古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

箕田2号墳(三士塚)、宮前宮登古墳

 箕田古墳群は鴻巣市にある古墳群で、大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広大な地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16~18mの台地上に立地し、九基の古墳が確認されているが、現在は7基が残っているそうだ。その中でも箕田2号墳、宮登古墳が特に有名だ。
       
1 箕田2号墳(三士塚)
 所在地   埼玉県鴻巣市箕田(字九右衛門)1260
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 6世紀後半(推定)
 箕田古墳群の代表格のような古墳で別名「三士塚」。5号墳に次ぐ箕田古墳群第2位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mを測る円墳で、墳丘の形状を良く残しているといわれている。周辺が宅地化されているにも関わらずこの古墳の辺りだけは緑に囲まれひっそりと佇んでいる。
           
箕田古墳群
本古墳群は大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広い地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16-18mの台地上に立地し、龍泉寺・富士山・宮前・稲荷町の四つの支群を形成している。
今までに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は1・3号墳が消滅しているため、わずかに七基の古墳が残っているのみである。しかし、付近一帯に埴輪片が採集される事実からすると往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では生出塚古墳群と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。
発掘調査は昭和3年に柴田常恵氏によって7号墳が行われたのをはじめとして2・3・9号墳(宮登古墳、宮登神社内)で実施されており、須恵器有蓋高坏・はそう・埴輪・金環・切子玉・丸玉・鉄鏃等が発見されている。
箕田古墳群の築造年代は、出土遺物や最近の発掘調査より六世紀初頭から七世紀中葉の約150年間に及ぶことが判明している。

箕田2号墳
本墳は別名「三士塚」と呼ばれ、5号墳に次ぐ箕田古墳群第二位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mと測る円墳で、墳丘の形状を良く残している。
昭和58年に隣接地で発掘調査が行われ、墳丘を巡る周溝が確認されている。それによると築造当時は、直径32mを有する大型古墳であったことが明らかになっている。また周溝より須恵器有蓋高坏・甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は六世紀後葉に築造されたものであることが判明している。
なお、本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源任及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築造年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。
                                                           案内板より引用
 昭和58年の調査では、周溝(しゅうこう)が確認され、築造当時は32mの大型古墳であったことや、出土品から、築造年が6世紀末であることが判明している。またこの古墳に接して氷川神社の故地があり、「新編武蔵風土記」には「社(氷川神社のこと)の後に小塚あり、高さ六、七尺幅十二、三間、往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり、これ古へ貴人を葬埋せし古墳なるべしといへり」と紹介している。


2 宮前宮登古墳
 
 所在地   埼玉県鴻巣市宮前88
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 7世紀前半から中頃(推定)
                  
 宮前宮登古墳は宮登神社の奥に小じんまりと佇んでいる。通称箕田9号墳。よく見ると社の後方に箱式石棺の一部が露出していて、案内板には石室について記述されている部分もあり、それが石室の一部ではないかと思われる。
  発掘調査が1959年に行われ、埋葬施設は横穴式石室となっている。出土したものとして須恵器、土師器、切子玉、管玉、丸玉、鉄鏃などが知られている。
           
                 宮前宮登神社の鳥居周辺にあった宮登古墳の案内板
 宮登古墳
 箕田古墳群中の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り型横穴式石室で、玄室長2.9m奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
 玄室内からは、須恵器はそう・鉄鏃・切子玉(水晶製)・管玉・丸玉他が出土しており、これらの遺物から七世紀の前半から中頃かけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
なお、石室に使われた角閃石安山岩は、群馬県榛名山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。
                                                           案内板より引用

 この案内版によると、この石棺使用された角閃石安山岩は群馬県榛名山の火山噴火でできた火山岩である。この角閃石安山岩とは、火山岩の1種類で、角閃石を含んだ安山岩をいう。 特に、古墳時代の群馬県においては、Hr-FP(榛名山の噴火)の噴火による軽石を指す。古墳時代に大量に石を必要とする古墳の石室や羨道造りに多数使われており、綿貫観音山古墳、総社二子山古墳を始めとした横穴式石室を持つ古墳によく用いられ、群馬県、埼玉県では120基以上の古墳で使用された。

 宮前宮登古墳は箕田古墳群の他の古墳と異なる系統の石材が使用され、周辺の支配者の系譜に何らかの変化があったのではないかと言われているが詳細は現在不明だ。

               

