古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高麗神社

 高麗郡は武蔵国のほぼ中央部、外秩父丘陵地帯に位置し、入間郡の中に割り込んだ形になつている。四囲は、入間・多摩・秩父の各郡と接していておおむね現日高市および飯能市(もと秩父郡に属していた北西部の吾野地区を除く)の地域である。
  奈良時代霊亀2年(716年)に時の朝廷が駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野等7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初であるという。当時高麗郡には、「高麗郷」と「上総郷」の二つの郷が置かれ(当時の行政単位は国・郡・郷)、高麗郷は今の高麗神社がある日高市一帯にあった。また、上総郷は上総(千葉県)からの移住者が中心になって開発された地域と推定されている。『和名抄』は「古末」と訓じている。
 また武蔵國で郡が設置された年代が文献で確認できるのは、高麗郡と新羅郡(新座郡)の二つで、不思議とかつての朝鮮半島に実在した、または朝鮮の国土を統一したれっきとした国の名前である。
  ある説では北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれているが事の真相はどうだったのだろうか。
        
              ・所在地 埼玉県日高市大字新堀833
              ・主祭神 高麗王若光 猿田彦命  武内宿禰命                                      ・社 格 旧県社 別表神社                
                ・例 祭 1015                                                                  
 
 高麗神社は、埼玉県日高市にある。最寄り駅は西武池袋線の高麗駅で、関東平野の西の端、奥武蔵の山々の先端にあたり、付近を流れる高麗川と山々をめぐるハイキングコースはこの地域の観光資源でもある。そして、高麗神社はこの地域の史跡として、観光地としても賑わっている。
            
                                          高麗神社社号標とその奥にある一の鳥居
 
            正面一の鳥居                   綺麗に整備された長い参道が続く
駐車場の北西方向で二の鳥居の近くには。「地上男将軍」「地下女将軍」とよばれる将軍標が林立している。駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものという。今回は撮影できず残念。
 
       参道を進むと二の鳥居がある               二の鳥居を過ぎるとすぐ左側にある手水社           
                 

                                     手水社の手前には高麗神社の由来の案内板がある。

  高麗神社   所在地 日高市大字新堀 
 高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。
 高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約七〇〇年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい六六八年に滅亡した。この時の乱を遁れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀二年(七一六)そのうちの一七九九人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された
 高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。
 郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。
                                                            案内板より引用
                     
                                                  神  門
 
       高麗神社扁額「高句麗」と記載                      祓所(はらえど)
 この神社を語るとき7世紀の朝鮮半島の歴史を抜きに語れない。7世紀当時の朝鮮半島は激動と政略の混迷した時代だった。新羅、百済、高句麗の3国が朝鮮半島の覇を競い、戦乱に明け暮れていた。それに中華帝国の隋、唐も干渉し、いつ果てるともしない様相となっていた。
 高麗と記載されているが、正式に言うと高句麗でもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。

高句麗(こうくり、紀元前37 -668年)
 現在の東三省( 遼寧省・吉林省・黒竜江省)南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は5世紀、「広開土王碑」で有名な「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、満州南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐(新羅)の遠征軍により滅ぼされた。王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

 581年南北朝を制した隋帝国が誕生し、2代目皇帝煬帝は、3度に渡る高句麗遠征を行うが、すべて失敗。結果的にこれが隋帝国の滅亡につながった。そして大唐帝国の度重なる遠征。唐は新羅と同盟を結び、百済を滅ぼす(661年)。そして百済救援のため軍勢をむけた倭国を白村江の戦いで破り、高句麗も度重なる遠征に国の力は衰え、高句麗の宰相であり、名将でもある淵蓋蘇文(?ー665)死後、淵蓋蘇文の子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐(新羅)軍は高句麗の都の平壌を攻め、668年ついに滅亡した。
                    
                       
            拝 殿
 666年(天智5年)高句麗国の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(日本書紀より参照)。
 その後朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(続日本記)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。
            
                      ご神木である樹齢300年の彼岸桜        
 716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(続日本記)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
 武蔵国には「白鬚神社」と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、当社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから「白鬚さま」と尊ばれていたことから、のちに当社を「白鬚明神」と呼称したともいう。

 
        拝殿の前方にある神楽殿              律令時代当時の衣装が色鮮やかに展示     


 高麗神社の拝殿の奥には、高麗神社の社家・高麗家の住居であり、国指定重要文化財である高麗家住宅がある。入母屋造、茅葺屋根で、山を背に東を正面として建てられていて、江戸時代初期(慶長年間)の民家建築を伝えている。

