古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

東石清水八幡神社

 埼玉県の北西部に位置する旧児玉町、現在の本庄市児玉地区は、南半分を県立上武自然公園に指定されている上武山地が東西につらなる。その北方には児玉丘陵と本庄台地がひろがり、上武山地を水源とする小山川や女堀川周辺は、農業地帯となっている。この変化に富む地形と自然環境に恵まれた児玉町は、太古の時代より住みよい地域であったようで、町内には先人達の生活の痕跡である遺跡の数も多く、埼玉県でも有数の文化遺産の宝庫と言われる。
 児玉町大字下浅見には4世紀前半に築造された鷺山古墳がある。古墳は西に生野山丘陵、東に大久保山(浅見山)丘陵に挟まれた小丘陵上にあり、南北に広がる広大な条里水田を見渡せる絶好の位置に築造されており、まさにこの地域の王にふさわしい立地環境だ。古墳は全長60メートルの前方後方墳で、4世紀前半に築造されたと推定される武蔵国で最も早く築かれた古墳の一つという。また5世紀から7世紀にかけて築造された秋山塚原地区の秋山古墳群は、かつては100基近い古墳が築造されたようだ。


所在地    埼玉県本庄市児玉町児玉198 
主祭神    誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕

         比売大神〔ひめおおかみ〕
                 息気長足姫命〔おきながたらしひめのみこと
社  格     県社
創建年代   康平6年(1063)
     
例  祭     10月15日(児玉秋祭り)
神事等    3月15日 春祭り(植木市)7月13~19日の日曜日 八坂神社夏祭り

              
地図リンク
  社伝によれば、1051年(永承6年)、源頼義、義家、親子が奥州の安倍氏征伐のおり、この地で都の石清水八幡宮を遥拝して、戦勝祈願を行った。 1063年(康平6年)、奥州を平定し帰る途中に、この祈願所に立ち寄って八幡神社を建立し勧進した。当初は、東石清水白鳩峯と称した云われていた。  武蔵武士、児玉党等の信仰も深い由緒ある神社である。
  児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。    
         
一の鳥居より随神門をのぞむ                    随神門手前にある案内板
      随神門は本庄市指定特別文化財

石清水八幡神社         所在地 児玉郡児玉町大字児玉
  東石清水八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三神である。

 社伝によれば、平安時代の末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐に赴く途中金鑚(かなさな)神社へ参詣(さんけい)したが、そのおりに当地へ斎場(まつりば)を設け、戦勝を祈願し、康平六年(1063)帰陣の際ふたたび当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎(むか)え「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりという。
  現在の社殿は享保七年(1722)に再建したもので、拝殿は入母屋(いりもや)造りとなっており、屋根は銅葺千鳥破風(はふう)造りである。拝殿の格天井(こうてんじょう)には狩野直信(かのうただのぶ)筆の「飛龍の図」が描かれている。また、建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密(ちみつ)な彫(ほり)に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様(からよう)の人物や花鳥が彫刻され、その華麗さは県下でも稀な社殿として有名である。
  境内にある江戸時代の高札場は、もと本町と連雀町との境いの道路にあったものを昭和五年に現在地へ移したもので、県内に現存している数少ないものの一つであり、町の文化財に指定されている。
                                                                                                                                                            昭和五八年三月   埼玉県
            
              拝殿の手前にある銅製鳥居は本庄市指定特別文化財
         
                             拝  殿 
                            南側に鎮座                                  
                             本  殿 
                       細工が細やかで見事な彫刻
 ちなみに現在の社殿は、久米六右衛門が発起人となり、享保3年に起工し、享保7年(1722)に完成、棟梁は妻沼伝兵衛、彫刻は獅子の五右衛門と龍の茂右衛門など、当代無双の名人の手によるものです。 (案内板より)
                          
*高礼場
 *法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高礼といい、庶民の間に徹底させるためこれらの高札を掲げる場所を高礼場といった。これらは中世末期から あったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)に廃止された。高礼場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六ヶ所の大高礼場 をはじめ三十五ヶ所に高札場(こうさつば)があったという。

 
児玉党(こだまとう)は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・ 秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。
 
ところで、その名誉ある児玉党の名「児玉」とはどのような由来、由緒があるのだろうか。「児玉」について以下の記述が掲載されている書物がありここに掲載する。


児玉 コダマ 小、児は胡の佳字にて、胡(えびす)、蕃(えびす)なり。玉は鉄(くろがね)の意味。蕃族鍛冶集団の集落を児玉、小玉と称す。蕃(えびす)のことはバン、バンタ参照。物作り集団(部)の物部族は出雲・芸備地方及び筑紫国(九州全体の総称)が本拠地である。物部氏の祖神饒速日命の天降る時に従って来た思金命は「重い金」で鍛冶鉱山師の首領である。子孫は秩父国造と信濃阿智祝で、鍛冶神の児玉彦命を奉斎し、秩父郡大宮郷と信濃に児玉氏多く存す。天平九年東大寺文書に食封千戸の内、武蔵国児玉郡五十戸と見ゆ。和名抄に児玉郡を古太万と註す。



