古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本郷藤田神社

  藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称した。行康は源平合戦の一の谷生田森の戦いで討ち死。その子能国・孫能兼は承久ので活躍した。このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げた。永亨のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進。
 長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき藤田三郎は長尾景春にくみして戦った。永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。
 天文初年藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同十五年、川越合戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。
 史料に拠れば右衛門佐は康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。
 その用土地区北方で、旧岡部町本郷に藤田神社は鎮座している。

所在地   埼玉県深谷市本郷1525
御祭神   伊弉諾尊 伊弉冉尊
社  挌   不明
例  祭   10月14日(秋季大祭)

   (後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
        
 本郷藤田神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉方向に進み、針ヶ谷地区を越えた本郷駐在所前交差点を左折し、そのまま道なりに行くと2、3分で右側に鎮座する。この社は道沿いにあり、境内は広く奥行きもある。境内北側には社務所があり、そのすぐ隣には駐車スペースもありそこに車を停めて参拝を行った。
           
  道路沿いにある一の鳥居、その奥には二の鳥居がある。一の鳥居の左側には社号標が屹立している。
           
                       鳥居を越えると長い参道が続く。
 
          参道左側には神楽殿                                         右側には境内社、飯玉社か

 藤田神社の獅子舞は、例大祭に合わせ、7月第3土曜日及び、10月中旬に行われている。この獅子舞は法眼、男獅子、女獅子の3頭からなり、神社の夏祭りや秋祭りで奉納される。秩父の皆野­より江戸時代に伝授されたと伝わり、雨乞いや悪疫退散祈願を目的に奉納されてきたもの­である。またある説では慶長5年(1600)、地頭花井伊賀守が、疫病退散のため、左甚五郎作の獅子頭を藤田神社に奉納したことによるとも言われている。
 この藤田神社の獅子舞は、深谷市指定無形民俗文化財に昭和51年11月3日に認定を受けている。
           
                               拝   殿
           
                              本   殿
 延暦(782~806)の昔、坂上田村麿将軍の東夷征伐の途中、藤田社に詣でて武運を祈ったという。そのとき持っていた藤の鞭を地上に逆さまに挿し、「我が軍利あらば繁茂せよ」と誓うと、その藤の鞭に根や葉が生じ、やがて将軍に軍功をもたらしたという。逆藤の旧跡は、現在も伝わっている。
 用土は戦国時代に藤田重利が隠居の後に移り住んだ地でこの地に居城(用土城)し、鎮守の社として藤田神社を創立したともいい、康邦夫婦と祖先正行の三霊を祀ったとという説もある。藤田神社は現在深谷市本郷にあるが、古くは字藤の木にあったらしく、その後明治3年に字中村に遷祀、明治41年に飯玉大神社の境内だった現在地へ移転し、従来の飯玉大神社は境内神社とされた。

 藤田氏は戦国時代には関東管領上杉氏の重臣で鉢形城主だった。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦に上杉方が敗北すると、多摩の豪族、大石氏と共に北条氏康に降伏し、氏康の三男氏邦を養子として家督を譲る。自らは鉢形城を出て当主の座を譲り、平野地で防御力の低い用土に館を構え、名も北条氏康の「康」、北条氏邦の「邦」の字を合わせ「康邦」と名乗った。(または名乗らせられた)
 その後康邦は用土城に入ると改名して用土新左衛門と名乗ったという。         

       
 社殿の右側にある合祀記念碑、社日、石祠群。石祠は右から外宮、内宮、天神社までは判別できるがその他は正面が削られて解らず。
          
                 社殿右側にある合祀社群、その奥にある境内社

 藤田神社の散策記を記していて、その途中から寄居町の地図を見ると、不思議に思うことがある。地図を見るとよくわかるが、この用土地区は、現在の寄居町行政区画でも寄居町の中心部から大きく北にかけ離れ、いわば「飛び地」のような形を形成しているのだ。
 上記の通り、藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷(現寄居町藤田)に拠って藤田を称したという。寄居町末野陸橋付近にあたる。歴史が下り、藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで着実に勢力を伸ばし、その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、北武蔵国随一の豪族に成長する。その寄居町の英雄である戦国時代の藤田氏の因縁の地であり、また終焉の地が用土地区なのだ。
          
