渡柳常世岐姫神社
7月5日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされながらも、忍城のみは頑強に抵抗し、後北条方で唯一落とせなかった城であった。結局忍城当主である成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧めたので、遂に7月16日、忍城は開城したという。
ところで、行田市渡柳地域には「石田陣屋」と称する陣屋跡がある。石田三成が布陣し、指揮をとった場所は丸墓山古墳といわれている。実際丸墓山古墳上からの見晴らしは良く、作戦を練るには古墳に登上して周囲を見渡す必要があったであろうが、実際の起居や会議等は谷戸に面した僅かな比高差の段丘面であるこちらの陣屋で行われていたのであろう。残念ながら現在遺構らしきものはなく、墓地となっている。
この大規模な合戦の指揮を執ったであろう「石田陣屋」南方近郊に、渡柳常世岐姫神社は厳かに、そしてひっそりと鎮座している。
・所在地 埼玉県行田市渡柳1479
・ご祭神 常世岐姫命
・社 格 旧渡柳村鎮守・旧村社
・例祭等
地図 https://www.google.com/maps/@36.120235,139.4786955,16.75z?hl=ja&entry=ttu
前玉神社から400m程南方の洪積層微高地上に鎮座している渡柳常世岐姫神社。この地域は、北側から東側にかけては埼玉(さきたま)地域に接し、埼玉古墳群地帯にかかっていて、前方後円墳三、奈良・平安期集落三群の遺跡がある歴史的にも早くから開発がされていた地である。
常世岐姫神社は、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族赤染氏の一族が大阪の八尾市に祀った社が本宮とされ、渡柳地域のこの社は、行田市荒木地域に鎮座する荒木常世岐姫神社を勧請したものとされている。
渡柳常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』
渡柳村は江戸より十五里、民戸六十餘、四境東は和田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村なり、東西廿五町、南北廿町、成田用水を引用ゆ、寛永正保の頃御料所の外阿部豊後守・芝山權左衛門・佐久間久七郎等の采邑なりしに、元禄十一年村内一圓阿部豊後守に賜はり、今子孫鐵丸に至れり、檢地は元禄十二年時の領主阿部氏にて糺せり、
参道右側には塞神二基祀られている。 一直線に進む参道。社叢林の先に社殿は建つ。
嘗てこの地域には、地域名を冠した「渡柳氏」がさりげなく歴史の舞台に登場している。
・『平家物語巻第九、三草勢揃(みくさせいぞろへ)』
「搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経、相伴(あひともな)ふ人々、渡柳弥五郎清忠」
・『源平盛衰記 寿永2(1183)年11月1日 木曾左馬頭義仲の追討軍』
「大手大将軍 蒲冠者範頼 相従輩・武田太郎信義等 大手侍 渡柳弥五郎清忠等」
この渡柳弥五郎清忠という人物は、平家物語において畠山重忠等同様に、出兵した武士の一員として記載されていることから、当時渡柳地域のみならず、多くの狩猟を持つ武将であったと考えられる。
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』には、この人物に関して以下の記載がある。
小名 陣場
村の西を云、天正十八年石田治部少輔三成、忍城を責し時、本陣とせし所なり、こヽに陳場の松とて大木ありしが、天明年中枯たりと云、又此邊に塚九つあり、是は石田三成忍城責の時、渡柳の地へ本陣をすゑ、城に向て伏椀の如くなる塚歎多築き仕寄となすと傳るは、此塚のことなり、其内戸場口山と呼塚あり、此塚の中より近き頃石棺を掘出せり、其中に九尺程の野太刀あり、今村内本性寺に納め置り、土人の話にこは當所に住せし渡柳彌五郎といへる人を、葬たる塚ならんといへり、成田分限帳に十八貫文渡柳將監と見えしは、在名をもて名とせしものにて、彼彌五郎の子孫ならんか、さあらば三成が築きし以前よりありし古塚なることしらる、
八王子社 村の鎭守なり
末社 八幡、渡柳彌五郎が靈を祀れる由、彌五郎八幡と稱す
〇八幡社 〇諏訪社 〇稻荷社 〇二ツ宮 以上萬法院持
〇神明社 〇天神社 以上長福寺持
参道の先には高台があり、その高台上に社殿は鎮座している。
拝 殿
境内に設置されている「御由緒」の碑
村社 常世岐姫神社 御由緒
由緒
創立ノ年度詳ナラズ往古ヨリ村鎭守八王子大權現ト唱フ其他口
碑ニダモ傳ハラズ現在ノ社殿ハ文政九年四月村内有志ノ醵金ヲ
以テ再建ス其ノ後明治二年五月村社常世岐姫神社ト改称ス同六
年中村社二申立濟 明治四十二年十二月十八日字久保無各社諏
訪神社字内郷無各社天神社同字無各社伊奈利社字舟原無各社洗
磯前神社字久保無各社八幡社字神明前無各社神明社同境内塞神
社合併許可 境内六百九十二坪
拝殿に通じる石段上で、左側に鎮座する境内社 拝殿左側に祀られている石祠二基
詳細不明 ことらも詳しいことは不明
社殿手前の石段周辺から一の鳥居を望む
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内記念碑文」等