古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

五明白石神社・日影神社

五明白石神社】
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町五明332
            
・ご祭神 大己貴命 中筒男命 雷命 菅原道真公
            
・社 格 旧五明村鎮守・旧村社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0170766,139.2737335,18z?hl=ja&entry=ttu
 玉川春日神社から南下して、一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に戻り、そこの十字路を右折する。県道を2㎞程進んだ「五明」交差点の手前で進行方向右側に五明白石神社が見えてくる。
 本来の目的地は日影地域に鎮座している日影神社であったのだが、その進路途中にこのような社と巡り合うことも、また趣があり、これも当地の神様との出会いと感謝し、立ち寄らせて頂いた。
 駐車スペースは県道沿いに数台駐車可能な場所もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  五明白石神社正面
 ときがわ町・五明(ごみょう)地域は、埼玉県比企郡ときがわ町の大字で、旧比企郡五明村。ときがわ町北部、旧玉川村西部に位置する。北で小川町下里、北東で田黒、東で玉川、南で本郷、西で日影と隣接する。南部および北部は外秩父山地の尾根にあたり、中央部を東流する都幾川の支流雀川に沿って谷底平地が開け、人家が散在している。
 地内には縄文期の中野原遺跡・栗ヶ谷戸遺跡が見られ、縄文期より定住のあったことがわかる。室町期の創建とされる円通寺も見られる。
 江戸期初めには天領、慶安2年(1649年)に一部が円通寺領、明和元年(1764年)より天領分が三卿・清水家領となり、寛政7年(1796年)に天領に復した。文政8年(1825年)に再び清水家領になったが、安政2年(1855年)に天領に復している。村高は『武蔵田園簿』によれば246石余、他に紙舟役永750文、『元禄郷帳』では304石余、『天保郷帳』では301石余。文政10年(1827年)に指定された関東取締出役支配下の組合村においては近隣の村々とともに玉川寄場組合に属した。用水は天水を貯めて灌漑を行っていた。また、和紙・小川紙の産地としても知られた。
 1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・田黒村・日影村と合併し、五明村は玉川村の大字となった。さらに2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となり、現在に至っている。
        
                    境内の様子
「五明」の地形由来として、『新編武蔵風土記稿』によれば「村の形が扇に似ているのでかく呼べりと言えども、恐らく文字によって牽強せし説なるべし」とあり、三皇五帝のひとり舜が作ったとされる五明扇を源とする扇の異称からきたという説が唱えられているものの、風土記稿編者は、村名ができた後に由来を唱えたのではないかという強い疑いが抱かれている。
       
       参道左側に並んで立つ板碑で、緑泥石片岩(青石)と思われる色あい。
 小川町には、下里・青山板碑製作遺跡が存在しているが、この遺跡は13 世紀から 16 世紀にかけて武蔵国を中心に広く流通した武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩(青石)を採掘、加工した場であり、武蔵国における板碑生産の中心的な遺跡として、また、板碑に象徴される中世の信仰・精神文化の解明につながる遺跡として、学術的にも重要な遺跡という。
 小川町下里は、長瀞町野上下郷とともに武蔵型板碑の石材となる緑泥石片岩の産出地であり、その地はまさに五明地域の真北に接している。この板碑も下里地域から産出したものではなかろうか。
        
          参道右側に設置されている「白石神社御由緒」の石碑
 白石神社御由緒
 御祭神 大己貴命 中筒男命 雷命 菅原道真公
 当杜の創立は第百十四代中御門天皇宝の宝永七庚寅年(一七一〇)九月と伝え栃の宮と称えた 往古德川幕府の碩学の臣新井白石先生が宝永六年当地に近い越畑(今の嵐山町)奈良梨(今の小川町)篠津(今の白岡町)の三邑の五百石を賜りこの地に居住して江文化興隆に貢献したと伝えられ享保十年(一七二五)白石の沒後邑人白石を追慕敬仰して当社を白石大明神改称したといわれる。
 安永二癸巳年(一七七三)十一月本殿を再建する
 明治四年(一八七一)中村社に列格される
 明治五年一月二十一日社殿炎上し古記錄等焼失する 同六年本殿を再建して白石神社と改称する
 明治十五年(一八八三)三月十七日王川大火により杜殿焼失し翌十六年再建する
 明治四十一年(一九〇八)二月字小谷無格社中木神社字四郎台無格社雷電神社の二社を本社に合祀する
 昭和三十六年(一九六一)四月社殿の老朽化により改築落成し今の社殿となる
 時の流れるに従い当社の御由緒の薄れゆくのを恐れここに僅かの古記録と伝承により書き留め御神徳を敬仰するものである
 平成六年十月穀旦
        
                                       拝 殿
 
          本 殿             社殿手前右側に鎮座する境内社
                       薄くなり見ずらいが「八宮神社」とも読める。
 
      境内の隅に祀られている庚申塔等       鳥居の先にポツンとある龍不動〇
        
               駐車場から見た五明白石神社境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内御由緒碑文」等


【日影神社】
        
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字日影606
            ・ご祭神 不明
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0269133,139.2543844,15z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北西方向に進路をとり、900m程先の「雀川砂防ダム公園」の看板がある丁字路を左折する。そこから更に900m程進んだ先に日影神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
 鳥居周辺には駐車できる路肩があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                   日影神社正面
 
