古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境平塚赤城神社

 境平塚地域に鎮座する赤城神社の本殿は、嘉永6(1853)に再建されたものであり、彫物化した部材を用い、部材間の羽目板に彫物を飾り、軸部に地紋彫を施すなど、彫物装飾を多用しており、関東地域の近世神社建築にみられる特色を示している。
 しかし、これほど精巧で緻密に彫物装飾を多用しているにも関わらず、赤城神社本殿に関する詳細な報告は存在していなかった。一方、武蔵国羽生領本川俣村(埼玉県羽生市)に居住する大工三村家には三村家が関わった社寺建築に関する造営関係文書が残り、その中に赤城神社本殿に関係するものがある。
「三村家文書」による赤城神社本殿に関する造営関係文書によると、武蔵国羽生領本川俣村の大工三村正利が赤城神社本殿の再建に関わったことは明らかであり、工事における中心的存在であったことが伺える。 三村正利は、嘉永48月に赤城神社本殿の規模や形式、仕様を定めていた。そして、設計、計画を行い、工事に用いる材木の木品、寸法、員数を定め、屋根下地までの建築工事を担っていた。さらに、彫物の仕様を考慮した上で、主導的に設計、計画、工事を進めていた。
 関東地域の近世神社建築は、彫物装飾を多用する特色がある。赤城神社本殿においては、部材自体を彫物にする、羽目板に彫物を飾る、という表現手法を用いており、中には、それらを一体化した表現手法もみられる。そして、それら彫物装飾は大工三村正利の裁量によって規画化されていた。彫物装飾を多用する建築を実現する背景には、彫物師弥勒寺音次郎・音八父子の高度な技術力があったことが挙げられる。但し、彫物を製作するのは彫物師であるが、その前提には大工の卓越した技能があったといえる。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境平塚1206-1
             
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 春祭 47日 大祓 630日 夏祭 77(お川入)
                  
秋祭 113日 大祓 1231
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2576734,139.2675199,16z?hl=ja&entry=ttu

 群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、利根川を越えて群馬県道298号平塚亀岡線の合流する「境平塚交差点」手前の十字路を左折する。600m程進んだ先、正面に境平塚赤城神社の社叢が見えてくる。駐車スペースは社の南側の正面鳥居傍に設置されている。または隣接して「平塚会館」があり、そこの駐車場もお借りできそうである。
        
                             境平塚赤城神社正面
                開放的な社の空間が広がる。
 伊勢崎市平塚地域は利根川左岸で河成低地、又は沖積平野に属する地域であり、地図を確認すると境米岡神社の真南にあり、直線距離にして1㎞にも満たない場所に境平塚赤城神社は鎮座している。
 赤城神社が鎮座する境平塚地域を含めた旧境町東地域(米岡・栄・女塚・三ツ木・西今井・上矢島)の歴史は古く、鎌倉時代に広瀬川の舟運交通が始まる時期から渡船場付近に発達した集落で、江戸時代になると日光例幣使街道柴宿と木崎宿の間の宿として問屋場が置かれた。経済交流の場として六斎市が開かれ、街道沿いに町並みが形成された。
 江戸中期からは元船の上流までの遡航が困難となり、小舟による中継河岸として年貢米や荷物の輸送を行い、最盛期には河岸問屋が11軒にも及び、現在も北清・京屋などの当時の屋号が残されている。
 境町は江戸末期から明治にかけて糸の集散で栄え、取扱は上州一と称された。明治以降は、商人や職人が定住して商業が活況を呈して伊勢崎銘仙の生産地となったという。
        
              入り口付近に設置されている案内板

 伊勢崎市指定重要文化財 平塚赤城神社本殿 昭和42210日指定
 平塚赤城神社は拝殿及び本殿からなり、本殿は拝殿から離れて、その後ろに少し高い石壇を築き、大谷石の玉垣をめぐらした中に鎮まる。玉垣の中に切石の段を設けて、そこに高く浜床を置いて建てられている。造りは一間社流造銅板葺(いっけんしゃながれづくりどうばんぶき)で玉垣の頭と浜床が同じくらいの高さなので、社殿が周囲からよく見えて、大変見栄えのよい立派なものである。
 正面向拝右側勾欄親柱の擬宝珠に
 永禄十二巳年再建寛文四辰年中興
 再建立嘉永六丑年九月吉日

