高島生品神社
ところで生品神社は平安時代に編纂され、上野国(現在の群馬県)の格式の高い神社を列記した上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載されることから少なくともそれ以前から鎮座していた事が窺える。主祭神は大国主であるが、一説には平将門を祀っているという伝説もある。
生品神社は太田氏周辺に7社あり、すべて新田の関係の場所にあり、高島生品神社が鎮座するこの地も嘗て上野国新田荘に属し、元久二年(1205)の源実朝下文写(正木文書)に、「元久二年八月日、上野国新田庄住人、義兼(新田)為地頭職事、高島郷」と新田義兼の所領と記載されている。
・所在地 埼玉県深谷市高島209
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月17日 例祭 11月15日 新嘗祭 11月23日
高島地区は深谷市北部で、利根川右岸に位置する。利根川の支流である小山川の進路が北東方向から東側に進路を変える地点に高島生品神社は鎮座している。因みにこの小山川は昭和初期まで新上武大橋の付近で利根川に合流していたが、河川改修によって合流地点が約3km東側に引き下げられたという。
国道17号バイパスを群馬県方向に進み、「石塚」交差点を右折、その後利根川河川敷に到着するT字路を左折し、埼玉県道45号妻沼本庄線を西方向に進路をとる。小山川を過ぎてから河川敷を下った最初の十字路を左折すると、正面方向に高島生品神社が見えてくる。
社に隣接して南側に社務所があり、鳥居との間に適度な空間があり、そこに車を停めてから参拝を行う。
高島生品神社 正面鳥居
「大里郡神社誌」によれば、「元高島村久賀之郷に鎮座し給ひ、上野国新田郡生品明神七社の一なり傳え云ふ(中略)本村の古老口碑に異なることなしその人に話に、新田義貞公生品祠前に旗揚げした時幾流れと敷ふべからぬ義兵の旌旗天を霞めて飜る、義貞公之を望み見て歓喜せられ「中空高縞(たかしま)の如し」と言われしとぞ傳えける是れ高島村の名の起源なりと云う」と「高島村」の地名由来が記載されている。
その後宝暦年間(1751~64)の利根川の洪水のとき社殿が流失し、今の地に遷座。当始は「生品大明神」と称していたが、明治9年生品神社と改めたという。
社号標柱には「子爵澁澤榮一書」とあり、渋沢栄一翁が91歳の時に書いたとされている。
参道正面 境内の様子
参道のすぐ左側にはご神木が聳え立つ。
拝殿右側手前にある「生品神社 改修記念碑」
生品神社改修記念碑
生品神社は昭和初期に創建され、以来八十年近い歳月が経ち、瑞垣を支える石垣の破損が進んだことに氏子各位の参道をいただき、改修することと相なりました。
このほかに灯籠の移転、参道、狛犬、拜殿門前の階段、大杉様、賽銭箱、拝殿の戸等の境内整備を併せて行い完成の運びとなりました。
ここに改修工事の旨を石碑に刻み後世に伝えるものであります。
案内板より引用
生品神社社殿正面
神門があり、拝殿や本殿は瑞垣でしっかりと囲まれている。この社の境内自体が自然堤防の縁みたなところで周囲の田んぼより高くなっているが、社殿は更に石垣でかさ上げされた基礎の上に鎮座している。宝暦年間(1751~64)の利根川の洪水に対する教訓からくる備えなのだろう。
また両サイドにある狛犬の台座が、とにかく大きい溶岩石。なかなかお目にかかれない珍しいものである。
「新編武蔵風土記稿 高島村」
生品明神社
村の鎭守にて村民持、當社は平將門の子を祀ると傳ふれど、來由詳ならす、【太平記】に幾品明神の前に旗を上げ、小角の渡云々とあるは、當所のことなるにや、又小角は當村及中瀨村の小名にもあり、
拝殿・本殿は総囲いとなっている。
社殿左側に鎮座する境内社 社殿左側には末社(石祠)群があり。
石祠群は一番右側は大杉社。その左側は水神宮。それ以外は詳細不明。但し「大里郡神社誌」によれば、境内社・合祀社には「稲荷神社」「諏訪神社」が鎮座していたようなので、これらの中にあるかもしれない。
御嶽塚
「御嶽山国常立命・三笠山豊斟命・八海山国狭槌命と天之御中主大神・神皇産霊神・高御産霊神」等の石碑があり。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「Wikipedia」等