古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

福田熊野神社

三匹獅子舞(さんびきししまい)は、関東地方を中心とした東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞であり、一人立三匹獅子舞、三頭獅子舞などと言うこともある。篠笛とささらが伴奏につき、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ちながら舞う。中には、天狗・河童・猿・太夫・神主・仲立といった道化役がいるものもある。
 地域の神社の祭礼として、五穀豊穣、防災、雨乞いなどの祈願や感謝のために行われるものが多い。地元の人たちは「獅子」、「獅子舞」、「ささら獅子舞」、あるいは単に「ささら」などと呼んでいたりする。正月にみる獅子舞や神楽での一般的な獅子舞、いわゆる古代に外来からの影響を祖とする伎楽系(神楽系)の獅子舞とは系統を異にする中世・近世に発達した風流系の獅子舞である。
 市街部の多くの氏子に支えられた神社の祭礼とは違い、「村祭り」的な小規模な祭礼に行われるものがほとんどで、地元氏子以外には認知度も低く、後継者難は深刻である。古来、伝承者を農家の長男に限定しているところが多く、これは本来は、その土地を離れる心配のない者を選び、伝承を安定させる目的があったものとされている。しかし現代においてもこの条件を頑なに守り、舞が絶えてしまったところも多い。反対にそのような条件にこだわらず、地元の小中学校の児童生徒にまで教えているところもある。(*Wikipedia参照)
            
                    ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田1734
                    ・ご祭神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命
                    ・社 挌 旧指定村社
                    ・例祭等 例祭 415日 天王様 715日 秋祭り 717
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0782891,139.3483419,18z?hl=ja&entry=ttu
 福田熊野神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線を東松山方向に進み、福田交差点にて一旦県道に沿って進む道路を南下し、最初のT字路を右折、そのまま道なりに進路をとると正面左側に福田熊野神社の鳥居が見えてくる。
 駐車場は鳥居の横に駐車できるスペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                   福田熊野神社正面

                              鳥居を過ぎてから石段を登る先に拝殿が見えてくる。(写真左・右)
            
                              階段を上り終えると左側に案内板がある
 熊野神社  滑川町大字福田(下福田)
 祭神 速玉男命 伊邪那岐命 事解男命
 由緒
 当社は紀伊国牟婁郡に鎮座する熊野速玉神社の分社として祀られたと伝えられるが創建の時代 は明らかでない。新編武蔵風土記稿によれば当熊野社は天台宗普光寺持と記載され、同寺は資料から見てその開山は鎌倉時代に遡り、室町後期までは下福田地域で寺耺を司る寺と推察されることや、境内に樹齢五百年を越えると見られる杉の大樹が繁茂していたことから、当社の創建は室町以前と推察される。明治四年三月村社となり、昭和八年指定村社に昇格した。
 祭事
 例祭 四月十五日  夏祭 七月十五日
 秋祭 十月十七日  大祓 十二月三十日
 獅子舞奉納
 毎年七月十五日と十月十七日に氏子により熊野神社前の庭でささら獅子舞が行われる
 平成二十三年十二月吉日   滑川町観光協会 滑川町教育委員会
                                                            案内板より引用

            
                                               拝 殿
 熊野神社  滑川町福田一七三四
 当社が鎮座する福田は、滑川支流の中堀川の開析谷の低地と丘陵部に位置し、隣地に接する大沼のほか、大小多くの沼地が点在する。祭神は、伊弉冉命・事解男命・速玉男命の三柱で、熊野三所権現像が内陣に奉安されている。この像は、付近の分山から切り出された石材によって作られており、宮本倭蔵と称する石工の銘がある。倭蔵は、越後国から寛政期(一七八九-一八〇一)ごろに当村に移住して来た人だといわれている。
 当社は、紀伊国に鎮座する熊野三社を勧請して奉祀したというが、その年代は不詳である。したがって、推定するしかないのであるが、『風土記稿』によれば、当社はかつて地内にあった天台宗普光寺が別当寺であると記載されており、また、同寺の開山賢意の寂年が貞享元年(一六八四)となっていることから、恐らくは、このころに当社も地域の鎮守として勧請されたのであろう。なお、古老の話では、その創建は室町期以前にさかのぼるとしており、当社本殿近くの樹齢五百年の杉がそれを物語っているという。
 明治初年の神仏分離により普光寺の管理下を離れた当社は、明治四年に村社となった。大正二年三月には、地内の伊勢・八雲・稲荷の三社を合祀した。
                                                       「埼玉の神社」より引用
                
