古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

波羅比門神社

 寄居町保田原にある波羅伊門神社からそれ程遠くない場所にこの波羅比門神社は鎮座する。この二つの神社の名前はどちらも 同じ「はらいど」と言う名前で、地元の人からは「バラモン様」と呼ばれているという。祭神である瀬織津姫は、禍事・罪を川から海へ流し込む神で、祓戸四柱大神のひとつと言われている。ということは本来の神社名は「祓戸」神社ということになる。しかし、寄居という小さな街に、加えてそれ程遠くない場所に、ほぼ名前の同じ神社が鎮座しているということは何を意味しているのだろうか。
 この瀬織津姫は歴史的にその神名を伏せられ封印されてきたためか、不明なことばかりで、その神秘さと、正逆相反する神性といい、封印され続けてきたという儚さなどから、知る人にとっては大変魅力的な神だ。ある本ではこの神の淵源は遠く縄文時代に遡るとも言われる。
 瀬織津姫を祀る神社は日本全国で500社ほど存在するが、その大半は配神か合祀で、主祭神としている神社は極めて少ない。この極めて少ない社の内の二社がこの埼玉県、そしてこの寄居町に存在している事実は重要なことだ。
・所在地    埼玉県大里郡寄居町西ノ入738

・主祭神    瀬織津姫(禍事・罪を川から海へ流し込む神、祓戸四柱大神のひとつ)
・社  格     旧村社         
・由  緒   
 不明

・例  祭    不明 

                 
  波羅比門神社国道140号線を寄居方面に進み、「末野陸橋交差点」で左折し、埼玉県道30号飯能寄居線を鉢形城方面へ道なりに直進する。途中消防西分署前の次の交差点を右折し荒川を越えて、2番目の交差点を右折して、南方向へ道なりに真っ直ぐ進み、折原駅前を抜けて約500m程で右手に静かに鎮座している。
 祭神は瀬織津姫で、通称川の神と言われていて、
波羅比門神社
の北側には荒川が流れ、また一方、正面、西側方面には深沢川が流れているのも関係があるとも考えられるがの近くにある関係で祭神が瀬織津姫というのであれば、国土が狭く起伏にとんだ日本の国土はほぼこの神様だらけになってしまうのでその他の深い由緒、由来があるに違いないと考える。
 
        鳥居から見た神社の風景              鳥居の額には三匹の青龍が絡み付いている。
       鳥居の前は道路をはさんで深沢川が流れる
                        
                                                               拝          殿
                                           山の傾斜を利用して社殿が建てられている
                        
                                                               本          殿
                                               朱と白を基調とした女性的な雰囲気
 波羅比門神社の両側には右手側に八坂神社、左手側に稲荷神社がある。右側の八坂神社に近づこうとしたところ、突然警報音が鳴ったので驚いた。見れば、拝殿の角にセンサーが設置されており、このスロープを上ろうとすると警報が鳴り出すようだ。おかげで八坂神社には近づかず、望遠にて撮影した。
 
         拝殿左側にある稲荷神社               拝殿右側、坂を上った先にある八坂神社

 波羅伊門神社波羅比門神社も同じ「はらいど」と言う名前だ。祭神である瀬織津姫は、禍事・罪を川から海へ流し込む神で祓戸四柱大神のひとつと言われているということは本来の神社名「祓戸」神社ということになる。しかし、寄居という小さな街に、それ程遠くない場所に、ほぼ名前の同じ神社が鎮座しているということはどういうことなのか
 また瀬織津姫を祭祀する神社は全国に500社以上あるという。調べれば調べるほど謎の多い、同時に魅力的な女神だ。不思議なことに日本最古の歴史書である『古事記』にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていないが、「大祓詞(おおはらえのことば)」という祝詞の文句の中に登場する「瀬織津姫(セオリツヒメ)、速秋津姫(ハヤアキツヒメ)、速佐須良姫(ハヤサスラヒメ)」の三女神として登場する。「大祓詞」は現在でも重要な祝詞と考えられていて日本全国の神社で六月と十二月の晦日に「大祓(おおはらえ)」という儀式が行なわれるが、その際に必ず唱えられるほど、重要な女神である。(後年この三女神は瀬織津姫として習合される。)
 瀬織津姫は歴史的にその神名を伏せられ封印されてきたためか、不明なことばかりで、その神秘さと、正逆相反する神性といい封印され続けてきたという儚さなどから、知る人にとっては大変魅力的な神だ。ある本ではこの神の淵源は遠く縄文時代に遡るとも言われる。
  もしかしたら
瀬織津姫はこれまで思われてきた以上に奥深く、日本の古代史を解明するための鍵になるかもしれないと勝手ながら推測しているがいかがなものだろうか。