 と、本殿唯一の銘文があるところから、嘉永六年(1853)に本殿が造営されたと考えられる。造営は専門学者によれば、笠間稲荷本殿等の造営で知られる名工弥勒寺音次郎・音八父子の手になるものと考えられている。
 特に赤城神社のすばらしさは彫刻技術の見事さであり、向拝の八方にらみの龍や脇障子西側の羽目板に見られる赤壁高士舟遊・腰組の唐児彫り等、名工の名に恥じない見事な彫刻が随所に見受けられる。
 また、赤城神社は県内でも例の無い「お川入れ行事」という、御神体を利根の流れで洗い浄める行事が伝わっていることでも有名である。例祭は毎年七月七日である。
 昭和五十八年三月三十一日 伊勢崎市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                 平塚赤城神社正面鳥居
 案内板に記載されている弥勒寺音次郎[寛政9(1797)-明治2(1869)]は、長沼村(群馬県伊勢崎市)の渡辺源蔵(生没年不詳)17)の子に生まれ、大工業を営む小林新七 [天保9(1838)没、享年54の弟子であったとされ、文政年間に小林家に婿入りし、小林新七の没後に弥勒寺姓に改めたとされる。彫物の技量を備え、多くの弟子がいたようである。弥勒寺音八[文政4(1821)-明治20]は、弥勒寺音次郎の長男に生まれ、大工を継いだが、彫物に専念したという。
        
                                      拝 殿
 境平塚赤城神社のご神体は、平塚渋沢氏の祖である渋沢隼人が旧宮城村三夜沢(現前橋市)の赤城神社から分祀し寄進したと伝えられているが詳細は不明である。現在伝えられるご神体は、本地仏(ほんじぶつ)虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)の懸仏で、戦国時代の「永禄十三年(1570年)八月十五日」(注:この年423日に元亀元年と改元)と銘がある。他に磐筒之男(いわつつのおの)(みこと)、経津(ふつぬし)主命(のみこと)、大己(おおあな)(むちの)(みこと)、菅原道真(すがわらみちざね)(こう)など七神が祀られている。
 *お川入り神事
 城神社の夏例祭と一緒に毎年77日に「お川入れの神事」が執り行われている。昔は真夜中に行われていたが、今は夕方に行われている。ご神体の懸仏を頭上に戴いた惣代長を先頭に、白装束の惣代達と世話人の代表の行列が利根川へと向かい、川瀬に設けられたしめ縄を張った4本の竹の祭壇中でご神体が素早く洗い浄められる。江戸時代から続くこの神事は、通船業が盛んだった平塚河岸の人達の安全と息災を祈願する伝統行事として連綿として受け継がれている。
            
            境内には「赤城神社由緒記」の石碑がある。
 赤城神社由緒記
 一 鎌倉時代(11901332)末新田氏家臣渋沢氏は氏神に赤城大明神を奉祀
 一 南北朝時代(13391392)渋沢氏は南朝を奉じて破れ新田一族と共に利根郡老神に隠逸
 一 南北朝合一(1392)後渋沢氏は帰郷の途次大洞の赤城神社に祈念平塚に勧請
 一 応永八年(1408)正月七日関東管領足利満兼畑一町歩寄進
 一 赤城神社と尊崇した新田岩松氏の中黒紋を赤城神社紋とす
 一 永禄十二年(1569)渋沢氏社殿を造営翌十三年(1570)八月十五日御神体本地虚空蔵菩薩を安置
 一 寛文四年(1664)社殿を改築
 一 嘉永六年(1852)下淵名弥勒寺音次郎音八父子現在の本殿を造営
 一 明治十四年(1881)浅草水倉清右衛門拝殿を造営
 一 大正元年(1912)利根川大改修明神より現在地社宮司稲荷へ遷座
 一 昭和四十三年(1967)二月十日本殿を境町重要文化財に指定

 一 祭神は大己貴命・豊城入彦命(以下略)
                                      石碑碑文より引用

        
        
           下淵名の名工 弥勒寺音次郎・音八親子による嘉永六年(1853)改築の本殿
 
   拝殿の左側に鎮座する境内社、詳細不明     拝殿裏手に祀られている幾多の石祠等
       
                           社殿右側に鎮座する社宮司稲荷社
 御札が貼ってあり、よく見ると「養蚕安全」のお札があった。稲荷が養蚕守護として祈願を集めていた地域なので、ここも養蚕地帯だったのだろうか。
 利根川右岸には深谷市町田八幡神社境内にも社宮司稲荷神社が祀られ、上手計地域にも同名の社が鎮座していて、関連性が伺われる。
 但し「社宮司」は「シャグジ」とも読める為、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰である「ミシャグジ信仰」の別名とも考えられる。その信仰の実態はまだ解釈が様々で「石神・石棒信仰」とも「塞の神=境の神」「鹿の胎児・酒の神」、また「ミシャグジ」自体「神」として見るのではなく、「生命力を励起するパワーのようなもの」、「空からやってくる(…)大気(空気・空)に充満するエネルギー」として解釈する説もあるようで、正体不明な信仰形態でもある。
       