1 信濃国の児玉彦命 神代の時代に出雲国の大国主命の子・健御名方神が諏訪に来たる際に相争った諏訪の神・洩矢神あり。健御名方神に服従し、子孫は神長官家の守矢氏を称す。守矢氏系図に「洩矢神―守矢神―千鹿頭神―児玉彦命(片倉辺命の子)」と。諏訪系図に「健御名方命―伊豆早雄命―片倉辺命」と見ゆ。児玉彦命は出雲族の健御名方神の家から、信濃国土着神の守矢神の家に養子となっている。鍛冶神の児玉彦命を奉斎した集団は児玉氏を名乗って多く現存す。

2 有道姓児玉氏 大国主命は大物主命とも称し、其子大田田根子命は日本書紀崇神天皇七年条に陶器庄の鍛冶神と見ゆ。大国、大田の大は大ノ国(後の百済)出身で、田根子は種子で子孫の意味。大族の集団を大部と称し、其の支配管掌者を大部連と云う。(中略)児玉郡誌に「児玉、或曰遠峯。有道維能、自京師移関東、居児玉、因氏焉。児玉・遠峯、和名抄訓古太万。有道貫首遠峯と称すなどなど、有もせぬ人名を往々作り出したるは、怪誕不稽も甚し。往昔軍団を置かれて、遠峯軍団と云う、遠峯とは義訓にてコタマと訓ず、音声の遠山に響くをコタマにこたうど云うに因る」と。遠峯(こだま)は人名では無く児玉のことで、藤原伊周の家令で、子では無い。常陸国筑波郡水守郷(みもり)は、後の新治郡水守村(つくば市)で、将門記に「水守の営所」と見え、当時館城があった。此地の物部姓有道氏は、同族久米物部の居住する武蔵国児玉郷浅見村を所領とす。入浅見村の苗字久米氏は在名阿佐美氏、或は児玉氏を名乗り児玉党の旗頭となり、同族でもある領主の有道姓を冒す。針博士有道氏は「維、惟」を通字としており、児玉党は是を用いていない。まったく別家の人々である。小代八郎行平置文写(肥後古記集覧)に「行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領の事余の国々の分までには注すに及ばず武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、弘行の所領たりき、此外にも猶を有りき。然れば弘行は分限も広く武芸道立て被るるに依りて、児玉より入西へ越へ被るる時と謂い、惣べて行が被時は随兵百騎を相い具せ被れき、云々」と見ゆ。行平は源頼朝に仕へ、子孫は入間郡小代郷の鍛冶鋳物集団を引き連れて、所領地の肥後国玉名郡野原庄(熊本県荒尾市)へ移住す。小代氏が筒ヶ岳に山城を構えて小代山と称された所は古墳時代から奈良平安時代にかけての製鉄跡群である。有名な肥後の小代焼は児玉党に所属した職業集団の作品である。児玉党の始祖弘行は児玉・入間両郡の鍛冶支配頭で、牧場の別当は無関係である。

3 児玉党 風土記稿児玉町条に「八幡社は当所及び八幡山町其余近村十六ヶ村の総鎮守なり。別当大善院、本山修験・八幡山と号す、中興僧有便・寛永十八年化す」と。児玉記考に「八幡宮社司、其祖児玉党児玉左馬助大膳坊と号す、世々児玉に住し鎮守八幡神社に奉仕す。明暦四年松井長門守の男庄蔵・甲館没落の後、大膳院四代有便法印へ女婿となり松井姓を襲ふ」と見ゆ。別当修験大膳院先祖は児玉党創設に深く係わっていた。武蔵七党系図に「遠峯有貫主―有大夫別当弘行(弟有三郎別当大夫経行)―武蔵権守河内権守家行(弟入西三郎大夫資行、真下五郎大夫基行)―児玉庄大夫家弘(弟塩谷平五大夫家遠、富田三郎親家)―庄権守弘高(弟庄三郎河内忠家、庄四郎高家、庄五郎阿佐美弘方)―庄太郎家長(弟荘二郎弘定、荘三郎四方田左近将監弘長、山門戒空房快照、本荘四郎四方田弘季、五郎弘賢、四方田七郎高綱)」と見ゆ。

4 児玉氏の本名 児玉党の旗頭は本名久米氏なり。久米条参照。児玉町名主島田氏は藤原伊周の子孫と伝へる。児玉郡塩谷村西光院真鏡寺境内に金王神社(こんのう)あり。風土記稿に「境内に塩谷某の古墳と云伝ふるものあれば、碑石に年号・法名等も見えざれば詳ならず」と。塩谷氏の本名は渡来系の金(こん)ノ氏なり。コン条参照。児玉党の名跡継承者は下野国出身の出稼衆が多い。