                      静かに鎮座する藤田神社境内
 藤田康邦は重連・信吉という二人の子を連れて用土城に引退し、名を用土新左衛門尉と改め、氏邦の命令を家臣に伝達する立場となったが、その地位も次第に低いものとなったであろう。北条氏側から見ても藤田氏は邪魔者でしかなかったようで、康邦は天文24年(1555年)に亡ったが、その長男であり、名目とはいえ藤田家直系当主でもあり、北条氏邦の義兄である沼田城代、用土重連は天正6年(1578年)氏邦によって毒殺されたといわれる。
 用土は藤田氏の起源からその終焉を語る上においても重要な地であり、この地を寄居町側は決して手放したくない、そんな思いがこの行政上の区画割にも伝わる。 


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釜山神社

 秩父地方には狛犬ではなく狼を神犬とする神社が10数社ある。いわゆる真神(まかみ)という古名は現在は絶滅してしまった日本狼が神格化したものといい、別名大口真神(おおぐちまかみ)とも呼ばれる。真神は古来より聖獣として崇拝され、大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
 人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。しかし時代が流れ、人間が山地まで生活圏を広げると、狼は人と家畜を襲うものだという認識が広まった。そして狼の数が減っていくにしたがって、真神の神聖さは地に落ちていったという。
この大口真神を御祭神とする社が寄居町風布地区、釜伏峠に鎮座する釜山神社であり、この社は三峰神社に次ぎ狼像が多い社としても有名であるそうだ。

 ただこの真神が本当に狼の古名だったか、というと賛否が分かれていて、中には「記紀」に真神の記載がないことから否定する説もある。

 この釜山神社が鎮座する釜伏山は標高582mの低山で、外秩父山地の一端に位置し、男釜(おがま)・女釜(めがま)の2峰から成り、男釜は大里郡寄居町に、女釜は秩父郡皆野町にあり、その鞍部には秩父郡長瀞町から秩父郡東秩父村へ抜ける道路が通る。県立長瀞玉淀自然公園に属す。山名の由来は、日本武尊が東征の途次、神籬をたて粥を煮て、日の大神、神武天皇を遥拝し釜を伏せて戦勝を祈願したとか、大太坊という巨人が釜を伏せていったことからとの伝説があるが、ただ単純に、釜を伏せたような山の姿から名づけられたのが妥当と思われる。山は蛇紋岩より成り、頂は岩峰で、釜山神社奥宮の小祠がある。山頂からみて東側の釜伏峠に釜山神社がある。

所在地   埼玉県大里郡寄居町風布1969
御祭神   「木火土金水」の霊神 他
社  挌   不明
例  祭   例大祭 4月17日~19日
        児童福祉祈願祭 太々御神楽 5月5日

     * 釜山神社の神楽は、大正11年に秩父市太田の神楽師を招いて習ったもので、
          秩父神社神楽の流れを汲むという。

                   
  埼玉県熊谷から秩父に至る古道、秩父(甲州)往還の釜伏峠に鎮座する古社で、現在、国道140号は荒川沿いに通っているが、昔は荒川の岩場やらが危険な場所であったために、人は皆この釜伏峠を越えていたらしい。

 伝説や古文書、案内板等によると、第9代開花天皇の皇子、日之雅皇子命が武蔵野国を巡幸した折り、釜伏山・奥の院において祠を建て旅の安全と国内の平定安康を祈ったのが始まりといわれている。その後、日本武尊が巡幸した折、この神社に立ち寄って山頂において神様に供える粥を釜でたかれ、この釜を神体岩上に伏せ願望成就の祈りをしたと伝えられ、このことから「釜伏山」「釜山神社」の名が付けられたといわれている。ちなみに風布の地を通りかかった日本武尊が喉の渇きを覚え、岩肌に剣を振るうと、この泉が湧き出したとの伝説が残っていて、この泉は日本水(やまとみず)と呼ばれ、いかなる日照りの時でも、絶えることはないといわれ、現在「日本名水百選」に選ばれている。またその他の伝承として、日本武尊が粥を煮たのが粥新田(かゆにた)峠であり、地面に突き刺した箸が木になったのが、二本木峠の名の由来であると言われている。