       社殿裏手にも参道と鳥居があり、鳥居の先はおそらく赤城山だろう。 


参考資料「伊勢崎市HP」「日本建築学会技術報告集 第26巻 第63号」「Wikipedia」
    「境内案内板・石碑文」等       


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境米岡神社

 群馬県旧境町は文字通り「境」の町、上州群馬県と武州埼玉県との県境を、坂東太郎の異名をもつ大河『利根川』で接し、その利根川を跨いで、境町の南端・島村地区が埼玉県深谷・本庄市と隣接していた
 中でも境米岡地域周辺の歴史は古く、発祥は出土した土器等から縄文・弥生時代といわれている。市指定史跡である「北米岡縄文文化遺跡」は,境東小学校の南側一帯、利根川の自然堤防上の低い台地に広がる縄文後期から晩期の遺跡であり、日本最大の岩版(国指定重要文化財)が発見されたことで知られ、昭和16(1941)から発掘調査が行われてきた。岩版の発見や土偶などの出土により、祭祀的性格の濃い遺跡と考えられる。また土器に関して南関東地方と同様な型式に混在しながら後期中葉以降、東北地方の土器が見られることから、利根川沿岸で活発な交流があったことが伺えるという
 時代は下り、室町から戦国時代頃には、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったと思われる。 慶安4(1651)には、佐位郡境村を境町と改名し、日光例幣使街道の宿場町として栄えたという。200511日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、東村とともに新設合併し、伊勢崎市となったため消滅した。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境米岡149
             
・主祭神 櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)
                  
合祀 譽田別命、豐城入彦命、大日命、五十猛神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭 43日 秋祭 113
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2658726,139.2642971,16z?hl=ja&entry=ttu

 境米岡地域は伊勢崎市東南端部に位置する。途中までの経路は世良田東照宮を参照。群馬県道・埼玉県道14号線を北上し、「世良田」交差点を左折する。群馬県道142号綿貫篠塚線に合流後850m程直進し「境女塚」交差点を左折。その後350m進むと道路は突当たりとなるので、そこのT字路を右折し、暫く進むと進行方向右手に境米岡神社の裏手に到着する。ありがたいことに駐車スペースもその付近に設置されている。その後鳥居のある南側正面に徒歩で回り込んでから参拝を開始した。
        
             社叢林に囲まれた中に鎮座する境米岡神社
 太田市との東側境界には北西方向から南東方向に流れる利根川支流の早川があり、社の正面鳥居がある南側から東方向に進むと早川に架かる橋があり、その橋の名前は「熊野橋」といい、文字通り嘗て境米岡神社が呼称していた社名がその由来となっているのだろう。林の中に神社は鎮座していて、ゆったりとした気持ちで参拝を行うことができた。
        
                   朱が基調の鳥居
 創建年代は不詳ながら、元は熊野神社で地元の方々からは「おくまんさま」と言われ親しまれているようだ。由来等案内板もないので推測しかないが、前橋市千代田地域に鎮座する熊野神社の案内板には「出雲国八束熊野より分社されたと伝えられていますが、その歴史は定かでありません。この地域一帯は「熊野の杜」と云われ、うっそうとした木立ちにつつまれた神域でありました。江戸時代以降は町の発展と共に現在のような鎮守としての神社になったと考えられます。熊野神社に願をかけると必ず成就すると、厚い信仰を集め「恩熊野様」と唱えて崇拝しました。これが子供たちには「おくまんさま」と聞こえたのでしょう、以後、当熊野神社は「おくまんさま」と称せられ親しみ愛されています」と記載されているが、この境米岡神社も同様な経緯で「おくまんさま」と呼ばれているのだろう。
        
            手入れを綺麗にされている参道の先に拝殿がある。
 南側に広がる農地より一段高い位置に鎮座しているようで、米岡地域附近の地形は標高42m程で、近くを流れる利根川や支流である広瀬川の度重なる氾濫により、岸を洗われ、東西約1㎞の自然にできた堤防のような低い台地上で形成されている。
        
                                 拝 殿
 明治40(1907)、神明宮及び末社三社、字新屋の赤城神社及び末社三社、字庚塚の八幡宮及び末社二社、熊野神社の末社四社を合祀して米岡神社と改称した。「島村の伊三郎」がこの社の近くで国定忠次らに殺された、という歴史の痕跡もある場所だそうである。現在は世良田八坂神社の兼務社となっている。
 
      拝殿に掲げている扁額               本 殿

 境米岡神社の朱祭神は「櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)」という。この神は島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社の御祭神である「素戔嗚尊」の別名であると云い、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」という長たらしい名称を頂いた神様でもある。
「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」とのことだ。
 尚、紀伊国の熊野三山(熊野国造奉斎社)も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。
        
        拝殿・幣殿・本殿の造りが一目瞭然と分かる権現造りの形式。
    拝殿、本殿が若干規模は小さいが、それ以上に幣殿がしっかりと造られている。
        
                  本殿の後ろ側には幾多の石祠等が整然と祀られている。

 境米岡神社から西へ、徒歩数分の場所には「米岡の姥石」と云われる新田義貞に纏わる伝説の石がある。後で調べてみると、どうやらこの石の起源はかなり古く、「北米岡縄文文化遺跡」と同時代辺りの祭祀的性格の濃い縄文時代から崇拝されてきたご神体とも云われている。
*残念ながらこの石を知ったのは参拝後、編集中でもあり、実物は実見していない。