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波羅伊門神社

 波羅伊門神社の御祭神である瀬織津姫は大祓詞に登場する「祓戸四神」の内の一柱で、災厄抜除の女神である。神名の名義は川の早瀬の穢れを清めるとある。
 祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多く、日本全国で約500弱とも言われている。

・所在地    埼玉県大里郡寄居町保田原18
・主祭神    瀬織津姫(禍事・罪を川から海へ流し込む神、祓戸四柱大神のひとつ)
・社  格     旧村社        
・由  緒   
 文化十二年(1845年)に建立

・例  祭    不明

              
 波羅伊門神社は県道81号線熊谷寄居線をひたすら西へ進み、塩沢交差点で国道254号線に合流したら、更に西へ。露梨子交差点で埼玉県道30号飯能寄居線を北上したら鉢形郵便局先の交差点で右折、東武東上線の踏切を越えるとすぐ右側に浄恩寺があるので、その手前を右折し進んで行くとやがて左側に波羅伊門神社が見えて来る。場所的には概ね
「さいたま川の博物館」南側にある。鳥居のすぐ隣に駐車場があり、そこに止め参拝を行った
       

 
              
一の鳥居                 鳥居を抜けると正面に神門が見える
 一の鳥居の前にある石垣の配置状況を見ると、男衾の小被神社(おぶすまじんじゃ)も以前はこんな造りだったようだ。それにしても鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっているのは不思議だ。また鳥居を抜けると正面に神門が見えるが、このような場所にこのような門を構える神社があるとは正直驚きだ。
                             
       
              神門を抜けると広い空間がひろがり、境内が一望できる。
          また写真右側に「波羅伊門神社神宝狐稲荷社改築記念碑」が見える。

『波羅伊門神社神宝狐稲荷社改築記念碑』
  波羅伊門神社は、文化十二年(1845年)に建立されました。
 歳月の経過により老朽化著しく年々氏子間で改築か話し合われ機熟して早期改築のご賛同を得ました
 歴史的なこの大改築に巡り合わせた機縁を先人に感謝し併せて子孫長久の願いを籠めて本事業を計画し壱千六百万円の貴重な神社の財産を基に、氏子の皆様にご奉賛のご協力をご依頼申し上げ、百拾余名の皆々様の温かいご支援に依ってこの改築を成し遂げたのです。
 神宝狐稲荷社については、曽て大字保田原一二八杉山いと様がその土地を贈与により社有地として奉献された経緯があり孫に当たる大字保田原三七九杉山正徳様が改築奉献されました。
 茲に両事業の経過を略記すると共にご奉賛いただいた方々のぎ芳名を記し永久に後世に伝えようとするものです。
                                          平成十二年十月吉日
       
                           
拝  殿
      
                         拝殿とその奥にある本殿                  
波羅伊門神社の御祭神は
祓戸四神の一柱である瀬織津姫命。瀬織津姫命は禍事や穢れを川から海に流す役目を受け持つ神である為、神社は川の近くに建てられることが多いようだ。

         境内社 祭神は不明                  左は金毘羅宮。右は不明
    
社殿奥にある境内社、扁額を見ると「桜宮社」とも読め      右側の石碑は大黒天を祀る
 るが。その社の奥にある中国風の境内社は不明。

 波羅伊門神社の御祭神は祓戸四神の一柱である瀬織津姫命瀬織津姫命は禍事や穢れを川から海に流す役目を受け持つ神である為、神社は川の近くに建てられることが多いようだ。また桜の神様とも言う。
 全国で瀬織津姫を祀る神社は500弱あると言われている。しかし別名に(ミズハノメ神、アマサカルムカツヒメ神、ヤソマガツヒ神、オオマガツヒ神、梓川大神、倭姫、 天伯神、弁財天、市杵嶋姫、紫波姫、オシラ様など、)の説があるが、 それらを含めるとその倍以上になると思われる。
祓戸の四神の名前『古事記』や『日本書紀』には直接登場しませんが、いくつかの古い文献にはその名が見られ、謎の多い神々とされている。
 


 

