を慰霊することは、仇や疎かにできないことであろう。
戦後も既に80年の歳月が流れ、当時の大戦を知る方々も少なくなり、遠い昔の出来事となってしまっている。今ここで再び、戦前・戦中・戦後を見直すとともに、新たに護国神社の来し方、行く末を改めて考えなければならない時であると言える。ここで、英霊のご遺族の減少や、世代交替による意識の変化なども重要な問題となっている。静かに英霊の声に耳を澄ませて聞き入る心境はいつの時代も変わらずにありたいと筆者は切に願う。
参考資料「埼玉の神社」「境内案内板」等
