古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

藤井上組香取神社

 羽生市藤井上組地域には、曹洞宗の寺院である源長寺(げんちょうじ)がある。この寺院は、室町時代末期、羽生城主である木戸伊豆守忠朝が城主だった頃に当寺を創建したという。
 1574年(天正2年)に後北条氏の猛攻に耐え切れず退去し、その後、1590年(天正18年)、徳川家康が関東地方に転封された際に、大久保忠隣は羽生領の領主となった。ただ忠隣は羽生城には入城せず、城代として鷺坂(不得)道可を任じた。
 不得道可は俗名を「鷺坂軍蔵」といい、羽生城主木戸忠朝の家臣で、『新編武蔵風土記稿』よると、「(鷺坂軍蔵は)羽生城没落の後浪人となり、後法体して道可と云い、大久保相模守に仕へ、旧主追福の為として当寺を再興せしと云」と載せている。旧主の忠朝やその家臣の菩提を弔うべく、忠朝が創建した当寺を中興したという。

        
             
・所在地 埼玉県羽生市藤井上組778
             
・ご祭神 経津主神・武甕槌神・天児屋根命・比賣神
             
・社 格 旧上・下藤井村鎮守
             
・例祭等 お獅子様 52 
 大天白神社及び大天白公園の正面入り口から一旦北上して埼玉県道60号羽生外野栗橋線に合流後、東方向に進路をとり、1.3㎞程進んだ丁字路を右折し南下、羽生中央公園の北側に藤井上組香取神社は静かに鎮座している。
        
                 藤井上組香取神社正面
『日本歴史地名大系』 「上藤井(かみふじい)村」の解説
 尾崎村・稲子村などの南にあり、洪積台地の埋没台地と、利根川の乱流路によって形成された後背湿地からなる。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る譜代侍藤井宮内(永三一貫文)・藤井大助(永一〇貫文)を当地出身とする説がある(風土記稿)。古くは南に続く下藤井村と一村で、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに藤井村で高付される。田園簿によると田高七九一石余・畑高六七六石余、幕府領で、ほかに源長寺領二〇石があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)から下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、化政期の上・下両村の家数一六〇(風土記稿)。
 
 鳥居前にて一礼する前に、鳥居の手前で左側にこんもりとした林があり、その奥に石碑・石祠等3基が祀られている(写真左)。一番左側の石碑は御嶽霊神、それ以外は判別できない。また、その右隣には、左から石碑(富士山頂上 浅間大社 〇〇〇神社 参拝記念)・伊勢参宮記念碑がある(同右)。
        
                  趣きのある境内
        よく見ると一対の石灯籠の先には石製の鏡餅が奉納されている。
 
  参道左側に祀られている金毘羅大権現    金毘羅様の右並びに祀られている記念碑・
                            普門品供養碑等
        
         社殿に通じる参道途中には多くの石灯籠が奉納されている。
「埼玉の神社」によると、当地では昭和30年頃までは、同年代で気の合った者同士が積み立てをして伊勢神宮に参詣する伊勢講が盛んに行われていたようで、境内には神宮参詣を記念して奉納された石灯籠や石碑が、拝殿には絵馬や奉納額が数多くあり、当時の信仰の厚さを偲ぶことができよう。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 上藤井村下藤井村』
 香取社 上村にあり、下同じ、上下の鎭守なり、松林院の持、
 源長寺 禪宗曹洞派、上野國邑樂郡堀工村茂林寺末、大鷲山と號す、慶安元年寺領二十石の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、開基は羽生の城主木伊豆守忠朝、天正三年六月朔日卒し、法謚を久昌院源心長公居士と號す、開山正甫は永正十三年三月三日入滅す、中興開山を正道と云、元和二年八月二十六日寂す、中興開基を不得道可と云、文祿四年二月十八日卒す、此人俗稱を鷺坂軍藏と號し、木伊豆守が家人なりしが、羽生城沒落の後浪人となり、後法體して道可と云ひ、大久保相模守に仕へ、舊主追福の爲として當寺を再興せしと云、(以下略)
 松林院 天台宗、東叡山末、藤井山泉光寺と號す、本尊正觀音を安ず、開山光盛慶長十九年十二月八日寂す、〇地藏堂 村民持、

 香取神社  羽生市藤井上組七七八(藤井上組字鶴指)
 当地は市のほぼ中央に位置し、天正一九年の文書には既にその名が見え、地区内には、慶安元年に二十石の朱印地を寺領として賜った、曹洞宗源長寺(開祖羽生城主木戸伊豆守忠朝)がある。
口碑によれば、当社は弘治三年に羽生城の鬼門除けとして祀られた社であると伝え、享保一二年三月一三日には神祇管領卜部兼敬より正一位に叙されている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には香取神座像が納められている。
『明細帳』によれば、祭神は経津主神・武甕槌神・天児屋根命・比賣神の四柱で、境内社として琴平神社(文政七年建立)・八坂神社(天保八年建立)・厳島神社(文政一〇年建立)の三社が記載されているが、今日では琴平神社が現存するだけである。琴平神社は、金毘羅大権現と陰刻された石祠である。当社の拝殿には金毘羅大権現と書かれた縦四〇センチメートル、横二三六センチメートルの扁額(文政九年奉納)も残り、往時、信仰の厚かったことをうかがわせる。
 また、境内にはこのほか、当地方を治め善政を行った堀田相模守を祀った生祀、堀田宮(安政二年建立)がある。
 祀職は、神仏分離前は天台宗松林院が別当であった。現在、松林院は大日堂と呼ばれ、無住であるため、稲子の源昌院が管理している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿に掲げてある扁額             境内整備事業記念碑
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は、大字藤井上組と藤井下組の全域である。この二つの大字は、井福・上手・下手・東組(この四つを本田四組と称し、古くからある集落という)・出尾・北藤井上・北藤井下・南油ヶ谷戸・北油ヶ谷戸・前流・後流の一一耕地からなっており、それぞれの耕地から、お獅子様を行ったり境内の清掃などをする年番(世話人)が輪番あるいは推薦で一、二名ずつ出る。
 当社は昔から戦(いくさ)の神様として信仰されており、戦時中には盛んに武運長久の奇岩が行われた。その御利益からか、氏子の中からは日露戦争で戦死する者が一人もなく、その名を高め、先の大東亜戦争時にも戦死者は少なかったという。
        
                社殿の右側にある記念碑
                   左から本殿 大鳥居修復記念碑・伊勢神宮参拝記念碑
           鹿島神宮(御祓)香取神宮(御神楽奉奏)鳥栖神社(参拝)参宮記念碑

 嘗て、当社の祭りは、419日の春祭りと1019日の秋祭り(例祭)の2回あり、春祭りには小松神社から招いた神楽を奉納していた。しかし、いずれの祭日が農繁期に当たり、祭礼を行う余裕がなかったため、大正時代中頃にはやむを得ず中止し、その後は52日に行われるお獅子様の日を祭日としている。
 お獅子様は記載の玉敷神社かの獅子を借りてきて、氏子の家々を回り、悪魔を祓う行事である。獅子は一一耕地を順番に回るが、昔は一つの耕地を回り終えると、道切りと称して耕地の境に竹を二本立てて注連縄を張り、悪魔が入らないようにしていた。お獅子様は朝五時ごろから始まるが、祭典は九時から行われ、氏子の繁栄と五穀豊穣が祈願されるという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
  

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