 物部族金氏 児玉党の祖有道宿祢は「物部豊日乃連(大部造)―船瀬足尼(久慈国造)の後裔、金乃造―真塩乃造―磐麿乃造(大部造、居常陸国筑波郡)の後裔、長道(大部を改め、有道宿祢姓を賜ふ)」とあり。金乃造は常陸国の金氏族の管掌者で金氏であり、大ノ国(韓半島南部)の渡来集団大部族の首領である。金氏族有道氏は武蔵国児玉郡へ移住す。児玉郡塩谷村西光院境内に金王(こんのう)神社あり。是を将軍頼朝の臣で豊島郡渋谷村の渋谷金王丸の墓と伝承しているが附会なり。金王は金ノ神社であり金氏族の氏神である。

 児玉の由来として、上記1、2によると、諏訪大神「建御名方命」の御子「片倉辺命(かたくらべのみこと)」の御子、又は「千鹿頭神(ちかつ神)」の御子の児玉彦命がいて、この神は鍛冶神とも呼ばれている。児玉彦命は元々は出雲族の健御名方神の家だったが、信濃国土着神の守矢神の家に養子となったようだ。



    名前の一致、もしくは類似しているだけで全ての関連性を結びつけることは非常に危険なことだが、古代ある時期において出雲族等西国氏族が東国に進出したことは史実上の事実であり、信濃国、とりわけ諏訪地方一帯は軍事拠点、兵站拠点として非常に重要な地である。また児玉彦命は鍛冶神という。児玉地方を含む武蔵国の丘陵地から西側に鎮座する神社の祭神の大多数は鍛冶神で、共通項目もあり類似性を感じる。ではこの児玉彦命と児玉郡とはどのような関係があるのだろうか。今のところ残念ながら不明な点が多く今後の課題としたい。



 



 


 


 

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本庄金鑚神社

 本庄市は埼玉県の北西部県境に位置し、北に利根川が位置し、市内中央部にJR高崎線が、南部に関越自動車道と上越新幹線が東西に横断している。市街地は本庄駅付近に集中する。国道17号線(本庄駅北側)より北部は畑が広がり、住宅密集地は本庄駅の南部方面に広がっている。本庄北部は畑が広がっている為、風をさえぎる物がなく、秋冬では西風が強い。内陸の台地で比較的安定した風土を保つ。旧市内域(児玉町合併以前)では、3分の2が台地上に当たる。一方で、児玉南部方面は山麓地帯である為、夏場では山間独特の湿度の高さがあり、土砂崩れも多いようである。
  本庄市の名前の由来として古代から人々が住み、縄文時代の遺跡が多く、平安時代には児玉党の荘氏が登場する。この宗家(本家)が本庄の由来となっているという。
 旧石器などの遺物の出土や縄文期、弥生期、古墳期と、各時代にそれぞれ遺跡がある事からも分かるように原始時代の頃より本庄には人々が暮らしていた。本庄の古墳時代の特色として、旧児玉町下浅見の鷺山古墳が4世紀中頃(333年 - 366年)まで遡る県内でも最古級かつ最大(全長約60m)の前方後円墳に当たる事、また、本庄の大久保山古墳群の前山1号墳は県内最大の前期前方後円墳であり、武蔵国北部に顕著な巨大円墳も古墳時代の本庄の特色の一つである。
所在地      埼玉県本庄市千代田三丁目2-3
主祭神      天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊
社  格      旧県社
創建年代    欽明天皇2年(541)
例  祭      11月2.3日(本庄祭り)

          
地図リンク
 JR本庄駅から中山道を左折、そのまま真っ直ぐ進むと約2km位で金鑚神社に着く。街中の神社ゆえ、また昼間の参拝の 関係で交通量も多く、(中山道の道幅も決して広くもない)神社までの道のりは決して気分がいいものではなかったが、神社の鳥居を拝むとやはり神妙な感じになる。
 地形的に見ると、JR本庄駅の北西1.2km、国道462号と県道392号の交差点、昔で言うと中山道と下仁田街道(上州姫街道)の分岐点だったそうだが、その手前に金鑚神社は鎮座している。
 
                       神社前の大鳥居                               鳥居を過ぎると左側に神社の案内板がある
   大鳥居の社号額は江戸時代の老中で有名な
                  松平定信の揮毫とのこと
金鑚神社   
  所在地 本庄市千代田3-1
  金鑚神社の祭神は天照皇大神、素盞鳴尊、日本武尊の三神である。
 社伝によると、創立は欽明天皇の二年(541)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。
 境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
 当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五.一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
 このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。
                                          昭和六十年三月 埼玉県・本庄市
                           