 この社は鎌倉期は住吉神社と称し、のちにこの神社を含みもつ山すなわち釜伏山に合わせて釜伏神社となり、さらにずっと後の昭和初期に釜伏山と山王様を合わせて釜山神社としたという。
 釜山神社には様々な神様が祀られてるが、本来の御祭神はこの世の五大要素といわれ、火防や盗難除け、養蚕倍盛などの御利益があるとして信仰されている「木火土金水」の霊神である。 そして崇敬者が5,000名にも及ぶ釜山神社御眷属講(釜伏講)が組織されているなど、釜山神社の信仰は広い。
          
          
 釜山神社の入り口にある立派な社号標(写真上)と社号標のすぐ先の両側にある狛犬(写真下)。ちなみにこの狛犬の下の台座の一方に「釜伏神社」、「征露記念」と刻まれていることから、日露戦争直後の建立と思われる。ここから拝殿までかなりの距離を歩く。それまでに狛犬が何種類も登場する。オオカミ信仰らしい狛犬の配置状況で初めての体験だ。それにしてもこの雄大な自然の中に囲まれてポツンとあるこの社の存在は何か違った意味で異様な雰囲気を漂わせてくる。まず空気が違うのだ。
  
 参道を歩くと明治40年に建立した2番目の狛犬が登場する(写真左)。そしてすぐ先の鳥居の前には3番目の狛犬(写真右)、昭和51年に建立したものらしい。一般的に狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じているが、この釜山神社の1番目と2番目は狛犬の阿吽の形状がなく、3番目にして初めてその形が登場する。とにかく共通点といえば全ての狛犬は痩せ型であること以外は独特で、ユーモラスな物まである。
 
一の鳥居(写真左)。そして参拝当日は1月7日のため正月用しめ縄があり、すぐ先に4番目の狛犬が見えてくる(写真右)。この狛犬は正面を向いているのが特徴だ。かなり古そうでやはり痩せ形。
 
 参道を進むと左右には石碑と共に横に向けた釜がある(写真左)。社の名称に関係したものか。またその先やはり左側には大国主神と刻まれた石碑もあった(写真右)。紙垂(しで)が2枚あるのでもう1柱神を祀っているのだろうが、残念ながら祭神は不明。
 

 広い空間にやっと到着し進行方向は三方向に分かれる。正面には社殿は見え、右側には社務所がある。左側には神楽殿(写真上部左)、そしてその先には日本名水百選、日本水の案内板等がある(写真上部右)。その先にも道が続き、日本水の源流に向かう道があり、釜山神社の奥宮へ行く道らしい(写真下)が今回はそこまで考えていなかったので断念。
 この道は釜山神社社殿のすぐ左側を通り、この道のあちこちに石祠が点在しているが祭神等、詳細は解らず。
           
           
 参道の正面には5番目の狛犬が見える(写真上)。多分これが日本一新しい狛犬ではないだろうか。とにかくこの狛犬は大変可愛く、オオカミには見えない。狛犬の台座には「敬宮愛子内親王殿下御誕生記念」と書かれていて、それを祝して奉納したということらしく、その関係で可愛くしたのか、と勘繰ってしまった。そして拝殿に向かう前の石段に大正12年建立の6番目の狛犬が登場(写真下)。拝殿までに6体×2=12体の狛犬があったことになる。三峯神社の10対以上には叶わないが、オオカミ信仰の社の面目躍如というところか。
           
    神威輝四海と大書された拝殿釜山神社 拝殿。しかし「神威輝四海」とはいかなる意味だろうか。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額等の奉納額           拝殿内部 ここにも黄金の狛犬が
           
