古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上奈良豊布都神社

  鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。平 景政ともいう。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。
 『尊卑分脈』による系譜では平良兼の孫、村岡五郎忠通の子に為道、影成、影村、影道、影正の5人があり、影(景)成の子。鎌倉権守景成の代から相模国大庭御厨(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称したという。
 御霊神社は埼玉県各地に存在しているが、鎌倉権五郎景政を御祭神とした御霊神社は上奈良地区に鎮座する当社のほか、東松山市正代地区、熊谷市高本地区他飯能市や小鹿野町両神地区に鎮座している程度。場所的にはそれぞれ離れているが、何か共通性があるのだろうか。 

         
                              ・所在地 埼玉県熊谷市上奈良(字御霊)1286
              ・ご祭神 武甕槌命
              ・社 挌 旧上奈良村鎮守・旧村社
              ・例祭等 節分祭 23日 春祭り 415日 夏祭り 715
                   秋祭り 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1817053,139.3591742,16.29z?hl=ja&entry=ttu  
 熊谷市上奈良地区に鎮座する豊布都神社の御祭神は武甕槌命であるが、嘗ては御霊社と称し、鎌倉権五郎を祀っていたという。創建は慶安2年(1649年)。当時荒川は上奈良地区近郊に流れ、その河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした、と一の鳥居前の案内板では創建に関しての記述をしている。
                         
                 北側にある一の鳥居。その傍に社号標と共に案内板がある。
             
 豊布都神社(ごりょうさま)  熊谷市上奈良1286
 御由緒(歴史)
 当社創建の年代は不明であるが、慶安二年(一六四九〜江戸時代)に今の地に祀られたとあり、約三百年前と推定される。「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっている。鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れており、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼び、今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地である。
 ご祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安するも明治五年九月には、今の武甕槌神に改め社名も豊布都神社と改称す。
 往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。
 本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっている。本殿内には、元禄十二年に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に「武甕槌神」と書された神璽が奉安されている。
 老朽化した本殿を始め拝殿・幣殿を昭和五十九年一月に再建すると共に境内整備を終えた。その後、平成十六年には念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築をおえた。(中略)
                                                                案内板より引用

 境内は狭いからか北側にある一の鳥居から途中直角に曲がり二の鳥居があり、その扁額には「御霊大明神」と刻まれている。やはり昔は鎌倉権五郎を祀る「御霊社」だったのだ。
             
               二の鳥居に「御霊宮大明神」と刻まれた社号額(写真左・右)
 
           東向きにある社殿参道               社殿の右側にある「本殿末社修復記念碑」
                
                                拝   殿
豊布都神社(熊谷市上奈良字御霊)
 利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所である。地内には平安期の奈良館跡がある。
 当社は元来御霊社と号していた。『風土記稿』には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる(以下略)」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、その背景にはかつて地内に荒川の川筋があったことが挙げられよう。往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測される。ちなみに、当時の荒川は当社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられている。
 本殿には、像高三〇センチメートルの座像が奉安されており「権五郎尊像 元禄十二己卯天(一六九九)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られる。
 明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年に祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称した。豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存する 
                                                          「埼玉の神社より引用                              
               
                            拝殿に掲げてある扁額

 ところで話は横道に逸れるが、この奈良地区は昔から湧水が豊富だったようで、律令時代の和銅年間に大量の涌泉が湧き出て、六百余町の壮大な水田を造成させたまさに水の宝庫という地であった。近隣には水に関連した地名である「玉井」地区もあるし、さらに7世紀以前からの祭祀遺跡である西別府祭祀遺跡にも御手洗池と書かれた湧水の源泉池が現在でもあり、一帯が湧水が豊富に存在していたことを物語っている。
 また
西別府祭祀遺跡のすぐ西側には幡羅郡の郡衙跡である幡羅遺跡もあり、幡羅郡の中心地帯にこの奈良地区も含まれていたと思われる。しかもこの奈良地区の中心を南北に縦断する道こそ東山道武蔵路であり、筆者の身勝手な想像ではあるが、地形上かなり重要の地ではなかったのではないだろうか。
             
                                 本  殿
 
       社殿の右側にある境内社 八幡神社            八幡神社の奥にある境内社 八坂社
 
                八坂社の奥にある石祠(手前)                       社殿の左側にある琴平神社
 上奈良村 御霊社
 村の鎮守にて、祭神は鎌倉権五郎景政なり、社内に本地佛愛染を安ず、慶安二年八月廿四日、當社領及別當寺(東光寺)領とも合て、十石の御朱印を附せらる。
 鐘楼。正徳元年九月鋳造の鐘をかく。
 末社。牛頭天王、八幡、稲荷、金毘羅
                                           『新編武蔵風土記稿』巻之二百二十九より引用