 ときがわ町・日影地域は、ときがわ町北部・旧玉川村西部・雀川最上流域の山間に位置し、北側で西から小川町上古寺・青山・下里、東で五明、南東で本郷、南で別所、西で雲河原と接する。南西境に雷電山が聳える雀川の源流地であり、流域に僅かな谷底平地を持つ。

 縄文時代前期の集落跡・高野遺跡があり、縄文期からヒトの定住があったことが確認されている。『和名類聚抄』においては比企郡都家郷に属したとされ、 古くは大河原郷、松山庄、玉川領に属していた。東光寺の開山である武州松山城主・上田能登守憲定が天正15年(1588年)1225日に出した法度書に「日影」の記述が見られ、慶長2年(1597年)及び慶長15年(1610年)821日の地詰帳には「武州松山之領日影」とあり、日影村が松山城の所領だった旨がわかる。
 1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・田黒村・五明村と合併し、日影村は玉川村の大字となり、2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となった。

 社の前面には、僅かな谷底平地が広がっているのだが、山々に囲まれた谷戸の地形ともいえ、長閑な里山風景の広がる地域である。
「日影」という地域名由来として、四方が山に囲まれており、その影になることにちなむという。
        
              参道の両側には幾つもの大樹が囲む。
 この大樹の在りようからも、かなりの由緒と歴史が想像できようが、この社には案内板もなく、ご祭神すらわからない。旧村社である社格であるので、「村持ち」か「村の鎮守」の記載がある社に相当するのであろうが、『新編武蔵風土記稿 日影村』には、一社しか存在しない。
御靈社 村の鎮守にて、本地佛地藏を安ず、長勝寺持、
 御霊神社という名前の神社は、日本各地に存在する。 その祭神・性格は様々で、御霊信仰に基づきある人物の御霊・怨霊を鎮めるために創建されたもの、五柱の神(五霊)を祀る(祀っていた)もの、祖神・先祖の霊を「御霊」として祀るものなどがあるので、現状ではこれ以上の考察は差し控えたい。
       
            石段途中に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
         ときがわ町で発行している「巨木の里マップ」を確認すると、
  「スギ科の常緑高木。日影神社の御神木として親しまれている木である。推定樹齢400年」
               「 幹周り:3.50m/樹高:15m」
       
                                        拝 殿
       
                     本 殿
       
                社殿左手に祀られている境内社。
           左より稲荷之大神、正遷宮。一番右側の社は不明。 
 
正遷宮の札の左隣にも木札があり、「〇大明神社」と書かれているが、それ以上は解読不明だ。
        
                   静かに佇む社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町 巨木の里マップ」
    「Wikipedia」等
 
 

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田黒日枝神社


 ときがわ町・田黒(たぐろ)地域は、埼玉県比企郡ときがわ町の大字で、旧比企郡田黒村。
 ときがわ町北東部、旧玉川村北東部に位置し、北東で嵐山町遠山、東で嵐山町鎌形、南で玉川、西で五明、北西で小川町下里と接する。都幾川左岸及び槻川右岸に位置し、外秩父山地の東縁からなる山間地にあたる。北東部には小田原北条氏の家臣遠山光景の居城と伝えられる小倉城址(国の史跡「比企城館跡群」のうち)があり、城の北面は槻川の浸食で天然の要害を成している。
 室町時代末期、小田原北条氏の家臣遠山直親によって小倉城(字小倉)に拠っており、永禄7年(1564年)、直親が江戸城に移って後はその子光景の居城となった。この小倉城は天正・元亀年間に遠山光景によって整備されたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐により松山城が落城した際にともに落城したと伝えられている。
 江戸期初めには天領、慶安2年(1649)に一部が熊野神社の別当として大福寺領、元禄9年(1696)より天領分が旗本金田氏の知行となった。村高は『武蔵田園簿』によれば101石余、『元禄郷帳』では165石余、『天保郷帳』でも165石余。文政10年(1827)に指定された関東取締出役支配下の組合村においては近隣の村々とともに玉川寄場組合に属し、用水は天水を貯めて灌漑を行っていた。また、和紙・小川紙の産地としても知られた。
 1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・五明村・日影村と合併し、田黒村は玉川村の大字となった。さらに2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となり、現在に至っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町田黒1199
             ・ご祭神 大山咋命
             ・社 格 旧田黒村鎮守
             ・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0334597,139.2978899,17z?hl=ja&entry=ttu
 田黒諏訪神社から一旦「ふれあいセンター田黒」付近の丁字路まで東行し、その路地を左折して、1.5㎞程道なりに北上すると、進行方向左手に田黒日枝神社の朱色の鳥居が見えてくる。
 鳥居前に車を数台留めるスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                                田黒日枝神社鳥居正面
        周囲一帯まるで絵画を思わせるような美しい風景が広がっている。
 田黒北部地域は、外秩父山地の東縁からなる山間丘陵地にあたり、南西から北東方向へと流れてきた槻川が、大平山(標高179m)の麓で流れを大きく南へ変え、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている、その間の南北にあるなだらかな段丘面に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが田黒諏訪神社である。
 考えてみるとこの地は行政区画上、ときがわ町の地域となっていて、この地のみが縦長い三角形状に張り出した突出部となっている。ただ地形上の観点から考えてみると、嵐山渓谷の一角といっても良い。
 鳥居周辺も綺麗に整備されていて、周囲一帯槻川が蛇行して形成された嵐山渓谷、及び外秩父山地の山々が創り出した見事な景観と豊かな自然とうまく調和されている。
       
