五明白石神社・日影神社
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町五明332
・ご祭神 大己貴命 中筒男命 别雷命 菅原道真公
・社 格 旧五明村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0170766,139.2737335,18z?hl=ja&entry=ttu
玉川春日神社から南下して、一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に戻り、そこの十字路を右折する。県道を2㎞程進んだ「五明」交差点の手前で進行方向右側に五明白石神社が見えてくる。
本来の目的地は日影地域に鎮座している日影神社であったのだが、その進路途中にこのような社と巡り合うことも、また趣があり、これも当地の神様との出会いと感謝し、立ち寄らせて頂いた。
駐車スペースは県道沿いに数台駐車可能な場所もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
五明白石神社正面
ときがわ町・五明(ごみょう)地域は、埼玉県比企郡ときがわ町の大字で、旧比企郡五明村。ときがわ町北部、旧玉川村西部に位置する。北で小川町下里、北東で田黒、東で玉川、南で本郷、西で日影と隣接する。南部および北部は外秩父山地の尾根にあたり、中央部を東流する都幾川の支流雀川に沿って谷底平地が開け、人家が散在している。
地内には縄文期の中野原遺跡・栗ヶ谷戸遺跡が見られ、縄文期より定住のあったことがわかる。室町期の創建とされる円通寺も見られる。
江戸期初めには天領、慶安2年(1649年)に一部が円通寺領、明和元年(1764年)より天領分が三卿・清水家領となり、寛政7年(1796年)に天領に復した。文政8年(1825年)に再び清水家領になったが、安政2年(1855年)に天領に復している。村高は『武蔵田園簿』によれば246石余、他に紙舟役永750文、『元禄郷帳』では304石余、『天保郷帳』では301石余。文政10年(1827年)に指定された関東取締出役支配下の組合村においては近隣の村々とともに玉川寄場組合に属した。用水は天水を貯めて灌漑を行っていた。また、和紙・小川紙の産地としても知られた。
1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・田黒村・日影村と合併し、五明村は玉川村の大字となった。さらに2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となり、現在に至っている。
境内の様子
「五明」の地形由来として、『新編武蔵風土記稿』によれば「村の形が扇に似ているのでかく呼べりと言えども、恐らく文字によって牽強せし説なるべし」とあり、三皇五帝のひとり舜が作ったとされる五明扇を源とする扇の異称からきたという説が唱えられているものの、風土記稿編者は、村名ができた後に由来を唱えたのではないかという強い疑いが抱かれている。
参道左側に並んで立つ板碑で、緑泥石片岩(青石)と思われる色あい。
小川町には、下里・青山板碑製作遺跡が存在しているが、この遺跡は13 世紀から 16 世紀にかけて武蔵国を中心に広く流通した武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩(青石)を採掘、加工した場であり、武蔵国における板碑生産の中心的な遺跡として、また、板碑に象徴される中世の信仰・精神文化の解明につながる遺跡として、学術的にも重要な遺跡という。
小川町下里は、長瀞町野上下郷とともに武蔵型板碑の石材となる緑泥石片岩の産出地であり、その地はまさに五明地域の真北に接している。この板碑も下里地域から産出したものではなかろうか。
参道右側に設置されている「白石神社御由緒」の石碑
白石神社御由緒
御祭神 大己貴命 中筒男命 别雷命 菅原道真公
当杜の創立は第百十四代中御門天皇宝の宝永七庚寅年(一七一〇)九月と伝え栃の宮と称えた 往古德川幕府の碩学の臣新井白石先生が宝永六年当地に近い越畑(今の嵐山町)奈良梨(今の小川町)篠津(今の白岡町)の三邑の五百石を賜りこの地に居住して江户文化興隆に貢献したと伝えられ享保十年(一七二五)白石の沒後邑人白石を追慕敬仰して当社を白石大明神改称したといわれる。
安永二癸巳年(一七七三)十一月本殿を再建する
明治四年(一八七一)中村社に列格される
明治五年一月二十一日社殿炎上し古記錄等焼失する 同六年本殿を再建して白石神社と改称する