   鳥居をくぐるとすぐ右側に巨大なクスノキがある。「金鑚神社のクスノキ」として埼玉県の県指定天然記念物に認定されている。
埼玉県指定天然記念物 金鑚神社のクスノキ  昭和44年3月31日指定
 クスノキは、元来暖帯地方に自生し、わが国では主に九州地方、近畿地方南部及び東海道関東地方の太平洋沿岸地方に生育する植物で北関東ではこのような巨木になったのは珍しい
目通り5.1メートル、根回り9.8メートル、枝張りは東へ14.2メートル、西へ15.6メートル、南へ15.0メートル、北へ13.8メートルと四方へ平均して伸び樹齢、およそ350年と推定され樹勢盛んである、このクスノキは寛永16年(1639)金鑚神社社殿改修のおり小笠原忠貴が献木したものと伝えられ、金鑚神社の御神木として今日にいたる。
                                             埼玉県教育委員会
                                             本庄市教育委員会
                       
                                       鳥居の正面にある大門 本庄市指定文化財
                                           旧別当の威徳院の総門であったという

 
             拝殿前の階段近くにある手水舎       階段を上ると左側に神楽殿 文政4年(1823)建立
                        
                                                               拝      殿 
                                                    「丸に尻合せ三つ蔦」の神紋  
                        
                                                        配色豊かで豪華な本殿
  本庄金鑚神社には江戸神楽という神楽がある。金鑚神楽には、本庄組・宮崎組・杉田組・根岸組・太駄組の5組の神楽組がある。
 本庄では、地方では珍しい「免許」を持つ神楽として有名で、本庄組は、1825(文政8)年に出された免許状が保存されており、金鑚神社の大祭で奉納舞を行うそうだ。また、1716(正徳6)年の免許を持つ宮崎組は、牧西八幡大神社に奉納され。そして杉田組は西富田金鑚神社等で奉納するという、一社相伝の由緒深いこの江戸神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子によって代々伝承されているそうだ。           

 なおこの江戸神楽は現在本庄市無形文化財に指定。



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椋神社

 椋神社の鎮座する旧吉田町は、秩父市から北西部に位置し、2005年(平成17年)4月1日 吉田町が秩父市、荒川村、王滝村と合併し秩父市を新設したため吉田町は消滅した。旧吉田町はその地形上南北に秩父山系が連なり、東西は埼玉県道37号皆野両神荒川線を通じて皆野町、小鹿野町と接している。その為か、この地域は秩父市との関係よりも皆野、小鹿野両町と文化的、経済的にも密接に関係しているのが特徴的だ。
  延喜式神名帳に記載された秩父郡に鎮座する式内社である。「秩父郡に座幵ぶ/チチブグンニザナラブ」として秩父神社とともに延喜式神名帳に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だと言われている。本来「くら」神社と読むのだが、他地域の人々が「むく」神社と呼ぶために改称したという。旧社地は、背後の畑地に残る井椋塚の上と伝えられ、近世には「井椋五所大明神」と記録されている。また現社殿と井椋塚を結ぶ直線を西に延ばした先にある鍛冶山の山中に奥宮があるという。また明治17年11月1日に、秩父困民党が集結し、有名な秩父事件の発端になった場所で、境内には困民党決起の碑が建っている。さらに椋神社の秋祭は奇祭「龍勢祭」として有名で、毎年10月には龍勢祭で打ち上げられる「農民ロケット」を見に全国より6万人余の人が訪れるように歴史的にも由緒ある神社である。

 地理的に見ても秩父は特異な地形だ。交通が寄居熊谷方面に限られていて、周囲が秩父山系の険しい山々に遮られて、秩父の市街地は、山域最大の盆地である秩父盆地と小鹿野・吉田など西秩父の小盆地に集中している。そのためか秩父は閉鎖的な空間を感じさせる。

 椋神社はそんな西秩父の小盆地の一角に静かに鎮座している。千数百年もの悠久の歳月を静かに見守っている。

所在地    埼玉県秩父市下吉田7377    
主祭神    猿田彦大神・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社  格         式内社(小)、県社(神饌幣帛料供進指定社)
社  紋    五七の桐
 
                   
 
  椋神社は、秩父市吉田地区(旧・吉田町)の県道37号皆野両神荒川線沿いにある、龍勢祭りや秩父事件で知られる神社である。道の駅龍勢会館から西に約 800mのところにあり、国道140号線「大塚」信号(皆野寄居バイパス終点)からは、吉田方面の標識に従って約6km位の地点に鎮座している。
  秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている。
  社伝によれば、景行天皇の世、日本武尊(やまとたけるのみこと)が秩父御巡幸の際、猿田彦命(さるたひこのみこと)が椋の木の元から立ち現れ、日本武尊命を道案内したことにちなみ、猿田彦命を祀ったと伝えられている。日本武尊命由来の神社のため、入口に狼の狛犬が鎮座している。