         鳥居の右側傍に社号標柱と共に、猿田彦石碑・庚申塔が並んで立っている。
 鳥居の社号額には「山王宮」と記されており、ご祭神である大山咋神の別名「山王」から称したものと考える。この「山王」とは、中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったもので、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である日吉大社の通称「山王権現」に倣ったものであろう。
 なお、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山は「日枝(ひえ)の山」とも称していたが、この比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されているようだ。

『新編武蔵風土記稿 田黒村』には、田黒日枝神社を「山王社」として記載している。
 熊野社 慶安二年社領として 五石六斗の御朱印を附せらる、
 別當大福寺 天台宗 下青鳥村浄光寺の末 延命山地蔵院と號す 開山の僧を賢仙と云 示寂の年代を失ふ 本尊地蔵を安ず、
 地蔵堂、
 山王社 村の鎮守なり 大福寺持、

        
             鳥居を過ぎると見事な枝垂れ桜が聳え立つ。 
         まさに他の追随を許さない「孤高なる美」がここにある

         緩やかな登り斜面に沿って参道が通じている(写真左・右)。
        
                               拝殿手前の様子
     大橋黒石神社のように巨木に注連縄を張って鳥居の代わりにしているようだ。
        
                                         拝 殿
 日枝神社 玉川村田黒一一九九
 当地は槻川が大きく蛇行し、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている。
 東側の段丘に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが当社である。丘陵上の小倉城跡は、戦国期の山城で遠山右衛門太夫藤原光景の居城と伝える。遠山氏は、後北条氏に仕え小倉城の初代直親は兄の康景が永禄七年(一五六四)に討死したため跡を継いで江戸城主となり、小倉城は子の光景に譲った。しかし、豊臣秀吉の小田原城攻略の折、松山城と共に落城した。『風土記稿』田黒村の項に「光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年(一五八七)五月卒せし人なれば、爰に住せしも元亀・天正の頃なるベし」と記されている。
 社伝によれば、当社は光景の守護神として元亀元年(一五七〇)に近江国の日吉山王大権現の分霊を勧請したとされる。『風土記稿』「山王社村の鎮守なり、大福寺持」とあり、化政期(一八〇四-三〇)には村鎮守となっていた。別当の大福寺は城の南裾にある天台宗の寺院で、下青鳥村浄光寺の末寺であった。開山の賢仙は、示寂の年代を伝えておらず、草創年代は不明である。
 明治初年に現社号に改めた。大正三年四月に雷電神社を合祀、次いで翌四年一月には城跡に鎮座していた熊野神社を合祀した。その際、当社の本殿が老朽化していたので、熊野社の社殿を移築した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
        
                        拝殿から参道を撮影
       筆者個人として、拝殿から見るこの風景を神々しく感じてしまいます。
    加えて、参道から鳥居のライン延長上に聳え立つ小高い山がどうしても気になります。  

 
         参拝終了後、一旦進路を北上し、谷川橋下の槻川を撮影する(写真左・右)。
 槻川は清流で有名で、この中流域では、東秩父村から小川町にかけて手漉き和紙(細川紙)の生産が盛んであることにも納得できる。谷川橋上から見ても、透明度が高く、その水質の良さは分かる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等
  

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田黒諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町田黒718
             
・ご祭神 建御名方命 大山咋命
             
・社 格 旧田黒村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 410日 例大祭 109日 新嘗祭 1125
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0191288,139.2913478,16z?hl=ja&entry=ttu
 嵐山町・鎌形八幡神社から埼玉県道173号ときがわ熊谷線を南下し、450m程行った信号のある十字路を右折、その後「ふれあいセンター田黒」の建物が右手に見える先の十字路を左折する。500m程進むと「明王院」という看板が見える路地が見えるので、そこを左折し、小川を越えたすぐ右手奥に田黒諏訪神社の鳥居が見えてくる。
 実際は、玉川春日神社から県道を北上してから、上記十字路を左折して社に到着したわけであるが、説明する際には鎌形八幡神社からのルートのほうが近いので、そちらを採用した次第だ。
 鳥居前の石段のすぐ左手に境内に通じる道があり、そこの一角に車を停めたから参拝を開始する。
        