  高麗神社の神職を努めてきた高麗家の住居として、使われていたものです。建築は17世紀後半(江戸時代前半)と推定され、東日本の民家の中では極めて古い建築です。入母屋造りで屋根は茅葺きで、桁行七間半(14.3メートル)、梁行五間(9.5メートル)をはかります。間取りは古四間取りという形式で、「奥座敷」、21畳の「表座敷」、「勝手」と「へや」、そして土間から成っています。
                                                     「日高市公式HP」より引用
 

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広木みか神社

  広木みか神社が神社が鎮座する埼玉県美里町。埼玉県北西部に位置する、人口約1万2000の自然豊かな町だ。
 美里町は律令時代には那珂郡と言われ、この「なか」は、賀美(かみ)郡の「上」に対する「中」の意とする説があるそうだ。付近一帯には長坂聖天塚古墳に代表される県下でも最古級の古墳があり、そのほか普門寺古墳群、羽黒山古墳群、広木大町古墳群等の古墳群がこの狭い地域に密集して存在する。現存する古墳数も大小177基に及び県下では多い地域でもある。またこの地域は地形上、東国の中心地であった上毛野国(上野国)の南部に位置し上野国と深い交流があったと思われる。
 近くには神池である「摩河の池」を中心に古代祭祀が行われていたものとされ、周辺には広木古墳群の他にも埴輪窯跡・竪穴住居跡なども発掘。当社の祭祀集団は神酒づくりにかかわる土器=ミカを製作した出雲族の集団であったと推定される。古代ムサシ国と毛野国の風土が色濃く混じり合った雰囲気がこの那珂郡にはあるようである。
     
                    ・所在地   埼玉県児玉郡美里町広木1
                    ・ご祭神   櫛御気野命、櫛瓺か玉命                           
                    ・
社  格    式内社 県社 那珂郡総鎮守
                    ・例祭等    祈年祭 2月18日 春の大祭 4月13日 
                             秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月24日

  広木みか神社は国道254号を美里町方面から児玉方面へ進み、「広木交差点先」150m程先の場所に鎮座している。創立年代は不詳ではあるが延喜式に記載されている古社。。同所は武蔵七党猪俣党の発祥地とされる。社名の「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が4個保存されているとのことだ。
                    
                          県道沿いに建つ社号標柱   
       社号標柱のすぐ先には芭蕉の句碑がある。        国道から路地を進むと鳥居が見える。            
       鳥居前に設置されている案内板           鳥居の先で右側にある歴史を感じる手水舎

 
 鳥居を越えると一旦、左に曲がり、その右側には重厚感のある神楽殿が見える(写真左)。また参道を曲がる手前で左側には昔からの案内板が設置されている(同右)。  
     

みか神社     所在地 児玉郡美里村大字広木
 みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。
現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる。
土師器のミカが四個保存ざれている。
例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。
昭和58年3月 埼玉県                                            
  案内板より引用                                                                                                                                   
           
                                 拝 殿  
 みか神社 御由緒   美里町広木1
 □御縁起
 武蔵国の北辺にあって上野国と交流のあった郡の一つに那珂(なか)郡がある。この群は当初、賀美郡(上郡)・榛沢郡(下郡)と共に栄え、当社はこのうち那珂郡総鎮守として祀られた神社である。鎮座地の広木は『和名妙』の「那珂郡弘紀郷」の遺称地とされる。
 資料の初見は、『延喜式』神名帳の「みか神社」(ミカノ・ミカイノ」である。古代祭祀に関与した奉斎集団の古墳群は、身馴川に沿って分布する秋山古墳群・広木大町古墳群・後山王古墳群がある。これらは発掘によれば埴輪を持ったものが多い。また、これらの古墳に埴輪を供給したとされる埴輪窯として、近くに宇佐久保釜跡がある。更に「みか神社前遺跡」は、六世紀の竪穴住居跡で、埴輪が出土している。
 中世は、那珂郡一帯を武蔵七党猪俣党が本拠としたことから、これら武士団の崇敬があったと思われる。また行田市の長久寺に蔵する明応七年(一四九八)七月の年紀をもつ大般若経第一一〇奥書に「児玉郡塩谷郷阿那志県みか玉大明神宮」と当社のことが見える。
 明治初年に村社となるが、式内社であることをもって明治三十七年に県社に昇格した。
 同四十年には神饌幣帛料共進神社の指定を受け、三島社・稲荷社・秋葉社・八坂社・社宮司社の五社を合祀した。
                                                      鳥居横の案内板より引用