   
     一の鳥居から階段を上がる       階段を上がり切るとそこに神社の広い空間が広がる
    
       
                      拝   殿
由緒記
(1)人皇十二代景行天皇御宇、日本武命東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅三年芦田宿禰守孫造立すと 云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。清和天皇貞観十三年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間 神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数十町 を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳二年累進して從二位を授ける。元亀年中武田 信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正三年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長九 年当社境内欅三十五本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永五子年二月拝殿修復、棟札は左の如し。
夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也  云云
上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日
寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。
寛政元己酉年
奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、四月二十一日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治十五年六月十五年県社に昇格す。大正二年近隣の神社二十三社を合祀す。大正五年十一月十三日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正十年拝殿幣殿の改築竣工し十月四日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和九年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和十七年九月社務所焼失す。
昭和二十五年十二月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。
昭和三十四年九月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十年十月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和四十三年十二月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、四十四年四月元拝殿屋根改造完成す。昭和四十八年九月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木二百十一本柱八本奉納。細木置場を建設す。
昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費二百二十万円を以つて神輿調製奉納す。五十年亦三百万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦四十九年五月二十日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。

(2)人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇 貞観十三年十一月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長五年十二月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功 を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正三年北條氏邦再建す。明治六年郷社となり、仝十五年六月三十日県社に列せられ、大 正十年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十七年九月三十日社務所焼失し、昭和三十四年九月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十 九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和五十年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和五十二年三 月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。

                      
                                               本殿 秩父市指定文化財
椋神社
 日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ奉命諸國ヲ巡狩シタマウトキ、甲斐國酒折宮ヨリ武藏國諸郡ヲ経テ此所二著御アリ。固ヨリ當國ハ深山幽谷ニシテ殆ト霧深 。於是日本武尊群臣等ト議曰不能進而其所ヲ知ラサルナリ。尊歎之既二軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ忽然トシテ光輝顯レ斐錬ス。既二老翁井泉ノ椋ノ下二現出スルナリ。老翁示曰吾レ尊ノ爲二瞼路ヲ導ナリ。日本武尋再拝シテ立焉。一説曰忽チ光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、尊怪以テ其処二到り既二老翁井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,日本武尊ヲ導ント欲シテ此処二臨ムナリ。日本武尊再拝立焉。日本武尊神二誓ヒ東國多叛ノ夷賊等王化二背クモノ之ヲ討チ安キニ置ハ井椋神祠ヲ作ラシムナリ。忽チ神慮ヲ垂ヨ焉。時アリ風ヲ起シ霧ヲ擬ヒ雲ヲ佛ヒ山鳴り瞼路ヲ披ク。偉哉於是漸ク群臣等進ムコトヲ得テ大二賊徒ヲ討チ軍功アラハルナリ。日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。亦井椋ノ本之ヲ明光場ト謂フ。本社二十町ヲ隔ツ称テ井椋社ト日フナリ。亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。今則畠ノ中ニシテ旧井戸アリ。今民間二用ユ。亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。彼光耀飛立ル所則赤井坂現今華表ノ左側二在ル焉。

                                                                                                               神社に伝わる縁起

  境内には神明神社、天満神社、諏訪神社、稲荷神社、庖瘡神、産泰神社等、境内社が鎮座している.
   