                                   福田熊野神社参道から見る下福田地区

 「一人立三匹獅子舞」のような伝統文化はその特別な技術や知識を持つ人々や組織が存在し、表現・伝承していかなければ受け継がれていかない。農山等では、近年の過疎化と高齢化の進行により、貴重な「伝統文化」の担い手消滅の危機にあり、担い手づくりは重要な課題である。担い手不足により一度中止した祭りや後継者の居なくなった技術は、復活が非常に難しくなるという。
 そこで、これまではある世代・組織だけが担っていた技術、地域内に住む人だけが参加していた祭りや行事等、地域社会の合意の上で、参加者のすそ野を広げたり、しきたりを拡大解釈することで、地域活性化の資源に生まれ変わる可能性があり、まず地域社会により価値評価された様々な資源を、これまで担ってきたのは誰なのかを理解し、どのような経緯で変化・発展し、あるいは弱小化しつつあるのか等、現状を見据えた上で、地域の課題に対し地域社会全体で共通認識を持つことが重要となると浅学菲才な若輩者の言とは感じつつも、愚考した次第である。


 

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代八幡神社

 国道407号と17号熊谷バイパスが交差する地域を「代」という。
「代」という地名の由来として一般的に言われている事は低地から仰ぎ見て高地に広がる平担地を意味しているといい、土地の形状・特性を表わす地名と考えられている。
 荒川はその名称通り、「荒ぶる川」との異名を持ち、有史以来,多くの水害を被っていて、扇状地内において河道変遷を繰り返し(一説では8通りの旧河道が考えられるとしている),現在の自然堤防と旧河道を形成した。また荒川扇状地は勾配が 1/300 と比較的緩やかであるため,自然堤防が発達しているのが特徴であり、形状も平地の自然堤防帯に見られるような細長いものとは限らず,楕円や四角形など様々な平面形を持っているという。
 代八幡神社はその昔の自然堤防帯上の、微高地の一角に鎮座している。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市代1343
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 挌 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 219日 例祭 1015日 新嘗祭 1124
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1730434,139.363084,17z?hl=ja&entry=ttu  
 代八幡神社は熊谷市役所の北西約3㎞の国道17号線熊谷バイパスの直ぐ南側に鎮座していて、くまぴあ交差点を左折し、最初の信号である「くまぴあ前」交差点を右折、私立学校給食センターを左側に見ながらさらに直進すると左側に八幡神社の社叢が見えてくる。
 鳥居前に車が止められるだけのスペースが有るので、そこに駐車してから参拝を行った。
               
                 
鳥居前から境内を撮影
       
         鳥居を過ぎる手前で左側に
ケヤキの大木があり、その奥
            にはイチョウの大木が並ぶように聳え立つ。
        
                     拝 殿
 八幡大神(代)の由緒
 八幡神社  熊谷市代一三四三
 当社の由緒について、次のような伝承がある。鎌倉時代、上州岩松に土着した清和源氏の流れをくむ新田義重は、源氏の氏神である八幡神を山城国石清水八幡宮から勧請した。その後、新田家から分家し、里見家を興した義重の弟から一五代目に当たる里見義次が、天正六年(一五七八)の上州大間々要害山の戦に敗れ、武州代村(当地)に落ち延びた。代村に土着した義次は同八年(一五八〇)に郷里の岩松から八幡宮を分霊して当社を創建した。下って、慶長十八年(一六一三)行者三海を開山として顕松院を建立し、当社の別当とした。これより同院は九世にわたり、当社の祭祀に専念したが、文化四年(一八〇七)に廃寺となるに至った。このため、里見助左衛門が祀職となるべく上京し、白川家の許状を得、当社の社家となったという。
 現在、拝殿に掛かる文化二年(一八〇五)惣氏子中奉納の「新田義貞」と文化十二年(一八一五)当所里見氏奉納の「新田義貞鎌倉攻め」を描いた二枚の絵馬は、右の言い伝えにちなむものであろう。 
『明細帳』によると、明治五年に村社となり同四十一年に代の地内にあった熊野神社・磯崎社・八坂神社・諏訪神社の四社を合祀した。
なお、祀職は、昭和三十七年まで先の里見家が務めていたが、その後、古宮神社社家の茂木家が継いで、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用                                

