古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高徳神社

 鶴ヶ島市は埼玉県の中部に位置する市で、人口は約7万人(推計人口、2024101日)。埼玉県の中央やや南寄りに位置しているが、通常は埼玉県西部と見なされている。入間台地(武蔵野台地の北端から入間川を挟んだ対岸)の先端部に位置しており、標高は30mから50m程度で、南西から北東に向けてなだらかに下っている。嘗ては畑・田・林が大部分を占めていたが、高度経済成長期以降人口の流入が著しく、現在も宅地化・商業地化が進展し続けている。また川越市・坂戸市とは連続した市街地を形成している。
 古墳時代にはいくつかの古墳が築造されており、なかでも鶴ヶ丘稲荷神社古墳は古墳時代末期としては大きなものである。富士見地区の若葉台遺跡は8 9世紀にかけて比較的大規模に発達した遺跡であり、律令体制下における地域拠点(一説には入間郡衙)となっていたことが想像されている。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市太田ヶ谷6171
             
・ご祭神 伊邪那美命  速玉之男命  事解之男命
                  
素戔嗚尊  櫛稲田姫命  猿田彦神
             
・社 格 旧指定村社
             
・例祭等 例大祭48日 夏祭り724
 高徳神社は関越自動車道鶴ヶ島JTの西側近郊にあり、埼玉県道114号川越越生線沿いに社は鎮座し、県道を少し東行すれば鶴ヶ島市役所に達する。高速道路や幹線道路に囲まれているにも拘らず、社の空間は至って静か。長い参道の両脇には杉の大木等の樹木が鬱蒼と繁っていて、昼でも薄暗いのだが、それが却って社の神聖さ・荘厳さを上げているようにも感じる。
        
                                 
高徳神社正面
 ここで失敗談を一つ。埼玉県道114号川越越生線からのアプローチで、実際社は目視にて社は確認できたのだが、「高徳神社」交差点がY字路となっていて、そのまま通り過ぎてしまい、市役所方向に達してしまった。地図を確認すると、上記交差点を左後方向に進み、曲がった直後の右側に専用駐車場がある事を知った。目標地までのルート設定において、ナビゲーションシステムは非常に便利ではあるが、細かい場所までの指定はできず、そこは本人の努力義務しかない。
 また駐車場に車を停めてから、改めて感じたことだが、駐車場から南東方向に200m程の長い参道があり、正面鳥居は圏央道に面した場所にあった。
        
                         令和5年3月に設置された社の案内板
 高徳神社
 高徳神社は、太田ヶ谷の熊野神社、三ツ木の白髭神社、藤金の氷川神社、上広谷・五味ヶ谷の鎮守である氷川神社が、大正二年(一九一三)、本殿内に合祀され、新たに創立した神社です。
 社地の多くは、当時、村長であった太田ヶ谷の
野重右衛門が自らの土地を寄進したものです。本殿裏手の境内社については、それぞれの母地の方向を向いて建てられているという特徴を持っています。
 また、この広い社叢林には、野鳥も多く生息し、武蔵野の面影を残す市民の憩いの場所となっています。

 当社の年間の祭事は、元旦祭、元始祭、祈年祭、例大祭、境内社祭、日待祭、新嘗祭の七回です。
 神職は創立以来、尾崎神社(川越市)宮司が兼務しており、太田ヶ谷、三ッ木、藤金、上広谷、五味ヶ谷の各地区から選出された氏子総代とともに、社の維持、運営にあたっています。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に記されている「内野氏」は、『鶴ヶ島村郷土誌』に「大字太田ヶ谷満福寺末寺常福寺は内野常福の発起にて創起す。元禄頃は満福寺現住兼勤せり」と記されている。また天正十八年前後に作成された「内野四十二軒」には「内野図書(本邑屋敷、文正元年死す、常福と号す)。〇長子三郎右衛門(相続人)―三郎右衛門、弟甚六、其の弟半助。〇二子亀之助―亀之助、弟元右衛門、其の弟平七―平七、弟安左衛門。〇三子半蔵―半蔵、弟重右衛門―重右衛門」と記され、「内野図書」なる人物は、文正元年(1466)室町時代中期頃に亡くなったといい、その後この内野図書一族が当村を開発し、天正末頃に「内野姓四十二軒」となったという。
 