                               
田黒諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』による 「田黒村」の解説によれば、「玉川郷の北に位置し、西は五明村など、村の南東外れを都幾川が北流し、北は同川支流の槻川を挟み遠山村(現嵐山町)など。田園簿によれば田高三八石余・畑高六三石で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領、ほかに地内大福寺領があった。以後、同領のまま幕末に至ったものと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」など)。寛永十一年碑に武州「田畔村」と記載されている。
 検地は寛文八年(一六六八)に幕府代官堀次郎右衛門によって実施された。化政期の家数四五(風土記稿)。明治九年(一八七六)頃には戸数六〇・人数三一二、馬二六。男は農業・炭焼、女は耕・織・紙漉を主とし、おもな産物には繭五〇斤・生絹一三〇疋・塵紙三〇〆・鶏卵五〇〇個・薪一千五〇〇駄・炭一千五〇〇貫などがあった(郡村誌)」と記載されていて、ときがわ町においても最北端のつけ根部に位置し、地形的にも嵐山渓谷一帯に属する地域でもある。
 田黒諏訪神社が鎮座する地は、田黒地域内に在って「入田黒」という字にあり、細い谷の奥部であることから入田黒の地名が付されたという。嵐山渓谷からは南側にあり、若干離れているが、この地域も緑豊かな地域である。
 
    綺麗に整備された石段(写真左)と、その先に見える神明造りの鳥居(同右)。
        
          鳥居の先にはもう一段昔ながらの石段があり、その先に境内の空間が広がる。
           よく見ると、境内中央には「草相撲」の土俵がある。
       
                                      拝 殿
 諏訪神社 玉川村田黒七一八
 当地は玉川村北東部の大字田黒のうち入田黒と呼ばれる地区である。細い谷の奥部であることから入田黒の地名が付されたのであろう。
 当社は、谷の南側にある春日山の尾根上に祀られており、江戸中期に信濃国諏訪神社(現諏訪大社)から勧請されたと伝えられている。
 県内の諏訪神社は、ほぼ全県にわたりその分布が広がっているのが特徴である。勧請の始まりは鎌倉時代で、県内は鎌倉街道上道が通り武将の往来が多かったこと、武蔵武士団の発生地であることが広く勧請される要因となったと考えられる。
 また、その大半は天正年間(一五七三〜一五九二)を中心に前後二百年間に勧請され、新しいものでも江戸中期までである。これは、本社の大祝であった諏訪安芸守頼忠が天正十八年から二年間、奈良梨に移封されたこととかかわるのであろうか。
『風土記稿』には、「八幡社聖天諏訪を合祀す、明王院の持」とあり、当社は八幡社の合祀社の一つであった。また、安政三年(一八五六)に奉納された「諏訪大明神御祭礼」の幟が現存している。
 別当の明王院は、真言宗の寺院で入間郡今市村法恩寺の末寺、開山の栄専は寂年を伝えておらず草創年代は不明である。なお、八幡社と聖天は『郡村誌』に見えず、明治初年には既に祀られていなかった。
                                  「埼玉の神社」より引用

               
          拝殿上部には 「諏訪神社 由来」の案内板が飾っており、
     そこには例祭、本殿等の造り、由来の他に
「諏訪神社の草相撲」の記載がある。 
      但し、この案内板はガラス張りのため、光の反射による見えない箇所もあった。
諏訪神社由来
祭神  建御名方命 大山咋命
祭祀  元旦祭 一月一日
    祈年祭 日 
    例大祭 
十月九日 
    新嘗祭 
十一二十五
境内地 二三四坪四合八勺(七七四平方メートル)
    昭和二十四年四月三十年 無償譲与許可
本殿  木造瓦葺流れ造り
    間口、奥行各一間(一、八メートル)
拝殿  切妻造瓦葺間口二間(三、六メートル)
    奥行三間半(六、三メートル)
〇〇建築物 社務所 木造切妻瓦葺 

      鳥居 石造 神明造 一基
(中略)

 田黒の諏訪神社がこの地に分司されたのは江戸時代の中期で、今から凡そ二百年前と思われる。
明治四年(1871)に社格(村社)となり、明治四十五年(1912
)五月二十二日、字石場沢無格社山神社を合祀した。例大祭は、明治四十五年まで旧七月二十七日であったが、その後九月二十八日に改められ、昭和五十一年より十月九日に改訂された。
 大祭の神賑行事に、古くより相撲が行われた。昔、或る豪族に、子供が生まれたが病弱で育ちが悪かったので、その将来を憂えた当主が、当時有名な力士を神前に招へいし〇〇を抱いて四股を踏ませたところ、その翌(以下略)立派に成育した(以下略)
                                  「諏訪神社由来」より引用
         

             嘗て草相撲が盛んだった往時を偲ばせる佇まいを感じることができる。
       
                              境内にある「新築記念碑」
 新築記念碑
 田黒村鎮守氏神様として氏子崇敬者はもとより、近郊里人にまで信仰の厚い当諏訪神社は、天正年間、信濃国諏訪大社より勧請され、其の後八幡社、聖天社を合祀し、明王院持ちとして護持されてまいりました。
 戦後、社殿は老巧し境内は荒廃して、御神威をけがし畏縮して居りました。茲に氏子崇敬者相計り、御本殿の外霞殿及社務所の新築、境内地及参道の整備拡巾等を実施、平成六年、入田黒土地改良事業、ゴルフ場入口道路砂防事業に境内地一部を協力し、代替地として久保田三六七―七番地七五一平方米を境内地として取得した。
 御神徳の高揚と、地域住民の融和発展を念願して、事業完成を祝し、本碑建立する(以下略)。
                                     記念碑文より引用
 
