古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高根神社

 不思議なことに神社参拝を行っていると、時として思いもしない素晴らしい社に出会うことがある。自分にとっては幸運この上ないことだが、そのような社に出会うと今日一日が大変幸福な気分になる。熊谷市小江川に鎮座する高根神社もその一つに数えられる。
 過去通勤の関係から埼玉県道47号深谷東松山線から何度も目にしていた鳥居の風景からそこに社が存在していたことは以前から承知していたが、社に行く道が細く、なかなか参拝するとなると二の足を踏んでしまう場所だったことや、鳥居は見えても社殿など建造物が全く判別できず、どの程度の規模を有するかわからなかったことから参拝が思いのほか遅くなってしまった。
 創建は不明。由緒としては古くから「高根明神」と崇められ、地域で最高峰の高根山に鎮座していたが、江戸時代の享保年間(1716~1736)に現在地に遷座されたと伝わり、曹洞宗高根山満讃寺が別当だった。御神体は神鏡で、大祭は「平方のお獅子様」といわれている社である。

所在地  熊谷市小江川1404
御祭神  味鋤高彦根神、伊邪那岐命、伊邪那美命
社  挌  旧村社
例  祭  3月第2土曜日
 
 

 高根神社は熊谷市小江川地区に鎮座している。埼玉県道47号深谷東松山線を森林公園方面に進み、南小学校西交差点を越えると緩やかなカーブの道となり、右側にお寺(満讃寺)が見えてくるのでその先の交差点を右折すると左側方向にに高根神社の入口が小さく見える。
 
  高根神社は一面の水田の先にある鎮守の森の中に鎮座している。
 
                社頭及び参道の風景
 
高根神社  所在地 熊谷市小江川

 高根神社の祭神は、味鋤高彦根神、伊邪那岐命、伊邪那美命であり、古くから「高根明神」と崇められていた。古くは元高根に鎮座してあったものを享保年間(1716~1736)に現在地に遷祀したと伝えられていて、曹洞宗高根山満讃寺が別当であった。
 味鋤高彦根神は氷川神社の祭神素戔嗚尊の子孫である大国主命の長子であることから、ここ武蔵国にも関係深かったことがうなずける。
 当社の神体は神鏡であり、大祭は毎年3月16日で、「平方のお獅子様」と言われている。これは、上尾市平方八枝神社から獅子頭を迎えている捧祭で、悪疫退散、家内安全、厄除招福の祈りを込めて行われる。
 平成11年12月    埼玉県
                                                      案内板より引用
 
 
     社頭の参道の石段を登ると鳥居があり、また石段を上る。
 
そうするとすぐに社殿が見える。参道に対して横(東向き)を向いて鎮座している。

 
                    拝   殿
 
                    本   殿
 高根神社の祭神である味鋤高彦根神は大国主命と宗像の三女神の中の多紀理姫との間の子であり、別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。れっきとした出雲の神であり、同時にこの神社の北側板井地区に鎮座する出雲乃伊波比神社との関連性もあるように思える。
 また同時にこの熊谷市小江川地区は、滑川町との北側の境に位置していて、比企郡総社である伊古乃速御玉比売神社とも地形的に近い。実はこの熊谷市小江川地区は律令時代当時、男衾郡に属していたらしいが、比企郡との境界線が今一つはっきり判明されているわけではない。高根神社はこの地域にとってどのような目的で創建されたのだろうか。
 
    社殿の左側には石段を上った先に境内社があり祀られている。

   
 写真左側の合祀社から榛名神社・三峯神社、牛頭社、稲荷神社、金比羅神社、諏訪神社、八坂神社の名前がある。写真右側の石祠群は右側2つは星宮神、弥勒大菩薩と読めるが他の4つは残念ながら不明だ。
 この星宮神は妙見神と言われている。秩父地方は特に妙見信仰が今なお続く地域として有名だが、その流れか、それとも熊谷市高城神社内にある星宮からきているか。