        
                  境内社諏訪社・八坂社

 荒川扇状地(あらかわせんじょうち)は、埼玉県の寄居町を中心とした巨大な扇状地で、その中央には荒川が流れている。熊谷市、深谷市が扇端にあたり、数多くの勇水があり、湖沼が発達している。近年水量が減少している。なお、扇頂から約8km下流から扇状地中に河岸段丘を生じ、植松橋付近(深谷市川本)を扇頂として大芦橋(鴻巣市吹上)付近を扇端とする新たな扇状地形が形成されていて、これを「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも)と称している。(Wikipedia参照) 
 嘗て荒川扇状地では有史以来,多くの水害を被ってきており,また江戸時代に行われた荒川の西遷事業を皮切りに,嘉永2年水害や明治43年水害などで甚大な被害を受けてきた。現在でも熊谷市街地に存在する水塚や,軒先に小舟を下げている民家が残存することから,この地域がいかに水害と近い存在であるかが窺える。
 因みに縄文時代,弥生時代,そして古墳時代の集落と自然堤防との関係は,奈良・平安時代に見られる遺跡と自然堤防の関係に一致していると言われ、扇状地周辺に見られる住居位置の割合も,旧石器時代を除いて大きな変化はないとの事だ。これにより,時代や生活様式に関わりなく自然堤防は集落の形成に大きく関わっていたことが分かる。
       
                 境内の一風景を望む

 熊谷市は、埼玉県の北部、荒川扇状地の東端に位置し、地形的に見ても市内に多くの自然堤防などの微地形が存在し,現在でも道路や宅地などへの土地利用から目視でも確認できる。
 荒川扇状地内において,集落の遺跡は自然堤防上に多く存在している。自然堤防が水害を軽減する効果を持っていて、例え自然堤防は0.5mほどの微高地であっても、これらを上手に活用し,また,堤内地の微地形を考慮に入れることで,より経済的かつ効果的な氾濫水の制御を行える可能性が大であることも、遺跡の発掘等により少しずつ分かっている。
 但し沖積地の全ての遺跡が自然堤防上で発掘されていたわけではなく,また,全ての自然堤防で遺跡が発掘されていたわけでもない。自然堤防と集落がどのような関係にあるか,更なる研究が必要であり、今後,自然堤防の治水に与える今日的役割について、詳しく調べていく予定でもある。


     

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樋遣川古墳群

樋遣川古墳群(ひやりかわこふんぐん)は、埼玉県加須市樋遣川地区にある古墳群である。1956(昭和31)416日、諸塚古墳・浅間塚古墳・稲荷塚古墳の3基が市史跡に指定されている。1976(昭和51)101日、県の重要遺跡に指定されており、新編武蔵風土記稿の樋遣川村の項に、「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚、以上の塚を樋遣川の七塚という」とある。河川の氾濫や開墾などで現在ほとんどの古墳は削平されているが、諸塚古墳、浅間塚古墳、稲荷塚古墳の3基の円墳だけが残っている。この古墳群の一つの宮西塚から出土したといわれる馬具や鏡は、県立さきたま資料館に展示されている。
 現在残っている3つの古墳の中では御諸塚が最も大きく、直径約40m、高さ約6mの円墳で墳頂部には社殿が建てられている。また浅間塚と稲荷塚は御諸塚の南約500m
のところにあり、ほぼ同じような規模で、東西に並ぶ円墳である。
        

【御諸塚古墳】
 御諸別王の陵墓とも言われている古墳である。この王は豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている彦狭島王の子である。彦狭島王は崇神天皇によりが上毛野国造に任じられ、東国に赴任しようとして、旅の途中で没した。そこは奇しくも父の八綱田王が狭穂兄妹を焼き殺した春日の地の辺り「春日の穴咋 邑(村)」であったという。御諸別王は父の思いを胸に秘めながら任に着いたのであろう。東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
 『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。
        