    境内左手に祀られている境内社         社殿右側に鎮座する境内社
            稲荷社であろうか。               詳細不明
 
 ところで「埼玉の神社」に記載されている「諏訪安芸守頼忠」は、戦国時代から江戸時代初期の武将で、信濃諏訪藩の基礎を築いた。従兄弟に当たる諏訪総領家当主頼重が天文11(1542)武田信玄により自刃させられたため、流寓の身となる。
 諏訪郡は天正
10(1582)の武田氏滅亡後織田信長により河尻秀隆に与えられたが、6月に信長が死ぬと頼忠は諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて本領を回復した。一時北条氏直に属し徳川家康軍と戦うが、のち家康に従い同11年所領を安堵された。
 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い諏訪を離れ、武蔵国比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生に計12,000石の所領を与えられた。文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移された。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。
 慶長
5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、頼水が諏訪勢を率いて出陣し、頼忠は江戸城の留守居役を務め、この功により嫡子頼水と共に諏訪の旧領に復帰した。没年は慶長11年(1606)とされるが、慶長10年(1605)とする説がある。
        
                                    拝殿からの風景
 つまり、頼忠は、天正18年(1590)から2年間、武蔵国比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生に計12,000石の所領を徳川家康から与えられ、武蔵国に在住していたことがわかる。武蔵国内に諏訪神社が多く鎮座しているのも、この諏訪安芸守頼忠が一時的にも武蔵国に所領を持った事と関係しているとも考えられよう。
 なにしろ東国では絶対的に有名な諏訪神社の「総領家当主」という肩書を持つ人物に対して武蔵武士は煌びやかに映ったのではなかろうか。平安時代末期、伊豆国に流された源頼朝に対して憧れを抱いた素朴な思いと同じような感情が、そこにはあったのではと推測する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「朝日日本歴史人物事典」
    「Wikipedia」「境内記念碑・由来」等

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玉川今宮神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町玉川1107
             
・ご祭神 誉田別命 大雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 祇園祭 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0100204,139.3016171,17z?hl=ja&entry=ttu
 玉川春日神社から一旦雀川を渡り南下し、埼玉県道171ときがわ坂戸線との交点で左折し、1㎞程東行する。「玉川工業高校入口」交差点を直進すると、すぐ左手に玉川今宮神社の鳥居が見えてくる。残念ながら鳥居周辺には社務所や集会所もなく、県道に沿って社は鎮座しているのだが、車の往来も多い場所であるため、路駐も不可能。しかたなく、交差点を右折して右側にあるホームセンターで買い物を済ませた後に、徒歩にて参拝に向かう。
        
                                玉川今宮神社正面
 
         南西方向のやや長い参道の先に拝殿が見えてくる(写真左・右)。
『日本歴史地名大系 』「玉川郷」の解説
 現村域の南東端、外秩父山地の東縁に位置し、東部の一部は岩殿丘陵にかかる。地内には都幾川の河岸段丘が発達している。天正一八年(一五九〇)五月日に前田利家が地内光明寺に出した禁制(光明寺文書)には「妙覚郷光明寺」とあり、この頃当地は妙覚郷に属していたと推定される。徳川家康の関東入部後、当地には代官陣屋(玉川陣屋)が設けられた。慶長年中(一五九六―一六一五)には、陣屋の南、根際(ねぎわ)地区に町割がなされ、対岸の一ト市(ひといち)と合わせて三・九の日の六斎市が立ち、周辺一帯(玉川領とよぶ)の政治・経済の拠点となっていたが、天和―貞享期(一六八一―八八)頃から陣屋の機能は縮小、一八世紀の初めには廃止となり、市立ても行われなくなった。
 田園簿によれば田高一五三石余・畑高三六四石余、幕府領。紙舟役永五〇文が課せられていた。陣屋所在地であったためか、高室喜三郎・諸星庄兵衛の二人の支配代官が記される。元禄郷帳では高九一七石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領および地内春日社(現春日神社)領。「風土記稿」成立時には内藤・安藤の旗本二家と幕府領の相給。本検地は寛文八年(一六六八)に代官曾根五郎左衛門によって行われ、三ヵ所あった持添新田の検地は元文五年(一七四〇)に芝村藤右衛門、明和五年(一七六八)に宮村孫右衛門、文化六年(一八〇九)に浅岡彦四郎の各代官が実施。

『新編武蔵風土記稿 玉川郷』において、当地が「村」ではなく、「玉川郷」と称していることに対して「今此村のみを鄕の名に唱ふるはいぶかし、他になぞらふれば、玉川村と云べきをかくいへるは、たゞ古くより唱へ來りしまゝにて、別に故ありとは思はれず、」と解説している。また玉川郷という名称に対しても「村内光明寺に蔵する天正十八年、前田利家が出せし制札に、妙覺鄕光明寺と書したり、其頃は妙覺鄕に屬せしにや」と、天正年間は「妙覚郷」を称していたと記載している。
 