 米岡の姥石 市指定重要文化財 平成161126日指定
「甘酒婆さん」と通称される約1メートルの輝石安山岩の自然石で、新田義貞挙兵の際、小休止の軍勢に甘酒をふるまっていた老婆が武将の馬に蹴られ、死んで石になったという。百日咳を癒すご利益があるとされ、治るとお礼に甘酒を供えた。この姥石周辺から石製模造品が出土していることから、古代の磐座(いわくら)
と考えられている。
        
                                本殿の奥にある「神興舎」


参考資料「財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団」「伊勢崎市HP」「世良田八坂神社HP
    「前橋市千代田 熊野神社案内板」「Wikipedia」等


 

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美茂呂町飯福神社

 伊勢崎市美茂呂町地域に鎮座する飯福神社の主祭神は保食神(うけもちのかみ)という。この保食神は不思議な神で、日本全国の神社に祀られている神では、おそらく断トツの一位ではないかとも言われ、嘗ては民衆の中でも第一に崇められ、今でも社の末社や石祠の中に必ず祀れている神でもありながら、その割には正体が不明な神でもある。
 筆者も漠然と保食神=稲荷神と認識していたのであるが、実際に調べてみると中々興味深い神である。
 この神は、日本神話に登場する神であり、『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容から、穀物・農業を司る女神と考えられる。
『日本書紀』では、天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったという。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。
この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られる「ハイヌウェレ神話」型の説話である。この「ハイヌウェレ神話」とは世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものであるという。
『古事記』では同様の説話がスサノオとオオゲツヒメの話となっている。よって、保食神はオオゲツヒメと同一神とされることもある。また、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市美茂呂町3412
              
・ご祭神 保食神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春季例祭 223日 例大祭 1017
                   
秋季例祭・新嘗祭 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3049217,139.2043629,18z?hl=ja&entry=ttu

 
美茂呂町飯福神社は伊勢崎市美茂呂町地域の北東端部に位置し、茂呂郵便局の南、茂呂小学校の西側に鎮座している。途中までの経路は、下渕名大国神社を参照。国道17号上武バイパス、大国神社東交差点を西方向、つまり左折して群馬県道292号伊勢崎新田上江田線に入りそのまままっすぐ4㎞程進む。群馬県道293号香林羽黒線との交点である十字路を左折し300m程北上、その後十字路を左折する。「茂呂町二丁目」交差点を過ぎた先にT字路があり、そこには「飯福神社」の看板が見えるので、そこを左折するとすぐ右手に参拝者専用駐車場があり、その先に社の鳥居が見えてくる。
        
                 美茂呂町飯福神社正面
 美茂呂町区は伊勢崎市茂呂地区のほぼ中心に位置し、古く(江戸時代以前)から住居が点在していた記録がある。退魔寺は応安4年(1371)に当時の茂呂城主によって建立された寺が始まりである。美茂呂町区は茂呂地区でも唯一区内に、神社(飯福神社)と寺(退魔寺・茂呂城址跡)があることから、古くより地区の中心であったものと思われる。また、行政の中心である伊勢崎市役所から1.2Km圏内にあり、区内に国道354号線、国道462号線が通り、近隣都市とのアクセスも良く、住民にとっては住みやすい地区となっているという
        
                 二の鳥居から拝殿を望む。
        一の鳥居を過ぎて、進んでいくと真っ赤な二の鳥居が右側に見える。
 標高54m程の住宅街が社の周囲を囲む中で、社周辺は平均標高が58m60m程の一段高い場所にあり、周囲を社叢林に囲まれている中、地味で華やかさはないが、地域の方々を見守るように穏やかに鎮座しているといった第一印象を受けた。
 規模は決して大きくはない社だが、境内は綺麗に清掃されている。宮司のみならず氏子の皆さんの努力の賜物なのだろう。嘗て古き良き時代には、村の鎮守様として多くの人々より、崇め祭られたことだろうと、筆者の勝手な妄想を抱く程気持ち良さを感じる神社。

        
                                  拝 殿
 拝殿手前右側にはこの神社のマスコットキャラクターである「めしふくろう像」が設置されている。「飯福」が「めしふく」とも読めることから、このキャラクターが生まれたようだ。目の前で見ると不思議と気持ちがほっこりとする。
 