              
                                            八幡宮 本殿と共に秩父市指定文化財

 
また椋神社は「龍勢祭り」でも有名である。
 龍勢祭り 毎年 10月第2日曜日

 人皇13代景行天皇の御宇皇子日本武尊詔を奉載して東征の砌当地を御通りに相なり山深く霧巻き覆い行く先を知らず暫し止り給うに持ち給へる御鉾より奇しき光 り飛んで止まりたるを怪みて其の方に至れば井泉の傍らなる椋の大樹の側に当に猿田彦大神現われ給い日本武尊を導き奉らんとしてそれより東の方赤井坂まで導 かれ御姿を隠され給う。日本武尊の武威俄に上り平定の功を奏せられ大いに喜び給い御自身の御鉾を御神体として猿田彦大神を祀られ永く東国の鎮守たれと祈請 せられ給う其の御氏子の人々が祭りを永く続け来たり旧古は祭礼当日氏子民が神社の前方吉田河原でで火を炊き其の火のついた木を投げて御神慮を慰め奉りしを 例とす。火薬が出来るに及んで火薬に依って火の光を飛ばすことを工夫し現在の特殊の煙火龍勢となり永く奉納されるに至る。竜勢の製造法は松の生木を伐って 円筒を作り竹のたがを掛けて堅く造った物へ火薬を極く固く詰め詰めの終わりの方は塞いで詰め始め即ち下の方から錐で穴を明けこれに導火薬を挿入するもので 之れに矢柄と云って竹を付けるが此の■は竜勢が垂直に上って狂いのない様にするためであり、なるべく長い方が素性よく上り勝ちになる。而して揚げるには八 間位の櫓を造り其の上方部に四角の金棒を渡し竜勢を此の金棒に掛けて導火線を長くつないで櫓の下方から点火する此金棒の水平こそ極めて肝要であり直立して 上れば櫓の側へ矢柄が落ちるので金棒を僅か傾け下方に針金を引いて矢柄を少し傾けて櫓から放れて落下する様に調節する。新調に実施する故事故もなく恒例の 行事として現在にに至る。竜勢煙火を好み給う御祭神の御神徳と竜勢を好む氏子の赤誠と練達と相一致して完全に遂行することが出来たのである。白煙を噴いて 中天高く上昇する竜勢はさながら龍の昇天を思わせ豪壮に極まりなく日本国が生んだ貴い文化財である。昭和39年9月29日吉田町指定民俗資料となり昭和 52年3月29九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。誠に古田町が誇るに足る文化財であり、茲に氏子崇敬者一同石に刻して記念碑を建設し永く此の栄誉を後世に伝えるものである。
昭和54年10月 5日
延喜式内椋神社宮司 引馬慧書
吉田町龍勢保存会長 和久井完
                       

  椋神社本来「倉」であり、「くら」神社と読んでいたが、他地域の人々が「むく」神社と呼んだ為に改称したという
。では「倉」とはどのような意味があるのだろうか。以下のことを記述している書物があるので参考資料としたい。

倉 クラ 蔵、倉、椋のクラは、古代朝鮮語で銅(アカガネ)のことを言う。韓半島南部の金海地方にある弁辰の金官加耶は鉄・銅の大生産地で王族も鍛冶師首領の金氏である。三国志・東夷伝弁辰条に「国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従て之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ。又、以て二郡に供給す」と見ゆ。加耶は加羅と称す。金海の弁辰安耶は安羅と称す。弁辰狗耶国(今の金海市)は狗羅(クラ)と称す。三国志・倭人伝に「郡(楽浪・帯方)より倭に至るには、海岸に循(めぐ)って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、其の北岸狗耶韓国に到る七千余里」と見ゆ。此の狗耶国の渡来人は鍛冶・鋳物等を業として、其の居住地を倉、久良岐、倉田、倉林等の地名を付けた。

 
この地域には武蔵国山岳地域に多く存在する鍛冶・鋳物集団の居住地だったらしい。そしてその中の一つの集団は「倉」族と称していた。その後その倉一族は周囲に移住し、その土地に「倉、倉田、倉林、倉持等」の地名をつけたという。

久良岐 クラキ 新羅をシラギと称すと同じで、良、羅はラキと読む。神護景雲二年六月紀に武蔵国久良郡と見え、和名抄に久良郡を久良岐と註す。吾妻鑑卷十六に武蔵国海月(クラゲ)郡と記し、クラキと註す。久良岐郡は弁辰狗耶国の渡来人居住地なり。
倉田 クラタ 田は郡県・村の意味。倉族の集落を倉田と称す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
倉持 クラモチ 車持君の後裔倉持氏 常陸国真壁郡倉持村(明野町)あり、郡郷考に「倉持は即ち車持なり。姓氏録に、車持公は豊城命八世射狭君の後」と見ゆ。下総国岡田郡蔵持村(茨城県結城郡石下町)、上総国長柄郡蔵持村(千葉県長生郡長南町)あり。是等の地名は上毛野族車持君の一族が居住して名付くと云う。しかし、下総国猿島郡・葛飾郡、武蔵国埼玉郡地方に多く存し、此の地方には車持君の伝承が無い。また、毛野族の本貫地である上野国及び下野国には倉持氏は現存無し。倉持(クラチ)は倉地にて、倉族の居住地なり。車持君とは無関係なり。

 
倉一族についての説明は上記のこと以外、現時点では解っていない。この一族のルーツはどこなのか、またこの記述以降どのような経過を経たのか、少なくとも秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている歴史のある由緒正しい社を創建した一族である。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失した、とのことだがそれでも何か残されていないのだろうか。隠された歴史が解明される日が訪れるのだろうか。 


 