        
                手水舎の近くにある御神木           一の鳥居の近くにある桜の大木

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正代御霊神社及び早俣小剣神社

  源義平は平安時代末期の武将で、源氏の棟梁である源義朝の長男であり、鎌倉幕府をつくりあげた源頼朝の兄にあたる。15歳の時(1155年)比企郡の大蔵合戦で叔父の義賢を殺して武名をあげ,鎌倉悪源太と称された。ちなみにこの「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。
 1159年平治の乱で遠く関東にいた義平は、手勢を引き連れて京の父義朝のもとに参陣し、死闘を繰り広げる。特に六波羅の戦いでは平氏の嫡男平重盛の兵力500旗をわずか17旗にて打ち破っている。
 源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故(「尊卑分脈」によると橋本の遊女とも)官位叙任は他の兄弟よりはるかに低く、その活躍時期も短いとはいえ、その知名度は保元の乱の源為朝に匹敵する程。その一生は短いながら、颯爽と時代を駆けのぼって昇華したイメージが強い。
 東松山市正代地区に鎮座する御霊神社は、その源義平を御祭神とする社である。
所在地   埼玉県東松山市正代841
御祭神   源義平
社  挌   旧村社
例  祭   7月25日に近い日曜日 正代の祭りばやし

         
 正代御霊神社は国道407号の宮鼻交差点を東方向に約1km位の場所に鎮座する。この正代地域は、北に都幾川、南に九十九川と越辺川が流れ、3つの河川が合流する手前の台地上という戦略上の要地に位置しており、平安時代後期から鎌倉時代にかけてこの地に在住していた小代氏の館跡とも言われている。
 小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まる。
            
                            正代御霊神社正面
 この正代地区は、小代の「岡の屋敷」と言われ、源義平が大蔵合戦当時、屋敷を造って住んでいた場所とも言われている。つまりこの正代の地は、義朝にとって武蔵国平定を阻む義賢の本拠地である比企郡大蔵に対しての前線基地であり、義朝の子供がその地に在住していたということは、この小代氏は義朝にとって信頼できる配下であったのだろう。
             
 小代行平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源頼朝に仕えた武将で、頼朝が治承4年(1180年)に挙兵した当時から参陣していて、一の谷合戦や奥州合戦に従軍し、本領武蔵国小代郷のほか越後国中河保,安芸国見布乃荘等の地頭職を与えられ,鎌倉御家人小代氏の基礎を築いた人物である。この行平は義平在住当時(1155年頃)からこの地にいたかどうかは不明だが、「小代行平置き文」と言われる小代八郎行平から数えて四代目の伊重が、八郎行平の行状を子孫のために書きとめた文章によると、義平を祀った経緯について以下の記述がされている。

 「小代ノ岡ノ屋敷ハ、源氏ノ大将軍左馬頭殿(源義朝)ノ御嫡子鎌倉ノ右大将(頼朝)ノ御兄悪源太殿(義平)伯父帯刀先生(たてわきせんじょう)殿(源義賢)討チ奉マツリ給フ時、御屋形ヲ作ク被レテ、其レ二御座(オワ)シマシテ、仍テ悪源太郎ヲ御霊(ゴリョウ)ト祝ヒ奉マツル。然レバ後々将来二至ルマデ、小代ヲ知行セン程ノ者ノ惣領主ト謂イ庶子ト謂イ、怠リ無ク信心致シテ、崇敬シ奉ル可(キ〕者也」

 源義平がこの正代岡の屋敷にいた当時、小代氏の当主は行平だった確証はない。先代の遠弘であった可能性が高いと思われるが、義平と同年齢だった可能性も無いわけではない。むしろ同じ時代に、共に同じ環境で過ごした時期が多ければ多いほど最後の一文「怠リ無ク信心教シテ、崇敬シ奉ル可・・・」の文章の重みを感じると思われる。あくまで想像だが。
                                    
 鳥居のすぐ先には樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mの御霊神社のケヤキが聳え立っている。東松山市内一の高さを誇る赤ケヤキともいわれている。この大ケヤキは平成20年3月1日市の銘木として認定されている。
                        