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箕田氷川神社、宮前宮登神社

 鴻巣市箕田地区は北足立(大宮)台地と呼ばれる舌状台地の北端部に位置していて、標高16m~18mの微高地の台地に立地し、古くから開けた肥沃な土地であったようだ。鴻巣という地名自体、国府の洲の意で、ここに国府か郡衙 が一時的にせよ、かつてあったのではないか、という説がある。確かに、鴻巣は埼玉古墳群にも近く、 郡衙があった可能性は否定できない。確かにこの地域には箕田古墳群があるように古墳の多い地域として有名であり、郡衙がある、なしという議論の余地はあるにしても、ここに一大集落地が存在していたことは確かなようでである。

所在地    埼玉県鴻巣市箕田1260
御祭神    素盞嗚尊
社挌、例祭  箕田村鎮守だったらしい。その他は不明

       
 箕田氷川神社は箕田氷川八幡神社の北西方向約300mに位置し、今は小さな社が古墳上に鎮座している。県道365号鎌塚鴻巣線と武蔵水路が交わる中宿橋を17号方面に向かい、最初にT字路を右折ししばらく進むと左側に箕田氷川神社が見えてくる。ただ社は本当に小さく、鳥居があるためそこが神社であることを認識できる程度で、鳥居がなければ完全に古墳に見える。
 この社は、氷川八幡神社の境内掲示によると、承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれ、江戸時代には箕田村の鎮守社となっていたが、明治時代以降、氷川八幡神社に合併され、宗教法人としては消滅してしまったという。
 
    道路沿いにある箕田氷川神社の鳥居                古墳上にある本殿
 本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築城年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。

氷川社
 村の鎮守なり。社の後に古塚あり。高さ6・7尺幅12・13間。往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり。これ古へ貴人を埋葬せし古墳なるべしといへり。村持。
 末社
 諏訪社。稲荷社                                (新編武蔵風土記稿掲示より引用)

 

 箕田氷川神社が鎮座するこの「箕田」という地名は、東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国足立郡箕田庄が起源(ルーツ)であるという。また「みた」は東京港区の三田とする説もある。さらに遠いところでは三重県鈴鹿市上箕田町・中箕田・下箕田地域もその候補もあり結論がでていない。埼玉苗字辞典には「ミタ」について以下の記述がある。

三田 ミタ 三は未(み)の佳字にて、未(ひつじ)は渡来人の総称を羊(ひつじ)と云う。田は郡県・村の意味。渡来人羊族の集落を三田、見田、美田、御田、箕田と称す。

 この「羊=ひつじ」の名は物部氏の祖神の名である経津主(ふつぬし)の転という説もあり、渡来人系と一概に決めつけることは危険だ。政略によって物部氏本家は滅び、一部の物部氏は古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。その零落した姿が羊太夫であるとも想像もできるのだが、今のところ詳細は不明だ。


所在地    埼玉県鴻巣市宮前88
御祭神    誉田別命  相殿  聖権現(道主貴神)
社  挌    旧村社
例  祭    不明           
            
 箕田氷川八幡神社から埼玉県道365号鎌塚鴻巣線を東に進み、宮前交差点を右折するとその近郊に宮前宮登神社が鎮座している。この宮登神社は、箕田の八幡神社を分霊し、現在は八幡神社となっているが、江戸時代は聖権現社といった。
 ちなみに新編武蔵風土記稿ではこのような記述をしている。

 聖権現社
 村の鎮守なり。天長年間紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ、彼聖を崇てかく祀ると云。光徳寺持。末社に弁天庚申の二社あり。
 
            
   鳥居の前にある何となく味のある社号標                参道正面より撮影
 
              拝   殿                            本   殿
                       
                 拝殿から本殿方向を撮影、よく見ると祭神が2柱ある。
               思うに、誉田別命と相殿である聖権現(道主貴神)であろう。
 箕田氷川神社と箕田氷川八幡神社のラインをそのまま南東方向に延長すると宮前宮登神社にぶつかる。偶然なのか宮前宮登神社の参道の先は箕田氷川八幡神社社殿に繋がる。不思議なラインがここにも存在する。