 参道左側の空間にある「猿田彦大神」の石碑   参道右側に手水舎・石祠・石灯篭あり。
    その先にある石祠の詳細は不明      石祠は「三峯神社・御眷属」のお神札あり。
        
                     拝 殿
 玉川郷 龍蔵寺 水月山と號す、前と同寺の末なり(入間郡龍ヶ谷村龍穏寺末)、本尊釋迦を安ず、外に正觀音の像一軀あり、安阿彌の作と云、開山本寺十六世の住僧鶴峯聚孫なり、寛永三年寂す、
 今宮權現社 神明社 雷電社
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

今宮神社 玉川村玉川一一〇七
玉川村の中心地である大字玉川は、近世には玉川郷と呼ばれ、天正十八年(一五九〇)から宝永七年(一七一〇)までは徳川家の直轄地であった。当社は、その一角である一ト市に鎮座し『風土記稿』の玉川郷の項にも「今宮権現社」としてその名が見える。
社伝によれば当社は、天文二年(一五三三)に松山城主上田又次郎が玉川領に陣屋を設けた際、当村において戦勝祈願をするため、郷内の川北(字宮谷戸)に雷電社、川南(字伊勢ノ台)に今宮権現社を勧請したことに始まるという。この両社は共に曹洞宗龍蔵寺の持ちで、松山城主の尊崇厚く、庶民の崇敬もまた厚かったと伝えられる(以下略)。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「
一ト市」は、「ヒトイチ」と読み、比企郡玉川郷字一市は古の村名である。徳川家康の関東入部後、当地には代官陣屋(玉川陣屋)が設けられた。慶長年中(1596〜1615)には、陣屋の南、根際(ねぎわ)地区に町割がなされ、対岸の一ト市と合わせて三・九の日の六斎市が立ち、周辺一帯(玉川領とよぶ)の政治・経済の拠点となっていたが、天和―貞享期(1681~88)頃から陣屋の機能は縮小、一八世紀の初めには廃止となり、市立ても行われなくなったという
 
       拝殿に掲げてある扁額              本 殿
 ところで、玉川今宮神社の末社に「八坂神社」が祀られており、町指定無形民俗文化財の『一ト市祭り囃子』が毎年7月中旬に奉納される。
一ト市祭り囃子』
 玉川今宮神社には末社八坂神社の祇園祭に(天王さま)奉納されるお囃子で、一ト市祭り囃子保存会が保持団体となっています。
 お囃子は、江戸時代の末から明治時代初めにかけて坂戸の赤尾より「神田はやし」を習ったもので「ニンバ」「カマクラ」「ショウデン」「シチョウ」など八曲があります。現在は、雌雄2頭の獅子頭が各戸を巡り疫病退散を祈願し、その後、屋台が出て囃子が奉納されます。一ト市は、江戸初期に宿の町割りが行われ市が立った町場でした。この祭りは、華やかな町場の夏祭りとしての性格を持っており昭和16年戦争により中止となっていたものを昭和50
年に保存会を結成し復活したものです。旧玉川地域を代表する夏祭りで、民俗行事として貴重なものとなります。
                                 「ときがわ町HP」より引用
        
                    境内の風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ときがわ町HP」等
 

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玉川春日神社

 玉川春日神社が鎮座する旧玉川村は、東松山市によって東西に分たれた比企郡のうち、西半の中央南部に位置し、西・北は小川町、南は都幾川村、東は嵐山町・鳩山町。外秩父山地の東縁を占め、東方の一部は岩殿丘陵にかかる。
 最高点は西方の雷電山(
418.2m)で、同山から北方および東方へ尾根が延び、その山間を都幾川・槻川・雀(すずめ)川が流れる。北西部の村境を流れる槻川が南へ大きく蛇行する田黒(たぐろ)には、戦国期に小田原北条氏の支城松山城(現吉見町)に属した遠山光景の居城であったと伝える小倉城がある。都幾川は村域の南方を流れ、支流雀川を南東部で合せる。
 村域の中心集落であった玉川郷は都幾川の谷口集落で、山地と平地を結ぶ交通の要地にある。
 明治22年の市町村制の施行により、玉川郷・田黒村・五明村・日影村が合併して玉川村が誕生し、その後平成18年(200621日、旧都幾川村・旧玉川村が合併して新しい「ときがわ町」が誕生した。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町玉川4015
            
・ご祭神 武甕槌命 天児屋根命 経津主命 迦具土命
                 
伊弉再尊 速玉男命 事解男命
            
・社 格 旧玉川村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春季例祭 2月中旬
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0129728,139.2928284,16z?hl=ja&entry=ttu
 嵐山町・鎌形八幡神社から埼玉県道173号ときがわ熊谷線を南下し、1.4㎞程進んだ三又路を右斜め方向に進む。進行方向右手には岩殿丘陵地面を見ながら道なりに進み、龍福寺の先に玉川春日神社が見えてくる。
       