 
 静かに佇む社。この社を含むこの一帯からくる雰囲気が自分にとって大変気持ちがいいのだ。熊谷市板井の出雲伊波比神社と同様にいつまでもこの風情ある空間を残したいと感じさせてくれる、そんな社をまた一つ発見した。

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塩八幡神社、塩古墳群

 出雲乃伊波比神社の南側に塩八幡神社が鎮座している。そしてそのまた南側には有名な塩古墳群がある。旧石器時代や縄文時代の遺物が出土し、埼玉県北部の代表的な古式古墳群の所在地となっている。

 所在地     熊谷市塩142-1
          
 祭  神     品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(推定)、※[別称]誉田別命

 社  格     旧村社
 由  来     不明
       
地図リンク
 塩八幡神社は、埼玉県道47号深谷東松山線を東松山市方面に進み、旧江南町の小原十字路交差点を右折すると埼玉県道11号熊谷小川秩父線になる。この道路をまっすぐ進み、約2㎞弱位、時間にして10分弱で右側にこんもりとした森が見え、塩八幡神社に到着する。駐車場は神社手前に塩集会所があり、そこに駐車して参拝を行った。
 
      県道に面して社号標、鳥居がある                参道。社殿を望む
           
                            東向きの社殿
            
                            拝殿及び本殿
 塩八幡神社の創建時代、由緒等は不明。ただ気になる点が一つある。出雲乃伊波比神社-塩八幡神社-塩古墳群のラインは塩八幡神社が若干のずれはあるが、一直線でつながる。一方、出雲乃伊波比神社から北へ1.5Km、千代地区には寺内廃寺跡がある。このラインの関係はどういうことなのだろうか。
 塩八幡社の現在の社殿の創建は、『新編武蔵風土記稿』塩村の条において、16世紀末に徳川家康の江戸入府の後に召し抱えられた旧武田家臣の伊藤氏が塩村の領主となり、そしてその伊藤氏が館を置いたのがこの塩八幡の北にある丘陵だとされている。そこで新しい領地でも氏神として八幡神社を奉じた、というのは一応筋が通る。だがなぜこの地に創建したのか。創建するに適した土地だったのか、それとも元々この地に由緒らしい痕跡があって村民の合意のもと創建したのか......とにかく不思議な配置関係だ。

 埼玉名字辞典には「塩」に関してこのような記述をしている。

柴 シバ
 三国史記列伝に、韓半島南部に浦上八国あり、骨浦(今の昌原)、柴浦(今の漆原)、古史浦(今の鎮海)等なり。浦は古訓でカラ(韓)の意味がある。また、浦は海のことで海洋民を称す。柴浦の海洋民は柴崎、柴田等を称す。また、柴生田はシボウダと訓ず。方、芳はホウ、ハウと読む。和名抄に安芸国賀茂郡志芳郷を之波と註す、東広島市志和町なり、シホはシハ、シワに同じ。塩はシホ、シボと読み、豊島郡渋谷村(渋谷区)は塩谷の里と唱え、那智山文書に「応永二十七年、江戸氏一族旦那・しほ屋との」と見ゆ。シブ(渋)もシボ、シバの転訛なり。塩姓、柴姓、渋姓は柴族にて柴浦の海洋民なり。男衾郡柴村(江南町)、足立郡小室郷柴村(伊奈町)あり。秩父郡大河原郷坂本村字柴(東秩父村)は古の村名にて、文政二年地蔵尊に芝組と見ゆ。鎌倉雲頂庵文書に「十二月九日、柴郷事、上田右衛門尉中間彦太郎男衾鉢形へ帰候間云々、太田道眞書状重可取越候、忠景花押(長尾皎忠)」と、太田道眞は明応元年二月没す。柴郷は男衾郡柴村か、但し当村は文政頃に村高百六石・家数九軒の小村なれば、近村一帯を柴郷と称したか。○茨城県真壁郡明野町五十戸、関城町三十二戸、真壁町三十五戸、結城郡八千代町二十一戸、石下町二十八戸、下館市六十五戸、下妻市六十三戸。○千葉県海上郡飯岡町三十戸。○長野県東筑摩郡明科町十三戸、上伊那郡辰野町十四戸、箕輪町八十八戸、伊那市五十七戸。○福島県双葉郡浪江町十六戸あり。