                                 御諸塚古墳 案内板
 因みに陵墓候補地として以下の場所等が言われている。
①蛇穴山古墳…総社古墳群 群馬県前橋市 一辺39m、高さ5mの方墳
 埋葬主体部は横穴式石室であるが、羨道を欠き、玄門と玄室からなる特殊な形をとっている。玄門の前には、羨道の痕跡ともみられる構造と八の字形にひらく前庭がある。石室は天井、奥壁、左右壁ともみごとに加工した各一枚の巨石で構成されている。天井石、奥壁などの縁はL字形に切り込んで壁の石と組み合わせている。精巧な細工をほどこした玄門とともに、当時の石材加工技術の優秀さを物語っている。
 石室の規模は玄室長(西)
3m、同幅2.6m、同高さ1.8mである。隣接する宝塔山古墳とともに、県内古墳の最終末期に造られたもので、8世紀初頭のころに位置づけられようで、御諸別王の活動時期とはいささかずれている。但しその石室の特異さと精巧さはついに、古代上野国の名族上毛野氏の祖、御諸別王の霊地として記されたのであろう。
②後二子古墳…大室古墳群 群馬県前橋市
 1段目を大きく造り、その上に小さな2段目が載る構造「下野型古墳」の特徴をもつ。
1878年(明治11年)3月の石室発見・開口の後、宮内庁に後二子古墳を御諸別王の陵墓として認定する申請が出されたが、豊城入彦命の陵墓として申請していた前二子古墳同様認定はされなかった経緯あり。
③御室塚古墳(諸塚)…樋遣川古墳群(御陵墓伝説地) 埼玉県加須市

【浅間塚】
        
 御諸塚古墳から南側500m程下った場所に墳丘が存在する。墳頂には此花咲矢姫(このはなさくやひめ)を祭神とする浅間神社が鎮座し、江戸末期~明治に、富士浅間信仰のため、盛土をされたようであり、急角度の小高い丘となっている。
        

 有形文化財 浅間塚 昭和三十一年四月指定
 七基の古墳からなる樋遣川古墳群の一つであるが、現在はこの浅間塚、稲荷塚、御室塚の三基を残して破壊されてしまった。
 この古墳は径二十四メートル、 高さ(土盛りがしてあるため見かけは)五.五メートルの円墳である。項には一八五七年(安政四年)の建物があり、中に此花咲矢姫の木造が祭られている。
 昭和五十五年八月  加須市教育委員会
                                      案内板より引用

       
 かなりの急角度で墳丘が立ち上がっているのは、後世に盛り土されたためで、原型とかなり改変されているかもしれない。

【稲荷塚】
       
 御諸塚古墳から南側500m程下った場所に浅間社と約100m程隔てて東西に並ぶように墳丘が存在する。位置的に見ても浅間塚と共に御諸別王の子孫の墳墓あるいは、陪冢(ばいちょう)と考えられる。因みに稲荷社の案内板は浅間社よりも新しいもので、かなり詳しく記載されている。
        
                   稲荷塚の案内板
 市指定有形文化財 稲荷塚 
 稲荷塚は古墳時代の円墳(平面円形の古墳)で、墳頂部に稲荷社が祀られている。直径二十二メートル、 高さ二メートルで、樋遣川古墳群の一つである。利根川の支流浅間川右岸の自然堤防上に築造された。
 江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』に「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚、以上の塚を樋遣川の七塚という。いずれも高さ六七尺(約二メートル)ばかり」と記されている。明治三十四年、御諸塚は宮内庁により、御諸別王の墓として陵墓伝承地、稲荷塚と浅間塚はその付属地に内定した。その後、懐疑的な意見も出されたが、樋遣川古墳群出土品については「相当な文化」と評価されている。稲荷塚と浅間塚、御室塚の三基は現存し、県選定重要遺跡となっている。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

樋遣川古墳群の
7塚の特徴として、一番規模の大きい御諸塚古墳を中心に、この古墳を囲むように6塚が配置されている。
・北側 無し
・南側 稲荷塚・浅間塚
・東側 宝塚
・西側 宮西塚・穴咋塚・石子塚
 7塚の中に「穴咋塚」があり、「日本書紀」に彦狭島王は「春日の穴咋邑(村)」に没したとあり、奈良と言われているが、樋遣川村もかつて穴咋村と称していたという。また、御諸別王が軍勢を集めた陣営の跡であり、杭を建て、釜を掛けたことから「釜杭塚」とも言い、その関連性は興味深い。
        
                 南側から古墳群を望む。
 樋遣川古墳群は現存する3基の古墳群、標高約14mの一面田園風景が広がる中に田んぼと屋敷林や水塚のある中に社叢がポツンと見える為、目標物として見分けやすい。


       

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ブログ更新に関してのお詫びと再開へのご挨拶


ブログ更新に関してのお詫びと再開へのご挨拶
 暫く参拝記録等、仕事の関係で全くブログを更新できませんでしたが、本年度から新たな気持ちで再開いたします。今まで以上に文面には乱筆・乱文も多いかもしれませんが、温かい気持ちでご指導・ご鞭撻のコメント等、宜しくお願いいたします。


