古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

二宮赤城神社

 二宮赤城神社は、群馬県前橋市二之宮町にある神社。 式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は郷社。 関東地方を中心として全国 に約300社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。この社は赤城山麓真南に位置し、赤城山の稜線がよく見える絶好の位置に鎮座している。この地域は古くから開けていた場所で、この社の東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。赤城神社は上野国二宮であるが、当地の地名も二之宮という。現在、赤城神社の本社は、三夜沢赤城神社というのが主流であるが、少なくともある時期、上野一宮が貫前神社となり、赤城神社が二宮として定められた頃、赤城神社の本社は当社であったのかもしれない。
 
万葉集には、赤城山を詠んだ歌が存在するが、当時はこの「赤城山」という名前では詠まれたものはなく、「3412 賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母
 (かみつけの くろほのねろの くずはがた かなしけこらに いやざかりくも)」とあり、この
「くろほのねろ」が赤城山をさすものとされ、赤城山連峰の「黒檜山」に比定されているといわれている。赤城山の本当の名前、また何時、現代の名称に変わったのか、不思議な疑問がまた一つ増えてしまった。
所在地   群馬県前橋市二之宮町866
御祭神   大己貴命 多紀理比売命 多岐津比売命 市岐嶋毘売命
        天忍穗耳命 天之笠早命 熊野久須毘命 活津日子根命
        天津日子根命・和久産巣日命・大物主命 建御名方命                                               
社  格   式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧郷社
由  緒   履中天皇御宇の創祀
        承和6年(839)6月従五位下「続日本後紀」
         貞観9年(867)6月20日正五位下「三大実録」
         同11年12月15日正五位上、同16年3月14日従四位下
             元慶4年(880)5月25日従四位上
        康和5年(1103)6月神事に穢れがあり中祓
        永承4年(1049)神仏習合の勅願神社 建久5年(1194)修築
例  祭   4月15日 例祭

                        
  二宮赤城神社は国道17号バイパス上武線の二宮赤城神社前交差点を右折し、そのまま北上すると国道50号線の二宮町の間に鎮座している。この前橋市二宮町は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されている。また赤城山山頂の赤城神社の里宮とも言われている。
 この社には神仏習合の神社の名残りが多数あって、境内には宝塔、参道には鐘楼などがあるし、周囲には、古墳や遺跡の多い場所だ。現代に至るまでの歴史の遺構が何かしらの型で残っていて、色々な意味において興味が尽きない面白い社だ。
 

               南向きにある朱塗りの一の鳥居               鳥居を過ぎるとすぐ右側にある鐘楼

          昼間でもほの暗い参道          隋神門の先で左側には案内板が設置されていた。

二宮赤城神社
 
当社は、第十代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に創建されたと伝へられる古社である。特に、古代豊城入彦命を始とした毛野氏の子孫上毛野氏と深い縁のあった社とも伝へられている。
 平安朝初期の第五四代仁明天皇の承和六年(八二九)に従五位下に叙されて官社となり、続いて昇叙を経、第六〇代醍醐天皇の延長五年(九二七)に制定された「延喜式」内、上野国十二社中の名神大社とされた。第六八代後一條天皇の長元々年(一〇二八)頃の上野国の国司文書中に、正一位赤城大明神、上野国神名帳には、上野国二宮赤城大明神などの神位、神階が記録されている古名社であった。第七〇代後冷泉天皇の永承四年(一〇四九)には、日本全国の諸社中から五五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその一社として、社域内に造塔の折、心礎(根巻石)内に仏舎利(釋迦尊の骨片、現存)が奉納されていたのである。
 鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久五年(一一九四)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したと云う記録も見られる。戦国時代に小田原城主北條氏政の軍勢に依って、数多くの建物は打壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失ない衰微した。天正十八年(一五九〇)北條氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府の天領代官藩主松平氏歴代さらに住民に篤く尊崇されてきた、そして赤城南麓地帯の連神社の中心的役割を果していた。
                                                            案内板より引用