                                                                          拝殿に掲げてある「正一位みか神社」の扁額
               
 
     彩色豊かな拝殿、拝殿向拝部(上段)・木鼻部(下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
    
                                    本  殿               

由 緒
  当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇60代後醍醐天皇の延喜の年代の頃中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれども享保8年正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段 八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二甕を造り之を撤し其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが現今は中止されて居る。尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。                                                                                                   
                                                                            全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
 広木みか神社の神社の社殿の周りには多くの境内社が所狭しと並んでいる。また拝殿の左側には社日と呼ばれる五角形の石柱が立っていて、「社」は土地の神、「産土神(うぶすながみ)」を祀った神社にお参りして五穀を供えて豊作を祈り(春社)、また秋の初穂を供えて収穫に感謝する(秋社)、農耕民族らしい日本の信仰形態だ。

 
 境内奥に並ぶ境内社
(写真左側) 写真右側から産泰神社、諏訪神社、天満天神宮、神明神社、蚕影神社、山王神社、松尾神社)
(写真右側) 蚕影社、山王神社、松尾社、古峯山、鹿島社、稲荷社、愛宕社、天手長社、大雷社など
           

                                  
社日と呼ばれる五角形の石柱
  広木みか神社の祭神は櫛御気野命と言い、櫛は奇霊(くしび)であり、御気は御食または御木のことで、神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり本来熊野大神であるが別名素盞嗚尊(スサノオ)と言う。この熊野大神は有名な熊野三山とは無関係のようで、本家は島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるようだ。
 熊野大社
  ・鎮座地 島根県八束郡八雲村熊野2451
  ・旧称   熊野坐神社 熊野大神宮 熊野天照太神宮
  ・別称    日本火出初社 出雲國一宮 後明治4年國幣中社、大正5年國幣大社
  ・主祭神 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と称える素戔嗚尊
  ・神紋    一重亀甲に「大」の文字
           
                          社殿から境内風景を撮影

  熊野大社は720年の日本書紀によると、659年に出雲国造が創建したと記されていて、733年の出雲国風土記では、出雲大社とこの熊野大社が出雲国内で最も格式の高い「出雲國一之宮」とされているが両社の力関係は同一ではなく、文献では『文徳実録』(851年)には、「出雲国熊野杵築両大神を従三位に叙す」と、また『三代実録』(859年)にも「 出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神を従二位に叙す」とあり、いずれも熊野大社、次いで杵築と記しているように、熊野大社の神格が一段高く評価されていることが窺える。また日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)という別称があり「火」の発祥の神社としても信仰を集めていて出雲国造の世継ぎの儀式「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」等の重要な儀式は出雲大社宮司の出雲国造家が「熊野大社」に出向いて行われている。
  出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社はどのような関係だろうか。熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。
 広木みか神社の祭神は櫛御気野命といい、本宮が島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるということは重要な点だ。なぜなら出雲族といっても出雲大社を本宮とする大己貴命系と、熊野大社を本宮とする素戔嗚命系に分類されるからだ。ちなみに埼玉県内の出雲系の神社の祭神は以下の通りだ。

 氷川神社              須佐之男命  大己貴命
 鷲宮神社              天穂日命   大己貴命
 金鑽神社              素戔嗚尊
 本庄金鑽神社         素戔嗚尊
 熊野大神社          事解男命 速玉男命
 玉敷神社           大己貴命
 出雲伊波比神社      大名牟遅神  天穂日神
 出雲乃伊波比神社(寄居町) 須佐之男命 
 出雲乃伊波比神社(熊谷市)  天穂日命  大己貴命
 久伊豆神社        大己貴命 事代主命
 前玉神社          前玉比売神  前玉彦命
 上之村神社        大己貴命   事代主命
 伊波比神社        天穗日尊
 横見神社          建速須佐之男命  櫛稻田比売命
 高負彦根神社         大己貴尊
 稲乃比売神社       素盞嗚命  大己貴命
 田中神社(熊谷市)  武甕尻命  天穂日神
           
                     社の北側で「摩河の池」付近からの眺め

 赤色が大己貴系、青色が素戔嗚系で圧倒的に大己貴系が多い。中には氷川神社や稲乃比売神社のように素戔嗚系と大己貴系が一緒に祀っている神社も存在する。が、こと県北に関しては金鑽神社、本庄金鑽神社、甕甕神社、そして寄居町の出雲乃伊波比神社は素戔嗚系で集中している特徴がある。
 少なくとも出雲族といっても大きく2系列の一族の進出が武蔵国にはあって、大己貴命を信奉する一族は埼玉県北東部の行田市、羽生市付近から元荒川を沿って南行する一派と西方面へ進出する一派に分かれ、かたや素戔嗚命を信奉する一族はは金鑽神社の児玉郡から甕甕神社の那珂郡、男衾郡にかけてに進出し広がりをみせたのではないかと現時点では推測する。
  
 

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伊古乃速御玉比売神社

 比企郡は、埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴だ。郡の範囲は入間川支流越辺川の北、都幾(とき)川、市野(いちの)川の流域一帯で、四囲は、大里・横見・足立・入間・秩父・男衾の各郡に接している。おおむね現在の現東松山市、比企郡に属する町村(吉見町を除く)の地域である。『平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
 
