別所八剣神社
「別所」のつく地域は砂鉄採取の出来る川岸に多くあるという。山間部の鉱山地では砂鉄を含んだ土砂を流して、藤蔓で編んだ筵で砂鉄だけを採取した。また砂鉄は雨水で土砂が流れ、水辺の一隅に集まり黒い一帯をつくる。これをすくい取ることを雨生鉄と云い、砂鉄は探鉱や採掘を必要としないで、だれでも採取でき、故に女子供でも採取の工人となれる。砂鉄を利用した鍛冶師は目をやられる為に眼病の本尊として薬師様を祀り、別所村に薬師堂が多くあるのもその由来ゆえという。
ときがわ町にも「別所」地域がある。外秩父山地及び岩殿丘陵地が地域外殻を形成し、その中央部を都幾川が流れる。そして嘗て「古代製鉄集団」の存在を連想させるような名称である「八剣」神社が都幾川左岸に鎮座している。
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町別所21
・ご祭神 日本武尊
・社 格 旧別所村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0082726,139.2631482,17z?hl=ja&entry=ttu
五明白石神社西側先にある「五明」交差点を左折、埼玉県道30号飯能寄居線を南方向に進路をとる。1.3㎞程先に都幾川に架かる橋手前に信号のある十字路を右折し、800m程西行すると、進行方向左側で民家の奥手に別所八剣神社の社叢林が見えてくる。
別所八剣神社正面
『新編武蔵風土記稿 別所村』には、この社について、意外と詳しい説明がなされている。
八劔明神社
村の鎮守にて月窓寺の持なり、當社は經木前司吉信と云し人の靈を祀りし由、天正十六年の棟札に記せり、此吉信が事蹟年代等詳ならず、思ふに埼玉郡に常木村あり、文字は違ひたれど、もしくは彼村を指揮せし人なるも知るべからず、又此社造立の年歴も定かならざれど、天正の棟札に再建の由見ゆれば、古社たることは論なし、棟札の文左の如し、
「表 奉建立劔大明神 御宮殿 所願
天正十六年戌子十一月吉祥日 本加藤隼人
裏 此明神經木前司吉信公現劔明神給也
天正十六年戌子十一月吉祥日
天正十六年戌子十一月吉祥日
別當都幾山月窓寺
加藤隼人宗正中興」
此に記せし加藤隼人宗正も、いかなる人なりしにや、其傳を失へり、按に田中村の舊家東吉が家系に、帶刀先生義賢討れし後、其家名の此邊に落来りて、住するもの八人あり、其内に加藤内蔵助貞明と云もの見えたり、宗正は此人の子孫なるにや、今腰越村に加藤氏の土民あれど、是も先祖のこと詳ならず、
風土記稿に記載されている「加藤隼人宗正」という人物は、玉川春日神社で説明したが、源義賢・木曾義仲の家臣団で当地に土着した加藤家の末裔ともいう。
この人物は、天正庚寅松山合戦図に「古郡・柏崎・今泉方面城方副将加藤隼人介宗正」と記載されていて、武州松山城の守り手の一将として登場している。加藤隼人宗正のその後は詳らかではないが、その一族は北條氏滅亡後、子孫である加藤太郎右衛門吉重・同理右衛門久次の兄弟が寛文元年二月武州小榑村に土着していて、また隣村の土支田村にもその一族は移住しているらしい。
境内の様子
規模は決して大きくはないが、程良く纏まっているいる。
拝 殿
八剣神社
当社の創祀年代については明らかではない。『風土記稿』別所村の項に載る棟札には「(表)奉建立劔大明神 御宮殿 諸願 天正十六年 戊子十一月吉祥日 本 加藤隼人」「(裏)此明神経木前司吉信公現劔明神給也(中略)別当都幾山月窓寺 加藤隼人宗正中興」とあり、経木前司吉信を祀った旨が記されているが、その来歴は不明である。
また、同村の西平にある萩日吉神社にかかわる伝承に、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣らが落武者となってその付近に土着し、義賢やその子に当たる木曾義仲の霊を鎮めるため、天福元年(一二三三)に同社に流鏑馬の神事を奉納したといい、それらの落武者の一人に加藤氏の名が見える。『風土記稿』では、棟札に記す加藤隼人宗正はこの加藤氏の子孫ではないかとの推測をしている。