           扁 額                 拝殿内部
        
                                 美茂呂町飯福神社案内板
 飯福神社
 鎮座地 伊勢崎市大字茂呂三、四一二番地
 祭神  主祭神 保食命
         配祀神 大物主命 誉田別命 火産霊命 倉稲魂命 菅原道真命  菊理姫命 最上命
 由緒
 当社の創建年代は明らかでないが、伝承によれば、建武年間(一三三四~三六)に宗良(むねなが)親王が父君後醍醐天皇の命を受け征東将軍となって東国に赴いたが、御子の尹良(ただなが)親王薨去(こうきょ)後は新田一族を率いて王事を尽くしていた。
 その宗良・尹良両親王の御息所にちなんで、ここに「位々登美(いいとみ)」の御神霊を奉祀した事が始まりとされている。その後は那波氏によって再建されたが、正親町(おおぎまち)天皇の御代の永禄五年(一五六二)、北条氏の兵乱に遭って社殿は悉く破損した。しかし、由良氏によって修理がなされ、天正年間(一五七三~九二)には、竹姫公の采邑(さいゆう)となった。
江戸時代に至ると、伊勢崎城主酒井日向守忠能によって修理が加えられ、明治維新以来は氏子の経営するところとなった。
 明治七年、村社に列せられ、同四十年九月十七日、境内末社の愛宕神社・秋葉神社・菅原神社、字堤の飯福神社・同境内末社の琴平神社・八幡神社、及び字宮上の秋葉神社、字白山の白山神社・同境内末社の菅原神社・疱瘡(ほうそう)社を合祀して今に至る。
 境内には、大正十四年建立の「古銭発見碑」があり、以前は桜の名所でもあった境内地を氏子たちは「カミノヤマ」(上之山)と称している。
境内末社 榛名神社 埴安姫命
     赤城神社 大己貴命
     加茂神社 別雷命
                                      案内板より引用
        
            本殿。周りには多くの石祠が祀られている。

 社殿を囲むように多くの境内社・末社・石祠等が境内に祀られている。
 
 社殿左側には縁結びの白山比咩神社を祀る。     社殿左奥に境内社・大国神社
        
                  伊勢崎市指定重要有形民俗文化財「茂呂の屋台」案内板
 伊勢崎市指定重要有形民俗文化財
 茂呂の屋台  平成二十二年十月一日指定
 旧茂呂村に伝わる五基の屋台は、幕末期から明治期に降雨を祈願し、また報祭のために製作された。
 屋台は正面一間側面二間の木造軸組に唐破風屋根または切妻屋根をもち、祭りのたびに組立・解体された。特徴としては、高欄を背面三方に廻し飾舞台とし、後室は囃子場としての演奏空間となっている。
屋台の上部は密度の高い彫刻で飾り、制作に関与した大工や彫刻師が判明する屋台も認められる。特に鬼板(おにいた)や懸魚(けぎょ)の彫刻には、水を司ると考えられる龍などを刻み、雨乞いとの関連が視覚的にも強調されている。
毎年九月の「飯福神社秋祭り」では、茂呂地区五町内の屋台囃子が共演される。
                                      案内板より引用


 美茂呂町の屋台囃子は、伊勢崎市域をはじめ、群馬県から埼玉県北部地域に広く分布する参手鼓と呼ばれる演目を基本とする祭り囃子である。この屋台囃子は、旧茂呂村の堀組と呼ばれる地域の有志が伝承してきたもので、現在は美茂呂町屋台囃子保存会を組織している。7月の茂呂地区納涼祭、水神宮祭、8月のいせさきまつり、9月の飯福神社秋祭りで演じており、世良田八坂神社の祇園祭(太田市)にも参加し演奏している。屋台は、嘉永7(1854)に制作されたものを所有している。
       
                   社殿右側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
   ご神木周辺に祀られている石祠等          庚申塔等にも注連縄が巻かれているいる。      



参考資料「飯福神社HP」「伊勢崎市HP」「伊勢崎市美茂呂町自治会HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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藤岡富士浅間神社


        
              
・所在地 群馬県藤岡市藤岡1152
              
・ご祭神 木花開耶姫命
              
・社 格 
              
・例 祭 例大祭 41
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2563401,139.068042,15z?hl=ja&entry=ttu

 中栗須神明宮の南側に鎮座する。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線を上越自動車道・藤岡IC方向に北上し、「七丁目」交差点を左折、その後すぐ先にある「古桜」交差点を右折し直進すると、 道路沿い左側に藤岡富士浅間神社の大きな社号標柱、広大な駐車場があり、その参道の奥の高台上に社は鎮座している。
        
                 
藤岡富士浅間神社正面 
 藤岡市藤岡地域に鎮座。全国約1,300社といわれる浅間信仰の神社の1つで、木花開耶姫之命を主祭神とし、安産と子育てのご利益があるとされる。
『日本歴史地名大系』には藤岡町(現藤岡市藤岡)に関して以下の解説がされている。
「東は小林村など、西は上・中・下大塚村など、南は矢場村など、北は中栗須村などと接し、町央を東西に下仁田道、南北に十石街道が通る。近世には両道が交差する交通の要衝にあり、継場、日野絹の集散市場として賑った。享和三年(一八〇三)の富士浅間神社縁起書によると、文応元年(一二六〇)日蓮が常が岡鮭塚に経を納め、富士山の分霊を勧請し鎮守として以来富士岡(ふじおか)と称したという。「続太平記」には永享の乱に、上杉憲実が平井ひらい城攻めにあたり、藤岡などに陣を張ったとあり、「鎌倉物語」などによると当時の藤岡城主有田定景は足利持氏の遺児永寿王丸をのがしたという」
 
 境内は広く整備もされている。また長く伸びる参道(写真左・右)は石製の鳥居まで約100m程続く。
       
 道路沿いにある鳥居を過ぎると、天高く伸びそうな巨木がお出迎えしてくれる(写真左・右)。
                  「孤高」という表現が似合う趣のある大木。