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箕田氷川八幡神社

 氷川八幡神社は、箕田八幡神社と通称し、渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したという。この渡辺綱(源綱)は坂田公時、平貞道,平季武と共に源頼光(満仲の子)の四天王に挙げられ武勇談が多い人物で、特に大江山の酒呑童子退治の伝説は有名で武勇談が多いが、伝説的な要素もまた多いこともまた確かだ。
 この氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったという。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されている。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社(浅間社か?)、箕田氷川神社を合併、郷社に列格している。
所在地   埼玉県鴻巣市箕田2041
御祭神   誉田別命
社  挌   旧郷社 旧箕田郷鎮守
例  祭   旧暦8月14日 例大祭

       
 箕田氷川八幡神社は、県道271号線と365線が交差する宮前交差点を北鴻巣駅方面へ進み、すぐ箕田小学校が左手にある。 その先に箕田郵便局があり、その北側に鎮座する。
 鴻巣宿の北に位置する箕田郷(旧箕田村周辺、現・鴻巣市箕田地区)は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏の発祥地と伝えられる。箕田の氷川八幡神社は、古くは綱八幡とも称し、羅生門の鬼退治で活躍した「頼光四天王」の1人である渡辺綱を祀るといわれている。
 武蔵守となって下向した綱の先々代・源仕(わたなべ-の-つがう)が当地に居を定め、先代・源融( -あづる)の時代になって「箕田源氏」を名乗った。
 境内にある「箕田碑」は宝暦9年(1759年)の建立で、箕田源氏の由緒と武蔵武士の本源地であることが記されている。箕田の近隣には清和源氏の祖である源経基の居館跡もある。氷川八幡神社に近接の宝持寺は、渡辺綱が父・源宛と祖父・源仕の追善のために建てた古刹と伝えられる。
                                                 
               
 
    鳥居の左隣にある社号標                   氷川八幡神社参道正面
  
 鳥居の参道や社号標のとなりにある氷川八幡神社の案内板(写真左)と鴻巣市の歴史の掲示板(同右)

氷川八幡社と箕田源氏
 氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、字龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
 八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮座したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社の為に奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれる。
 ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕、源宛、渡辺綱三代が、この地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。
・ 源仕
 源仕は嵯峨天皇の第八皇子 河原左大臣源融(嵯峨天皇の祖)の孫で、寛平3年(891)に生まれ、武勇の誉れが高く、長じて武蔵国箕田庄に居を構え、自らを箕田源氏と称し、土地を開墾し、家の子郎党を養い、知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。天慶5年(942)没、享年52歳であった。
・ 源宛
 源宛は仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱に際しては仕に従い、西国におもむき武功を立てたが天暦7年(953)21歳の若さで逝った。今昔物語には宛の武勇を物語る平良文との戦いが逸話として残されている。
・ 渡辺綱
 渡辺綱は源宛の長子として天暦7年(953)箕田に生まれた。幼少にして両親を失ったが、従母である多田満仲の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で養育されたので渡辺姓を名乗った。綱は幼少より勇名をはせ、長じては源頼光に属して世に頼光四天王の一人と称された。後に丹後守に任ぜられたが、万寿2年(1025)2月15日、73歳にて逝った。八幡社右手奥の宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を『美源院殿大総英綱大禅定門』という。また、次のような辞世の句が伝えられている。
  世を経ても わけこし草の 中かりあらば あとをたつねよ むさしの のはら
・ 箕田館跡
 これら源家三代の住居は氷川八幡社北辺にあったと伝えられ、その地を殿山と称し、付近にはサンシ塚と呼ばれる古墳が存在しているが、館跡の面影をとどめるものはない。
                                                       案内板より引用

             
                             拝    殿
 拝殿の手前、右側には「箕田碑」と呼ばれる箕田源氏の由来を記した碑「箕田碑」がある。裏には安永7(1778)年に刻まれた碑文があり、また碑文には渡辺綱の辞世もあるという。
 
                        鴻巣市指定金石文 箕田碑
 箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
 箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778年)に刻まれた和文草体の碑文である。
 初めに渡辺綱の辞世
  世を経ても わけこし草のゆかりあらば
    あとをたづねよ むさしのはら
 