比企丘陵は外秩父山地から東方に半島状に突き出した丘陵であり、北部は江南台地、南部は東松山台地、東部は吉見丘陵に接している。丘陵内では、高根山(標高105m)、二宮山(標高132m)、大立山(標高113m)など標高100m前後の山が、丘陵の西半分の地域に散在して突出した地形をつくるが、全体的には100m以下の丘陵地形をつくっている。丘陵内部には、市ノ川・滑川およびその支流による開析が進み、広い谷底と小谷が発達している。この開析谷は、北西~南東あるいは南北の方向をもつものが多く、これらの谷頭は丘陵の北側に極端に偏り、分水嶺は丘陵の北縁近くに偏在する。このため、丘陵北縁を東流する和田川の支谷は、未発達となっている。
 
江南町域においては、高根山から派生する丘陵と、滑川町和泉地区から派生する二つの尾根筋があり、嵐山町とは西側の谷を流れる滑川で区分されている。
                                                                    
                  
                   ・所在地 埼玉県比企郡滑川町伊古1242
                    ・ご祭神 気長足姫命 誉田別命 武内宿禰
                   ・社 格 延喜式内社 旧比企総社・旧郷社
                   ・例祭等 例大祭 1015日 榛名祭 415日 祈年祭 315
  熊谷から県道47号線で滑川町役場(北)交差点より北西2km程にあり、伊古の丘陵地帯に鎮座している。ひっそりと鎮座している、と言う言葉通り、周囲は閑散としていて、参拝日全く人に出会わなかった。ちなみにこの伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。
  創建当初は二ノ宮山上にあったが、文明元年(1469年)にこちらへ遷座したそうだ。ちなみに二ノ宮山はここから西へ700m程の距離にあり、山頂にはこちらの神社の奥宮があるとのこと
だ。
                                
                                              一の鳥居横にある案内板と社号標
  仁賢天皇年間(449460年)に、蘇我石川宿禰の末裔がこの里を開き、二ノ宮山の頂上に、神功皇后と応神天皇、そして祖先の武内宿禰の三神を祀り創建。文明元年(1469年)に当地へ遷座し、二ノ宮山頂の社を奥宮としたとのことである。しかしながら本来の祭神は速御玉比売命ともあり、江戸時代には淡洲明神とも呼ばれていたという。
            
                       鳥居付近に設置されている案内板
 伊古乃速御玉比売神社  滑川町大字伊古
 昔は二ノ宮山上にあつたが文明元(一四六九)年当地に遷座したと伝える
 第六十代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で四十四座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている
 境内全域に自生する樹水は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
 段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。(以下略)
                                                                      案内板より引用
   
       一の鳥居を過ぎると石の階段が続く。                    階段は長くなく、
                                        途中から二の鳥居の先の拝殿が見えてくる。
          
                                          ご神木の「ハラミ松」  
           
                                拝 殿
          ほの暗い参道、そして二の鳥居を抜けると日光を浴びた明るい拝殿が現れる。
      延喜式内社、旧比企総社、明治6年に郷社の社格を持った風格ある由緒正しき神社が
                         この滑川町に存在する。
 伊古乃速御玉比賣神社
 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稻荷・愛宕を相殿とす、當社は郡中の總社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比賣神社とあるは、即ち當社のことなり、往古は殊に大社にて一の鳥居は近村石橋村の小名、内青鳥と云所に立りしと云、按るに此内青鳥と云所は【小田原役帳】に青鳥居とあり、されば古へ鳥居のありしより、地名にもおひしなど云はさもあるべけれど、當社の鳥居なりしことは疑ふべし、ことに其間二里餘を隔てたり、又此社式内の神社と云こと、正き證は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中總社とも崇ることなれば、社傳に云る如く式社なるもしるべからず、とにかく舊記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり
 別當円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と號す、
                                                                                     『新編新編武蔵風土記稿』より引用
 
         拝殿内部                     本 殿
 
 社殿左奥に鎮座する境内社・金刀比羅神社   拝殿左手前に鎮座する境内社・天満天神社
                                            伊古乃速御玉比売神社の西隣に鎮座する八幡神社       
   
 滑川村伊古乃速御玉比売神社社叢
 ふるさとの森  昭和55年3月25日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
 社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。
 アラカシ・アカシデを主とした暖帯林の中に針葉樹のモミが混生しているところに社叢の特徴があります。
 境内の西側にはアカシデ・イヌシデ、北側にはモミ、南東にはアラカシが、それぞれ生育しています。
 今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育ててくださるようお願いいたします。
 昭和55年10月 埼玉県                                                                                                                     
           