 参道途中には3枚の案内板が設置されており、右から「富士浅間神社 祭礼絵巻」「富士浅間神社具足4種」が案内され、夫々重要文化財に指定されている。もう1枚は社の案内板である。
        
一番右側には「市指定重要文化財 富士浅間神社祭礼絵巻」の標橋や、及び案内板である。藤岡富士浅間神社には、神輿をかつぐ行列が描かれている絵巻物が宝物として伝わっている。菊川英山という浮世絵師が描いている。絵巻は四mという長さで、行列の人数は357人。藤岡市指定重要文化財として、藤岡歴史館に保存されている。
        
 真ん中には「富士浅間神社具足4種」の案内板がある。市指定重要文化財で指定日平成21625日。富士浅間神社に伝世したもので、当世具足(とうせいぐそく)3点・鎖具足1点からなる。その造作は簡素・実戦的であり、上級武士の着用と見られるものである。製作上の特徴から、ほぼ同時期の所産と考えられるもので、近世の江戸前期に位置づけられる。
 これらの具足がどのような経緯で寄進されたのかは今後の課題であるが、全体に保存状態が良く、本県並びに藤岡市周辺地域の歴史的な美術工芸資料として貴重な資料である。
朱漆塗切付碁石頭伊予札二枚胴具足
朱漆塗桶側四枚胴具足
黒漆塗切付小札二枚胴具足
鎖具足
        
        一番左側には「富士浅間神社 由緒」の案内板が設置されている。
 富士浅間神社 由緒
 ご神徳 安産 子育て
 当社のご祭神は、富士山をご神体とする木花開耶姫命である。天照大神の孫の夫人であり、海の幸の神、山の幸の神らの母親である。火を放った産屋で無事に子を産んだ言い伝えにより、子授け、安産、子育ての守り神として古くから信仰を集めてきた。
富士山は日本一美しい山だが、かつて火山としてたびたび噴火を繰り返していた。その激しい噴火を鎮め、同時の新しい生命を生み出す神として、火中で無事に子を産んだという言い伝えから木花開耶姫命をご祭神としている。女性の守護神、子授け、安産、子育ての神と言われる理由である。
 当神社の設立年は不詳だが、当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け、平安時代の主要な神社である従五位上郡御玉明神の一社として藤岡の地の守護神としたのが始めと伝えられている。1274(文永11)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻るときに、この地を訪れ八軸の経を納め、同時に富士信仰の厚かった上人は、そのご祭神である木花開耶姫命の御霊を当神社に移し、以来社名を富士浅間神社と改め当地の守り神として広く信仰を集めてきた。
 1590(天正18)藤岡の領主となった芦田康貞が、藤岡城を築くに当り、北面の守護として当神社の社殿を大規模に拡張・改築し、神官広瀬清源を奈良の吉野より招き宮司とした。江戸時代には庶民の間で冨士講が盛んに組織され、多くの人が当神社を中心にして富士山詣でを行った。「藤岡」の地名は当神社の社名に由来し、「富士岡」が変じて定まったといわれている。
                                      案内板より引用
        
                   石製の大鳥居
         参道は当所西方向に進むが、この鳥居からは北側に変わる。
 
 鳥居の南側には重厚感のある神楽殿がある(写真左)。南向きに鎮座する拝殿に奉納する舞をお見せできる絶好の場所にあるようだ。また鳥居の西側には神興庫であろうか(同右)。
 
 鳥居前にて一礼を済ませた後、鳥居の先で、左側にある手水舎にてお清めをする(写真左)。よく見ると手水舎の奥にかなり古い形態の手水舎があった(同右)。今回はそこでお清めはしなかったが、奥にある手水舎も使用できるとの事で、次回参拝の際にはぜひお清めしようと思った。
 
 参道を進むときから気が付いていたが、石垣に似た高台上に社殿は鎮座している。広々として開放的な境内と相まって、まるでお城と勘違いしてしまう位の規模である(写真左)。鳥居を過ぎて石段を登り、その頂上部に社殿が見える(同右)。
 実はこの社が古墳の上に建てられているといわれていて、案内板にも「由緒書の途中に「当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け…」と載っている。「藤岡町1号墳」とも呼ばれていて、南北40m、東西44m、高さ5mの円墳。前方後円墳という説もあるそうである。
        