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末野神社

 寄居町は埼玉県の北西部、都心から70km圏に位置している。荒川の中流域、長瀞のすぐ下流に位置し、その左岸に街が発達する。古く秩父住還の街道筋にあり、宿場町として栄えた。また、街の対岸にはかつて鉢形城があり、その城下町でもあった。寄居から山よりは秩父山地と上武山地に挟まれた渓谷となっている地形から、古くから地の利を生かした要害であった。現在でも国道140号、国道254号及びJR八高線・東武東上線・秩父線が接続する交通の要衝地となっている。国道140号線は今でも秩父に至る主要道路であり、律令国家以前の古代において秩父国造はこの地の重要性を認識していただろうし、この地の確保は自国の命運を握っていたと推測する。

 
所在地    埼玉県大里郡寄居町末野495-1
 主祭神    
豊宇気昆売命、建御名方命、宇迦之御魂命 他10神
  
 社  格     不明 後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
 
      
 由  緒    
末野神社は、諏訪神社、稲荷神社七社、天御中主神社、天神社、他11社が合祀・移転
                     され飯玉大明神と命名され,後明治43年2月3日末野神社と改称された。
 行  事
       元旦祭(1月1日)・記念祭(4月4日)・しんなめ祭(12月8日)他

          
地図リンク
  末野神社は国道140号線を長瀞方向へ向かい、寄居末野郵便局先の末野交差点を右折し踏切を越えすぐに左折し、道なりに直進し5分位で左方向にこんもりとした社が見える。線路脇で道路沿いの神社だが、森のある静かで落ち着いた雰囲気を持つ神社だ。付近の山麓には埼玉三大窯跡のひとつである奈良期の「末野窯跡群」もあり、神社自体も重厚感のある落ち着いた社であるにも関わらず、案内板がないため、主祭神も由緒も創建年代も全くの不明。
 ただ末野の名前の由来としては、須恵器を生産した野であったとも、荒川扇状地の行き詰まりの地であるという地形的な意味あいから付けられたとも云われている。
 
            社号標と鳥居                       参道より社殿を望む
    社殿は鳥居をくぐって右側に鎮座している                   
               

           
                            拝       殿 
 由来等の案内板が全くない。これほどの社殿なのに残念。また拝殿の彫刻が目を見張るほど素晴らしく、拝殿の左側の壁面には神殿改修記念の額にも龍と狛犬が飾られている。
 
             鞘堂内本殿             荒川に地形的に近いせいか土台がしっかりしている 
                                     石垣と間違えるような男性的な外観

  末野神社は国道140号線沿いに鎮座している。ゆえに荒川、またその支流である逆川に地理的に近く、鎮座地の標高も他の地域よりも低いように見える。社殿の基礎部分寄居の隣町長瀞の岩畳で有名な結晶片岩を使用しているようなので、社というよりも、城のイメージが強く、印象深かった。
                                                                             
『埼玉の神社』 末野神社について
 ≪元来末野には鎮守が三社あり、それぞれ氏子区域を異にしていた。その三社とは、西から飯玉神社(江戸時代には飯玉明神社)、箱石神社(江戸時代には箱石権現社)、諏訪神社で、いずれも創建の年代は不明ながら、古くからそれぞれの地区の住民に厚く信仰されてきた。
 これらの鎮守三社を政府の合祀政策に従って地内の各地に祀られていた他の無格社と共に
明治四十二年に飯玉神社に合祀し、更に同社を末野神社と改称した。

 末野神社の境内にある石碑「末野神社」に、明治四十二年の合祀にかかわったすべての神社が記載している。その二十四社は以下のとおり。


 字金場の村社飯玉神社、字諏訪東の村社諏訪神社、字関根の稲荷神社・八坂神社、字蔵屋敷の稲荷神社、字関口の天御中主神社・稲荷神社、字羽場の山神社・水神社・大天白社・稲荷神社、字上大正寺の稲荷神社・白山神社、字浦山の稲荷神社・八幡神社、字八王子の山神社・天手長男神社・琴平神社、字箱石の浅間神社、字竹原の天神社、字日山の二柱神社・稲荷神社、字東日山の神明社、字山神の山神社。       
 
           学問の祖・大木之森天神宮                                 末社二社
        
     
         社殿北側奥にあった社日
  末野神社から真北に円良田湖がある。円良田湖は逆川を堰き止めた人造湖であるが、逆川流域の窯跡群は、末野窯跡第2支群といい、円良田湖南端付近から末野神社付近まで、逆川によって開析された谷の東傾斜面に位置し、奈良から平安期にかけて、須恵器窯として使用されていたようだ。