                              拝    殿

       社殿の左手奥にあった境内社              本殿裏にある稲荷社と古い石祠
            
                     社殿の左側手前に合祀されている三社
 明治42年5月に置かれた。向かって左に弁天の市杵島神社、中央に東形の八坂神社、右手に田谷の稲荷神社を祀っている。
           

 正代の祭ばやし  昭和六十年七月十七日  市指定無形民俗文化財

 正代の祭ばやしは、七月二十五日(現在は七月二十五日に近い日曜日)の夏祭りに、鎮守五霊神社で、無病息災を祈願して、氏子の「正代はやし連」の人達によって奉納されます。御輿と屋台を連ねて、正代地区を一巡します。屋台の上では大太鼓一・小太鼓二・笛一・すり鉦一の五人構成で、これに踊りや芝居がつきます。
 現在のはやし連が出来たのは、昭和六年のことで、市内古凍から師匠を招き、また、坂戸市塚越にも出向いて習ったものです。「囃子連帳」には、このときの様子が「昭和六年農村ハ日毎経済ニ疲レ囃子ヲ頼ム経費スラ容易デナイ実情二ナリ此処二将来ヲ思ヒ村ノ経費ヲ幾分ナルトモ減少ショウト云フ意気二モエ心ヲ合セ囃子連ガ成立シマシタ」と記されています。(中略)
                                                             案内板より引用

 この正代御霊神社は主祭神は、旧来から鎌倉権五郎景正といわれてきた。本来の「御霊」信仰の対象だからだ。鎌倉悪源義平がこの正代地区に来る前の信仰がまさに「御霊」神、つまり、片目の鎌倉権五郎を祀っていた鍛冶採鉱の民がこの地にいたからだろう。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、「小代鋳物師」がこの地域に嘗て存在していたという。


早俣子剣神社
 越辺川は東に流れ、そして都幾川に合流する。その合流地点近くの早俣地区の都幾川が形成した自然堤防の微高地に早俣子剣神社は鎮座する。
所在地    埼玉県東松山市早俣423-1
御祭神    日本武尊、剣根尊
社  挌    旧村社
例  祭    10月17日 秋祭り
           
 早俣小剣神社のご神体は日本武尊、剣根命。神社のご神体「小剣大明神像」は源頼朝の家臣、源森次が奉納したと伝えられる。当地の千代田竹雄家は、その子孫といわれ、旧4月10日先祖祭として森次ほか祖霊を祀っている。
           
                            正面一の鳥居
  
 社殿の手前、左右には石祠が対峙するようなかたちで祀られている。社殿の左側には天神社の石祠と幟織姫大神の石像(写真左)。この幟織姫大神は安政五年(1858)六月建立と刻まれている。また右側には稲荷社があり(同右)、その台座には弁財天の眷属である15人の童子がやはり浮き彫りにされている。
 この石像に彫られている幟織姫大神が持っているのは糸巻きで、この地域は嘗て養蚕が盛んだったということを調べてみて初めて知った。
                       
                              拝    殿
 都幾川と越辺川の合流地点近くに鎮座する社ゆえに、社殿の地盤基礎部分がやはり高くなっている。洪水対策であろう。

      拝殿の上部に掲げてある社号額                    拝殿内部
           
 すぐ近くには正代運動広場があるが、社の周囲は遊歩道はあるが、今では珍しい舗装されていない道ばかり。人里離れたこの地に鎮座する社を維持する氏子の皆さんの苦労がしのばれる。

 また社の南側には小剣樋管と言われる堤防を横断する水路があり、一の鳥居付近にはその水門を監視するカメラが設置されていて、一面長閑な風景の中に、世知辛い現実を見る思いで何となく違和感を感じた。     
                   

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宮鼻八幡神社

 高坂台地は東西約9,5km、南北約8kmの狭い丘陵地である。標高は70~140mで,高坂台地と都幾川や越辺川支流の九十九川の河川によりできた低地との境には多数の湧水が湧き出ていている。都幾川南岸(東光院下の清水、高済寺下の清水)の2箇所、越辺川北岸(宮鼻の清水、寺下の清水、中形の清水、木下の清水、観音下の清水)の5箇所を総称して高坂七清水と呼ばれている。
 越辺川北岸にある5箇所の湧水の近くで、河川が造る浸食斜面及びその斜面台地上のに立地している神社が多数あり、河川及び水資源に関連した社ではなかったかと思われ、台地上に鎮座する原因や、その社会的な機能があったのではないかと考えられる。
 現代社会は河川改修や地盤の改良の技術が飛躍的に進み、また経済成長という時代背景によって、多くの台地も一面住宅地化され、道路も舗装化された。それ故に多くの台地の地理的な特徴を無視した開発は、河川の氾濫や土砂災害などの増加を招いたと考えられる。
 その意味において、高坂台地に限らず、多くの河川浸食斜面上に鎮座する社の歴史的な意味を明らかにすることは、とりもなおさず、現代に生きる我々が抱えた自然災害等を未然に防ぐ何かしらの啓示となるのではないだろうか。
所在地    埼玉県東松山市宮鼻216
御祭神    応神天皇(推定)
社  挌    旧村社
例  祭    4月第1日曜日 春祈祷 獅子舞  11月 3日 秋の大祭 
           