                     拝 殿
 藤岡富士浅間神社のご祭神である「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」は、日本神話に登場する女神である。父神は大山津見神、母神は鹿屋野比売神(野椎神)。一般的にこの「木花之佐久夜毘売」は『竹取物語』の主人公「かぐや姫」のモデルともされ、桜の美しさとやがて散る儚さを象徴する美しい女神といわれている。アマテラス大神の孫ニニギ尊と結婚。子授け安産、農業や漁業のご利益があり、酒造業の守護神としても信仰されている。
 実はこの女神、別名も多く、『古事記』では本名を「神阿多都比売(かみあたつひめ)」「木花之佐久夜毘売」、『日本書紀』では「神吾田鹿姫(かみあたつひめ)」「神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)」「木花咲夜姫」、『播磨国風土記』では「許乃波奈佐久夜比売命(このはなのさくやひめ)」と表記され、また「豊吾田津媛命・木華開耶姫・木花之開耶姫・木花開耶媛命・神阿多都比売・神吾田津姫・神吾田鹿葦津姫・鹿葦津姫・桜大刀自神・身島姫神・酒解子神」等とも言われている。
 現在富士山を神体山とする富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社にこの女神は主祭神として祀られているが、歴史的に見ると、古代や中世には富士山の祭神(権現)を木花之佐久夜毘売とする文献は見当たらないとされ、近世に林羅山が元和2年(1616年)の『丙辰紀行』で諸説の中から三島神社の祭神が父神の大山祇神であり、三島と富士が父子関係にあるとする伝承を重視し、これを前提に「富士の大神をば木花開耶姫」と神話解釈を行ったことで権威をもつようになったといわれている。因みに富士講では富士の祭神を仙元大日神としており、仙元大日神の子孫が木花之佐久夜毘売と結婚したとしている。
         
                                   本 殿
 浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神が木花之佐久夜毘売となった経緯としては、木花之佐久夜毘売の出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
 富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火を抑えるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。

浅間神社の語源については諸説ある。
「あさま」は火山を示す古語であるとする説。
「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説。
「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に習合した結果といわれている。
「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の皇大神宮の摂社である朝熊神社を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。
        
      社の西側は正面参道とは違った、本来のお社の風景が広がっているようだ。
 
    社殿西側に祀られている境内社          境内社・秋葉神社か
         詳細不明

 木花之佐久夜毘売の本名は「神阿多都比売(かみあたつひめ)」という。「阿多」は実は地域名で、鹿児島県南さつま市から野間半島にわたる地域、また薩摩国(鹿児島県西部)にちなむ名といわれ、「鹿葦」も薩摩の地名という。ということは、原義としての「神阿多都比売」とは「阿多の都」の姫という意味となり、現在の鹿児島、つまり薩摩地域の姫様という意味になるかもしれない。

 また神名は一般的には「植物」と関連づけられているそうだ。神阿多都比売の名義は「神聖な、阿多の女性(巫女)」とされ、木花之佐久夜毘売の神名の「木花」は木花知流比売と同様「桜の花」、「之」は格助詞、「佐久」は「咲く」、「夜」は間投助詞、「毘売」は「女性」と解し、名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば 「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売」となるとされる。
       
                                 境内の一風景
 桜は春を象徴する花として日本人には馴染みが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。
 日本人はまた「花見」を好む民族だ。但しこの「花見」の起源に関して調べてみると、奈良時代には貴族が「梅」を好み、花鑑賞をしていたようだ。現代では花見と言えば桜を指すが、当時は中国から伝来した「梅」の花が主流だった。これは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたがためである。実際、「万葉集」には桜を詠んだ歌も残されており、古代神話以前から桜は神の宿る木として信仰の対象ともなっている。
 桜の人気は平安時代から始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。

 昔も今も理屈抜きに日本人は「桜」が好きな民族である。故に木花之佐久夜毘売は「桜の神」であり、身の心も美しい人なのであったのだろう。色々書いたが結論はそういう事に帰するのだ。


参考資料「富士浅間神社HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等

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中栗須神明宮

 その昔、ここ中栗須の神明宮は、高山御厨(たかやまのみくりや)の北の中心地であり、現在でも藤岡市役所は、この中栗須地域に所在している。高山御厨は、源義朝の父、為義が伊勢神宮に寄進した荘園であるといい、御厨の司(現在の長官)は、秩父平氏の高山党、小林党であった。
秩父氏流栗須氏
 小林系図「秩父権守重綱―高山三郎重遠―栗須四郎有重―小林二郎重兼」
 この御厨(ミクリヤ)という言葉から「栗須」という地名が生まれたとも言われているという。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市中栗須615-1
              ・ご祭神 大日孁命(天照大神)
              ・社 格 旧郷社
              ・例祭等 春季例祭 47日(太々神楽奉納) 
                   秋季例祭 
1017日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2657913,139.0748173,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線で本庄市児玉町から藤岡市方向に進み、神流川を過ぎた「本郷」交差点を右折する。上越自動車道・藤岡IC方向に北上、道路は群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線となり、そのまま道なりに進むと、「中栗須」交差点の先で、道路沿い左側に中栗須神明宮の一の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居と二の鳥居の間には「中栗須公会堂」があり、そこには十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                                       南向きの中栗須神明宮正面
 中栗須神明宮は藤岡市中栗須地域北部に鎮座する。実のところ、今回の参拝は全くの偶然で、本来の目的は「道の駅 ららん藤岡」に家族で遊びに行った際に、偶々道路沿いに鎮座しているこの社を見かけて、買い物を済ませた後に参拝したというのが実情だ。ともあれ、期待はしなかった分、旧郷社としての風格もあり、思いのほか広大な境内であるので、これも神様のお導きかと感謝している次第である。
            
