中新田神明社
五節句は以下の日となる。
・1月7日:人日(じんじつ) [七草の節句]
・3月3日:上巳(じょうし) [桃の節句、ひな祭り]
・5月5日:端午(たんご) [菖蒲の節句]
・7月7日:七夕(しちせき) [七夕祭り、星祭]
・9月9日:重陽(ちょうよう)[菊の節句]
日本では昔から奇数は陽の数字とされ、なかでも一の位の最大である「九」が重なる9月9日は陽が重なるのでめでたい日とされ「重陽の節句」として呼ばれ、お祝いしたという。
関東地方では,3度の9日を〈みくんち〉といい,それぞれ初九日,中の九日,しまい九日と称していずれも重要な節目とした。またこの時期は収穫期にあたるところから、一般においては収穫祭りと結びつけて祝うことが多く、その日に行われる祭りのことを「おくにち」「おくんち」と言うようになった様である。
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市中新田180
・ご祭神 天照大御神
・社 格 旧中新田村鎮守・旧村社
・例祭等 春祈祷 3月15日 お九日 10月14日
新穀感謝祭 11月23日
上新田日枝神社から「鉄砲道」を北東方向に500m程進む。「新町小学校入口」交差点のすぐ先の路地を左手前方向に曲がり、道幅の狭い道路を道なりに進むと、進行方向ほぼ正面に中新田神明社の社叢林、及び鳥居が見えてくる。
鳥居脇の境内の一角が公園化されて、そこのスペースに車を停めてから参拝を開始する。
中新田神明社正面
鶴ヶ島市・中新田地域は、上新田地域の北東に接していて、嘗ては一帯農村地帯であったが、近年建て売り住宅が増えて、兼業農家も五割となっているという。
中新田神明社は、宅地化の進んだ当地域にあって、唯一僅かに昔の田畑風景が残っている南西部端にひっそりと鎮座している。
鳥居の左側に設置されている「顕彰記念碑」
杉の大樹等に囲まれた参道
拝 殿
神明神社 鶴ケ島町中新田一八〇(中新田字中方)
当地は高麗郡浅羽庄に属した。社伝によると社の始まりは、「往古、内大臣藤原伊周公の一子武蔵守の後裔浅羽下総守小田原陣に戦没し、居城である浅羽城も落城、家系の廃絶を恐れた長子左京は、秩父高篠山に潜んで名を高篠隼人と改め時節の到来を待つうち宿願かない、元和九年故山に帰って高篠三家を再興する。高篠喜一・俊・辰生の先祖である。村も治る慶安二年に喜一家の祖が愛宕神を、俊の祖が稲荷神を、辰生の祖が伊勢神を、それぞれ勧請して家の神とする。これを当社の創め云々」とある。また『武州高麗郡中新田村家伝集』に「慶安二年第六殿御縄入相成上新田唱ヒ、小六殿中新田ト唱、庄兵衛永久両村支配役仰付、左兵衛ノ氏神稲荷神明勧請申ス、愛宕山之神都合四ケ所勧請申ス、別当宝蔵院、氏寺清林寺也、延宝二甲寅年三月二十六日、高篠隼人死ス」とある。
氏寺であるといわれる清林寺は、当社の東二〇〇メートルほどにあったが明治期廃寺となると伝える。ただし『風土記稿』には「神明社 村の鎮守、村持」とのみある。
『明細帳』に「当社古記録等伝フル無ク創立年紀詳カナラズ明治五年村社ニ列ス、明治四十年十二月廿四日同大字字東山稲荷社、字大山ノ山の神、字愛宕ノ愛宕社ヲ合祀スル」とある。合祀跡地は当社で所有し小作地としていたが、農地開放により失った。
「埼玉の神社」より引用
本殿奥に聳え立つ「中新田神明社大桧」
入口付近に設置されている「中新田神明社大桧」の案内板
中新田神明社大桧(しんめいしゃおおひのき.)
市指定天然記念物(昭和五十七年三月十五日指定)
神明社が江戸時代の慶安2年(1649)に造営された際に御神木として社殿の裏側に植え付けられたものと推定される。
往時より、氏神信仰の習わしとしていずれの社にも御神木があった。この大桧も信仰の対象として生まれたものと考えられる。
桧は一般にその成長が遅く、これだけ大きい桧は近隣には見受けられない。
樹齢三百余年、幹回り二m六十五㎝、樹高約二十五m
平成五年三月三十一日 鶴ヶ島市教育委員会
案内板より引用
本殿東側の境内社。「神明社由緒之碑」に記され 境内にある「神明社由緒之碑」
ている稲荷社・愛宕社・山ノ神であろうか。
神明社由緒之碑
荒漠たる武蔵野台地の一角を拓き中新田村ができたのは元和九年(一六八三)のことである。
往古内大臣藤原伊周公の一子、武蔵守の後裔、浅羽下総守小田原陣に戦死母城浅羽城落城の悲運にあい其の子、家系廃絶を防ぐため逃れ秩父高篠山に入り浪々の身長きにわたる、後に左京改め高篠隼人となり、此の地に来り三家を創立、慶安二年氏神、神明、稲荷、愛宕、山ノ神を勧請し神明社を創建す。
御神木大檜は昭和五十七年鶴ヶ島町天然記念物指定を受く。樹幹八尺七寸余(二、五六米)樹勢盛んなり。
隼人婦寛文七年、隼人延宝二年この地に眠る、これ中新田墓地の始まりにして後年地蔵堂建立される。
社殿からの風景
ところで、「埼玉の神社」によると、当社の行事は、元旦祭・春祈祷・勧学祭・お九日・新穀感謝祭・竈注連(じめ)分けである。
春祈祷は3月15日で、本来は種籾(たねもみ)を沿えて稲の無事成長を祭りであったが、生業の変化に伴い、現在は家内安全など種々の祈願をする祭りに変わっている。これは、祭典が終わると、拝殿で神社会計報告・三峰講の代参くじ引き・神社年番の引き継ぎが行われる。
4月上旬に勧学祭がある。これは国民学校時代からの行事で、前もって氏子に回覧板が回り、小学校に入学した子供とその親が参拝する。
お九日は10月14日で、大正の末までは境内に灯籠を飾り幟を立てていた。以後は祭典直会だけの簡素な祭りとなっている。
新穀感謝祭は11月23日である。これは昔のお日待(おひまち)をお上の命令で変えたもので、祭典後拝殿で直会をする。
竈注連(じめ)分けが12月下旬に行われる。これは、神職家にある氏子の帳面を基にして行われ、歳迎えの注連縄や幣を作って、総代が各家に配布するとのことだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「改訂新版 世界大百科事典」「Wikipedia」
「境内案内板・記念碑文」等