        
 宮鼻八幡神社は国道407号を高坂神社交差点の南側二つ先の宮鼻交差点を左折し、南側約300m位の越辺川支流九十九川北岸の段丘上に鎮座している。南側は九十九川が東西に流れ、段丘の丘から眺めるその風景はなかなか雄大であり、豊かな土壌であったと同時に河川の氾濫等、水害の被害もさぞや多かったのだろうと勝手に思ったりしてしまった。
 ちなみに駐車スペースはなかったので、路駐し、急ぎ参拝をおこなった。
           
           
                           宮鼻八幡神社正面
 言い伝えによると創建は清和天皇の貞観年間(859年~877年)と言われている由緒ある古社。昔は宮鼻村の鎮守八幡社だったが、現在の八幡社に改称している。

              拝    殿                          本    殿

 社殿の右側手前には天満天神社、日枝神社、それに何故か大狼の神である大口真神(写真左)が鎮座し、社殿左側には稲荷神社(同右)が鎮座する。大口真神がこの地に祀られていること自体正直驚きだ。
           
                     八幡神社の境内に大きく聳える大欅。
            この御神木を見るために今日この地に来たといってもいいくらいだ。
           
市指定文化財 天然記念物  
八幡神社の大ケヤキ(昭和三十七年三月二十六日指定)
 県の木として親しまれてきたケヤキ(昭和四十五年「県の木」に選定)は、ニレ科の落葉高木で、本州・四国・九州に広く分布しています。
 ケヤキとは、「けやけき木」で、「際立って他の木より目立つ木」の意味があり、空を突く美しい堂々とした樹形や巨大な幹は遠くからもその優雅な姿から他の樹木と見分けることができます。
県内では東部の低地からから秩父山地にかけて分布し、台地から低地に移る傾斜地や山間の肥沃地に生育しています。越辺川沿いの低地に接する高坂台地南部の傾斜地には今でもケヤキだけでなく、ムグ、エノキなどの同じニレ科の大木が多く見られ、昔から川岸の斜面林として発達してきました。
 またケヤキは農具や家具の建築材として優れていることから、江戸幕府が農民に植栽することを推し進めてきたことなども、農家の屋敷林や寺社林として多くみられる所以となっています。
 この宮鼻の八幡神社にあるケヤキは根回り八、〇m程もあることから、樹齢は約七〇〇年と推定されます。八幡神社の御神木とされてきたこのケヤキは、古くから地域の人の心の拠り所であり、農作業の合間の涼をとる憩いの場所として親しまれてきました。長い年月の間に幾多の台風などにより、主幹部は空洞化していますが、根元の太さはその長い歴史を物語っています。
                                                             案内板より引用
                 

 迫力ある雄々しい姿である。主幹部は空洞化し、ステンレス製の帯で幹が解体しないようにか巻かれていて、何となく痛々しいが、紅葉の季節でもその葉は主幹部の周りの枝に大量に生え、生命力の大きさを感じさせてくれる。まさに御神木。その存在感は圧巻でもある。

 また宮鼻八幡神社には獅子舞も市指定無形民俗文化財に指定されている。
           
宮鼻の獅子舞 
 昭和五十五年一月十日 市指定無形民俗文化財
 宮鼻の獅子舞は、四月一日(現在は四月の第一日曜日)の春祈祷に、鎮守八幡神社に奉納されます。引き続き、悪病除けに部落内を行列して歩く「廻り獅子」が行われます。
 行列は猿田彦之命(宮鼻では「おクニさん」と呼んでいる)が道案内役として、先頭に立ち、笛太鼓がそのあとに続きます。十月十七日(現在は十一月三日)の秋の大祭は風雨従順、五穀成就、氏子快楽を祈願するもので、八幡神社で獅子舞を奉納したあと香林寺でも獅子舞が奉納されます。このときには、万灯が行列の先頭に立ちます。
 この獅子舞は、昔、風水害にばかり合い、村人たちが悲惨な毎日を送っていたので、獅子舞を神社に奉納することになったのが始まりと言われています。
 宮鼻の獅子舞は、一人立ちの三匹獅子舞で、女獅子・中獅子・宝丸獅子・簓子(ささら)、笛吹き(笛方)、歌うたい(歌方)、ぐんばい(囃子)、万灯持ち(花車持)、世話役(世話掛)で構成されています。その他の役人として、竹の三尺棒(昔は刀をさしていた)を持った七人の警固がいます。
 獅子頭は、現在六基ありますが、そのうち三基は、創始当時の木彫りの重箱獅子で、約百八十年前の文化二年(江戸末期)のものと伝えられています。
                                                             案内板より引用