                                  玉川春日神社正面
       
          鳥居手前で右側に聖徳太子石碑        社号標柱
 社は丘陵地斜面上に鎮座していて、社のすぐ傍には旧名玉壺川(現雀川)が流れ、この玉川春日神社の周辺の約300mの区間だけ渓谷となっているという。これが名勝玉壺であり、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の比企郡玉川郷(第6巻、201ページ)には、「名勝 玉壺とは、春日神社の前面にあり、この付近の地形の総称を玉壺という」と記載され、玉川の名前の由来ともなっている。
 
 一旦境内に入る前に、鳥居の左側に流れる雀川の渓谷を眺める(写真左・右)。社周辺の300mの区間にだけこの
渓谷があるという事だが、逆を解せば、先人は後世の我々にも分かるように、この区間内に社を鎮座させたとも解釈することができる。
『新編武蔵風土記稿 玉川郷』
 春日社
 村の鎮守とす、慶安二年社領五石一斗の御朱印を賜ふ、當社は貞和三年の勧請なりといへど、正き證はなし、社は山上にありて、社前に古松など繁茂せり、麓に少き並木あり、此邊に古木多し、傍を玉壺川流る、其兩岸岩石なるがうへ、川の中にもこゝかしこと、大石さし出たれば、流木これにせかれ、屈曲して流るゝさまなど、社前より望むに尤も勝景と云べし、
 名勝玉壺の巨岩が織り成す渓谷美と相まって、この境内全体には厳かな雰囲気が漂っている。まさに隠れたる名社と称しても過言ではあるまい。
        
                                玉川春日神社正面鳥居
        
                                      境内の様子 
 玉川郷の鎮守社であり、社一帯の森は、鎮守の杜として人々に親しまれてきた。冬でも豊かな緑の葉を具えたスダジイやアラカシ、タブノキ等の大木がこんもりと繁り、林内にはヤブツバキやサカキ等が多数育って風格のある照葉樹林となっている。この照葉樹林は、遠い昔の玉川地域の自然の姿を今に留めている、ふるさとを代表する自然の森であり、現在埼玉県の「ふるさとの森」に指定されていて、案内板も設置されている。
        
            境内右側に設置されている「春日神社御由緒」
『春日神社御由緒』
 当社の創立は、第九十七代後村上天皇の正平二年(北朝光明天皇の貞和三年(西暦一三七四))、字堀の内に館を構え、龍福寺を建立した藤原盛吉が、奈良の春日明神を勧請したと伝え、慈眼寺の開基玉川郷御陣屋の先祖寿昌院が社殿を建立し、江戸時代慶安二年(一六四九)徳川幕府より社領五石一斗の朱印を賜った。元禄五年(一六九三)、江戸神田明神式年遷宮の際、その旧本殿の用材を拝戴して社殿を修建し明治四十五年(一九一二)字細山の愛宕社、字地家の熊野社を合祀した。代々慈眼寺が別当として之を管掌したが明治初年の神佛分離の政令により今日に至り、また大正五年(一九一六)神饌幣帛指定村社に指定された。
 本殿は、間口奥行各一間(一・八メートル)流れ造り杮葺向拝付、拝殿は、間口三間(五・四メートル)奥行二間半(四・五メートル)切妻造り、これらの上覆は、間口三間半(四・五メートル)奥行六間(一〇・八メートル)切妻造り瓦葺向拝付である。
 当社は古来武神として武門の崇敬厚く、戦捷・出征将兵の祈願所として栄え尚武の神事として、毎年十月初九日古式流鏑馬の神賑行事を執行したが、日露戦争の頃馬不足のため休止し、その後これに替えて地方競馬を挙行したが、昭和十年以降休止した。
 第二次世界大戦後四十有余年を経て、近時漸く社殿の老朽神域の荒廃が目立つに至ったので、氏子相謀り、春日神社社殿等改修実施委員会を結成してその整備を計ることとし、村内外の有志に資金の寄進を呼びかけ、幸い全員の賛同を得てここにその目的を達成することが出来た。
 時あたかも平成元年、玉川村制施行百年に当り、この事業を記念して当社の御由緒を録し、併せて浄財を寄進された人々の氏名を刻して、いよいよ御神徳を敬仰するとともに、その芳志を後世に伝えるために、この碑を建立するものである。
                                      石碑文より引用

 現在この社は同町萩日吉神社が管理しているようだ。この萩日吉神社では3年に1回流鏑馬祭りが奉納されているが、この社も嘗て明治時代まで祭礼には古式流鏑馬の神賑行事があったが、日露戦争の頃馬不足のため休止し、その後これに替えて地方競馬が行われていたと伝えられ、未だにその馬場跡が残っているという
 また当社では、毎年211日に、「団子投げ」という神事がおこなれる。これは、集落ごとの氏子らによって、団子が供えられ、ご祈祷後に、太鼓を合図とともに、その団子を参拝者に向かって投げ与えるというもので、その拾った団子を、持ち帰り、食ことで、家内安全を祈念する独特の神事となる。
        