            丘陵地独特の境内から石段を見るこの角度がたまらなく良い。                                                                                   
                    
  この神社が鎮座する比企郡滑川町、古墳時代当時の地形はどうだったろうか。当地周辺は、滑川に沿う細長い谷間の土地。山間に数多くのため池が設けられ、古代においても、池があったと推測される。この地形上の観点から滑川の中流域にある式内社・伊古乃速御玉姫神社の元々の祭神は、素直に考えれば、土地を潤す滑川の神であり、沼の神であり、この丘陵地帯に多い溜め池を守護する水の神ではなかろうか。


*追伸
令和6122日に当社に参拝したところ、鳥居入り口付近に「勝海舟幟」の案内板が設置されていました。この幟は滑川町指定有形文化財の指定を受けているもので、以前この案内板はありませんでしたので、今回確認できたことは大変良かったことと思います。改めてこの案内板を紹介したいと思います
        
                                       滑川町指定有形文化財    勝海舟幟
                 指定 昭和五十二年三月三十一日
 

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前玉神社

 武蔵国埼玉郡は、武蔵国の東北端に位置し、北は利根川を境に上野国邑楽郡に接し、さらに下野国都賀郡にも接し、東から南は下総国葛飾郡、西は元荒川を境として足立郡、さらに幡羅郡、大里郡に接している。おおむね現北埼玉郡に属する町村、行田市、羽生市、加須市、南埼玉郡に属する町、岩槻市、八潮市、越谷市、蓮田市、久喜市、春日部市の広大な地域で、『和名抄』は「佐伊太末」(「郷名は「佐以太末」)と訓じている。

「さいたま」の語源として
1 『古事記』に「前玉(さきたま)比賣命」の名が見え、行田市大字埼玉に前玉神社があつて前
  玉彦命と前玉姫命が祀られているところから、「幸玉(さきたま)」からの転訛。 
2 「サキ(先、前)・タマ(水辺、湿地)」の意または「多摩郡の先」
3 国境または辺境の意などの説 

  と様々な説があるが真相は不明だ。

  この地域は関東平野の中心部にあたる加須低地に位置し北に利根川、西に荒川の本流、支流が数多く存在し、乱流が最も激しかつた地域で、縄文時代から古墳時代まで後背湿地や沼が多く、開発が非常に困難な地域ではなかったかと思われる。


所在地    埼玉県行田市大字埼玉字宮前5450
主祭神    前玉比売神(サキタマヒメノミコト)
         前玉彦命(サキタマヒコノミコト)
社  格     式内社 郷社 埼玉郡総社   浅間神社・行田市埼玉鎮座
例  祭     4月15日 春祭り 例大祭
創立年代    不詳

  
 前玉神社は埼玉県道77号行田蓮田線沿い、さきたま古墳群の外れにあり、浅間塚古墳の頂きに鎮座している。駐車場は一の鳥居からの参道の南側に十数台駐車可能なスペースが確保されており、そこに車を止め参拝を行った。
 
          前玉神社 社号標                一の鳥居 
                          総高4.5m、最大幅5.8m、材質 白河石
前玉神社 一の鳥居 
 行田市指定文化財で延宝4年(1676)建立の鳥居。

 鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせている。
貫は一本の石材で作られてくさびはなく、柱はややころびを持ち、台石の上に建つ。正面左側の柱の銘文によれば、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領内氏子により建立された。
 
                           長い参道が続く                                    二の鳥居の先にある境内
                                              右手に手水舎、奥に三の鳥居が見える
 
                              前玉神社正面。後方高台が社殿
埼玉県名の由来
  明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当所の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡(さきたまぐん)という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所である。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和62年4月   埼玉県     
                                                                                                                社頭掲示板より引用

新編武蔵風土記稿による前玉神社の由来
  新編武蔵風土記稿では、「浅間社」として浅間社遷座にまつわる江戸時代の口承を伝えている。

浅間社
 祭神木花開耶姫命にして、「延喜式」に載せたる前玉神社なれば郡中の総鎮守なりと土人いへいり。
 されど屈巣村の傳へには、当社は式内の社にはあらず、昔富士の行者己が命の終る時に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日終穏の日、果たして雪の降りたることあれば、成田下総守氏長奇異の思をなし、此所に塚を築き、家人新井新左衛門に命じて、忍城中にありし浅間社をここに移し、則成田氏の紋をつけて、行者の塚上に建り。されば忍城没落の後、彼新左衛門屈巣村に住せしより、子孫今の五郎左衛門に至り祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと。
 社地の様平地の田圃中より突出せる塚にて、周り二町程、高さ三丈余、四方に喬木生い茂り、頂上は僅に十坪程の平地にして、そこに小社を建つ。これを上ノ宮と云、夫より石階数十級を下り、又社あり。これを下ノ宮と云。
 相傳ふ、此塚は天正の頃下総守氏長の築きし塚といへど、其様殊に古く、尋常のものにはあらず。上古の人の墳墓地なるも知るべからず、されば当社の鎮座も古きことにて、彼行者の霊社なりと云は、尤便事にて取べからざつは勿論なり。成田氏の紋を記せるは、天正の頃彼の家より造立してかくせしにや。されど天保天和等の棟札のみを蔵て、余に證すべきこともなければ、詳かなることは知るべからず。
 例祭は5月晦日、6月朔日・14日・15日なり。
 本社の外に拝殿、神楽殿あり