 八幡神社が鎮座する「宮鼻」という地名は、どのような語源なのだろうか。調べてみると本来は海岸線の海に突き出した地形を「はな」と言い「端」や「鼻」の字をあてたらしい。また陸地でも平野部に突き出した高台の尾根の端あたりの地がそれにあたる。

 偶然の発見だが、さいたま市大宮区に鎮座する大宮氷川神社の所在地の大字も「高鼻」だ。この高鼻地区もすぐ東側には江戸時代までは見沼(御沼、神沼とも呼ばれたらしい)がY字型3方向に湾曲して伸びていて、岬や入江も多い複雑な地形を形成していた。高鼻地区はその西側の高台の突き出た端部分に当っているという。

 何気なく使用している地名にも奥深い由緒、由来があるものだと改めて感じた次第だ。
      
                                    

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高坂神社

 高坂台地は、関東平野西部中央、埼玉県東松山市の南部に広がる 関東ローム層からなる台地である。西側の岩殿丘陵から東側の低地に連なる斜面上にあり、台地の北側を都幾川が、南側を越辺川が流れており、その河川に挟まれているため台地としての面積は狭い。
 この高坂台地内の東側に高坂古墳群があり、築造年代4~7世紀と言われているが、この古墳群から平成23年10月半ばに三角縁神獣鏡が発見された。埼玉県では初めての発見という。ほかに捩文鏡(ねじもんきょう、直径7,4cm、4世紀)、鉄製槍鉋(ヤリガンナ、長さ9,5cm)1本、凝灰岩製管玉15点、水晶製勾玉1個なども出土した。
 高坂地区を含むこの東松山比企地方は、外秩父山地・比企丘陵・岩殿丘陵・松山台地・高坂台地・荒川低地と多様な地形に恵まれ、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、北武蔵国の一大根拠地の一つであったと言われている。古墳の多さ、古さ、遺跡の数も北武蔵の中でも北埼玉や児玉地方とともに古墳時代に北武蔵で古くから発達した地域といえる。

所在地     埼玉県東松山市高坂1061
御祭神     日本武尊
社  格     旧村社
例  祭     夏祭り(8月1日天王様 御神輿渡し) 秋御日待祭(10月17日)

             
 高坂神社は、東武東上線高坂駅から東方向に400m位の場所に鎮座している。熊谷市から国道407号線を東松山、坂戸方向に南下し、途中高坂神社(東)交差点を右折するとすぐ右側に高坂神社が見える。駐車スペースは参道右側に数台停めることのできる空間があり、そこに停めて参拝を行った。
             
             
                            一の鳥居と正面参道
            
                                拝    殿
 高坂の地は、地の利を生かして古くから交通の要所であり、また、人も集まり神への信仰も厚かった。高坂神社は高坂の鎮守として祀られ、大同年間(806-10)、坂上田村麻呂がこの地を通った時に、かつて日本武尊が東夷征伐をした故事をしのび、記念にこの地に日本武尊を祀ったという。当初は八剣明神社と称したが、明治42年2月19日に現在名である高坂神社に改称した。
                     
                              本    殿
 
             本殿内部                       社殿左側にある忠魂碑
 社殿の左側奥には小高い丘があり、その頂上には忠魂碑が立っている。調べてみると、この小高い丘は古墳らしく、この高坂台地上には中央部には高坂古墳群、台地北縁部には諏訪山古墳群、南部に毛塚古墳群で、消滅した数を含めると総計約100基存在する。この高坂神社境内にある古墳は高坂古墳群9号墳で、低い墳丘に神社社殿が食い込んでいる状態であるという。
 この9号墳の北側には高坂古墳群8号墳が隣接して存在していて、平成23年発掘調査が行われ4世紀中頃築造と推定される前方後方墳と判明したが、その8号墳と9号墳の間で埼玉県初の出土である三角神獣鏡、正式には「三角縁陳氏作四神二神獣鏡」というらしく、同じ型の鏡が確認されていない新発見のタイプのもの。
           
       拝殿と本殿の間には嘗て古墳の石棺の蓋部分ではなかったかと思われる板石がある。
                 今では本殿と拝殿の通路代わりになっているようだ。

 ところで8号墳は当初円墳と思われていたが、調査の結果前方後方墳の可能性が高いらしい。またこの8号墳からは管玉・勾玉・ヤリガンナの他に捩文鏡(ねじもんきょう)と言われる直径7.9㎝、ねじりひも状の文様が表現された青銅製の鏡が出土された。