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上樋遣川御室社

 樋遣川古墳群(ひやりかわこふんぐん)は、埼玉県加須市にある古墳群である。新編武蔵風土記稿の樋遣川村の項に、「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚。以上の塚を樋遣川の七塚という」とある。 河川の氾濫や開墾などで現在、ほとんどの古墳は削平されているが、 諸塚古墳、浅間塚古墳、 稲荷塚古墳の3基の円墳が残っているのみであるが、1956年(昭和31年)416日、諸塚古墳・浅間塚古墳・稲荷塚古墳の3基が市史跡に指定。1976年(昭和51年)101日、県の重要遺跡に指定されている。
 その中で直径約40m、高さ約5mの円墳で、樋遣川古墳群の中で最大規模を誇る諸塚古墳があり、墳頂部には御室別王を祀った御室社が鎮座している。
        
             ・所在地 埼玉県加須市上樋遣川4396
             ・御祭神 三諸別王
             ・社 挌 旧村社
             ・例祭等 春祭 315日 夏越大祓 731日 秋祭 1115
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1599943,139.6316961,16.29z?hl=ja&entry=ttu   
 上樋遣川御室社は埼玉県道46号(加須北川辺線)を北川辺方面に道なりに北上し、樋遣川交差点先の押ボタン式の信号前方にある斜め右側方向に進む道路を右折し、2番目のT字路を左折、そのまま5分程進むと正面左側に上樋遣川御室社の社叢が見えてくる。
 神社に隣接している綺麗に舗装された駐車場に車を停めて参拝を行った。
         
          参道前にある社号標     静かな佇まいのある参道を進む
 上樋遣川御室社のご祭神である御諸別王(みもろわけのおう)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)である。豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で、彦狭島王の子であり毛野氏の祖。『日本書紀』では「御諸別王」、他文献では「大御諸別命」「御諸別命」「弥母里別命」とも表記される。
『日本書紀』景行天皇
568月条によると、任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
『日本書紀』崇神天皇段では上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。
 また
新編武蔵風土記稿や武蔵国郡村誌には、樋遣川の由来について記されている。古くからこの村は穴咋村(あなくい)と称していた。景行天皇(古代の天皇で実在は不明。ヤマトタケルの父)の時代、天皇の命を受けた御室別命(みむろわけのみこと)が東国を治めるさいにこの地の賊徒を退治するために、火やり(ヒヤリ)を放ち、一面が火の海に化したことから、以後、樋遣川と呼ばれるようになったとある。
        
             参道に掲げている「御室塚古墳」の説明板
        
                 「御室社」説明板
       
      比較的長い参道の先に鳥居(写真左・右)があり、その先には神門もある。
        
               古墳上に鎮座する上樋遣川御室社
                 
 系図を調べると、
彦狭島王(ひこさしまおう)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)である。豊城入彦命(崇神天皇皇子)の孫で、御諸別王の父である。『日本書紀』では「彦狭島王」、他文献では「彦狭島命」とも表記される。
『日本書紀』景行天皇552月条によると、彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑(アナクヒノムラ)に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇568月条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている。
 また『日本書紀』等では豊城入彦命の子として八綱田命があり、彦狭島王の父とされるが、御諸別王の活動年代を考えると実際には八綱田命と彦狭島王が同一人物であったとも言われている。八綱田命は『日本書紀』には「上毛野君遠祖」とあるのみで系譜の記載はないが、『新撰姓氏録』によると豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子であるといい、また彦狭島王の父とされる。『日本書紀』垂仁天皇510月条によると、八綱田は狭穂彦王の反乱の際に将軍に任じられ、狭穂彦王の築いた稲城の攻撃を命じられた。八綱田は稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自殺に追い込んだ。この功により「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられたという。
 同時に日本書紀』崇神天皇段には、豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖であり、三輪山に登って東に向かい槍や刀を振り回す夢を見たと記されている。三輪山の位置する大和国城上郡には式内大社として神坐日向神社が記載されていることから、「倭日向建日向」の名はヤマト王権の東国経営に従った上毛野氏の任務を象徴するものと解されている。
        