明治十五年(一八八三)三月十七日王川大火により杜殿焼失し翌十六年再建する
明治四十一年(一九〇八)二月字小谷無格社中木神社字四郎台無格社雷電神社の二社を本社に合祀する
昭和三十六年(一九六一)四月社殿の老朽化により改築落成し今の社殿となる
時の流れるに従い当社の御由緒の薄れゆくのを恐れここに僅かの古記録と伝承により書き留め御神徳を敬仰するものである
平成六年十月穀旦
拝 殿
本 殿 社殿手前右側に鎮座する境内社
薄くなり見ずらいが「八宮神社」とも読める。
境内の隅に祀られている庚申塔等 鳥居の先にポツンとある龍不動〇
駐車場から見た五明白石神社境内
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内御由緒碑文」等
【日影神社】
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字日影606
・ご祭神 不明
・社 格 旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0269133,139.2543844,15z?hl=ja&entry=ttu
五明白石神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北西方向に進路をとり、900m程先の「雀川砂防ダム公園」の看板がある丁字路を左折する。そこから更に900m程進んだ先に日影神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
鳥居周辺には駐車できる路肩があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
日影神社正面
ときがわ町・日影地域は、ときがわ町北部・旧玉川村西部・雀川最上流域の山間に位置し、北側で西から小川町上古寺・青山・下里、東で五明、南東で本郷、南で別所、西で雲河原と接する。南西境に雷電山が聳える雀川の源流地であり、流域に僅かな谷底平地を持つ。
縄文時代前期の集落跡・高野遺跡があり、縄文期からヒトの定住があったことが確認されている。『和名類聚抄』においては比企郡都家郷に属したとされ、 古くは大河原郷、松山庄、玉川領に属していた。東光寺の開山である武州松山城主・上田能登守憲定が天正15年(1588年)12月25日に出した法度書に「日影」の記述が見られ、慶長2年(1597年)及び慶長15年(1610年)8月21日の地詰帳には「武州松山之領日影」とあり、日影村が松山城の所領だった旨がわかる。
1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・田黒村・五明村と合併し、日影村は玉川村の大字となり、2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となった。
社の前面には、僅かな谷底平地が広がっているのだが、山々に囲まれた谷戸の地形ともいえ、長閑な里山風景の広がる地域である。
「日影」という地域名由来として、四方が山に囲まれており、その影になることにちなむという。
参道の両側には幾つもの大樹が囲む。
この大樹の在りようからも、かなりの由緒と歴史が想像できようが、この社には案内板もなく、ご祭神すらわからない。旧村社である社格であるので、「村持ち」か「村の鎮守」の記載がある社に相当するのであろうが、『新編武蔵風土記稿 日影村』には、一社しか存在しない。
・御靈社 村の鎮守にて、本地佛地藏を安ず、長勝寺持、
御霊神社という名前の神社は、日本各地に存在する。 その祭神・性格は様々で、御霊信仰に基づきある人物の御霊・怨霊を鎮めるために創建されたもの、五柱の神(五霊)を祀る(祀っていた)もの、祖神・先祖の霊を「御霊」として祀るものなどがあるので、現状ではこれ以上の考察は差し控えたい。
石段途中に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
ときがわ町で発行している「巨木の里マップ」を確認すると、
「スギ科の常緑高木。日影神社の御神木として親しまれている木である。推定樹齢400年」
「 幹周り:3.50m/樹高:15m」
拝 殿
本 殿
社殿左手に祀られている境内社。
左より稲荷之大神、正遷宮。一番右側の社は不明。
正遷宮の札の左隣にも木札があり、「〇大明神社」と書かれているが、それ以上は解読不明だ。
静かに佇む社
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町 巨木の里マップ」
「Wikipedia」等