 また高坂古墳群の南側で、桜山台地区には、「桜山窯跡群」がある。埼玉県東松山市指定史跡で、南比企丘陵の物見山から南東に延びる尾根の東端斜面に立地しており、発掘調査によって、古墳時代後期につくられた須恵器の窯跡2基、埴輪の窯跡17基、住居跡が3軒発見されている。埼玉県内で発掘された須恵器としては最古に属するものであり(須恵器窯は6世紀初頭頃操業で東日本で最古級。埴輪窯は6世紀前半から後半頃にかけておよそ50年間操業したらしい)、埴輪窯跡と共に古代の窯業生産と製品の流通を知る上で貴重な遺跡であるという。六世紀半ばから後半にかけてはじまった埴輪窯(円筒埴輪、人物、動物埴輪など)では、その一部が行田の埼玉古墳群でも使用されたともいう。

 高坂地区を含むこの比企地方一帯には、異常に古墳や窯跡が多い。古墳の数は800基とも。このあたり一帯は、古墳時代から奈良・平安にかけて北武蔵の中心地であり、一大工業地帯であったことは「桜山窯跡群」や嵐山町、玉川町にかかる「南比企窯跡群」等をみれば一目瞭然である。

 では5世紀後半から7世紀にかけて、埼玉(さきたま)に君臨していた埼玉古墳群の王者との関係は如何なるものだったのだろうか。ちなみに野本将軍塚古墳以外この地域には大型古墳は築造されていない。この大型古墳を造った一族はその先どのような歴史の変遷をたどったのだろうか。



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矢納城峯神社

 平将平は、平安時代中期の武将で、平良将の子で平将門の弟。豊田郡大葦原に居を構えていた事から「大葦原四郎」と称していたという。平将門は関東一円を占領し新皇となり、将平はその際に上野介に任命されていた。
 この平将平は生粋の坂東武者である反面、良識ある人物であったようだ。兄・将門が関東一円を占領し、新たに新皇になる際に伊和員経らと共にこれを諌めたという。

 「夫レ帝王ノ業ハ、智ヲ以テ競フベキニ非ズ。復タ力ヲ以テ争フベキニ非ズ。昔ヨリ今ニ至ルマデ、天ヲ経トシ地ヲ緯トスルノ君、業ヲ纂ギ基ヲ承クルノ王、此レ尤モ蒼天ノ与フル所ナリ。何ゾ慥ニ権議セザラム。恐ラクハ物ノ譏リ後代ニアラムカ。努力云々」
 
(口訳)「だいたい帝王の業というものは、人智によって競い求むべきものではなく、また力ずくで争いとるべきものではありません。昔から今に至るまで、天下をみずから治め整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべてこれ天が与えたところであって、外から軽々しくはかり議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の譏りを招くことに違いありません。ぜひ思いとどまりください。」

 その後将門は討伐さて戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。その後無事乱を平定した秀郷はねんごろに祭祀を行い、城峯の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになったという。
 秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことも事実で、真相は如何なるものだろうか。
所在地    埼玉県児玉郡神川町大字矢納字東神山1273
御祭神    大山祇神
社  挌    旧郷社
例  祭    5月5日例大祭

        
 矢納城峯神社は神川町の細長い町域の南方にあり、神流川、下久保ダムを挟んで反対側にある神川町の城峯公園を目指すと良い。国道462号線、またの名を十石峠街道を神川町から神流川沿いに元神泉村方向に進み、途中譲原地区より左に折れて埼玉・群馬県道331号吉田太田部譲原線となり、そのまま道なりに進む。県道331号は延命寺付近で分岐し、山道特有の細い曲がりくねった道をしばらく進むと、城峰公園が見合てくる。その公園入り口に対して向かい側に矢納城峰神社の鳥居がある。
 鳥居の向かって右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。参拝日は11月の下旬で丁度城峰公園の冬桜のシーズンで観光バスや観光客が沢山いて、公園の駐車場が全く使用できない状態だった。
           
 鳥居正面には観光バスが一列縦隊状態で、そこから撮影を強行することは慮ったため、右側にある社の専用駐車場側から逆光を覚悟で撮影したが、やはり逆光状態になってしまいうまく撮影できなかった。