 
 男衾郡柴村(江南町) 当村は古代柴族の渡来地なり。但し、家伝には信濃国小笠原四郎基義が戦国末期に移住して柴氏を称と云う。野原村文殊寺寛延元年水鉢に松山領柴村柴七兵衛守孟、明治二年碑に柴村柴伴七.。万延元年羽尾村設楽文書に男衾郡柴村大工棟梁柴隼人正。明治九年副戸長柴守徳・嘉永元年生。代々名主にて、子孫柴益次郎家なり。明治十八年最上農名簿に柴守徳・耕宅地七町歩・山林三十七町六反歩所有。昭和三年興信録・所得税に柴松重・七十五円、柴虎蔵・三十一円あり。八戸現存す。

 それに対して熊谷文化財日記には「塩」についてシワと同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明している。ただ「塩」と「柴」が同じ意味であるという見解は一致している。
 どちらの説明にしろ、この地域は4世紀頃から武蔵国では早い時期に人々が住み始め、谷津田や和田川、滑川の周辺の沖積地は古くから開墾され、豊かな地域だったことは遺跡等の発掘によって証明されている事実は動かいようはない。



          社殿右手にあった境内社(写真左側)と大黒天の石碑(同右)
         
 埼玉県道11号線に沿って塩八幡神社は鎮座している。この県道は交通量が多いが、それでも出雲乃伊波比神社の雰囲気を維持しながらの参拝だったので、この神社にも何か懐かしさを感じさせてくれる何かがあった。また塩八幡神社の手前には塩集会所があり、神社の奥にはゲートボール場もあり、地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようで、そこには今では無くなりつつある日本の古き原風景にも重なる。都会ではなかなか見られない、「どこかで見た懐かしい風景」がここには存在した。

 そしてこの心地よい空気に触れながら「塩古墳群」にいよいよ向かう。神社から本当に目と鼻の位置にそれはある。


塩古墳群
地図リンク
 塩八幡から県道を渡って南に入った丘陵地帯に広がるのが、埼玉県指定史跡の「塩古墳群で、古墳時代前期(4世紀)のものといわれ、埼玉県内の古墳の中でも最初の時期につくられたもので貴重な古墳遺跡だそうだ。1号墳は全長38m前方後円墳。その他に16基の方墳と円墳がある。
                 
埼玉県指定文化財   
塩古墳群

 塩古墳群は滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期(四世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳群として貴重なものです。
 昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。
 平成15年3月  熊谷市教育委員会


       
                     道路沿いにある塩古墳群案内板 

 塩古墳群は、比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布し、保存状態も良好で、近辺にある野原古墳群同様、武蔵国の初期の古墳形態として非常に重要な遺跡であろう。
 
 また方墳や前方後方墳の密集は、弥生時代の方形周溝墓の流れを引き継ぐのものと考えられ、埼玉県内の古墳の発生と発展の過程を考える上で非常に重要な古墳群であるという。

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野原八幡神社、野原古墳群

 熊谷市野原地区に鎮座している野原八幡神社は、式内社出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社と共に和田川の東西のラインで繋がっているような不思議な位置関係を形成している。
 所在地     熊谷市野原66
 御祭神     誉田別命
 社  格     旧村社
 例  祭     不明

       
地図リンク
 野原八幡神社は野原西部集会所に隣接して鎮座している。平成9年に再建した新しい社殿は一面に玉砂利の敷かれており境内は非常に綺麗に整備され、神社自体は決して広くはないが開放感があり、鎮守の杜の中に白壁の拝殿が映える、すっきりとして清潔感のある神社である。社殿の左側には境内社や庚申塔も多数祀られている。
           
 和田川が東西に流れている関係か、出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社同様野原八幡神社も和田川北岸の台地上に鎮座し、社殿は南向きである。
 