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。


 鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。

                                                        
鴻巣市教育委員会
           
                             本    殿 

 箕田源氏3代が活躍した10世紀から11世紀は日本では平安時代中期頃で、この時期は中央政府においては藤原北家の藤原氏忠平流の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定し、それから以後藤原道長、頼通の全盛期に至る過度期にあたる。
 しかし地方は「平安」という時代には似つかわしくない豪族同士の対立や受領に対する不平が戦いに発展していったいわば内乱状態で、初期の武士が自分たちの地位確立を目指して行った条件闘争が武装蜂起にまで拡大し、武士身分が確立する過程における形成時期にあたっていた。この箕田地域においても事実延喜19年(919)源仕は 武蔵国国守である直向利春(たかむこのとしはる)に反乱をおこし、源苑も当時村岡(熊谷市)に居を構えていた秩父郡の村岡五郎(平良文)との合戦にもなり、双方とも数百人の軍勢で向かい合い、大将どおしの一騎打ちを延々と繰り広げ、とうとう勝負がつかなかったと、今昔物語にも書かれている。
 逆に解釈すると、当時の貴族の大多数は中央の政権は藤原氏北家のみで独占したため、地方に行き、国司として派遣されることしか栄達の道はなく、派遣されても自身や一族の蓄財に走ることしか考えない。当時の記録を見てもかなり酷い搾取だったようだ。このような過酷な徴税や私腹を肥やすことで地方の豪族や農民の不満は高まって、ついに各地で反乱の起こる乱れに乱れた時代だったのだろう。
                    
 箕田源氏はこのような時期に、自国の領土、そして領民を守るという大義のために戦いを続けた。そして領民はその恩を忘れず、この地に箕田地域の守り神として八幡神社として祀ったのではないだろうか。
                                                                                           

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屈巣久伊豆神社

 鴻巣市川里地区は、旧北埼玉郡川里町で、埼玉県の北東部、首都圏から約50kmの高崎線沿線に位置し、南は元荒川を境として鴻巣市と、東は星川(見沼代用水)を隔て騎西町と、西北は行田市と接していた。川里町は、昭和29年に屈巣村、広田村、共和村の3村が合併し、川里村が誕生。平成13年5月1日に町制を施行し、川里町となり、その後平成の大合併により、2005年10月1日に隣接する鴻巣市に編入された。
 屈巣久伊豆神社は旧川里町屈巣地区に鎮座している。屈巣とは変わった地名だ。この屈巣は「くす」と読み、嘗てこの地は久伊豆神社の御祭神である大己貴命、別名大国主命の「大国主命」の二字を取って「国主」と表記していたという口伝がある。ちなみに「国主」と書いてこれも「くす」と読むそうだ。
 折からの雨の中だの参拝だったが(逆に雨だったから良かったのかもしれないが)、不思議と不快な感覚はなく、社叢の静寂の中にも何か触れることのできない神聖さや荘厳さを感じてしまった。そんな雰囲気を漂わせる何かをこの社は持っていた。
所在地   埼玉県鴻巣市屈巣2313-1
御祭神   大己貴命
社  挌   不明
例  祭   10月15日 秋の例祭

       
 屈巣久伊豆神社は埼玉県道32号鴻巣羽生線を鴻巣市から羽生市方向に進み、左側に円通寺観音堂が見える先の交差点手前を左折すると正面にこんもりとした社叢が見えてくる。因みに円通寺観音堂は「大本山円覚寺百観音霊場」の札所42番の由緒ある観音堂で、慶長年間の建立といわれる総ヒノキ造りの堂々たるお堂で、本尊の馬頭観世音菩薩木像などとともに市の文化財に指定されている。
                  
                       円通寺観音堂  県道沿いから撮影 
 このお寺、元々は「観音寺」という独立したお寺で、1690(元禄3)年開創とされる西国三十三観音うつしの「忍領三十三観音(忍新西国観音)霊場」の6番札所になっている。明治維新の廃仏毀釈が影響しているのか、現在は円通寺の飛び地境内にある観音堂としての扱いだそうだ。

                       
                                                    屈巣久伊豆神社参道正面
           
                      鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
 屈巣久伊豆神社は境内の案内板によると、当地の地名は元来、国主と表記していたという。その昔、村社である久伊豆神社(ひさいず)の榎の大木に鷲が住み着き、村人に色々と悪さをして、迷惑をかけていたそうだ。そこで村人が鷲神社として祀ったところ、それ以降、鷲は巣の中に屈して外に出ることがなかったため屈巣と改められたという。
  