               200m程ある長い参道(写真左・右)
 この神社の神域は広く、境、境外の面積は、5,619坪もある。広い境内は、杉・檜・赤松等の老樹が鬱蒼と生い茂り、清浄且つ森厳な聖域となっている。
 また、この広い神域を利用して、市の「野鳥の森」が設定されており、人の手によって造られた「人工の森」とはいえ、武蔵野の面影を残す樹林には、留鳥、漂鳥、旅鳥など野鳥の数も多い。この森のすぐ西側には清い小川があり、また、境のところどころに餌箱を設置してあるので、鳥たちの聖域となっている。
        
     長い参道を抜けるとポッカリと明るい空間となり、奥に社殿が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 太田ヶ谷村』
 熊野社 村の鎭守なり、例祭三月十六日、萬福寺持、稻荷社
『同 三ツ木村』
 白髭社 村の社守にて、例祭三月十五日なり、慈眼寺の持、下の四社も皆同じ、
『同 藤金村』
 氷川社 村の鎭守なり、例祭三月十四日、法昌寺持、下同、辨天社、稻荷社、
『同 上廣谷村』
 氷川社 當村及五味ヶ谷村の鎭守なり、例祭八月廿五日、正音寺持、
天神社、
 嘗ては風土記稿に記されたように、各村に祀られていた社であった。その後、大正2年(19136月に創立した高徳神社は、現在の鶴ヶ島市の南東部地域の神社を1つに纏めたという経緯がある。それ故に、鶴ヶ島市内の神社として最も規模の大きい神社であるという。
 
      参道左側にある神楽殿        境内に設置されている「御大典記念事業碑」
 御大典記念事業碑
 高徳神社は鶴ヶ島市 太田ヶ谷 三ツ木 藤金 上広谷 五味ヶ谷の各地区内に鎮座していた神社を大正二年太田ヶ谷の富豪内野重右衛門翁の境内地寄贈により合祀して創立したものである
 爾来郷人はもとより近隣住民の深い崇敬を集め老樹鬱蒼とした広大な神域は埼玉県指定「高徳神社ふるさとの森」野鳥の森として親しまれている
 此の神域に建設省の計画による首都圏中央連絡自動車道の建設とこれに伴う県道川越越生線拡幅用地に境内地の一部を提供する事になり役員氏子総代相計り拝殿幣殿社務所改築境内整備工事を御大典記念事業の一環として二ヶ年の歳月を以てここに竣工する
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 高徳神社の氏子区域は、いわゆる一村一社制により神社合祀が行われた結果、鶴ヶ島村全域となるはずであったが、実際は合祀社の多くが書類上の合祀に終わったため、現在は太田ヶ谷・三ッ木・藤金・五味ヶ谷・上広谷の五地域となったという。
 ところで、創立時、新しい神社名が話題となったようだ。最初鶴ヶ島神社案があったが、他からの反論があり取りやめとなり、南鶴ヶ島神社名も話題にのぼったがこれも他から適当でないとの声があがった。結論として、多くの神社が1ヶ所に集まるので、神徳の高いのをたたえて高徳神社と社名が決定したのだと、地元の古老は語っている。
        
                    本 殿
 また、高徳神社は合祀されたそれぞれの神社が母地の方角を向いて建てられているという特長を持っている。中央に太田ヶ谷の神社が太田ヶ谷に向き、その左側に三ツ木の神社が西方三ツ木を向き、右側に藤金・上広谷・五味ヶ谷の神社が東方藤金・上広谷・五味ヶ谷の方向を向いて建てられているのである。
 
           境内社・氷川神社                           境内社・天満天神社
 
      境内社・熊野神社               境内社・白髭神社 
      境内社・浅間神社                    社殿東側には合祀記念碑が立つ
       
                  社殿からの風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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