八幡神社と野原古墳群    
 所在地 熊谷市 野原

 八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は神鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永20年(1643年)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社殿の棟札に残っている。また、宝暦11年(1761年)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社への御供米一斗二升が献納されていたという。(中略)
 なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。(中略)これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われていたといわれ、この地方にかなりの勢力を持った豪族が居住していたことを物語っている。
                                                                                        

  平成11年12月    埼玉県
                                                      案内板より引用

        
                             拝殿、奥に本殿
 野原八幡神社の左側、正確には西側には境内社が多数祀られている
            
                        社殿西側に祀られている境内社
   
       三峯神社(左)と雷電神社(右)           三峯神社の左側にある鹿島神社
 
    左から天満天神社、稲荷神社、山之神社       鹿島神社と合社との間に小さな石祠があったが                
                      愛宕神社                                                     こちらは詳細不明)

 ところでこの野原八幡神社の社殿の裏山の西方に野原古墳群がある。この遺跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。神社西側にある庚申塔や青面金剛像の奥にあるようだ。
                         
                                                                 庚申塔群

野原古墳群(のはらこふんぐん)は、埼玉県熊谷市にある古墳群。和田川に南面する台地上の広い範囲にかつて30基以上の古墳が分布していたが、現在23基が山林の中に所在する。1962年(昭和37年)、採土工事に伴い野原古墳の発掘調査が行われた。1964年(昭和39年)には立正大学が円墳8基の発掘調査を実施した。なお、野原古墳で発見された勾玉や耳環などが1957年(昭和32年)10月18日付けで江南町(当時)指定考古資料に指定された。
                                                    ウィキペディア参照

                         
                      埼玉県選定重要遺跡に指定されている割には放置されているような状態だ。


 野原八幡神社が鎮座する「野原」という地名はいかにも抽象的であるが、考えてみたら不思議な地名だ。「大辞泉」にてその意味を調べると

 野原(の-はら) (「のばら」とも)あたり一面に草が生えている、広い平地。原。のっぱら。

 この地域は確かに「あたり一面草が生えている」場所であり、「原、のっぱら」ではあるが「広い平地」」ではない。和田川が形成した沖積地は両側には丘陵地によって遮られ、幅が狭く、細長い平地が続いているのであり、「野原」という地名は決して適当ではない。つまり、地形上からついた名前ではないということだ。ではこの「野原」とはどんな意味があるのか。

 野原は野+原の組み合わせでできた地名であり、本来の地名は「野」であったのではないか。

野 ノ 
 奈良・奈羅・那曷(なか)のナは国の意味で韓国(辛国)渡来人集落を称す。ナカ参照。奈は乃(な)と書き、古事記仁徳天皇条に「あをによし乃楽の谷に」と。日本書紀天武天皇元年条に壬申の乱に際して、吉野方の将軍大伴吹負は「乃楽山」に陣を置いたとあり。大和国奈良は乃楽と記した。乃(な)は野(な)とも書き、日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり。和名抄伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓ず。後の田辺村なり。乃(な)は、ノに転訛して佳字の野(の)を用いる。埼玉郡野村(行田市野)は、当村のみ渡庄を唱え、韓人の渡来地より名付く。


野原 ノハラ 
 乃(な)、野(な)は古代朝鮮語で国の意味、ノに転訛して野(の)の佳字を用いる。豊前国風土記逸文に「田河郡鹿春郷。河原村を、今、鹿春(かはる)の郷と謂ふ。昔は、新羅の国の神、自から渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち名づけ鹿春の神と曰ひき」と見ゆ。新羅渡来人の多い九州地方では、原(はら)をハル、バルと云い、村・集落の意味なり。韓国(辛国)渡来人集落を野原と称す。男衾郡野原村(江南町)あり。

       
                  野原八幡神社から和田川周辺の風景を撮影。                             


         
 この地域は「塩」、「柴」等一字名の字が近隣に多く存在する。地名の起源において基本的な主語は一字であり、そこから時代が下るにつれて人口の増加や他地域との交流によって現在の二文字が主流となる地名が発生したと筆者は常々考えている仮説であるが、その仮説で考えると、野原という地名は元来「野」ではなかったのではないか。また須賀広八幡神社が鎮座する「須賀広」も元々「須賀=須の国=須」であり、出雲乃伊波比神社が鎮座する「板井」も「板」が元の字ではなかったのだろうか。