    駐車場近くにあった城峰神社の案内板        鳥居の先には趣のある杉並木の長い参道
              
                 参道を進むと城峰神社の二の鳥居が見えてくる。

 神川町ホームページには「矢納」の語源について以下の説明をしている。

地名の謂れ 「矢納」
 昔、東国が乱れ人々が大変苦しんでいるという事を心配された天皇は、吾が子「日本武尊」に「東国の乱れを治めよ。」と命じた。
 日本武尊は、早速軍備を整、大勢の家来を引き連れてこの山深い村に立ち寄った時の話です。
 この地についた日本武尊は周囲の山々を見わたし、一際高い山に登り頂上に立って周囲の山々や峯々を注意深く見わたしたのです。その時何故か武尊は「大きな、ため息」をつかれたそうです。
 周囲の山々の様子を眺められ秘策を練られた武尊は足元の「大岩」に背中につけていた矢を1本取り出し、力をこめてその大岩に矢をつき立てたのです。そして大きな声で、「私は、此処から見渡らせる緑の峯々をこの手中に治めたい。」と家来の前で力強く「宣言」をされたのだそうです。
 大岩に「矢」を突きたてたという事が後々まで語り伝えられた事から、この大岩を「矢立の岩」と呼ぶようになったのだそうです。
 武尊がこの地に入られるという知らせを受けた村人たちは、こぞって村の入り口近くまで出迎えたといい、この場所を「迎え平」と呼ぶようになり
 何時しかこの地が「迎え平」という地名になったといわれています。
 尚、柚木家に残る三枚の版木の一枚には、武尊が東征の際当地に立ち寄られた折り、弓の矢の根を御祠に収め「大山祗命」を祀られたということから、以来この地を「矢納村」と名付けられたと村名の由来が版木の一枚目に書き記されているという事です。
                                                      神川町 ホームページ参照
             
            鳥居のある石段を過ぎると城峰神社の由来を記した案内板がある。

 郷社 城峯神社御由  埼玉県児玉郡神泉村大字矢納字東神山
 由緒
  人皇第12代景行天皇の41年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に至り給い当山に霊祀を設け遥に大和畝傍山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告し給い且つ躬ら矢を納めて大山祇の命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山の起源にして当村矢納の地名も此の古事に縁由せり、天慶3年平将門の弟将平矢納城を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向かい当山祭神に賊徒平定を祈願し乱治って後厚く祭祀を行い城峯の社号を附せり、天録2年本殿を建つ(中略)
                                                             案内板より引用

 そもそも神川町は埼玉県の北西部に位置し、県境を流れる神流川の右岸に広がる平坦の地域と、その上流部の秩父山系に属する山間部で形成されている。現在の行政単位においては埼玉県に属してはいるものの、市街地は主要地方道である上里鬼石線沿いに形成されていて、山間部近くの元神泉村地区は、つい最近まで元鬼石町との婚姻が数多かったように、神流川左岸の群馬県藤岡市鬼石町との交流が昔から盛んな地域であった。
 またこの神泉村の周辺には、「神山」、「両神山」、「神流湖」、「神流川」など不思議と「神」と名がつくものが多い。そして神流川の北側対岸には「鬼石町」。この鬼石町には以下の伝説がある。
 
 上野国志御荷鉾山の條に「土人相伝、往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の為に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落ちる地を鬼石といふ
 
                                                           鬼石町誌より引用

  この城峰神社が鎮座する旧神泉村周辺域には「日本武尊伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝承・伝説が混在している神話の宝庫であり、現在の長閑な風景では到底考えられない位、真に不思議な地域だ。
 不思議ついでにもう一つ。矢納地区にある城峰神社のすぐ南側に同名の城峰神社がある。こちらは秩父市吉田地区石間の標高1038mの城峰山の山頂近くに鎮座していて、やはり平将門伝説が伝わっている。
 
ちなみにこの城峰山は『武蔵通志(山岳篇)』には安房(あふさ)山と書かれている。

 吉田地区石間城峰山の将門伝説
 下野の豪族、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に追われた平将門は城峰山の石間城に立てこもって戦いましたがついに落城。将門は捕らえられました。しかしその後将門そっくりの影武者7人が捕らえられ、秀郷は誰が本物の将門かわからなくなりました。そこで将門の侍女、桔梗にたずねたところ「食事をする時にこめかみが一番よく動くのが上様でございます」と答え、秀郷は本物の将門だけを討ち取りました。将門は怒り「桔梗よ、絶えよ」と叫んで死んだため、以後この城峰山には桔梗が咲かないようになったという。

 この吉田地区石間城峰神社拝殿には大きく金色で「将門」と書かれている。この社の御祭神は何故か平将門を討伐した藤原秀郷が建立し祀られている神社であるのに、敵対していた平将門の名が記されている。