末野窯跡
  飛鳥時代(七世紀)から平安時代中期(十世紀)へかけて、須恵器や瓦が盛んに焼かれた登り窯跡で、付近に九十基近く存在していたことが判明しており、末野窯跡群と総称されている。古代の 一大焼き物産地だったわけで、近くに原料の粘土採掘坑跡も確認されている。ここで焼き上げられた製品は、荒川の水運を利用して、各地へ運ばれていったに違いない。奈良時代前期(八世紀 前半)に創建された武蔵国分寺(国分寺市)の屋根瓦も、ここで焼かれている。今も須恵器片や瓦片の出土例があり、地名の末野も、須恵、陶から出たものという。登り窯による焼成法は、五世紀の 中ごろ大陸から伝えられたといわれる。末野には、早い時代に、朝鮮半島から渡来した須恵器づくりの技術をもつ集団が住みつき、大陸文化を広めていったということだろうと推測される。

 末野遺跡は、「すえの」の名が示すとおり古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた場所でした。そもそも古代武蔵の国(現在の神奈川県の一部と 東京都及び埼玉県  全域)には、四大窯跡と呼ばれる須恵器生産の拠点がありました。南から、南多摩窯跡群(東京都八王子市)、東金子窯跡群(埼玉県入間市)、南比企窯跡群(埼玉県東松山市、鳩山町他)、  末野窯跡群(埼玉県寄居町他)の4か所で、内3か所が埼玉県西部に集中しています。
  末野遺跡では、窯跡群の一部が調査され、古墳時代後期(1400年前)から平安時代の須恵器窯が調査されています。生産されていたのは、須恵器甕・皿・坏などの食器類のほか、瓦、埴輪   など多彩な製品が確認されています。さきたま古墳群の中の山古墳で使われている埴輪もここから供給されていたことが分かっています。また末野遺跡は、須恵器生産に関連する窯跡群の他、 須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残しています。 
                                                                                                埼玉県教育委員会ホームページより引用
                                                                                    


            

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横瀬神社

 上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入したと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。
  埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっている。当時の武蔵国と上野国の境は、豊里中学校裏手あたりと思われる。

 明治維新の時慶応4年(1868年)太政官布告「神仏分離令」から起こった廃仏毀釈運動が各地でおきた。仏事の廃止、仏具の破壊、僧侶の神職転向等の嵐が吹き荒れた。横瀬では新田公ゆかりの古刹を保護するために、他所から神社を山門の前に移築して、村社 横瀬神社として華蔵寺は寺院の一部だとごまかした。「横瀬神社は以前別なところに在った」「無住の時があった」との伝承はその証明であろう。

所在地    埼玉県深谷市横瀬1358
社  格    旧村社
主祭神    伊弉諾命、伊弉冉命二座。 (配祀)豐受姫命
例  祭    4月10日

地図リンク
  横瀬神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、道の駅おかべを越えた岡東交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした林と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見え、そこを右折してそのまま進むと左手に華蔵寺の駐車場があるのでそこに駐車することが出来る
横瀬神社は前記華蔵寺敷地内南側に静かに鎮座し、一見すると寺院の一施設の様に感じるくらい目立たない位置にある。まるで華蔵寺側がこの社を隠しているような印象だ
 
       横瀬神社 社号標             参道 東西に長く伸びていて正面に小さく
                                          一の鳥居が見える。

               立派な横瀬神社拝殿 
  屋根瓦には五七の桐が浮き彫りにされているが、これは横瀬氏及びその子孫である由良氏の家紋という。またよく見ると狛犬が異様に高い位置にある。洪水対策用に作られたものか。

                             拝殿とその奥には本殿鞘殿
              

       鞘殿内には彩色豊かで見事な壁面彫刻の本殿
                深谷市指定文化財


 当社は、後深草天皇の御代の建長年中(1249~56)に、土地の豪族・横瀬三郎為清の勧請によるもので、「聖天宮」の名で、横瀬七郷(横瀬、新戒、古市、大塚、中瀬、高島、石塚)の総鎮守として崇敬された。
 一説に、建武年間(1334~)、武蔵守新田義宗の子の国寿丸が、難を避けて、僧となり密かに横瀬村に移住し、二体の尊体を安置して聖天宮を勧請したという。国寿丸は、当社神前において還俗し、横瀬新六郎貞氏と名のり、後に上野国金山城主となって近地を領した。以来七代にわたる城主の厚い崇敬があった。
 