 

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須賀広八幡神社


 熊谷市板井に鎮座する出雲乃伊波比神社の南に流れる和田川は延長9km、流域面積 12.6km2の荒川水系の一級河川である。源流は比企郡嵐山町古里の農業用溜池のようであり、直接的な山地水源は持たない。和田川の河川管理上の起点は、江南町板井に設置されていて、管理起点からは比企丘陵の狭間を農業排水を集めながら東へと流れ、大里郡江南町、比企郡滑川町、熊谷市、東松山市を経由し、大里町下恩田で和田吉野川の右岸へ合流する。この須賀広八幡神社はこの和田川を通じて上流部の出雲乃伊波比神社と文化的、経済的にも接していたような位置関係にある。
 和田川の南側の丘陵には塩古墳群(約100基)と野原古墳群(約2、30基)が存在することから、この付近では4世紀頃から6、7世紀後半までは集落が成立していたことになる。和田川周辺の平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。このことは人々が生産活動を営んできた証しである。この地の一角に須賀広八幡神社は静かに鎮座している。
所在地     熊谷市須賀広237
御祭神     誉田別命
社  格     旧村社
例  祭     大祭・10月14日に近い土・日曜日 


         
地図リンク
 須賀広八幡神社は埼玉県道47号深谷滑川線をを滑川、森林公園方面へ進み、南小西交差点で左に折れ、そのまま東へ1km程走ると左手側に八幡神社が見えて来る。この道沿いには駐車場は無いが、神社の鳥居の手前のT字路を左折して神社裏の集落センターには駐車場があるのでそこに車を停め、参拝を行った。
 
                      道沿いにある社号標                  社号標の先には両部鳥居がある。
 
         参道は南向きで社殿が小さく見える。                                参道もいよいよ終点
                                                                     二の鳥居(明神鳥居)とその左側には案内板がある。
                       
八幡神社      
  所在地 熊谷市(元大里郡江南町)須賀広

 八幡神社の祭神は誉田別命で、神体は神鏡である。
 社伝によれば、創建は延喜17年(917)醍醐天皇の代である。武家の崇敬が極めて篤く11世紀末、八幡太郎義家が奥州征伐(後三年の役)の赴く途中、侍人を代参させ戦勝祈願したといわれている。
 江戸時代初め、稲垣若狭守重太の長臣田村茂兵衛が当地に陣屋を築き、以後この地を治めた。その後、寛永11年(1634)稲垣氏から御供米、土地が寄付され、以後も累代崇敬されていた。また、明和3年(1766)本殿再建遷宮式のとき、時の若狭守が自ら参拝し多額の幣帛料を寄進した。それからは須賀広、野原、小江川地区等稲垣氏所領の村民の崇敬益々篤くなったと伝えられる。
 大祭は毎年10月14日夜と15日で、獅子舞が奉納される。この獅子舞子は三人で長男に限られ、当日は氏子一同社頭に集まり舞を奉納披露し、その後地区内を一巡するきまりとなっている。
                                                                                                                       掲示板より引用

                          
                              拝   殿
           
                              本殿鞘堂

 
         社殿左側にある神楽殿                社殿の左側にある天満天神社
 
          境内社 祭神は不詳                        境内社
 合社に関しては、左から白山社、厳島神社、天満社、御嶽神社、阿夫利神社、榛名神社、稲荷神社、三峯神社の各社。 


 ところで須賀広八幡神社の現在の祭神は誉田別命であるが、案内板で紹介している創建時期と八幡太郎義家の時代との間には100年以上もの空白の時期がある。その時期の祭神は一体誰だったのか。この鎮座している「須賀」という地名は何か意味深い地名だ。「須賀」は「素賀(スガ、ソガ)」であり、須佐之男命、いわゆる「出雲系」に通じているのではないだろうか。


