日光二荒山神社中宮祠
広大な社地故だろうか、「日光山内(さんない)」と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する「本社」の他に、男体山山頂に鎮座し、勝道上人により天応2年(782年)に創建された「奥宮」、そして、本社と奥宮との間には「中宮祠」がそれぞれ鎮座している。
日光二荒山神社中宮祠(にっこうふたらさんじんじゃちゅうぐうし)は中禅寺湖のほとりにご鎮座する。奥宮創建後の2年後(784年)に「中禅寺」とともに創建された古社名刹である。元々は中禅寺と神仏習合していたが、明治時代の神仏分離令により独立している。
この社は霊峰・男体山の中腹にあるため、中宮祠の背後には男体山が間近に見え、古くより男体山をご神体山と仰ぐ社と同時に山岳修験のの一拠点であったというのにも納得できる。
またこの社は中禅寺湖畔に鎮座し、男体山から南北ライン上に中宮祠、中禅寺湖が位置していて、正門にあたる国の重要文化財の神門「八脚門」から見る中禅寺湖は神秘的で、神々しさも感じられるまさに絶景の一言。
日光二荒山神社とは別項にて紹介する理由はまさにそこにある。
・所在地 栃木県日光市中宮祠2484
・ご祭神 二荒山大神(大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命)
・社 格 式内社(名神大社)論社 下野国一宮 旧国幣中社 別表神社
・例祭等 武射祭 1月4日 男体山登拝大祭 7月31~8月7日
奥日光のシンボルと言うべき男体山(二荒山)は、二荒山神社のご神体で、奈良時代から山岳信仰の霊峰である。山頂に二荒山神社の奥宮があり、山麓の中禅寺湖畔には、奥宮と本社を結ぶ中宮祠が鎮座する。
東照宮手前の「神橋」から国道122号線、その後「細尾大谷橋」交差点より国道120号線を直進し、有名な「第二いろは坂」を越えて中禅寺湖湖畔に到着。そのまま国道を道なりに進むと、二荒山神社の朱の大鳥居が見えてくる。大鳥居を越え800m程中禅寺湖北岸に沿って進むと、青銅製の東鳥居が見えてきて、50m程進むと参拝用の無料駐車場が進行方向右側にあるので、そこに車を停めてから参拝を行う。全国的に有名な日光地方にあり、当然駐車場は有料と考えていた筆者にとって、この無料駐車場はありがたい。「神橋」から「二荒山神社中宮祠」までは20㎞弱程の距離がある。
二荒山神社中宮祠 正面青銅鳥居
正式ルートである中禅寺湖に面した青銅鳥居から参拝を行う。
昨日は東照宮、二荒山神社等雨交じりの天候での参拝であったが、本日は雲もあまり見えない程の澄み渡った晴天。但し風がやや強く、肌寒さも感じる。海抜高度1,269m故だろう。事前に防寒着であるジャンバーを着込んでから参拝を開始する。
中禅寺湖の美しさに暫し参拝を見合わせる。 鳥居の右手には社号標があり、その奥に
ただこのひと時が貴重な時間にも感じる。 「水神」と刻印された石碑が祀られている。
御祭神・水波能売神
中禅寺湖は、約2万年前に男体山の噴火でできた堰止湖であり、人造湖を除く広さ4km2以上の湖としては、日本一標高の高い場所にある湖である。また栃木県最大の湖である。1周は約25kmであり、歩くと9時間ほどかかる距離である。湖のすぐ北には男体山がそびえ、北西には戦場ヶ原が広がる風光明媚な地である。
この湖は、現在は観光地として知られるが、日光山を開いたとされる勝道上人が発見したとされる湖であり、かつては神仏への信仰に基づく修行の場として知られていた。
青銅鳥居から石段を登ると、正面に国の重要文化財の神門「八脚門」が見えている。
境内に入ってから逆方向から「八脚門」を撮影
門の間から僅かに青銅製の鳥居が見える。
天候が良すぎて、アングル的に逆光状態で撮影したため、暗く見えてしまった。
「八脚門」から「唐門」を撮影。
「唐門」の右奥には霊峰・男体山が見える。
唐門も国指定重要文化財 境内には朱を基調とする手水舎がある。
拝殿内部
参拝時、拝殿は改装中で器材やテントが覆っていた。少し残念。
日光二荒山神社中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。
二荒山神社の創建は天応2年(782)勝道上人が男体山頂に社殿(現在の奥宮)を建立したのが始まりと伝えられていて、延暦3年(784)に参拝が困難な事から麓に中宮祠を建立したという。この時、同時に中禅寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。古くから中禅寺と神仏習合し「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、永長元年(1096年)、久寿2年(1155年)、永暦2年(1161年)の社殿造営が確認されている。その後、現在の社殿が元禄12年(1699年)に造営された。