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宝登山神社

 宝登山神社が鎮座する長瀞町は埼玉県秩父郡にある人口約8千人の町である。長瀞渓谷をはじめとする数々の観光名所を有し、「秩父の赤壁」「関東の耶馬溪」という別名を持つ。また長瀞町の総面積は30.40平方キロメートルあるが、そのうち約60%が山林で占められている。また、四方を宝登山、不動山、陣見山、大平山、釜伏山といった山々に囲まれ、これらの山を源とする沢は、それぞれ荒川に流入している。
 長瀞町は町の全域が、県立長瀞玉淀自然公園区域に指定されており、特に上長瀞から高砂橋に至る荒川の両岸は、名勝及び天然記念物保存区域として指定されている。なかでも岩石段丘、いわゆる『岩畳』の広がる長瀞渓谷は、地質の宝庫として貴重な天然資源を誇っている。
 宝登山神社は秩父神社、三峰神社とともに秩父三大神社に数えられている。その起源は日本武尊[やまとたけるのみこと] が東征の際、宝登山中で猛火に包まれた時、どこからか現れた山犬によって危機を救われたという伝説からきている。この宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。

所在地
   埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
 
主祭神   神日本磐余彦尊
        
大山祗神
                
火産霊神
創  建
   
伝・景行天皇41年(111年)
社  格
   旧
県社・別表神社
例  祭       
4月 3日(例大祭)
                 5
月 2日(奥社祭)
                 8月15日(船玉祭)
主な神事
   お炊き上げ祭(毎月7日)

       
 
  標高497mの宝登山の山麓に建つ神社。日本武尊が東国平定の折に山に登る途中、山火事に囲まれ、多くの巨犬が現れて火を消したことから、山頂に神武天皇、大山祇神、火産霊神を祀ったのが始まりと伝えられている。古くは火止(ほど)山と言われていたが、後に宝登山と改称された。境内には日本武尊が身を清めたと伝えられる「玉の泉」がある。

 秩父神社、三峰神社とともに秩父三社の一つに数えられ、災難除や商売繁盛を願う参拝者で賑わう。
「宝の山に登る」という縁起のよさから、年間に100万人の参拝者が訪れるという。
 
     国道140号線の交差点にある一の大鳥居                  二の鳥居
        ちなみに神社側から撮影 
 
  二の鳥居の手前左側にある宝登山神社略記              階段手前にある趣ある手水舎

寶登山神社畧記
御祭神
 大山祇神:山を掌り山の幸を恵み給う
 神日本磐余彦尊:我が国を肇め給いし神武天皇
 火産霊神:火を掌り火の幸を恵み給う
御由緒
 第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国地方を平定し、御凱旋の閉じ、寶登山山頂で御産柱の神をお祀り申し上げたのを以って、創始となす。
登山に先立ち、尊が心身を清めた「玉の泉」は今なお御本社玉垣内に残る。登嶺の途中、山火事に遇われた時、神使いの巨犬が火を消し止め、尊を頂上まで導いた。此の為古くは「火止山」と称し、後に「寶登山」と改称す。この巨犬は、大口真神(御眷属)で、火防盗賊除・諸難除の霊験あらたかである。
御例祭
 4月3日 献幣使参向・神楽奉奏・奉祝煙火等1年1度の最高の厳儀                                                                                                                                                              (現地案内板説明文より)

                        
                                                                神楽殿
 
この神楽殿には「神人和楽」という額が掲げられている。
 これは、「神楽」の本来の意義が神を招いてなぐさめるために舞楽を奏すことを言うことで、言い換えれば「神楽」とは神と人とが共に享楽することによって神の力を得る神事で、神座に神を招き神の力を招き鎮めることによって、生命力を高めようとするものが「神楽」であるということを表した言葉、それが「神人和楽」という言葉なのだそうだ。


                        
                                                            拝   殿
  宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。
  現在の本殿・幣殿・拝殿は、明治初頭に作り替えられたが、平成22年宝登山神社御鎮座千九百年記念事業の一つとして社殿改修・祈祷殿神札所新築工事が竣工 された。権現造りの社殿の欄間に施された龍などの彫刻が見もので、昨年の改修で真新しくなっておりその美しさに目を奪われてしまう。

 
特に拝殿の向拝部分は、柱や虹梁などが白に塗られ、極彩色の彫刻がに施されている。秩父三社の三峯神社を思わせる色使いである。。
 向拝の柱には5匹の龍が飾られ、正面には青龍・白龍など中国神話の四神が彫られている。拝殿側面にも中国儒教の教えにある二十四孝の彫刻が飾られている。
                         
                                                               本  殿
 宝登山神社の拝殿が極彩色の彫刻が施され、神仏習合の様式を色濃く反映していて拝殿全体が煌びやかな装いに対して、本殿は全体的に控えめながら細部に装飾を散り ばめている。拝殿を見たあとに本殿を見ると、そのギャップに少し驚きを感じるが、そこに日本人独特の美意識を感じる。