須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。
         

 出雲系の出雲乃伊波比神社のほぼ東側で、和田川下流域に位置するこの須賀広八幡神社の権力者は誰であったろうか。が、少なくとも出雲乃伊波比神社と敵対していた勢力ではなかったことは確かである。地形上でも和田川周辺の狭い平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。水は全てにおいて非常に重要な資源である。この河川を共有して行かなければ「須賀」の生活は成り立たなかったろう。故に出雲伊波比神社の勢力と須賀広神社の勢力は同じではなかったか、または同盟関係の間柄ではなかったか、というのが今の筆者の推測である。


 須賀広八幡神社をから東に1km弱行くと左手に野原八幡神社が見える。この社のすぐ西側には野原古墳群もあり、あの有名な「踊る埴輪」が出土した古墳群で推定年代は古墳時代終末期~奈良時代(6世紀末~8世紀前半)という。



                                                                              


 


 

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荒川神社

 埼玉県は新井、荒井、新居、荒居等「アライ」姓名が多い県として有名である。特に「新井」姓は埼玉県第一位の大姓であるという。この「アライ」姓を分割すると「アラ」+「イ」となり、そのうち「イ」は国、村、集落を意味し、本来の主語は「アラ」である。そしてこの「新」や「荒」の語源は「埼玉苗字辞典」では古代朝鮮半島の国「安羅」(アラ)から来ているという。

荒 アラ 安羅の神を荒神社と称す。神無月(旧暦十月)に荒神様が馬に乗って出雲の社へ出かけるので絵馬を飾る伝承が東国にある。特に氷川社のある埼玉県南部に此の風習が残っている。また、荒は粗鋼で製鉄神となり、タタラのカマド神となる。奥州太平洋岸の鍛冶師・荒一族は此の荒神を祀っている。荒氏は、福島県相馬郡鹿島町三十戸、新地町百六戸、双葉郡浪江町二十四戸、原町市七十六戸、相馬市二百十三戸、宮城県伊具郡丸森町二十五戸、亘理郡山元町二十三戸、亘理町十二戸、遠田郡涌谷町十八戸あり。