                    
                               拝   殿
           
                                本   殿
 前述の屈巣久伊豆神社の案内板によると、『明細帳』には「本社々殿ハ宝亀元年(770)九月の建立ニテ今ヲ距ル千有余年爾後数回再建ノ事記アル棟板等今二存在セリ、而シテ又土俗ノ口碑二前玉神社ノ一社ナリト伝ウ、蓋シ本社久伊豆神社祭神大己貴命ハ大国主命二シテ古へ村名ヲ国主村(今ハ屈巣村ト云ウ)ト唱へシハ即チ大国主ノ二字ヲ村名二呼ヒシ二原因セシナラン、以上土俗ノ口碑ト当事存在セル棟木ノ年号トニ依レハ古へ前玉神社二座ス其一ヲ祭リシモノ二テ式内ノ神社タルコト明ナリ(中略)と記載されている。

 境内社は社殿の奥に鎮座している。明治42年に16社が合祀されたという。

  また神社の西側で銀杏の大木の付近には、『従是北忍領』と刻まれた安永九年(1780)建立の忍領境界石がある。
  
 鴻巣市指定有形文化財
     忍領境界石標 昭和53年3月9日指定

 この石標は、忍藩が他領分との境界争いが起こらないよう安永9年(1780)に屈巣村(現川里村屈巣)と安養寺(現鴻巣市安養寺内)との境に建てたものである。忍藩内に16本建てられたものの一つである。明治の廃藩置県後、一時個人所有になったが、その後久伊豆神社に寄附されたもので、川里の歴史を語る貴重な資料である。
 「従是北忍領」と彫られている。
    高さ133cm 幅30cm 小松石
    平成7年7月
                                                        川里村教育委員会

 ところでこの久伊豆神社が鎮座している「屈巣=クス」という地域名から筆者はある古代の名称を思い起こす。つまり「国栖」だ。
くず (国栖、国巣)   
1 古代、大和の吉野川上流の山地にあったという村落。また、その住民。宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏した。くずびと。
2  古代、常陸(ひたち)国茨城郡に住んでいた先住民。つちくも。やつかはぎ。「―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)」〈常陸風土記〉

 
 本来国巣は、古事記の記載では吉野の山岳土着民であり、特に奈良・平安時代には天皇即位の大嘗祭などで食事を献上し、歌や笛を披露した。実際吉野には今も「国栖(くず)」の地名がある。古事記・日本書紀には、神武東征時、「尾が生えている」国巣の先祖が現れ、天皇を歓迎している記述があるが、どうやらこの山岳土着民は鉱山の坑道で働く人々のようで、天皇家が彼らを「国巣」や「土蜘蛛」、「穴居民」と蔑称したものであり、侮蔑名ではあるが決して逆賊ではなく、ましてや討伐の対象ではないのだ。
 ところが常陸風土記ではその土着民は征伐、討伐の対象と変化する。一例を紹介しよう。

『常陸国風土記』
 
行方郡(なめかたのこおり)・当麻(たぎま)郷

  倭武(ヤマトタケル)天皇が巡行して、この郷を通られたとき、佐伯(さへき)の鳥日子という者があった。天皇の命令に逆らったため、すぐに殺された。
 行方郡・芸都(きつ)里
  昔、芸都里に国栖(くず)の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)という二人がいた。その寸津毘古は天皇の命令に背き、教化に従わず、無礼であった。そこで、御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。寸津毘賣は恐れおのき、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。
 小城郡(おきのこおり)
  昔、この村に土蜘蛛(つちぐも)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。

 ところで国栖(くす)は別名・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)と言われいずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。不思議と荒川は、砂鉄の含有率が50%を超す日本一の砂鉄の採れる川であり、荒川の流域では古代から製鉄関係の遺跡が多く見つかっている。元荒川も同様だ。江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていたからだ。鴻巣市屈巣地区は元荒川左岸に位置し,砂鉄に関係する鍛冶集団の伝承が屈巣地域周辺にも残っており、国栖との関係が大いに連想される。
 鴻巣市は。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあるが、屈巣久伊豆神社を調べるとこの国栖の名称「くす、くず」が「鴻巣」の語源ともなったともいえるのではないか、と最近ふと推測した次第だが詳細は現時点では不明だ。


 