    高台から見た社殿 社殿は参道に対して直角、南側に向いている      

  前玉神社へ登る石段の両脇に万葉の歌を刻んだ石灯籠が建っている。説明板によると、元禄10年(1697)に氏子たちが奉納した灯籠とのことだ。今では見にくくなっているが、万葉集の「小埼沼」と「埼玉の津」の歌が、それぞれに刻まれている。万葉歌碑としては最も古いと考えられている。

              石灯籠の案内板

埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に、降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし 巻9-1744                 
           
   (意味:埼玉の小埼(の沼の鴨が、羽ばたいて水を飛ばしている。あれは、羽に降り積もった霜を払い落としているのだろうなぁ

佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね 巻14-3380
   
(意味:さきたまの津にある船は風が強いので今にも綱が切れそうだ。船の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでくれ)

 
小埼(をさき)の沼」は、現在の埼玉県行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群から東に2.5kmほど行ったところにある小さな沼である。古代には、行田市大字埼玉あたりを表す地名として「さきたま」が用いられた。この付近に湖 沼があちこちに散らばり、また利根川や荒川に臨む渡し場も随所にあったとされている。

                             拝    殿                                                        拝殿内部撮影
 

  また前玉神社は浅間塚古墳の上に鎮座している。

              
社内にある浅間塚古墳の案内板
浅間塚古墳
  高さ8.7メートル、直径58メートルの円墳であり、市内の八幡山古墳、白山神社古墳と並行する7世紀前半の築造と思われる。最近まで古墳なのか、それとも後世に築造された塚なのか、議論 されていたが、1997年と1998年の発掘調査で幅10mの周濠が確認され、古墳であることが明らかになっている。変形が激しく、元々は新撰武蔵国風土記稿に記されている大きさから、前方後円 墳であったという説もある。(現地案内板では円墳説を採っている)
 
出土品に関しては不明。墳頂には延喜式の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座している。そのため、この古墳の周りには歌碑などが多い。

  前玉神社の祭神は前玉比売神、前玉彦神の2神であるが、前玉彦神は別名天忍人命とも言う。この天忍人命は先祖神、天火明命の曾孫にあたる。海人族である天火明命から天香語山命-天村雲命-天忍人命という系図となり、尾張氏、海部氏、掃守氏の祖にあたるともいう。系図によっては、天香語山命の父、つまり天火明命の位置に、前玉彦神(天忍人命)とするものがあって、天香語山命(高倉下命)の兄の天筑摩命(あめのちくまのみこと)を「掃部直祖」としている。天忍人命と同神とされている前玉彦神、天前玉命は、豊玉比瑪の弟の振魂命の子、つまり豊玉比売の甥にあたり、産屋に奉仕するということからして、こちらの系図もなかなか魅力的だ
  ちなみに「先代旧事本紀」によると、この天火明命は天照国照天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるあまひあかりくしたまにぎはやひのみこと)であり、物部氏の祖とされるニギハヤヒとも言われている。

 
武蔵国北東内陸部に位置している埼玉郡だが、内海の津である「埼玉の津」を通じて海人族である天火明命を祖とする物部氏やその一族である尾張氏等らと交流が我々が思っている以上に深ったのかもしれない。


 

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玉敷神社

 玉敷神社が鎮座する旧騎西町は埼玉県北東部、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、古くは私市(きさいち)と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋(ねごや)に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようだ。

 社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいうが真偽は不明だ。江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。

 かつての旧埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の氏神で、元荒川流域に分布する久伊豆〔ひさいず〕神社の総本社と目されている。大宝3年(703)多治比真人三宅麿〔たじひのまひとみやけまろ〕によって創建されたと伝えられるが、一説には成務天皇6年(136)の創祀ともいう。延喜式では小社に列する。かつては現社地より北方に鎮座していたが、天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵により全焼、古記録・社宝等悉く烏有に帰した。後、騎西城大手門前に再建されたが、元和の頃(1620頃?)現在の地に遷座したという。

