秋山(風洞)天神社
この地域には「風洞」地名の由来に関する昔話(民話)があり、坂上田村麻呂による大蛇退治の話がある。長文で、時代背景が細かく、時代設定がしっかりしている事も特徴である。
風洞の地名
児玉の風洞には、余り知られていない大きな穴があり、その洞穴から常にゴウゴウと嵐の様に不気味な風が吹き出し、止まる事がなかった。このゴウゴウと言う音は、身馴岸沿岸を荒らしていた大蛇が、川の入江の近くの洞穴に隠れ住んで呼吸をする息が風となって吹き出したものであった。
この大蛇、女、子供はもとより、人だけでなく家畜まで喰うなど数限りなく悪事を重ね、また農作物を荒らしまわり、人々は嘆き、悲しみの底にうち沈んでいた。しかし、この話が時の天皇であった平城天皇の耳に入り、大蛇の退治を坂上田村麻呂に命じた。将軍田村麻呂は早速この地方に出向き、大蛇退治の準備にとりかかった。まず北向きに五社(沼上、小茂田、新井、十条、古郡の五ヵ村)の大明神を勧請し、また八仏薬師を安置するほか、数多くの神仏に祈念した。特に自分の守りの本尊である大日如来とゆかりのある十二天に登り、霊地を選び、ここに山籠りをして、秘密に僧を招き、37日間、夜の護摩修行をなし、大蛇退治の願いをかけると共に、これより56億8万年の後まで、この山より身馴川の末まで守り給え、との願をかけた。また、小平に入江の様になっている所があり、江の浜と呼ぶ場所に、一本の大きな柳の木があった。将軍はこの柳の木に向かって静止し、「われ願わくば、この地の大蛇を退治して、人々の災難を救い給え、もしこの願いが届くなら、すぐにこの柳に花を咲かせ給え。もし、この願いがかなわなければ、この柳をたちどころに切り倒し、たきぎとしてしまうものなり」と虚空に向かって大声に呼ばわると、ありがたいことか、恐ろしいことか、虚空がにわかに振動して、しばらく暗夜の如くにうち変わり、やがて明るくなると、不思議な事に柳は桜となって、満開の花が咲いた。よって将軍は、この地に虚空蔵菩薩を建立した。柳の木が化して枝垂れ桜となり、現在も栄えているが、柳の大木があった所から地名を「高柳の虚空蔵」と言い、霊験あらたかな霊場となっている。
このようにして、大蛇の住む洞窟に田村麻呂が出向くと、殺気を感じたのか、オスメス二匹の大蛇がものすごい眼光を放ちながら出て来た。驚くことにこの大蛇は、それぞれ二つの頭を持ち、太さ3m、長さ20m余りもあった。しばらく将軍達と睨み合いの末、戦いが始まり、一匹を現在の東小平の地に追い詰めたが、田村麻呂に次ぐ勇者椚林小平成身と言う者がこの大蛇の毒気にかかり、遂にこの世を去ってしまった。この事を知った武士達は、この勇者の名をとって椚林と言い、成身院は小平が名乗り、字名を院号とした。やがてメスの方は、田村麻呂の神変通力仏意自在の弓矢によって、射とめられた。一方、オスの大蛇は、川上に身を隠して潜んでいたが、将軍は夜になって舟を出し、大蛇が出て来るのを待った。現在、その場所を待屋と言い、舟をつないで置いた所を船山と呼び伝えられている。夜明けと共に出て来た大蛇は、将軍に追われ、間瀬峠に逃げ延び、峠の頂上から将軍を振り返り、まんじりと見つめた事から、この峠をまんじり峠と呼んだ(後世、間瀬峠と言い伝えるようになる)。こうして児玉の山麓一帯には、平和が訪れた。
将軍が退治した大蛇の骨は百駄あり、この骨を埋めて長泉寺が建立された。よって寺の境内を骨畑と呼び、百駄あった骨にちなんで山号を百駄山と呼ぶようになった。大蛇の住家の風の吹き出た洞穴は埋められ、この地に神を祀って、次来地名を風洞と呼ぶようになったが、その昔は単に洞(あな)と呼んでいたとされる。
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山2813
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧指定村社
・例 祭 祈年祭 2月25日 例大祭 10月15日
下天神祭並びに新嘗祭 11月25日
秋山天神社は本庄市児玉町秋山地区西側、小山川の一支流である小平川の東側に鎮座している。埼玉県道287号長瀞児玉線を児玉町から長瀞方向に進み、小山川を越える。その後「総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の看板が見えるY字路を左折する。300m程進み、最初のT字路を左折すると道幅の狭い道路となるので、対向車量等に気を付けて暫く進むと左側に舗装されていない道があり、そこを左方向に進むと正面に秋山天神社が鎮座する場所に到着できる。
秋山天神社 正面
境内の規模は思った以上に広く、手入れも行き届いている。参拝の途中では、近郊に住んでおられる方とも気軽に挨拶を交わすことも出来て、気持ちも安らぐひと時を味わえた。
案内板によれば、鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五) に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきたという。
鳥居の右側にある社号標柱
