田黒日枝神社
ときがわ町・田黒(たぐろ)地域は、埼玉県比企郡ときがわ町の大字で、旧比企郡田黒村。
ときがわ町北東部、旧玉川村北東部に位置し、北東で嵐山町遠山、東で嵐山町鎌形、南で玉川、西で五明、北西で小川町下里と接する。都幾川左岸及び槻川右岸に位置し、外秩父山地の東縁からなる山間地にあたる。北東部には小田原北条氏の家臣遠山光景の居城と伝えられる小倉城址(国の史跡「比企城館跡群」のうち)があり、城の北面は槻川の浸食で天然の要害を成している。
室町時代末期、小田原北条氏の家臣遠山直親によって小倉城(字小倉)に拠っており、永禄7年(1564年)、直親が江戸城に移って後はその子光景の居城となった。この小倉城は天正・元亀年間に遠山光景によって整備されたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐により松山城が落城した際にともに落城したと伝えられている。
江戸期初めには天領、慶安2年(1649)に一部が熊野神社の別当として大福寺領、元禄9年(1696)より天領分が旗本金田氏の知行となった。村高は『武蔵田園簿』によれば101石余、『元禄郷帳』では165石余、『天保郷帳』でも165石余。文政10年(1827)に指定された関東取締出役支配下の組合村においては近隣の村々とともに玉川寄場組合に属し、用水は天水を貯めて灌漑を行っていた。また、和紙・小川紙の産地としても知られた。
1889年(明治22年)の町村制施行により、玉川郷・五明村・日影村と合併し、田黒村は玉川村の大字となった。さらに2006年(平成18年)玉川村の都幾川村との新設合併により、ときがわ町の大字となり、現在に至っている。
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町田黒1199
・ご祭神 大山咋命
・社 格 旧田黒村鎮守
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0334597,139.2978899,17z?hl=ja&entry=ttu
田黒諏訪神社から一旦「ふれあいセンター田黒」付近の丁字路まで東行し、その路地を左折して、1.5㎞程道なりに北上すると、進行方向左手に田黒日枝神社の朱色の鳥居が見えてくる。
鳥居前に車を数台留めるスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
田黒日枝神社鳥居正面
周囲一帯まるで絵画を思わせるような美しい風景が広がっている。
田黒北部地域は、外秩父山地の東縁からなる山間丘陵地にあたり、南西から北東方向へと流れてきた槻川が、大平山(標高179m)の麓で流れを大きく南へ変え、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている、その間の南北にあるなだらかな段丘面に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが田黒諏訪神社である。
考えてみるとこの地は行政区画上、ときがわ町の地域となっていて、この地のみが縦長い三角形状に張り出した突出部となっている。ただ地形上の観点から考えてみると、嵐山渓谷の一角といっても良い。
鳥居周辺も綺麗に整備されていて、周囲一帯槻川が蛇行して形成された嵐山渓谷、及び外秩父山地の山々が創り出した見事な景観と豊かな自然とうまく調和されている。
鳥居の右側傍に社号標柱と共に、猿田彦石碑・庚申塔が並んで立っている。
鳥居の社号額には「山王宮」と記されており、ご祭神である大山咋神の別名「山王」から称したものと考える。この「山王」とは、中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったもので、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である日吉大社の通称「山王権現」に倣ったものであろう。
なお、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山は「日枝(ひえ)の山」とも称していたが、この比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されているようだ。
『新編武蔵風土記稿 田黒村』には、田黒日枝神社を「山王社」として記載している。
熊野社 慶安二年社領として 五石六斗の御朱印を附せらる、
別當大福寺 天台宗 下青鳥村浄光寺の末 延命山地蔵院と號す 開山の僧を賢仙と云 示寂の年代を失ふ 本尊地蔵を安ず、
地蔵堂、
山王社 村の鎮守なり 大福寺持、
鳥居を過ぎると見事な枝垂れ桜が聳え立つ。
まさに他の追随を許さない「孤高なる美」がここにある。
緩やかな登り斜面に沿って参道が通じている(写真左・右)。
拝殿手前の様子
大橋黒石神社のように巨木に注連縄を張って鳥居の代わりにしているようだ。
拝 殿
日枝神社 玉川村田黒一一九九
当地は槻川が大きく蛇行し、半島状に細長く突き出た丘陵を取り巻くように流れている。
東側の段丘に沿って集落が形成され、その中央部に鎮座するのが当社である。丘陵上の小倉城跡は、戦国期の山城で遠山右衛門太夫藤原光景の居城と伝える。遠山氏は、後北条氏に仕え小倉城の初代直親は兄の康景が永禄七年(一五六四)に討死したため跡を継いで江戸城主となり、小倉城は子の光景に譲った。しかし、豊臣秀吉の小田原城攻略の折、松山城と共に落城した。『風土記稿』田黒村の項に「光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年(一五八七)五月卒せし人なれば、爰に住せしも元亀・天正の頃なるベし」と記されている。
社伝によれば、当社は光景の守護神として元亀元年(一五七〇)に近江国の日吉山王大権現の分霊を勧請したとされる。『風土記稿』「山王社村の鎮守なり、大福寺持」とあり、化政期(一八〇四-三〇)には村鎮守となっていた。別当の大福寺は城の南裾にある天台宗の寺院で、下青鳥村浄光寺の末寺であった。開山の賢仙は、示寂の年代を伝えておらず、草創年代は不明である。
明治初年に現社号に改めた。大正三年四月に雷電神社を合祀、次いで翌四年一月には城跡に鎮座していた熊野神社を合祀した。その際、当社の本殿が老朽化していたので、熊野社の社殿を移築した。
「埼玉の神社」より引用
拝殿から参道を撮影
筆者個人として、拝殿から見るこの風景を神々しく感じてしまいます。
加えて、参道から鳥居のライン延長上に聳え立つ小高い山がどうしても気になります。
参拝終了後、一旦進路を北上し、谷川橋下の槻川を撮影する(写真左・右)。
槻川は清流で有名で、この中流域では、東秩父村から小川町にかけて手漉き和紙(細川紙)の生産が盛んであることにも納得できる。谷川橋上から見ても、透明度が高く、その水質の良さは分かる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等