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鴻巣生出塚神社

 鴻巣市は歴史的に見ても大変興味が尽きない市であり地域である。この市名の由来はコウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあり、どちらにしてもかなり古くから時の政府から認知された場所であったようだ。
 またこの地域は元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される。
 さらにこの生出塚古墳群は東日本最大であり、日本国内でも屈指の埴輪生産遺跡でもある生出塚遺跡をともなう古墳群で40基の窯跡や2基の埴輪工房跡が確認されており、埴輪生産は5世紀末から6世紀末まで継続されたものと推定され、丁度近隣の埼玉古墳群が築造された時期と合致し、両者の深い関連性が伺える。
 穿った意見を言わせてもらえば、この生出塚遺跡で造られた埴輪等を埼玉の津で各地に流通させていたことを知っていた埼玉古墳群の王者がこの地を領有し、交易等で得た膨大の富を背景に強大化してこの古墳群を築造させることができたのではないかと勝手に想像を膨らませてしまった。
 鴻巣市天神に鎮座する生出塚神社には埼玉古墳群と関連性の深いある人物が由来記に記されていている。この生出塚という不思議な地名の歴史はかなり古く、奥ゆかしいものだと参拝中考えさせられた。

所在地  埼玉県鴻巣市天神1-6-14
御祭神  菅原道真(?)
社  挌  旧村社 旧生出塚村鎮守
例  祭  不明

       
 生出塚神社は国道17号線を鴻巣市街地に進み、天神2丁目交差点を右折し、ガソリンスタンドのあるY字路の右側を進む。この道は変則的な十字路にぶつかりそこを右折し、17号線に合流する手前で左側にこの社は鎮座している。位置的には大体県立鴻巣女子高校の北隣にあると思えばいいと思う。
           
                         生出塚神社参道から撮影
 
             
                 社殿の手前で右側にある生出塚神社改修記念碑

生 出 塚 神 社 由 来
 当社は、もとの生出塚村の鎮守として信仰されてきた神社である。創建の時期は不明で、元来は天満宮と称し、菅原道真公を祀ってきたが、明治四十年(1907年)に社号を生出塚神社と改めた。

生出塚(おいねづか)という地名の由来は定かではないが、日本書紀安閑天皇元年(534年)に記述のある武蔵国造の乱において当地の豪族笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と争った同族の、笠原小杵(かさはらのおきね)と関わりのあることが推測される。この小杵を葬った古墳がこのあたりにあり、小杵塚(おきねづか)と称していたのが、いつの頃よりか「おいねづか」となり、現在の「生出塚」という字をあてるようになったのではないか。当社にまつわる古文書類がなく、その由来を確かめることもできないが、古墳の上に社を祀る事例は各地にあり、このことからすると、この小杵塚が削られて畑地になった後に社が残り、その社が後に天満宮となったのではないだろうか。
この近辺からは埴輪窯跡や、その他多くの遺跡も発見されており、古代からこの地域の人々の生活の場であったことがわかるが、当社も、古くからこの地域の人々に崇敬されてきた社であったのではないたと思われる。
 平成十七年四月吉日 宮司 伊藤千廣
          
                             拝   殿
          
                             本   殿
 この生出塚神社の場所は鴻巣市天神という地区で文字通りこの社の元の御祭神である菅原道真縁の地名なのだろう。しかし別の場所に生出塚地区は実際に存在していてその場所は中山道を渡り天神4丁目の先にある。この地域は上記に紹介した生出塚古墳群生出塚埴輪窯跡群が存在し、まさに古代遺跡の宝庫の地がそこにはある。さらに東から北へ進むと上谷総合公園の東が笠原の地であり、埼玉県道38号加須鴻巣線を北上するとすぐ左側に笠原久伊豆神社が鎮座している。
          
                  生出塚神社、手水舎から社務所方向を撮影
 生出塚神社は元天満宮と称していたと境内の「生出塚神社改築記念碑」に記された「生出塚神社由来」には記述されている。この天満宮は本来ならば大宰府に配流されて不遇の死を遂げた菅原道真の怨霊を鎮める為に建てられた社だが、反逆者の汚名を被って殺された笠原小杵の怨霊を鎮める為に、地元の人々が本来の御祭神である笠原小杵の名前を伏せ、敢えて菅原道真に換えて天満宮を祀ったとすると奇妙に話の辻褄が合うし、この生出塚=小杵塚説はなかなか面白い説であると思う。この推測は飛躍しすぎ、穿ち過ぎだろうか。

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