安羅 アラ 阿羅とも記す。安羅は、安邪(あや)、安耶(あや)、漢(あや)とも称す。また、安那(あな)、穴(あな)と称し、阿那(あな)はアダとも称す。韓半島南部の古代は、北方の燕(えん)が遼東方面に進出するにおよんで、遼河・遼東半島方面の辰韓(しんかん)と、鴨緑江・清川方面の弁韓(べんかん)の韓族が南下移動を開始し、辰韓・弁韓族が漢江以南に辰国を建てる。しかし、馬韓(ばかん)族が南下移動を開始した為に、辰国は半島東南部の慶尚道地方に移動して定着し、おのおの辰韓国(後の新羅)、弁韓国(後の伽耶諸国)を建てる。馬韓族は漢江西南に目支国(もくし)を建てた。後の馬韓国(全羅北道益山付近。後の百済)である。目支国の君長は代々辰王を称し、辰韓・弁韓の三韓連盟体を組織する。魏志東夷伝に¬辰韓は馬韓の東に在り。弁辰韓・合せて二十四国、其の十二国は辰王に属す。辰王・常に馬韓の人を用ひて之をなす。世々相継ぐ。辰王自ら立って王たる事を得ず」と見ゆ。後世、高句麗に追われた夫余族の温祚(おんそ)部族の伯済(はくさい)が広州(京畿道)に土着し、目支国を征服して馬韓を支配したのが百済王国の土台となった。梁書・百済伝に¬邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。百済のクはオオ(大)、ダラは檐魯で、クダラとは¬大邑、大国」と称した。大ノ国は辰王の支配下である韓半島南部の三韓を云う。オオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)とも称した。此地の阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と云う。日本書紀・神代上に¬天照大神、素戔鳴尊と天安河を隔てて相対ひ」。また、¬時に八十万神、天安河辺に会合し」とあり。天安河辺(あまのやすのかわら)の、天は朝鮮国、安(あ、やす)は安羅国、河辺は人の集まる都を云う。また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした。また、出雲国意宇郡出雲郷は、大ノ国の渡来地にて、意宇(おう)郡と地名を付ける。出雲郷は安那迦耶(あだかや)と称し、イヅモとは読まない。大穴持命の子阿陀加夜努志多伎吉比売命を祭る阿陀加夜社の鎮座地なり。安羅(安那)の迦耶人である阿陀族は此の地より、武蔵国へ移住し、居住地を阿陀地(足立)と名付け、其の首領は武蔵国造となり、大宮氷川神社の祭神に大穴持命(大巳貴命)を奉祭す。大穴持命の別名は大ノ国の大ノ神である大国主命である。前述の如く、大ノ国の別名である安羅国は馬韓・弁韓・辰韓の三韓である韓半島南部全域を称す。また、大和国は日本国を指す場合と、奈良県のみを指す場合とがある。是と同じで、三韓全域の安羅国の内に安羅迦耶と云う小国がある。今の慶尚南道の咸安の地で、任那(みまな)国と呼ばれた地方である。垂仁天皇二年紀に¬意富加羅(おほから)の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、本土(もとのくに)に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ」と。姓氏録に¬芦屋村主、百済国意宝荷羅支王より出づるなり」と見ゆ。意宝荷羅(おほから)王の任那国は百済国の内なり。また、継体天皇六年紀に¬任那国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁、四県を百済に賜ふ」とあり。全羅南道栄山江の東に哆唎(たり)があり、西に牟婁(むろ)があり、娑陀(さだ)も近くにある。此の辺までの任那国は百済国と称す。また、応神天皇三十七年紀に¬阿智使主は都加使主を呉に遣し、縫工女(きぬぬいめ)を求めしむ。呉王、是に工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)、四婦女を与ふ」と。雄略天皇十二年紀に¬身狭村主青等、呉国使と共に、呉の献れる手末(たなすえ)の才伎(てひと、技術職人)、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛等を率いて、住吉津に泊る」と。継体天皇二十四年紀に¬久礼牟羅(くれむら)の城(さし)」と見ゆ。呉は中国南部にあった呉国では無く、慶尚北道達城郡苞山の求礼の地にあった国である。呉織、穴織、漢織は同国の人で安羅国の出身である。また、阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す。

 
荒川は通説では「流れの荒い川」という意味から「荒」が語源になっているというが真相はどうであろうか。荒川は奥秩父に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞を経て、寄居町で関東平野に出る。熊谷市久下で流路を南東に変え、さいたま、川越両市の間で入間川と合流し、戸田市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。その後隅田川と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ、延長169km、流域面積2940平方kmの関東第二の大河川であり、埼玉県民にとっていわば母なる川である。

  上記の「荒」、「安羅」の説明を踏まえて考えてみると、荒川の本来の意味は「アラ族が信奉する聖なる川」ではなかったのではないだろうか。埼玉県に非常に多い「アライ」姓と似通った名前の「荒川」にはなにか共通点があるように思えるのだが。

      
所在地     深谷市荒川985
御祭神     天児屋根命、 倉稲魂神、 菅原道真 
社  挌     旧村社
例  祭     10月14日 例大祭  (7月14日 境内社八坂神社、八坂祭)

 荒川神社は関越自動車道・花園ICを出てすぐの花園橋北信号で右折。300m先の寿楽院手前を右折すると、左手に鎮座している。大里郡神社史には、もと大明神社と呼ばれ、大里郡花園村大字荒川字寺ノ脇に鎮座していたという。
         
                        荒川神社正面より撮影
 この社の一の鳥居前には寄居町の波羅伊門神社男衾の小被神社も以前はこんな造りだったが、鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっている社はそれほど多くない。同じ一族の共通した建築方法だろうか。