       神代橋を渡り、正面には随神門               門の手前、右側にある社日
           
                              拝    殿
                                     
                                 
 随神門を過ぎると広い境内が広がり、社殿を中心として、その周囲には数多くの境内社、石祠等がある。社殿の左側には藁葺の神輿倉があり(写真上段左)、嘗ての十二天社といい、仏教のいう十二天を祀っていた場所だったが、明治時代の神仏分離政策により、現代は神興庫として使用されているという。また社殿右側には、演舞台(同右)、そして新しい神楽殿(下段)が並んであった。
 当神社には、太々神楽・雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されている。この式三番叟は、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したもので、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されている。当社には、享徳2年(1453)神社再興の際に作られたと推定される納曽利面があり、県の重文に指定されている。舞楽の面で、納曽利には陵王が舞われる。陵王は竜王と解され、雨乞いでよく舞われる舞楽である。 
           
                              本    殿
 二宮赤城神社のの創建は不詳だが、社伝では垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられている。建久5年(1194)には源頼朝が社殿を再建し、社領100石が寄進され社運が隆盛した。戦国時代の永禄年間(1558~70)小田原北条氏の兵火に見舞わられ、社殿をはじめ社宝、記録等が焼失したが、その後領主となった牧野氏や前橋藩主・酒井氏、松平氏に庇護され再び隆盛した。本殿の妻壁の架構も複雑に構成され、二重虹梁下の彫物も独特の意匠となっている。

 二宮赤城神社 由緒
 創立年代は不詳。
 社伝では人皇11代垂仁天皇の御宇に創建されたとつたえられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。
 赤城神社に関する文献の初見は「続日本後期」承和6年(839)で、上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三代実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。
 平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けがおこなわれはじめましたが、当社は上野国の二宮として(地名にもなり)現在に至っています。
 又、次のような伝説も有ります。
 あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。
 そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。
 つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。
 それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。
 そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語っています。
                                        
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
      

          拝殿右側にある日枝社          日枝社の右手にある赤城神社の文化財案内板
                                
        本殿右奥の林の中に、鎌倉時代のものと推定される、舎利孔をもつ塔心礎がある。

                
  本殿後方右側、日枝神社の裏手には道祖神や石祠が祀られ、鳥居の奥には秋葉神社が祀られている(写真上段左)。秋葉神社は俗にいう「火伏せの神」といい、広く信仰された秋葉大権現(現在の静岡県浜松市に本宮をもつ秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ないという。 
 また社殿の左側後方には「宝塔」があり(写真上段右)、南北朝期のものと推定され、この地方に広く分布し赤城塔と呼ばれていて、天台宗の法華経信仰によるものと考えられているそうだ。社殿の両サイドには多くの祠がビッシリと並んでいる(写真下段)。二宮町周辺の神々をこの地に集めた結果なのだろうが、やはり実際に見ると群馬県にはこのような社が多く、その数の多さに驚く。 
                            

 ところで、二宮赤城神社の御神幸という伝統行事が毎年4月、12月の上旬の初辰日に行われている。この御神幸というのは、二宮赤城神社と三夜沢赤城神社の間を御神体が往復する行事で、二宮赤城神社独特の神事であるらしい。御神体(神輿)は、神鉾・神衣(かむみそ)といい、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ衣替えのため渡御するという伝承で、古くは神衣祭(かむみそさい)と呼ばれていたが、現在は御神幸またはオノボリと呼ばれている。

 当日、氏子総代が集まり祭典を行い道中の無事を祈る。以前は拝殿から神輿を三夜沢までの12kmを徒歩で担いだ。現在は車を使用している。途中、大胡神社(旧近戸神社)と柏倉町の「お輿懸(阿久沢一家)の2箇所で休憩し、接待を受ける。この神事は、山宮と里宮の関係を示す行事で、古代の信仰を考える上で重要である行事であるという。



                    



 


 

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