                   日本水源流に向かう道から釜神社本殿を撮影

 日本全国には狼(山犬)を祀った数多くの神社や寺等がある。狼は山の神のお使い「眷属(けんぞく)」として、田畑を荒らす害獣を駆逐する役回りがある。。また狼自身が大口真神として神格を持つ場合もあり、害獣を退けることから、悪しきものを噛み砕く神、魔伏せの神として崇められ、山の神が火伏せや多産、豊穣の神であることから狼もまた火防や安産、五穀の神として信仰をあつめることもある。秩父(甲州)往還沿いの山間部には、山犬、狼が持つ類いまれな能力に畏怖と畏敬の念を抱き、お犬様を神様として、また神様のお使いとして、その強いお力にすがり、ご神徳を求め、信心されているお社がたくさんある。

 秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
 釜山神社では、毎月17日が奥宮「お炊き上げ」で「月々の御眷属様のエサ」といい、饌米を持って奥宮に登り、「お炊き上げ祭」をして饌米を供えている。 この「お炊き上げ」の神事は、300年来、ひと月も欠かすことなく続けられ、その秘密の谷間の場所は、宮司のみの知る他言無用の地とされている。

*お炊き上げ神事
  神の意を知らせる兆しとして現れたお犬様(狼)が、その霊力を遺憾なく発揮していただくために、毎月の又は特定期間の特定日に「お犬様の扶持」、「お犬様のエサ」、「お炊き上げ」と呼び習わして、赤飯、小豆飯或いは白米を生饌のままや熟饌に調理し供える神事のこと。

             

 また釜山神社を代々祀ってきたのは新田家氏族岩松家の家系だそうだ。

 ・ 『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁神社調査団 埼玉県神社庁 1992)に〈釜山神社〉の項があり。天文二年(1533)、山頂にあった新田義宗の墓所に社を建てて、新田家の再興を願ったことが始まりで、以後氏神として岩松家が代々祀ってきた、との記述あり。また、「当時、峠の頂上から少し寄居方面に下った所に関所があり、当社はその関守を務める岩松家によって代々祀られてきた。この岩松家は、新田義貞の血を引く旧家で、(略)」とあり、
 ・ 『埼玉県秩父郡誌』(秩父郡教育会編 名著出版 1972)には「釜伏神社は釜伏峠にあり。(中略)當社の神職岩松氏は新田義宗の子孫にして徳川家康關東入國の頃より當地に居住し、天正十八年家康領内巡視の際には假殿を設けて休憩を乞ひしことあり。新田家末流たるの縁故を以て八町四方の除税地を拝領し、爾後江戸時代を通じて苗字帯刀を許され、郷士の待遇を受けたり。」とあり。

 真偽の程は定かではないが、歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、横瀬六騎と称していた。姥宮神社の項同様、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか歴史的にも共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。話の本筋はかなり脱線したが。

 ところで神社の左側の参道を進むと、丁度社殿の左方向で、斜面上にポツンと稲荷神社が1社鎮座している。
 
 お犬様とお稲荷様は、一緒に祀ってはいけないと聞いたことがあるので、オオカミ信仰の社の真っただ中に狛犬ならぬ狛キツネが2対4体あることに正直驚きと、日本独特の包容力の深さを感じた。

 そのことに関して秩父三峯神社に残る江戸時代の文書に「御眷属拝借指南」という文書があり、御眷属拝借の際に代参講の者に渡されたそうだ。御眷属拝借というのは、各地域の講の代表者が三峯神社に参拝に行って、お犬様の御札を借りてくることをいうようだ。講で代表者を決めて、参拝に行くことを代参講という。講の代表は毎年交代し、集落内での順番、持ち回りであることが多いようで、こうした信仰形態が三峯講の特徴だ。
 この借りてきた御札を、集落に祠(「おかりや」などと呼ぶ)を作り、そこに祀っていた。このとき、
お犬様の御札は、稲荷社の近くには祀ってはいけないとされていたようだ。「御眷属拝借指南」に「御眷属を稲荷社の近くに勧請しないこと」という注意書きがあるそうだ。以上のような禁忌も伝わるというのに、釜山神社の場合、オオカミ神社の境内にキツネ神社が神社の端とはいえ共に祀られている点に興味を引かれた。