口碑によれば、元来明神様(当社)は地内の北方にある天王山(標高二五二メートル)の地に祀られていたが、氏子の間で生産する口籠が、白い物を嫌う明神様の自に触れてはおそれ多いので、氏子区内を一望できる山上から麓の現在地に降ろしたという。
口籠とは馬の口にはめる道具で、その材料に用いる竹の平を並べて干す様が一面真っ白に見えることを明神様は嫌ったのである。その遷座の年代は伝えていないが、明治の初めまでは祭礼の度に神体の丸石を納めた神輿を天王山まで担ぎ上げていたとの興味深い話が残されている。
「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 平村(現ときがわ町西平)』に「山王社 村の鎭守なり。當社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤氏等の、先祖まつりて鎭守とせりと、(中略)天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり」と記されている。
この「田中村の市川氏・馬場村の馬場氏・瀬戸村の荻久保氏・腰越村の加藤氏」は、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣なのであろう。
・田中村の市川氏
『新編武蔵風土記稿 田中村』
「舊家者東吉 村の名主なり、氏を市川と稱す、家系一巻を傳へり、其祖先は新羅三郎義光の男、市川別當刑部卿阿闍梨覚義なり。此人帯刀先生義賢の味方として、大藏の舘に有しが義賢討れし時、其家臣馬場兵衛次郎頼房、同源次郎頼直等、七人と共に当當所に落來りて居住す、(中略)又祖先覚義より五代十郎右衛門喬義の時義賢の靈を祀りしこと家系に載たれど、それは前述せしを以って爰に略せり」
・馬場村の馬場氏
『新編武蔵風土記稿 馬場村』
「舊家者三右衛門、馬場氏なり。先祖は帯刀先生義賢の家臣なりしと云ふのみ、考證とすべきことあるにあらず、按に田中村の民、東吉なるものゝ祖先も、義賢に仕へし由、其家譜を閲するに、義賢討れし時、家臣等大藏の舘に逃て、此邊に忍び住する者八人あり、其内に馬場兵衛次郎頼房、同源次郎頼直など云者あり、是三右衛門が先祖なるべし。又天福年中彼八人の子孫等、平鄕及び福田鄕に社を造立し、義賢の靈を祀りて、平鄕にては山王とし、福田鄕にては淺間と崇む、山王社の祭體には、流鏑馬を行ひ、八人の子孫の内にて射手を勤めりと云、今此二社は則平村と福田村とに鎭坐ありて、山王社の例祭に流鏑馬の式あり、古より此三右衛門及び東吉瀬戸村の民丈右衛門が家にて、つかさどりて行へりといへば、八人の内馬場氏の子孫たること知るべし、丈右衛門が先祖も義賢の家臣にて、八人の内なりと云、其家に藏する舊記は、馬場氏の祖先のことを記録せし物なれば、もとは三右衛門が家に傳へし物なるも知るべからず、されど考證とすべき物に非ざれば爰に載せず、但其記錄に義賢の霊を祭りしは、馬場義因と云ひしものゝ時なりと云、猶其村の条并せ見るべし」
・瀬戸村の荻久保氏
『新編武蔵風土記稿 瀬戸村』
「舊家者丈右衛門、荻久保を氏とす、先祖某は帯刀先生義賢の臣下なりと云傳ふ、義賢近鄕大藏に舘を構へしなれば、此邊を領せしと見えて、隣村馬場村の馬場氏、田中村市川氏なども、各其の祖先は倶に義賢に仕へしと云、丈右衛門が先祖某歿して、後村内に葬り、後神に崇めて萩明神と唱ふ、其葬地には塚ありて、今福仙坊と呼ぶ、これは此人晩年薙髪して福仙坊と號せし故なりとぞ、」
珍しい形式の境内社。詳細不明。 境内東側隅に鎮座する境内社・富士浅間大神
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等