 徳川幕府時代に至り、横瀬三郎の後裔たる横瀬信濃守は、幕府の高家衆となって江戸神田於玉ヶ池に住んだが、祖先の縁故により、同家からは毎年初穂料として金百疋づつの奉納があり、代々の慣わしとなった。別当の華蔵寺の住僧は、毎年正月元旦に神前に於て横瀬家の武運長久の御祈祷を修行した神札・神供を、利根川の便船を使って届けた。
 明治維新の後、土地の名により横瀬神社と改称した。
 
      本殿の左側には境内社 稲荷社       明治43年大洪水の水標が拝殿前にある。

  自分自身、この地域には思い入れがある。この横瀬地域は母方の実家があり、華蔵寺には先祖代々の墓所が実際にある。母方の姓は「三友」と言い、幼少の時期、新田氏についてよく話を聞いていた。この地域は鎌倉時代末期、清和源氏新田氏の所領であり、横瀬地域は通称「横瀬六騎」と呼ばれる新田家家臣団が存在していたという。

横瀬六騎 
 金山城主横瀬氏の出身地である横瀬郷の富田・栗田・須長・荻野・古氷・三供(三友)の六氏は、宗悦の一門に加へられ横瀬氏を名乗り、宗虎が金山城主として安定した頃に全員本名に復姓した。
 新田正伝或問に「○富田左京兼昌(応永九年卒)―横瀬右近大夫時昌(永享五年卒)―大次郎信昌―左膳重昌―左近之助清昌―左近太郎清宗―大次郎清信(天文九年卒)―富田大三郎清定(天正二年卒)。○栗田平蔵吉久(応永三年卒)―横瀬平七吉勝(永享六年卒)―平馬常吉―助之進常友―孫四郎常記―新次郎常周(弘治元年卒)―栗田孫三郎繁常(元亀二年卒)。○須長幸三郎行幸(応永十一年卒)―横瀬隼人孝棟(嘉吉二年卒)―内蔵助孝林―隼人孝敬―兵庫助孝至―隼人孝泰―内蔵助孝美(天文十五年卒)―須長隼人助繁孝(天正九年卒)。○荻野伊三郎道朝(応永十五年卒)―横瀬掃部道春(永享十二年卒)―織之助道定―縫之助道村―縫之助道吉―枩之助道忠―七三郎道隆(天文十年卒)―荻野丹下道種(天正五年卒)。○古氷図書之助行直(応永七年卒)―横瀬治部行忠(嘉吉三年卒)―半十郎行温―七郎左衛門行恒―図書之助政恒―久米之助道政―古郡丹後政方(永禄十年卒)。○三供右太郎村房(応永十二卒)―横瀬加賀房利(文安二年卒)―新右衛門房保―主計房教―新太郎房茂―新右衛門房次―彦右衛門房賀(弘治元年卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年卒)」と見ゆ。金山城主横瀬氏の本名はわからず。

 

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井椋神社、畠山重忠史跡公園

  井椋神社が鎮座する荒川中流域一体は櫛引台地、江南台地が南北に展開し、荒川南岸の台地上には鹿島古墳群、出雲乃伊波比神社、塩古墳群、小被神社、鉢形城、稲乃比売神社等、多数存在する。荒川は「荒い川」と古来からの呼称だが、この中流域南岸は比較的平穏な場所だったようで、名社、式内社が点在し、古代において発達した地域だったと思われる。
 郷土の歴史上の人物が少ない埼玉県内にあって、井椋神社は畠山重忠ゆかりの神社であり、畠山重忠は日本史上燦然と輝く人物である。この深谷市川本地区ではこの人物が郷土を代表する歴史的有名人であることに違いなく、坂東武士の鏡として今日まで崇敬され、忠義に篤く、質素を好み、礼儀正しく廉直、桁外れの怪力、先を読み機を見るに敏な知略、頼朝の大きな進軍の先陣をことごとく務めた風格、資料からは欠点など微塵も見当たらない正に伝説の名将である。この人物が生まれ、成長した場所が深谷市「畠山」なのだ。
所在地    埼玉県深谷市畠山942
主祭神    猿田彦大神他四柱(武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神)
社  格    旧村社 
       
由  緒    江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定
例  祭    10月15日 秋祭り 、浦安舞