 オオカミ信仰とはどういうことだろうか。1905年を最後に公式には「絶滅」したとされ、過去50年以上生存が公認されていないが、それでも「ニホンオオカミは山中に生き続けている」。そう信じる人々は数多い。なぜなら、日本人の心の中には「オオカミ信仰」というものが根強く残り、現在においても、その信仰は脈々と受け継がれているからだ。
 オオカミを漢字で書くと、「獣編に良い」で「狼」。つまり、「良い獣」を意味する。かつては「大神(おおかみ)」と書いた。これは文字通り「大いなる神」という意味であり、オオカミは神様のお使い(御眷属)と見なされていたのである。オオカミは「温和」な動物であり、むしろ田畑を荒らし回るシカやイノシシを取り締まってくれる頼もしい警察組織のような存在だというのである。その反面、子どもや女性が食べられてしまうなど、恐ろしさも抱きながら、当時の人々は共存していたようだ。だからこそたとえオオカミが人を襲うことがあっても、古来の日本人は一貫して、オオカミを邪視したことはなかったのだともいう。

 「関東の秘境」とも呼ばれる奥多摩地方には、そうしたオオカミ信仰が広く庶民の心に根付いている。その中心となるのは秩父の三峰神社であり、その周辺21社が何らかの形でオオカミ信仰との関わり合いをもっている(日本全国では250社を超えるとも)。勿論この釜山神社もそのオオカミ信仰の社の一社である。

 上記で紹介した釜山神社の「お炊き上げ神事」は毎月1回欠かさず行われているという。こうしたオオカミ様への「お炊き上げ」は、日本各所で行われている。というのも、オオカミ信仰は山々を渡り歩く「修験者たち」によって日本全土へ広まったと考えられているからである。この「修験者」は別名「山伏(やまぶし)」とも書く。山伏は、山の武士なのか、それとも犬(狼)を連れた杣人なのか。伏の字は、人に犬と書く。オオカミと関係はあるのだろうか。


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八日市熊野神社

 熊野神社が鎮座する神川町八日市地区は室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。熊野神社はこの地区の総鎮守で、町指定文化財の獅子舞が奉納されている。延宝2年(1674)にここの交換市で争いがあり大火となった時に獅子舞が奉納され以後厄払いとして伝えられている。ここの神社の本殿は珍しく色彩も豪華でガラスの覆堂によって保護されている。
所在地   埼玉県児玉郡神川町八日市527
御祭神   家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神 俗にいう熊野三神
社  挌   式内社論社 旧指定村社
例  祭   10月19日 秋季例大祭

       
 熊野神社は国道354号線を本庄市児玉地区、旧児玉町から藤岡市方向に進み、八日市(東)交差点を越えると左側に熊野神社のこんもりとした社叢が見えてくる。駐車場が本殿の近くにあり、そこに停めて参拝を行った。当社は村内字今城から今の鎮座地である森下の地に遷座されたと伝えられており、かつては今城青八坂稲実神社を称していたという。
                
                一の鳥居の右側にある社号標石
熊野神社
 本社は往古より村中の氏神と称し、延喜式當國四十四座の一にして今城青八坂稲實神社なりと云ひ傳ふ。神階は往古は知れざるも、正徳3年(1713)7月正一位の神階を授けられ今其の宣旨現存す。神領は上古は明らかならざるも、徳川幕府の時代に地頭より除地四反五畝歩を寄附せらる。
 現在建物の本社は享保14年(1729)9月の再建にして、棟札を現存せり。又旧社地の村内字今城に鎭座ありしを、後に今の森下の地に奉遷したりと口碑に在り。
                                                     神社明細帳より引用
            
                          正面参道一の鳥居
              
                             熊野神社 拝殿
 
境内社として八坂神社・山神社・諏訪神社・金鑚神社       社殿の右側には社務所あり。
    社宮司社・天神社・稲荷神社がある。
           
                         拝殿内部から本殿を撮影
               
                  ガラス越しから見ることができる熊野神社本殿
 鎮座地は鎌倉街道上道付近であり、古来から市(八日市)の開かれる土地だ。八日市という地名は、室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。また八日市の熊野神社前を交差する道があり、そこの東西を結ぶ道は江戸時代の本庄・鬼石往還だという。
          