当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(5月5日-10月25日)のみ門が開く。7月31日-8月8日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される。
二荒山神社中宮祠の本殿・掖門・透塀 各重要文化財に指定。
本殿に隣接して設置されている案内板
中宮祠本殿
本殿は二荒山大神様の鎮座する建造物で、拝殿と同じく元禄十四(一七〇一)年に建てられ、御神体山である男体山の山岳信仰における中心的な役割を果たしている。
毎年七月三十一日から八月七日まで執行される男体山登拝大祭の期間中は、日本で唯一御神像を直接お参りできる御内陣入り特別祈祷祭が執り行われる。
建築様式は三間社流造で、屋根は総銅葺きになっていて、耐候性に優れた総弁柄塗りの重厚な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
中宮祠拝殿
拝殿は儀式や参拝など、拝礼するための建造物で、本殿よりも一回り大きな造りになっている。
江戸時代中期の元禄十四(一七〇一)年に建てられ、古くから御神体山である男体山の山岳信仰における様々な儀式が執り行われる。
建築様式は入り母屋、反り屋根造りで屋根は総銅葺きになっていて、耐候性に優れた総弁柄塗りの重厚な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
案内板より引用
登拝門
本殿のすぐ東側には男体山頂・奥宮への唯一の登拝口がある。
当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。
登拝口鳥居は国の重要文化財に指定されている。
男体山山頂への登山口である登拝門
登拝門の石段下にある鳥居の左側には、「霊峰二荒山 開山碑文の礎石」や「大国主命」の石像があり、右側には「男体山大蛇の御神像」「さざれ石」等が設置されていて、それぞれ説明版もある。
男体山の「大蛇」御神像 男体山の「大蛇」御神像に関しての説明文
男体山の「大蛇」御神像
日本昔話に「戦場ヶ原の伝説」があります。
むか〜し、むかし、男体山の神が大蛇に、赤城山の神がムカデに変じて領地争いを行ったといわれます。
赤城山のムカデに攻め寄られた時、弓の名手「猿丸」の加勢を受けて、男体山の黄金の大蛇は赤城山の大ムカデを撃退し、勝利した話。
戦いが行なわれた所を「戦場ヶ原」、血が流れた所を「赤沼」、勝負がついた所を「菖蒲ヶ浜」、勝利を祝い歌った所を「歌ヶ浜」、と言い奥日光の地名となっています。
負傷したムカデは退散して、弓矢を地面に刺したところ、湯が噴き出しその湯で傷を癒したので「老神温泉」と言われております。
大蛇を「オロチ」とも言いますが、「オ」は峰・「ロ」は助詞、「チ」は神霊を意味し、古代人は蛇のとぐろを巻いた姿が山に見えることから、オロチを山の神と称えたと言われます。
勝利した男体山の大蛇は「勝運」・「金運」の守護神とされます(中略)
説明文より引用
境内にある「さざれ石」
この「さざれ石」にも説明文が掲示されている。この石の正式名は「石灰岩磔岩」と言い、岐阜県境の伊吹山が主要産地であるという。
石灰岩が長い年月の間に雨水で溶解し、その際に生じた粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝固して段々巨石になったものである。
文献でも古くから記されており、8世紀に編纂された日本書紀には「以砂礫(サザレイシもしくはサザレシ)葺檜隈陵上」とあり、同じく8世紀に成立した万葉集でも「佐射礼伊思(サザレイシ)尓古馬乎波佐世弖己許呂伊多美安我毛布伊毛我」や「信濃奈流知具麻能河泊能左射礼思(サザレシ)母伎弥之布美氐婆多麻等比呂波牟」と詠われている。
「子持ち石」とも言われ、子孫繁栄の縁起の良い石と言われている。
拝殿拝殿手前、左手には境内社・稲荷神社が祀られている(写真左・右)
参拝終了後、東方向に伸びている参道を通り、東鳥居に至る。
正式ルートである中禅寺湖に面した青銅鳥居とは違って、明るい雰囲気のある場所に鳥居は立っている。
*追伸として
今回日光二荒山神社中宮祠に参拝したわけであるが、反省点が一つ。拝殿が改装中でテント等覆われていたとはいえ、事前のリサーチが十分とはいえず、また当日も案内板を見ていたにも関わらず、当日予定がかなり多くあった(基本家族旅行がメインの中での参拝)気持ちの余裕の無さからか、拝殿から左側方向に祀られている「神楽殿」「中宮祠のイチイ」「山霊宮」らの参拝ができなかったことが非常に残念。やはり予定は余裕のあるスケジュールにしなければいけなかったとつくづく痛感した。
中禅寺湖、及び男体山の風景。
「華厳滝」のすばらしい景観もしっかりと満喫した。
参考資料「日光二荒山神社HP」「Wikipedia」「境内案内板・説明板等」等