                   
                       神楽殿の隣にある水神社と隣接してある招魂社
   
     招魂社の隣にある藤谷淵神社                                      日本武尊神社
    
                      天満天神社                                天満天神社の先にある小さい橋を渡ると
                                                                                宝玉稲荷神社がある
 宝登山神社御由緒物語(パンフレットより)
  今からおよそ1900年ほど前、第12代景行天皇の御代のこと、日本武尊とその軍勢が東国地方平定の折、宝登山に登って神霊を拝したというおはなしです。日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと、森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありましたので、尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして、身を清めました。一隊頂上へ向かって登り始めました。が、しばらくすると辺りの様子がおかしい事に気がつきました。そのうちに黒い煙がどっと吹き寄せました。山火事ら、ご自分も剣を抜いて草をはらい、枝を切って猛火と戦いました。けれども火の勢いは強くなるばかり。一隊は火の渦に巻き込まれて脱出することが出来ません。尊の命も危うくなりました。その時、突然現れたたくさんの白い影、黒い影。影は風を切って、次々に猛火の中に飛び込んで行きます。影のように見えたのは、大きな白犬、黒犬です。犬たちは、荒れ狂う炎の中で火を消し止めようと大活躍です。そのすさまじさ、ものすごさ、火の勢いは見る見る衰えていきました。すっかり火が消えました。犬たちの見事な働きに尊も兵も我を忘れて感嘆していますと、犬たちは二頭、三頭また五頭と尊の前に集まって、静かに歩き始めました。さあどうぞ、頂上へご案内いたしましょうというように。頂上へ着くと、いつの間にか犬の姿はどこにも見えません。影のように現れた犬たちは影のように消えていました。「おお、やはりあのたちは"山の神のお使い"に違いない。本当にありがとうございました。」日本武尊は神様に対し、心より御礼を申し上げました。頂上からは悠久の天地が、広大・荘厳に眺められました。日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名づけられ、"神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされ、「神籬(ひもろぎ)」(御神霊をお迎えするための憑り代)をお立てになり、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)の三社をお祀りになりました。これが宝登山神社の御鎮座の起源であり始まりです。その後「火止山」は霊場として栄え、弘仁年中に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、山の名と神社の名はこの吉祥事により「宝登山」に改められて今に至りました。

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箭弓稲荷神社

 箭弓神社が鎮座する東松山市は、埼玉県のほぼ中央部に位置する人口約9万人の市である。市中央部から西部・南東部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした新興住宅団地が多いようである。また、都畿川や越辺川流域周辺は洪積低地となっており田園風景が広がっているが、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んでいる。

 また鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。

 「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れているという

所在地    埼玉県東松山市箭弓町2-5-14   
主祭神    保食神(宇迦之御魂神 うがのみたまのかみ)
         豊受比賣神
        
社 格     県社 別表神社
本殿様式   権現造
      9月21日(例大祭) 他 
創立年代
   712年(和銅5年
 

       
 
 箭弓神社は東武東上線、東松山駅西口を降りて徒歩5分位の位置にある。「箭弓」という言葉は上古代、「矢久」「野久」「八宮」と呼ばれ、「八宮」とは天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮と云う。五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男であったという。

   
                     二の鳥居                 綺麗に整備された参道。二の鳥居から撮影 

   創建は712年(和銅5年)と歴史のある社で、創建当時は単なる小さな祠でしかなかったが、長元3年(1030年)、下総国の城主・平忠常の討伐に出かけた源頼信が、この周辺に一泊し、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納したところ、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃する。これは神のお告げだと確信し、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は見事に快勝し、当地に、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えられ、その後も松山城主や川越城主の庇護を受け、現在に至っている。
 
               三の鳥居手前にある手水社                三の鳥居近くにある由緒、祭神の
                                               紹介した案内板
境内由緒書

 御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神

 当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
 又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
 当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
 

                        拝   殿

                        
重厚な造りで趣のある、箭弓神社 本殿

  現在の社殿は享保3年(1718年)領主、島田弾正が四方の信徒と図って建築したものであるといわれている。本殿は正面5.43メートル、奥行5.15メートルあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺でできている。本殿には幾多の彫刻が施されており、また本殿内部は日光廟を模した感じであるという。

                                                  元      宮
   
元のお社として現本殿の真後ろに鎮座し、社殿には彩色ある細やかな彫刻が施されている。毎月1・15日には神饌を供し拝礼する。
 
                                                 
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)


  遡ること七代目市川團十郎は特に厚く当社を崇敬しており、社に籠り芸道精進、大願成就のご祈願をいたし、その当時、江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において「狐忠信」「葛の葉」等の芸題を披露しましたところ毎日札止めの大盛況となりました。
 これはひとえにご神威、ご霊験のあらたかなることだと感得した團十郎は、文政四年(1821年)の秋、当社に石造りの祠を建立しました。
 以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、芸能・技術の向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁昌の守り神として広く崇敬を集めています。
                                                                           
                                                                                      宇迦之御魂社御由来 掲示板より引用

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