八日市の獅子舞

昭和62年3月10日 町指定民俗資料

八日市ては、古くから「八の日」に物資の交換市が開かれていた。
延宝2年(1674)四代将軍家綱の時代に、この交換市で争いがあって大火となった。八日市の獅子舞は、この後で厄払いとして奉納したのか始まりと伝えられでいる。
獅子舞は、4月15日と10月19日に神主宅や白山神社で舞い、その後熊野神社に奉納されるが、古くは雨乞いの為に奉納されたこともある。
獅子は、法眼・女獅子・男獅子の三頭で、その外にカンカチ・笛方・歌方・万灯持ちの役割がある。
また、曲目にはぼんでん掛かり・笹掛かり・橋掛かりその外がある。
神川町教育委員会
                                                      社頭案内板より引用
               
                 八日市の獅子舞の案内板に隣接してある御神木

 

 

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関口今城青坂稲実池上神社

  神川町関口地区に鎮座する今城青坂稲実池上神社は江戸時代には丹生明神社と呼称し、阿保神社の裏に鎮座していたが天正5年(1577)に元阿保村と関口村とに分立した際に、関口村の鎮守として現在の地に移されたという。
  創立は不明(一説に神亀元年・724)、延喜式内社と伝えられている。当社の社号は元の領主であった安保氏の祖先が大和国丹生川神社を勧進したことに由来するという。

所在地  埼玉県児玉町神川町関口38
御祭神  淤迦美神 、豊受毘売命 、罔象女神 、埴安姫命
社  挌  式内社論社、旧村社
由  緒  神亀元年(724)2月創立、天正五年(1577)3月現地に遷つる。
例  祭  10月19日 例大祭

                              

 関口今城青坂稲実池上神社は丹荘駅から北西方向で約500m位の関口地区に鎮座している。正面の鳥居からすすんで右手に直角に折れたところに社殿があり、社全体がコンパクトに収まっているという印象。この今城青坂稲実池上神社は上里郡忍保にも同名の神社(旧県社)があり、共に式内社論社とされている。                                               
                        関口今城青坂稲実池上神社社殿
            
                          社殿の左側にある案内板

この今城青坂稲実池上神社は祭神が4柱で、淤迦美神 、豊受毘売命 、罔象女神 、埴安姫命という。
淤迦美神
 罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神で、 『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記する。 『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
 龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されて、 「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。
豊受毘売命
 言わずと知れた伊勢神宮外宮の祭神。『古事記』では豊宇気毘売神と表記されるが、『日本書紀』には何故か登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々。『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。
 神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。
罔象女神
 『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
 罔象は『准南子』などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明されている。灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている。
埴安姫命
 土の神であり、「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされ、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に産れた諸神の一柱である。
 『日本書紀』では埴安神と表記される。『古事記』では、火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。
 
 
            
            
               今城青坂稲実池上神社の社殿の両サイドには境内社がある。
                 菅原神社・八坂神社・稲荷神社・八幡神社・愛宕神社等。

今城青坂稲実池上神社

 當社は延喜式内當國四十四座の一にして今城青坂稲實池上神社なりと云ひ傳ふ。往古元阿保村と一村たりし時、六所社丹生社同村にありしを、天正5年丁丑(1577)3月分村の際、丹生社を本村の鎭守と定め、今の地に遷し祀るといふ。當社の社號は素領主阿保氏の祖先大和國丹生川上神社を此地に遷し祀れるを以て丹生社と称すと云ふ。本社は旧阿保領十三ケ村の関口なるにより、関口村と称す。又當社の古き(年月不詳)額面に今城青坂稲實池上神社横山某書とあり。又古き手洗石に今城神社と彫刻ありて、北武藏名跡誌に當社を延喜式内のよし云傳へたりと記載せり。又社地接続の地に、當社旧別當幸春院に、文亀3年(1503)建之と記載ある石の六地藏あり。是も名跡誌に記載あり。又此の邊の小名を往古より池上と称し來れり。
                                                   昭和27年神社明細帳

            
                          神社の路地に並ぶ石仏等。
              現代では村の鎮守様といった感じで静かに時間が経過している。

 


 


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埼玉古墳群 (8)

