古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

屈巣久伊豆神社

 鴻巣市川里地区は、旧北埼玉郡川里町で、埼玉県の北東部、首都圏から約50kmの高崎線沿線に位置し、南は元荒川を境として鴻巣市と、東は星川(見沼代用水)を隔て騎西町と、西北は行田市と接していた。川里町は、昭和29年に屈巣村、広田村、共和村の3村が合併し、川里村が誕生。平成13年5月1日に町制を施行し、川里町となり、その後平成の大合併により、2005年10月1日に隣接する鴻巣市に編入された。
 屈巣久伊豆神社は旧川里町屈巣地区に鎮座している。屈巣とは変わった地名だ。この屈巣は「くす」と読み、嘗てこの地は久伊豆神社の御祭神である大己貴命、別名大国主命の「大国主命」の二字を取って「国主」と表記していたという口伝がある。ちなみに「国主」と書いてこれも「くす」と読むそうだ。
 折からの雨の中だの参拝だったが(逆に雨だったから良かったのかもしれないが)、不思議と不快な感覚はなく、社叢の静寂の中にも何か触れることのできない神聖さや荘厳さを感じてしまった。そんな雰囲気を漂わせる何かをこの社は持っていた。
所在地   埼玉県鴻巣市屈巣2313-1
御祭神   大己貴命
社  挌   不明
例  祭   10月15日 秋の例祭

       
 屈巣久伊豆神社は埼玉県道32号鴻巣羽生線を鴻巣市から羽生市方向に進み、左側に円通寺観音堂が見える先の交差点手前を左折すると正面にこんもりとした社叢が見えてくる。因みに円通寺観音堂は「大本山円覚寺百観音霊場」の札所42番の由緒ある観音堂で、慶長年間の建立といわれる総ヒノキ造りの堂々たるお堂で、本尊の馬頭観世音菩薩木像などとともに市の文化財に指定されている。
                  
                       円通寺観音堂  県道沿いから撮影 
 このお寺、元々は「観音寺」という独立したお寺で、1690(元禄3)年開創とされる西国三十三観音うつしの「忍領三十三観音(忍新西国観音)霊場」の6番札所になっている。明治維新の廃仏毀釈が影響しているのか、現在は円通寺の飛び地境内にある観音堂としての扱いだそうだ。

                       
                                                    屈巣久伊豆神社参道正面
           
                      鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
 屈巣久伊豆神社は境内の案内板によると、当地の地名は元来、国主と表記していたという。その昔、村社である久伊豆神社(ひさいず)の榎の大木に鷲が住み着き、村人に色々と悪さをして、迷惑をかけていたそうだ。そこで村人が鷲神社として祀ったところ、それ以降、鷲は巣の中に屈して外に出ることがなかったため屈巣と改められたという。
  

                    
                               拝   殿
           
                                本   殿
 前述の屈巣久伊豆神社の案内板によると、『明細帳』には「本社々殿ハ宝亀元年(770)九月の建立ニテ今ヲ距ル千有余年爾後数回再建ノ事記アル棟板等今二存在セリ、而シテ又土俗ノ口碑二前玉神社ノ一社ナリト伝ウ、蓋シ本社久伊豆神社祭神大己貴命ハ大国主命二シテ古へ村名ヲ国主村(今ハ屈巣村ト云ウ)ト唱へシハ即チ大国主ノ二字ヲ村名二呼ヒシ二原因セシナラン、以上土俗ノ口碑ト当事存在セル棟木ノ年号トニ依レハ古へ前玉神社二座ス其一ヲ祭リシモノ二テ式内ノ神社タルコト明ナリ(中略)と記載されている。

 境内社は社殿の奥に鎮座している。明治42年に16社が合祀されたという。

  また神社の西側で銀杏の大木の付近には、『従是北忍領』と刻まれた安永九年(1780)建立の忍領境界石がある。
  
 鴻巣市指定有形文化財
     忍領境界石標 昭和53年3月9日指定

 この石標は、忍藩が他領分との境界争いが起こらないよう安永9年(1780)に屈巣村(現川里村屈巣)と安養寺(現鴻巣市安養寺内)との境に建てたものである。忍藩内に16本建てられたものの一つである。明治の廃藩置県後、一時個人所有になったが、その後久伊豆神社に寄附されたもので、川里の歴史を語る貴重な資料である。
 「従是北忍領」と彫られている。
    高さ133cm 幅30cm 小松石
    平成7年7月
                                                        川里村教育委員会

 ところでこの久伊豆神社が鎮座している「屈巣=クス」という地域名から筆者はある古代の名称を思い起こす。つまり「国栖」だ。
くず (国栖、国巣)   
1 古代、大和の吉野川上流の山地にあったという村落。また、その住民。宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏した。くずびと。
2  古代、常陸(ひたち)国茨城郡に住んでいた先住民。つちくも。やつかはぎ。「―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)」〈常陸風土記〉

 
 本来国巣は、古事記の記載では吉野の山岳土着民であり、特に奈良・平安時代には天皇即位の大嘗祭などで食事を献上し、歌や笛を披露した。実際吉野には今も「国栖(くず)」の地名がある。古事記・日本書紀には、神武東征時、「尾が生えている」国巣の先祖が現れ、天皇を歓迎している記述があるが、どうやらこの山岳土着民は鉱山の坑道で働く人々のようで、天皇家が彼らを「国巣」や「土蜘蛛」、「穴居民」と蔑称したものであり、侮蔑名ではあるが決して逆賊ではなく、ましてや討伐の対象ではないのだ。
 ところが常陸風土記ではその土着民は征伐、討伐の対象と変化する。一例を紹介しよう。

『常陸国風土記』
 
行方郡(なめかたのこおり)・当麻(たぎま)郷

  倭武(ヤマトタケル)天皇が巡行して、この郷を通られたとき、佐伯(さへき)の鳥日子という者があった。天皇の命令に逆らったため、すぐに殺された。
 行方郡・芸都(きつ)里
  昔、芸都里に国栖(くず)の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)という二人がいた。その寸津毘古は天皇の命令に背き、教化に従わず、無礼であった。そこで、御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。寸津毘賣は恐れおのき、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。
 小城郡(おきのこおり)
  昔、この村に土蜘蛛(つちぐも)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。

 ところで国栖(くす)は別名・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)と言われいずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。不思議と荒川は、砂鉄の含有率が50%を超す日本一の砂鉄の採れる川であり、荒川の流域では古代から製鉄関係の遺跡が多く見つかっている。元荒川も同様だ。江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていたからだ。鴻巣市屈巣地区は元荒川左岸に位置し,砂鉄に関係する鍛冶集団の伝承が屈巣地域周辺にも残っており、国栖との関係が大いに連想される。
 鴻巣市は。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあるが、屈巣久伊豆神社を調べるとこの国栖の名称「くす、くず」が「鴻巣」の語源ともなったともいえるのではないか、と最近ふと推測した次第だが詳細は現時点では不明だ。


 

拍手[3回]