所在地    埼玉県加須市騎西552
主祭神    大己貴命
社  格     式内社(小) 県社 埼玉郡総鎮守騎西領総氏神
創  建     伝大宝3年(703年) 一説に成務天皇6年(136年)

別  名    久伊豆大明神
例  祭    12月1日 
            
  
 玉敷神社が鎮座する旧騎西町は埼玉県北東部、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、古くは私市(きさいち)と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋(ねごや)に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようだ。
 
   一の鳥居の右側にある玉敷神社社号標          一の鳥居から長い参道が続く
              
                二の鳥居を過ぎて三の鳥居の先に拝殿がある。

  社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいうが真偽は不明だ。江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。
  玉敷神社は加須市騎西庁舎の北西、国道122号線を入ってすぐ左側にこんもりとした森があり、そこの一角に鎮座している。駐車場は隣接してある玉敷公園内にありそこに駐車する。(数十台駐車可能)。
 かつての旧埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の氏神で、元荒川流域に分布する久伊豆〔ひさいず〕神社の総本社と目されている。大宝3年(703)多治比真人三宅麿〔たじひのまひとみやけまろ〕によって創建されたと伝えられるが、一説には成務天皇6年(136)の創祀ともいう。延喜式では小社に列する。かつては現社地より北方に鎮座していたが、天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵により全焼、古記録・社宝等悉く烏有に帰した。後、騎西城大手門前に再建されたが、元和の頃(1620頃?)現在の地に遷座したという。


        
          玉敷神社の境内に向かう途中に「旧河野邸」がある。
  文学博士である河野省三氏は国学者で神道学者でもあり、國學院大学総長を務めた。明治15年に騎西町で生まれ、國學院師範部を卒業後に玉敷神社の宮司とな り、その後、国学や神道を研究し権威として活躍され、昭和27年に71歳で埼玉県神社庁長となり、昭和36年には国学・神道学者として紫綬襃章を受章し た。昭和38年に死去。
 生家が玉敷神社であったことから、この地が旧宅の跡地であったようだ。

また拝殿の手前左側には神楽殿が存在する。
 
 国指定重要無形民俗文化財 玉敷神社神楽
 江戸神楽の源流をなすといわれる玉敷神社神楽。素朴な中にも、雅な舞を伝える。鷲宮神社の鷲宮催馬楽神楽から江戸の里神楽に発展する途中の姿を残す貴重なもので、埼玉県の無形民俗文化財である。
 この神楽の発生は定かでないが、正保(1644~48)の元号を記した面や、享保4年(1719)に神楽を奉納した記録がある。また、古く当神社は正能地区に鎮座しており、その氏子が連綿と神楽師をつとめている。このことから、その成立は江戸時代初期まで遡るものであろう。
 演目は番外を含め17座。題材は神話によるものや、演劇的な舞で構成される。楽は笛・太鼓・羯鼓をもちいる。
                                                                                                                                                                            加須市教育委員会(現地案内板説明文より
      


                 
                  
  
さすが久伊豆神社総本山的なずっしりと存在感のある社。煌びやかな神社とはまた違い、出雲大社の社殿のような、木目を基調とした独特な色合いといい、歴史の重さを感じさせてくれる風格さえ漂わせている。
玉敷神社
鎮座地 埼玉県北埼玉郡騎西町(きさいまち)大字騎西552番地
ご祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
    またのお名を『大国主命』(おおくにぬしのみこと)
    お名前の音がインドの招福の神、「大黒天」とも通じることから「だいこくさま」とも呼ばれ、「七副神」の神として親しまれている ・詩歌、医道、豊作、商売繁盛の神さまとして深く信仰されている
ご神徳
 厄除開運・縁結び・安産
 創建 大宝3年(703) 第42代・文武天皇の治世(一説には第13代・成務天皇6年 136年とも言う)
社殿
 本殿・幣殿(社殿奥側)文化13年(1816)建築
 拝殿(社殿手前)明治31年(1898)修築
 *「神楽殿」は天保7年(1836)の建築
外周を飾る彫り物は、当時、江戸三名工の一人と言われた五代目後藤茂右衛門の手によるものである
由緒
 当社は平安時代初期の延長5年(927)に公布された法制の書である『延喜式』にその名を記す(*「式内社」)由緒ある古社である。
 *全国に2861社ある「式内社」(しきないしゃ)の内の1社以来、人々の広い尊崇を集めてきたが、天正2年(1574)の戦国期、越後の上杉謙信が関東に出兵した際に放った火がもとで社殿(当時は、現在地より北方数百メートルの正能村一現騎西町正能一に鎮座)や古記録・宝物などことごとく炎上・焼失した。
江戸時代に入り、根古屋村(現騎西町根古屋)にあった騎西城(廃城)の大手門前に一時再建されたが、程なくして(1620頃)現在の地に移転され、今日に至っている。
当社は、江戸時代「玉敷神社・久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヶ村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれてきた。このことから、各地に「久伊豆社」(ひさいずしや)と称するご分霊社が数多く建立されることともなった。久伊豆社のご本社的な存在である
当社のこ神宝を貸し出す「お獅子さま」やご神水の信仰も有名である。
主な祭礼 1/1歳且祭・2/1初春祭・2月節分年越祭
5/5春季大祭・7/15夏季大祭・12/1例祭
・2/1,5/5,7/15,12/1の年4回、祭典終了後(午後)『玉敷神社神楽』(埼玉県指定無形民俗文化財)を奉奏