 なにかしっくりしない伝説と現実との乖離がここには存在する。

 社殿に通じる石段を登り切るとその両側に日本武尊にちなむ山犬(狼)型の狛犬(写真左、右)が控えている。
 神様のお使いは、動物に姿を借りて現れるが、これら神様のお使いのことを総称して「眷属」(けんぞく)という。
 城峰神社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、真神は古来より聖獣として崇拝された。狼が「大口真神」になったのは江戸あたりでそれまでは「オオカミ様」「ヤマイヌ様」と様々な呼び名があり、古くからは「狼」の「オオカミ」は「大神」にあたるとされ山の神の神使とされた。
 オオカミ信仰は、かつては秩父を中心に関東一円から  北は福島。西は甲斐や南信州まで多くの信仰を集めていたという。
            
                               拝    殿

  秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
 矢納城峰神社は昭和40年代まで毎月1日と15日に「お炊き上げ」が行われていたという。本殿右手にある石組みの処が「献饌場所」になっており、お饌米は黒塗りの会席膳に盛られ、息が掛かると「お犬様が嫌って食べない」ので、膳部から口を逸らせて捧持する仕来たりであったと伝えている。
  
            
                          城峰神社境内にある「亀石」

 矢納城峰神社の奥には標高732mの神山がある。神山山頂は奥行きのある平坦地で、城があったとしてもおかしくない地形である。また、古代より信州と武蔵を結ぶ重要なルートであった神流川沿いの街道を見下ろす戦略上の地点にあり、なにより「神山」という山名が古代においてはとんでもない名山であったのではないか、という考察を抱かせてしまう程のインパクトがある。
 上記において、この地は「日本武命伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝説、伝承が混在した神話の宝庫と書いた。しかしこの地にはもう一つ重要な伝説が存在している。
 その伝説は「羊太夫伝説」だ。
 羊太夫伝説は西上州から秩父地方が主要な分布地となっている。(*但し質、量共に西上州の分布が圧倒的に多いが、『羊太夫伝説』によると羊太夫は秩父黒谷の銅山採掘の功により多胡郡の郡司となった経歴があることも参考としなければなるまい。)
 この二つの地域の中間地域にこの神泉地区がある。考えるに奈良時代前後、古代のこの地域の道は後代の鎌倉街道のルートよりも西側、つまり武蔵国における「山の辺の道」の一つとして鬼石から神泉村を経て皆野町国神に至るルートがすでに存在していたのではないだろうか。あくまで推測にすぎないが。


 神山の北側には、神流川を堰き止めた人工湖がある下久保ダムと神流湖があり、川は群馬県との県境である。
            
 そして矢納城峰神社のすぐ東側には城峰公園があり、参拝時期も11月中旬で丁度冬桜が咲いている時期にあたり、多くの観光客が見物に来ていた。
            
 城峰公園までの道のりはかなりの山道であるが、日当たりのよい場所にはこのような冬桜ががまわりの木々の紅葉とマッチして運転中にも関わらず、急停車して思わずその風景に見入ってしまった。今回は矢納城峰神社の参拝を優先していたため、また次の参拝先も決まっていたため、城峰公園の散策はできなかったが、次回の楽しみに残しておこう。
 この冬桜は、薄紅色の小さな八重の花をつける「十月桜」で、その特徴は、花が4月上旬頃と10月頃の年2回開花することだ。花は十数枚で、花弁の縁が薄く紅色になる。また萼筒が紅色でつぼ型である。春は開花期に新芽も見られる。また、秋より春のほうが花は大きいという。
            
                            山道沿いの見事な紅葉
 日本には四季折々の美しい風景がまだ残っている。また失われつつあるとはいえ、日本人にはその美しい風景を体で感じる感性も持ち合わせている。どんなに機械化、IT化が発達しても、日本人のDNAには縄文時代から受け継いだ遺伝子がまだ体内にあると信じている。

 現代はバブル崩壊後の不況の真っただ中にあり、さらに東日本大震災や御嶽山の噴火等の自然災害や放射能汚染の人為的な災害、さらに世界を見ても、イラク問題やテロの問題いずれを取り上げても、現在人類は大変な危機に直面している。この状況を救い、切り抜けることのできる一つの方法は、多様な文化を包括的に包み込むことができ、自然と共生できる日本の文化ではないかと考えている。

 日本人は謙虚な人種と言われている。それはそれで決して悪いことではない。ただ我々日本人もこのような自分の文化にもっと誇りと自信を持つべきではないだろうか、と今回矢納城峰神社の参拝中の折に感じたことを何となく感じた次第だ。
 

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