                      拝  殿
              
                     本  殿
 ところで『日本書紀』景行天皇552月「彦狭島王は東山道十五国都督に任じられた」との記述がある。「東山道」とは古代官道の一つで、
従来説によれば、「五畿七道」の「畿」とは帝都の意味であり、帝都周辺を「畿内」その周辺五ヵ国を「五畿」とし、畿内周辺国を「近畿」とし、「七道」とは、東日本の太平洋側を「東海道」、日本海側を「北陸道」「山陰道」、中央山間部から東北を「東山道」、畿内から南西を「山陽道」、四国を「南海道」、九州を「西海道」としている。東山道は『日本書紀』天武天皇一四年七月辛未条の詔は「東山道は美濃より以東」と記載されている。令制施行と同時期に範囲が確定したとされ、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の8国を東山道としている。(宝亀二年(七七一)までは東山道であった武蔵国を加えると9か国)。
 しかし『日本書紀』での記述でこの「東山道」が「十五國」だといっている。それ故か「東方諸国を示す語として用いられたもので、古道そのものを意味してはいない」との苦し紛れな解釈を持ち出す学者の方までいるとの事だ。

 更に
『日本書紀』景行天皇552月条の文面には、記述自体に(?)と思われる部分もあり、原文と現代語訳に分けて記載する。
【原文】
十二月、從東国還之、居伊勢也、是謂綺宮。五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五国都督、是豊城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東国百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野国。
【現代語訳】
(即位53年)12月に東国(アズマ)より帰ってきて伊勢にいました。これを綺宮(カニハタノミヤ)といいます。即位54年の秋919日。伊勢から倭(ヤマト)に帰って纒向宮(マキムクノミヤ)にいました。
即位55年の春25日。彦狹嶋王(ヒサシマノミコ)に東山道(ヤマノミチ)の十五国の都督が参拝しました。(彦狹嶋王は)豊城命(トヨキノミコト=崇神天皇の子で垂仁天皇の兄)の孫ですが、春日の穴咋村(アナクイノムラ=奈良市古市)に到着して、病に伏し亡くなってしまいました。この時、東国の百姓はその王が到着しないことを悲しんで、密かに王の尸(カバネ=遺体)を盗んで上野国に葬りました。

 豊城命の孫にあたる彦狹嶋王が東国の15国を統治することになったが、その道程で病死した。その病死した肢体を(百姓が)盗んで上野国へと持って行って葬った・・・・
 ありうることであろうか。第一に東國の百姓が、会ったこともない未知の人物である彦狹嶋王の遺体を盗み上野國に葬ったというのは実に奇妙な話である。
 第二に百歩譲って盗まれた側の対応がお粗末である。彦狹嶋王が率いていた軍兵のすべてが盗まれた側も全く気付かず、そのまま放置するであろうか。大和王権に繋がる貴種であることは間違いない。ところが気づいたとしても、取り戻したことや、その後の顛末等も含め、国史である「日本書紀」の文面からは何も対応した形跡が見られない。日本書紀は天武天皇の命により、30年余の年月を経て編纂された国史であり、その文章自体、一文・一字にも何度も編集され完成された書物である。それ故にこの文面には疑問が残る。
       
         神門脇に佇む八幡・雷社        拝殿脇には祠あり
              
                参道を進む途中にある八坂神社
 羽生市下村君地区には「おかえり」といわれる里帰りの神事が古くから伝えられている。羽生の鷲宮神社で明治40年頃まで行われていたという。その神事において誰が里帰りをしていたかというと、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で、彦狭島王の子であり毛野氏の祖である「御諸別王」(みもろわけのおう)の娘と言い伝えられている。どこへ帰っていたかというと、加須の樋遣川(ひやりかわ)にある「御室社」だった。先頭に神主、姫の代わりの神輿をかつぎ、御鏡と赤飯を乗せた馬を引き、鷲宮神社から御室神社へ里帰りをしたという。
「御室社」が鎮座する墳丘は諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明されたようなものだと思われる。
 陵墓候補地として、年代的には一致しないとの見解もあるようで、群馬県内にも御諸別王の墳墓と伝承される古墳は複数存在し、現在では、御諸別王の陵墓ではなく、この地の有力者の墳墓と考えられているようだ。だが少なくともこの樋遣川から下村君一帯のどかな田園風景の中に佇む古墳群には、そんな古代ロマンがあふれているということだ。
            
        庚申塚の隣には男根の形をした石棒もあり。安産の神様として、
             近郷近在の人々から信仰されているという。
        
           静寂の中にも厳かに鎮座するイメージが似合う社
 利根川の堤防を除いては、平坦地の多い当地だが、この神社は、小高い塚の上に鎮座している。伝承・伝説の真偽はさておき、風格のある社である事は確かである。


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