                                                            社頭掲示板より引用
 ところで天正2年(1574)に上杉謙信が私市城を攻略した際に、現在地よりも北方の正能村(現騎西町正能)に鎮座していた玉敷神社はその兵火にかかり消失した。その後、根古屋村(現騎西町根古屋)の騎西城大手門前に再建された(現在前玉神社が鎮座)が、寛永期(1620ごろか)に延喜式内社宮目神社社域に社殿を造営し遷座した。玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社(式内社)であった。現在は玉敷神社の境内社となっている。
                              

                              宮目神社(式内社)  祭神:大宮能売命(おおみやのめのかみ)
  玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社であった。式内社・宮目神社の論社で、現在は玉敷神社の境内社となっている。平成13年4月に林立していた白樫が倒壞し社殿に直撃。社殿が大破したために同年6月に社殿竣工。

大宮能売命

 
『古語拾遺』によると、太玉命の御子神で、本来は神祇官の御坐祭神八座の一つで、大殿祭祝詞に「御膳に邪気なく、延臣に過ならしめる神」とあり、君臣の間を和らげる神、神と人との間を執り持つ神とされている。大宮能売命は物事が無事に運ぶよう、うまく調整する力を持ち、その立ち振る舞いが優美で愛嬌があるとされる神で、そうした性格から、旅館の神、市場や百貨店の神として、接客業界の人々を中心に信仰を集めている。

 大宮能売命の父神である太玉命は、出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊神(たかみむすび)の子と記されていて、忌部氏の遠祖の一柱と言われている。この太玉命に率いられた神々は、各地の忌部の祖となっている。

 
 
天日鷺命    阿波忌部の祖
 手置帆負命   讃岐忌部の祖
 彦狭知命    紀伊忌部の祖
 天目一箇    筑紫・伊勢忌部の祖

 神武天皇の御代、この神の神裔である天富命(あめのとみのみこと)が、阿波国の忌部を率いて東国(安房)を開拓している。
  つまり、比企郡淡州神社にも触れたが、この埼玉郡にも阿波の一族に関係する社が多数存在するということだ。

また拝殿を取り囲むように境内社が数社存在する。以下の通り
 
八坂社松尾社厳島社、白山神社、稲荷神社、琴平神社、神馬社
            


                    玉敷神社の大銀杏
 玉敷神社の境内には、2本大イチョウがあり、いずれも幹まわり約5mを越え、樹齢は約500年、樹高は約30メートルといわれる。今でも樹勢はさかんで、秋の加須市から有形民俗文化財(天然記念物)として指定されている。
また例年5月には玉敷神社公園内で藤まつりが盛大に行われる。

 
 藤棚の前の時計台(上段)、また観る人を圧倒するほどの立派な大藤(下段)で、天然記念物に指定されている。樹齢400年の大藤。幹回り4.8m、枝振り700平方メートル、花房は1mに達し、薄紫の花が薫風に揺れる様は、まさに壮観である。

 
                明神様の御神湯

 当社の境内には井戸があり、その水は霊験あらたかで薬水お助け水と呼ばれていた。ある時、20年間の長きにわたって病床にいた明神の氏子が祈祷したところ、明神の水を温めて入浴するようとのお告げがあった。そこで神水を風呂に入れて繰り返し入浴したところ一ヵ月あまりで全快した。彼は風呂屋を始め、神湯として人々に勧めたという。
 
以後、昭和40年代にいたるまで明神の水でお風呂をたてるとどんな難病でも治るといわれ、特に皮膚病・傷に効果があった。入浴に際しては、風呂の縁に腰掛けないこと、風呂場に唾をはかないこと、歌を歌わないこと等の決まりがあった。
 
また、入浴料は任意の賽銭とされ、その賽銭が風呂の維持費に当てられた。往時は入浴をした後に、神水を一升瓶に入れて持ち帰る人も多かったが、今では風呂は無くなったが、境内には神水の井戸が残されており、現在でも「貰い水」に訪れる信者は多い。



 


 


 

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