鳥居の手前で左側にある社務所 木製の鳥居。社号額には天神社と表記。
秋山天神社 案内板
天神社 御由緒 本庄市児玉町秋山二八一三
□御縁起(歴史)
鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五) に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきた。
この当社の創建の年代は不明であるが、『明細帳』によれば、神職であった吉野家の系譜に、久安三年(一一四七)正月宮居再建とあり、その後しばしば修造や建て替えが行われた旨が記されている。 また、文政五年(一八二二)に、林大学頭の諮問に対して神主吉野伊予が提出した文書には、当社の神体は一尺二寸の木像で、古くから天満宮森に鎮座していたが、慶長三年(一五九八) に地頭の戶田又久が宮を建立し、更に後年、漢長老賛の天神の絵像を奉納したこと、寛永十三年(一六三六)には、戶田三平が宮を建立したこと、戶田美作守の代にも度々修繕がなされたことなどが記してある。
現在は、棟札や「漢長老賛の天神の絵像」は見当たらないが、右の文書で神体として林大学頭に報告された木像は現存しており、かなり朽ちて手足も欠けている状態であるが、冠を被り、装束を付けた立姿の神像二体が内陣に安置されている。なお、神像はこのほかにも、像高十七、八センチメートルという小振りな座像二体と、それより一回り小さい漢人風の像四体及び像高六八センチメートルの随身像二体がある。
□御祭神 菅原道真公…学問成就、家内安全、五穀豊穣
案内板より引用
拝 殿
拝殿上部に掲げてある「風洞天神社」の扁額 向拝部位にも凝った彫刻が施されている。
色鮮やかな風洞天神社 本殿
冒頭でも紹介した「風洞」の地名由来の伝承・伝説は幾つかの段落に分かれていて、時代背景、周辺地域の坂上田村麿呂伝承、地域の名称由来も交えて構成されている。
①昔このあたりを荒らしまわっていた大蛇がその洞穴に住み、その息が嵐のような音をたてたから、「かざあな」から風洞と呼ばれるようになったという。この大蛇は人畜を喰い、田を荒らす悪蛇の主で、困窮した民の話を聞き、平城天皇がこの退治を坂上田村麿呂将軍に命じた。
②坂上田村麿呂将軍が来てみると、被害は大きく人心は動揺し、何も知れないので、まず十条沼周辺の古都・新井・小茂田・十条・沼上に産生神と赤城に向って北面する末社を建て、また八つの薬師を安置し、他にも多くの神仏を祀り、まず村人を安心させ、悪蛇に向かった。
③将軍はなお大日如来に祈願し、十二天神の加護を得ることになり、共に祈祷を行っていた高僧に、霊示があった。曰く、江の浜というところに神木があり、これに申し上げるように、と。そこで将軍はそこへ赴き柳の大木に、願いを通すならすぐ花を咲かせよ、さもなくば直ちに伐り倒さん、と宣言した。するとただちに花が咲き、意を強くした将軍は洞穴に向かった。するとそれぞれ二つの頭をもつ二頭雌雄の大蛇が襲いかかってきた。このとき、その毒息にかかって将軍第一の勇将・椚林小平成身が死んだ。
④夜明けとともに再度現れ出た大蛇は、将軍の弓で一頭の目を射抜かれ、戦意をなくし、追われて馬瀬峠(今の間瀬峠)から甲州へ逃げた。峠からまんじりと将軍を見据え、助けをこうたことから、まんじり峠と言っていたという。
解説すると、①では平城天皇の御代にこの伝説が成立したと記載されている。この平城天皇の在位期間は806年から809年(9世紀初頭)と短く、設定年代が曖昧な伝承が多い中でも、明確な昔話と言えよう。
②児玉地域には坂上田村麻呂が大蛇を退治する民話がいくつか伝えられて、ここでは現美里町、十条沼周辺の「北向神社」の創建に関しての伝承も交えている。
③更に「十二天神の加護を得る」「椚林(くぬぎばやし)小平成身」では秋山十二天社を登場させ、更に秋山地区に隣接する「小平」地区の地名の成り立ちをも紹介している。因みに「椚林」は秋山地区の小字の一つでもある。
④結局のところ、此の大蛇は征伐により、戦意を失い、甲州(現山梨県)に逃げる。この説話は、本庄市宮内・若宮神社の「雨乞屋台」大蛇族の説話にも似ている。
「風洞」の地名由来となった説話ではあるが、上記以外のもこの地域周辺の地名の由来に関しても細かく記載されていて(骨波田・間瀬峠等)興味深い伝承・伝説でもある。
拝殿手前で左側には神楽殿 神楽殿の並びには数多くの境内社が並ぶ。
社殿右奥にも境内社や石碑、石祠が鎮座する。 立派な石組みの上には石祠が1基鎮座。
「村社 天神社」境内碑
村社 天神社
本社殿創立年代不詳然藏近衛天皇御宇久安三年正月宮殿再興古文書及元龜二年改造棟札其古社可證爾後屡加修理慶長三年地頭戸田又久再建寛永十三年有地頭戸田三平改造之擧云王政復古庶績咸熙至明治三十九年被勅定神社神饌幣帛料供進之事四十五年三月十八日本社亦
大正二年十一月 埼玉縣兒玉郡長從五位勲四等白倉通倫撰并題字
秋平尋常小學校訓導吉川鍋六謹書
境内碑 碑文より引用
社殿右側に聳え立つご神木
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「埼玉の神社」等