  
地図リンク
 井椋神社は県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、荒川を超え、最初の信号を右折する。そして約500メートル位道なりにまっすぐ進むと、右側に井椋神社の鳥居が見えてくる。深谷市(旧川本町)畠山にある畠山重忠ゆかりの神社だ。駐車場は周辺を見回してもなかったので、鳥居の脇の農道に一時駐車して参拝した。

 ちなみにこの「井椋」という神社名の由来は本社である秩父市下吉田にある椋神社に関連している。

 景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越え、この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。ゆえに現在、井椋様と呼ばれ親しまれているという。
 
   一の鳥居は満福寺の東側にあり、そこから二の鳥居まで北方向に300m程参道がまっすぐ伸びている。この満福寺は白田山観音院満福寺といい、真言宗豊山派のお寺で、鳥羽天皇の御代に弘誓房深海上人が開いたと伝えられていて、後に畠山重忠が寿永年間に再興して菩提寺としたという。畠山重忠の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若教、御朱印状等が伝えられているそうだ。この井椋神社と満福寺両社寺は神仏習合の時代には神宮寺、境内社の関係にあったものと思われる。

              二の鳥居の横にある案内板
井椋神社(いぐらじんじゃ)
 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。
 初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。
 祭神は、猿田彦大神のほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。
 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。

 荒川のすぐ南岸に位置する地形のためか、洪水対策のための石垣が至る所に組まれている。が、拝殿には特に頑丈な土台はない。

                     拝   殿
 畠山重能が秩父から畠山に移ったとき、秩父市吉田にある椋(むく)神社を勧請したと伝えられていて、椋神社は代々の秩父氏の守り神として尊敬され、井椋神社も畠山氏の守護神であったと推定されている。
 また境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神さまである蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社などがある。
 
         境内社:蚕影山神社              八坂神社、天神社、日吉神社、諏訪神社
                                               八幡大神
  
              白旗八幡神社              社殿裏手右側にある浅間神社。奥に小御嶽神
                                           社と食行身禄霊神の石碑あり。
  また神社の社殿の裏の荒川断崖には、「鶯の瀬」の碑が建っている。重忠が家臣の元へ出掛けてその帰路、雨に逢い洪水で荒川を渡れずに困っていると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれて、無事に河を渡ることが出来たと言い伝えられている。その浅瀬がこの辺りで、「鶯の瀬」と呼ばれてきたという。
 
鶯の瀬

 荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。
 ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。
  時ならぬ岸の小笹の鶯は
   浅瀬たずねて鳴き渡るらん
 また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。
              


畠山重忠史跡公園
 地図リンク
  井椋神社から南東に1km弱、満福寺から斜めに行くとほぼ2,3分足らずで畠山重忠史跡公園に到着する。大里郡神社誌には「五輪塔 六基あり。その一は重忠の墓にして、その他は家臣隷属の墓なり。傍に嘉元二年(1304)卯月九日の建造に係る追福の碑あり。また明治二三年、里人 重忠公の智勇兼備の徳を追慕し、相謀りて記念碑を建つ。所謂 畠山重忠の館跡と称するものこれなり。今なほ残塁を存す。大正一三年二月二五日、埼玉県より古蹟保存を指定せられたり」と記載されている。

  秩父郡の吉田町を本拠地とする秩父氏の嫡流である一族が男衾郡畠山に居を構えたのは、武蔵国留守所総検校職である秩父権守重綱の孫に当る重忠の父畠山庄司重能の代とされている。重忠は当初はこの地を本拠地としていたが、その後菅谷の館に本拠地を移すこととなったようであり、討ち死にを遂げることとなった二俣川の合戦の際には元久2年6月19日菅谷館から出陣したと吾妻鏡には記されている。

一ノ谷の合戦で活躍したとされる馬を背負う畠山重忠の銅像が駐車場の正面に位置

     畠山重忠がが生まれた時につかったという井戸が残されている。

畠山重忠公産湯ノ井戸

 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(元大里郡川本町畠山)に館を構えました。のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります

             
畠山重忠公の墓
 鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(一一六四年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に秩父庄司次郎重忠となった。
 剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(一二○五年)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
 この畠山館跡には、重忠公主従のい墓として六基の五輪塔がある。
 また、館跡には嘉元二年(一三○四年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている

        板石塔婆(昭和三十九・八・三十一指定)
  主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)
 記年銘 嘉元二年甲辰(一三○四年)卯月(四月)九日
 周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
 畠山重忠公が元久二年(一二○五年)六月二十二日、横浜二股川で戦死の後、百年忌に当って供養のため建立されたものと伝えられる。


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