                    
                             拝   殿
                     
                             本   殿
 明治43年、村内数社を字川端の地へ移転合祀して、土地の名により荒川神社とした。その地にあった天満天神社は境内神社となった.
 この天満天神社の御神体は、衣冠束帯の菅公座像という。もとは甲府城主 武田家に代々祭られたもので、武田信玄の自作ともいう。天正年間(1573~92)の天目山戦役の折り、武田勝頼から侍臣小宮山内膳正友信に賜わったもので、友信の弟の又七郎久太夫又一らが当所に落居し、天満天神社として祀ったものという。
 荒川神社は大正4年に字寺ノ脇の現境内へ移転され、同6年に天満天神社は本殿へ合祀された。当神社の通称を「天神様」ともいう。
 
         社殿左側にある境内社 山ノ神社                                 社殿右側にある八坂神社



 さて冒頭「荒」や「安羅」について「埼玉苗字辞典」の記述を紹介した。「荒」の項では「荒」とは安羅の荒神であり、また古代鍛冶集団である製鉄神タタラのカマド神でもあるという。そして「安羅」の項では、古代朝鮮半島の百済国の別名「大ノ国」の「大」をオオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)ともいい、渡来してから阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と称した。
 

 また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした(安羅国の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした為)。そして阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す(現在でも「熊谷」姓は岩手、宮城両県に多い)。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す、と記されている。

荒井 アライ 安羅国の渡来人にて、荒(あら)を二字の制により荒井とす。此の氏は武蔵国に多く存し、奥州に少ない。
新井 アライ 新(あら)は、安羅(あら)ノ国の渡来人安部族にて、二字の制により、新井と記す。此の氏は埼玉県第一位の大姓なり。安部族は、奥州にては阿部氏及び熊谷氏を名乗り、新井氏は殆ど無し。
荒木 アラキ 新羅(しら)をシラギ、百済を百済木、邑楽を大楽木と称するように、安羅国(後の百済)の安羅(あら)をアラキと称す。安羅の渡来集団は、山陰・山陽地方及び武蔵、出羽方面に移住す。
新木 アラキ
 荒木と同じにて、安羅(あらき)の佳字なり。新木はイマキとも称す。

      


 また氷川神社が鎮座する大宮地方一帯は嘗て「足立郡」と呼ばれていた。この足立郡の由来もこの「安羅」からきているという。

足立 アダチ 此の氏は、豊後国及び出雲・但馬・丹波の山陰地方、また美濃国に多く存す。平安時代の貴族達は百済僧を豊国僧と呼んでいた。豊ノ国から渡来した人々の居住地を豊国(福岡、大分の両県)と称す。神武東征以前の神代の時代に渡来する。大ノ国(後の百済)のオオ・オウ・オホの原語はウと称し、鵜のことをアタと云う。大ノ国は安羅(あら)とも称し、其の渡来集団を安部・阿部と称した。豊前国企救郡足立村(福岡県小倉北区)、大和国宇陀郡足立村(榛原村大字足立)は阿部集団の阿陀族が渡来土着し地名となる。また、近江国浅井郡大井郷(和名抄に於保井と註す)あり、今の虎姫町なり。古代は於保を鵜と呼び、阿陀と云い、大井郷付近を別名足立郡大井郷と称す。当国佐々木氏系図に¬西条貞成(観応勲功・給足立郡大井江地頭)」とあり。また、大ノ国の渡来地を意宇(オウ)と称す、出雲国意宇郡出雲郷の出雲郷は阿陀迦耶(アダカヤ)と称し、イヅモとは読まない。此の地に阿陀加夜社あり、迦耶人の阿陀族の氏神なり。此の地方の出雲族阿陀集団は神武東征に追われ、武蔵国へ移住して、其の住地を足立郡と称した。其の一部は陸奥国安達郡に土着する。日本霊異記下巻七に¬賊地(あたち)に毛人(えみし)を打ちに遣さる」と見え、大和朝廷は東国の阿陀族を蔑視していた。

 「新」は「アタラシ」と読むと同時に「イマ」と読むことができる。前述「新木」を「イマキ」と解釈すると、児玉郡上里町忍保に鎮座する今城青坂稲実池上神社の真の素顔もおぼろげながら見えてくるような気がするが、長くなりそうなのでこのことはいずれ別項を設けて述べたいと思う。

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