      
 さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置している。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、現在あたり一面には水田が広がりのどかな田園風景が続くが、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していたらしい。

 約6000年前の縄文時代この辺りは縄文海進の関係でこの地方まで東京湾が入り込んでいたといわれる。その後の関東造盆地運動により陸地が上がり、海域が後進して現在の関東平野ができたらしい。が元々荒川、利根川、多摩川、入間川などの河川が狭い東京湾に集中して排出されたため、陸地も湿地帯が広域に広がっていたと思われ、また弥生、古墳時代の3~7世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
  現在の河川の流路は江戸時代、徳川家康の江戸転封により、人工的に流路を変えたもので、これを瀬替えという。利根川は元々東京湾に流れていたものを、鬼怒川の流路を利用し合流させ太平洋に瀬替えした。また利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移したことにより、入間川と合流させることによって、台風で大水が発生した場合、荒川中流域である吉見地方でわざと氾濫させ、下流域の江戸の町を水害から守ったと言われその結果、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全な場所となったといわれている。

 それ故に、瀬替えする前の古墳時代の河川の流路がどのような経路だったか断片的でほとんど解っていないのが実情である。そのな中小埼沼は、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼玉の津」万葉集の遺跡とされている。

       
             小埼沼の標石。上代の東京湾の入江の名残りともいわれている。

 埼玉古墳群周辺地域は万葉集に登場する「埼玉の津」の存在からも解る通り、いわば水上交通の要衝で、古墳に使われた石をはじめ多くの物資や文化が行き交いしていたと考える。例えば埼玉古墳群には多くの埴輪が出土している。
  鴻巣市市役所近くにある生出塚埴輪窯跡は5世紀末~6世紀末、東国最大級の埴輪製作跡とされているが、この二子山古墳の周濠より出土した円筒埴輪の多くは、生出塚埴輪窯跡および東松山市の桜山埴輪窯跡で生産されたものと考えられている。また、全長53メートルの前方後円墳で6世紀前半の愛宕山古墳出土の蓋形埴輪の形状から生出塚窯跡で生産された可能性が高いとされる。またこの生出塚埴輪窯で生産した埴輪等は、千葉県(市原市 山倉古墳1号墳)、東京都(大田区田園調布 多摩川台古墳群)、神奈川県(横浜市緑区 北門古墳群1号墳)や埼玉県の諸古墳、南関東各地の古墳より生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している。

 また東国の人物埴輪残欠のなかには、腕が折れて断面に穴が確認される事例がみられる。これは、製作時に棒状の木を粘土でくるんで成整形したのち木を抜いて胴部に貼り付けたために生じた穴だと考えられる。このような製作技法は、埼玉県東部と茨城県北部で顕著にみられ、東国に特有の技法と考えられる。考案したのは、埼玉古墳群築造にかかわって埴輪を供給した生出塚埴輪窯の工人たちと思われ、それが常陸北部にまで伝播したことは、工人相互の人的・技術的交流が広域にわたっていたことを物語る。


 生出塚埴輪窯ではまた、上述したように直線距離にして54キロメートル離れた大田区多摩川台第1+第2号墳(西岡第45号墳)、さらには95キロメートル離れた市原市の山倉1号墳の埴輪を製作していたことが判明している。このように埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。また、千葉県の事例では、山倉1号墳で見つかった埴輪全部が生出塚産であるのに対して、法皇塚古墳の場合は生出塚産と「下総型」との共存関係があったことは注目に値する。 


 更に古墳に使用された石材産地からも埼玉古墳群の豪族が政治的・経済的に掌握していた地域、又は友好的な地域と思われる。

・ 凝灰岩・・・周辺では、
大里・比企地方
で産出する軟らかい白色の石。
         旧江南町から嵐山町にかけての丘陵に分布。

・ 房州石・・・将軍山古墳に使用された、「房州石」は
千葉県の富津海岸周辺
より運ばれた。
         鋸山系のこの石は、穿孔貝の巣穴の付いた凝灰岩

 このように埼玉古墳群築造当時、「埼玉の津」を中継地点として関東地方各地と交易していた事が遺跡の発掘等で解り、この地が非常に栄えていたことが窺える。


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