           社号標柱とその奥には「猿田彦大神」の石碑もある。
「神明宮」は天照大神または伊勢内外宮の神を祀る神社。神明宮・神明神社・太神宮・伊勢宮(いせみや)等ともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至ったという。
        
                    一の鳥居
『日本歴史地名大系』には「中栗須村」の解説が以下のように記載されている。
[現在地名]藤岡市中栗須
下栗須村の西、南は藤岡町、西は上栗須村と接し、北部を温井ぬくい川が東北流する。一帯は一二世紀前半に成立した高山たかやま御厨に属し、栗須郷と称された。天正一四年(一五八六)正月の神明宮造営勧進帳(佐々木文書)の表紙に「中栗須村」とあり、勧化者には「中栗須郷」と冠している。なお徳治三年(一三〇八)二月七日の関東下知状(東京国立博物館蔵)にみえる「高山御厨北方内大塚中□□□預所」の「中□□□」は、中栗須郷に推定されている。寛文郷帳では田方六七石六斗余・畑方三六四石一斗余、幕府領・旗本小西領・前橋藩領・旗本志賀領の四給。元禄郷帳では志賀領が幕府領となり三給。後期の御改革組合村高帳では旗本岩本・小西領・幕府領の三給、家数八三
        
  一の鳥居から二の鳥居に通じる参道は長く、その途中左側には「中栗須公会堂」がある。
        
「神明宮」という名称であるので、一の鳥居と三の鳥居が神明鳥居であるのは当然であるが、一と二の鳥居の途中には小さな堀川と神橋があり、その先に明神鳥居が立っていて、社号額も「諏訪大明神」とある。
        
                         三の鳥居 これより広い境内が広がる。
 交通量の多い県道沿いに鎮座していて、参道沿いにも細い道路があり、また三の鳥居前には参道に対して横切る道路も通り、周囲の道路事情も考慮しながら参拝を行う。
        
                    境内の様子
        
                     神楽殿
 この神楽殿では、毎年1016日、現在は第3週の土曜日に、御食御酒神事(みけみきしんじ)が行なわれる。その年の初穂を大神に供え、報恩感謝を申し上げる祭典。 神明宮の秋祭りは1017日で、この神事は16日の深夜に 宵祭(よいまち)として行う。 16日は午後7時からの獅子舞奉納に始まり、午後10時から拝殿において神事が始まる。 先ずふかしたモチ米の米飯75膳を桑の枝を箸でカワラケに盛りつけて神前に供え、その後境内末社をお祓いしながら回って紙の上にもった米飯を順に供える。 続いてふかしたウルチ米の米飯75膳を先ほどと同じようにして供え、境内末社も回るので、計150膳を神前に供えることになる。 それが終わると宮司の祝詞奏上、参列者による玉串奉奠をもって神事が終わる。 以前は75膳ずつに盛り分けた供物を参詣者に分けて大いに賑わっていたが、戦後は人出が少なくなり、厳粛な神事は氏子の積極的な協力を得て続いているという。
        
                                      拝 殿
 
          扁 額                 扁額の右並びに設置されている「神明宮」由緒
 神明宮由緒
 祭神 大日孁命(天照大神)
 本宮は、後鳥羽天皇建久三年九月十七日(一一九二年)右大将源頼朝公の発願により碓氷郡磯部領主佐々木三郎成綱が命を受けて勧請し創建された。
 天正十年(一五八二年)小田原の北条氏と厩林の滝川一益との神流川合戦に於いて兵火にかかり社頭が炎上した。
 その後三年を経て天正十三年七ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石 中)の氏子経の力により社殿が再建された。
 明治四年(一八七一年)第十五大区の郷社とされる。
 明治十三年九ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石・森・中・上戸塚・下戸塚)の氏子により広く寄付金が募られ拝殿が建築された。
 昭和二十九年瓦葺に修復され現在に至る(以下略)。
                                      案内板より引用

        
                             神明宮らしい本殿
 
    境内には「御神木」の看板がある巨木・老木が樹勢良く聳え立つ(写真左・右)。
 
 社殿の奥には数多くの石祠が祀られている(写真左・右)。詳細は不明ながら、中栗須(なかくりす)郷・下ノ郷(下栗須)・岡ノ郷・立石郷・森ノ郷・中村郷・上ノ郷(上栗須)の七郷の鎮守社であるとの事で、七郷内の神様をこの社にお移しされたのであろう。
 
 社殿奥(北側)には裏へ抜ける参道もあり、石段が設置されている(写真左)。その参道左側には芭蕉句碑が建っている(同右)。

 むすふよりはや歯にひゝく清水かな はせを翁

 現在水は枯れているが、元々池があったところらしい。明治2年(1869)に建立されたという。


参考資料「群馬県神社庁HP」「世界大百科事典」「日本歴史地名大系」「境内案内板」等


 

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