                     拝 殿
                この拝殿の奥には本殿はない。
                         拝殿と本殿が別になっている珍しい社。
       
 拝殿左側には雀川の渓谷で形成された岩石、巨石があり、その異様な光景は圧巻である(写真左)。本殿は拝殿左側の石段を登った上に鎮座している(同右)。
        
 磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののことをいう。
 日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代と共に、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 この玉川春日神社にしても、社としての創建は南北朝時代であったのであろうが、そのはるか以前より、この地域の守り神としての原始的な祭祀が執り行われていたのではなかろうか。
        
           石段を登り切るとやや広い空間があり、そこに本殿が鎮座している。

「埼玉の神社」によると、『明細帳』には「貞和丁亥年当郷古陣屋祖壽昌公之建立」と記されている。古陣屋とは、当社の東方三〇〇Mほどの地にあった館を指すものと思われ、『風土記稿』には「塁跡小名堀ノ内にあり(中略)爰は竜福寺を開基せし藤原盛吉の居蹟なりと云」とある。しかし、「壽昌公」と「藤原盛吉」の来歴については確かな史料が存しないので、明らかではない”と記している。
 ここに記されている、龍福寺を建立した「藤原盛吉」、慈眼寺の開基玉川郷御陣屋の先祖「寿昌院」という人物に関して、筆者も資料等で調べたが、素性等全く不明な人物である。推測の域は出ないが、「藤原」姓故に奈良の春日明神を勧請し、社名を「春日神社」としたのであろう。

 ときがわ町内で「藤原氏」に関連する名所・旧跡は幾つか存在する。
①多武峰(とうのみね)神社…社を管理する武藤家は「元藤原姓」。706年この地を管理する武蔵国の藤原氏が大和国桜井の多武峯(現談山神社)より藤原鎌足の遺髪をいただき多武峯大権現を建立し守護神としたという。
②小倉城城主遠山氏…戦国時代の山城で、居城主は小田原北条氏の重臣遠山氏(或いは松山城主上田氏)とされる。この城主遠山衛門大夫は藤原光景といい、遠山氏の遠い祖先は美濃国遠山荘(現在の岐阜県恵那郡の南部)の出身で、大永年間(1521年~1528年)美濃国恵那郡遠山荘の明知城主の遠山景保の子の遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされる。藤原利仁を祖とする加藤氏一門の美濃遠山氏の分家である「明知遠山氏」の支流家。
③別所八剣神社再建した加藤隼人宗正…『新編武蔵風土記稿 別所村』において、「此に記せし加藤隼人宗正も、いかなる人なりしにや、其傳を失へり、按に田中村の舊家東吉が家系に帶刀先生義賢討れし後、其家名の此邊に落来りて、住するもの八人あり、其内に加藤内蔵助貞明と云もの見えたり、宗正は此人の子孫なるにや、今腰越村に加藤氏の土民あれど、是も先祖のこと詳ならず」とある。また小川町・腰越地域の旧田中村市川氏系図に「源義賢家臣、大職冠鎌足公孫田原秀郷八代後胤東国安房之住人加藤内蔵助藤原貞明あり、腰越郷に居住す」と記され、加藤氏も藤原氏である。

 ときがわ町周辺でも、毛呂山町の在地豪族である「毛呂氏」は、藤原北家小野宮流でもあり、筆者が調べた以上に藤原氏の残した痕跡はもっとあるはずである。その中に「藤原盛吉」や「寿昌院」に該当する人物はいるのであろうか。
        
                    本殿右側奥にこれもまた静かに祀られている境内社
                                詳細不明
 
 本殿の敷地には、拝殿に通じる南北の石段の他に、東側にも石段があり(写真左)、その先には古く、今にも崩壊しそうな両部鳥居が立っている(同右)。因みにこの鳥居の右手奥に境内社が鎮座している。
        
 写真の順番が前後してしまうが、本殿から東側にある石段を下る際に、振り返り撮った一枚である。正面の巨石はかなりの崩壊が進んでいるが、一枚岩のようでもある。この巨石の左側に拝殿があるわけであるが、拝殿と本殿を分断するかのようにどっしりとした重厚な存在感は、写真以上にかなりのインパクトがある。
 
 境内東側隅に設置されている「玉川村里山文化圏」と「玉川村春日神社ふるさとの森」の案内板

 玉川村春日神社ふるさとの森
 平成三年三月二十九日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
 この森は、玉川村の中心地域にある春日山の南麓斜面上に広がり、鎮守の森として永く人々に親しまれてきました。多くの樹木が冬でも緑の葉をつける照葉樹林で、高くそびえるモミの木と、豊かな枝葉を具えたスダジイアラカシ、タブノキの大樹が風格のある森を形作り、その中にヤブツバキ、サカキ、モチノキ等が多数生育しています。私たちの先祖が遠い昔からあがめ、大切に守ってきた自然の森、ふるさと玉川を代表する森です。
 平成四年三月 埼玉県・玉川村

平成18年(200621日、旧都幾川村・旧玉川村が合併して新しい「ときがわ町」が誕生しているが、ここでは案内板通りの表記をしている。


参考ぢ領「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ときがわ町HP」
    「Wikipedia」「境内記念碑文」等


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