古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大附日枝神社

「蟇目の神事」は、各所の神社で行なわれる鏑矢(かぶらや)を射て邪を除く神事であるが、ときがわ町・弓立山にも「蟇目(ヒキメ)」に関しても次のような伝説があるのでご紹介したい。
【弓立山の伝説】
 天慶8年(945
)に武蔵国司・源經基が慈光寺の四囲境界を定めるため、龍神山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。經基が四方に放った矢は、北が小川町青山の「矢の口」、東が大字瀬戸の「矢崎」、南が越生の「矢崎山」、そして西が「矢所」に落ち、それ以降、この山は弓立山と呼ばれるようになったという。
 弓立山は海抜426mの独立峰で、ここから西に射はなされた矢は、「ウズウ」と音を立てて地上すれすれに飛び、「振り矢」で向きをかえ、「曲り矢」で方向転換して「矢所」に落ちたという。その後、地面に突き刺さった矢は根が生えて篠やぶとなったとされている。(現在でもこの場所は霊地「矢所」として、篠やぶが大切に保存されている)
「蟇目神事」は弓矢の霊威をもって邪気を払う秘法で、民間に流布されるという。事例はあまりないが、破魔矢をみても弓矢が邪気を払うという事はよく知られている。禁中では「蟇目神事」は古来より様々な応験を顕す秘法として重用され、白川天皇御不例の際に源義家が大庭に立って弓を鳴弦したところ、病がたちまち癒されたという。
 新しい文化や生活が華やかに喧伝される一方で、日本人が古来から培ってきたものも連綿として継承され続けているのである。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字大附672
            
・ご祭神 大山咋神
            
・社 格 旧大附村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 4月 例大祭 1013日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9936667,139.2601026,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下地域から西方向、外秩父山地東端の弓立山(ゆみたて山・426.9m)の南面斜面上に位置する大附地域。瀬戸元下雷電神社からは最初南西方向へ鬱蒼とした森に囲まれた山道を道なりに2㎞程進行すると、一面視界が広がり、関東平野が一望できる広々とした空間に到着する。進行方向左手には「いこいの里大附そば道場」の看板があり、その先には「大附公衆トイレ」が設置されており、そこで暫し休憩。右側には東屋のような「大附道の駅」があり、そこに設置されているお洒落な「鐘」を鳴らそうかどうか、考えながら(結局鳴らせませんでした)いよいよ目標の社に向かう。
 そこから北西方向に進む山道を1㎞程進んでいくと、斜面右手に大附日枝神社の鳥居が見えてくる。山中にある静かな社である。
        
                                
大附日枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「大附村(おおつきむら)」の解説
 [現在地名]都幾川村大附
 瀬戸村の西に位置する。村域は外秩父山地の東端弓立山(ゆみたて山・426.9m)の南面に展開し、越辺川支流上殿(かみどの)川の水源地帯になっている。南は上谷村(現越生町)。「風土記稿」によると村民六左衛門の先祖左近が天正年中(一五七三―九二)松山城(現吉見町)の落武者として当地に土着、大月氏と号したことが地名由来と伝え、古くは大月とも記したという。また、当地の旧家大附(大月)・山岸・吉野・島田の各家の祖先はいずれも松山城から落武者として当地にきて土着したとの伝えがあり、各家の墓地には永仁三年(一二九五)・正和五年(一三一六)・永正三年(一五〇六)などの年紀がある板碑が十数基現存する。

        
               道路沿いに設置されている案内板
 日枝神社由緒
 御祭神 大山咋命
 御神体 懸仏山王七社の本地仏が梵字で刻まれ、裏面に「奉掛本社山王御本宇大施主孫次郎、
         
永正四年丁卯(一五〇七)十二月十三日」とある。
 創 建 長禄元年(一四五七年)
     古くは山王権現と称し水境の地に鎮座されていたが、火災により焼失、現在地に
     建される。
 御神德 五穀豊穣 無病息災 家安全
 御神事 四月祈年祭 十月例大祭 保存会獅子舞奉納 
 末 社 愛宕神社 迦具土神 火伏の神
     疱瘡神社 少彦名命 医業酒造の神
 御神木
   平成十七年三月吉日建之
                                      案内版より引用
 
     
大附日枝神社正面の石製の鳥居         石段右側には社号標柱が立つ。
       
                      石段を登り終えると境内、正面に拝殿が見える。
       
                     拝 殿
 大字大附の日枝神社で毎年1013日に近い日曜日に奉納される「ささら獅子舞」は、現在町重要無形民俗文化財に指定されている。
 この獅子舞は江戸時代に越生町の麦原から伝わったと言われていて、朝方から夕方まで「四方がかり」「花がかり」「一ツ花」「千鳥ぬけ」「女獅子隠し」の五つの庭(舞)が奉納されるようだ。
 
                 拝殿奥にある精巧な彫刻で拵えている本殿(写真左・右)
        
              本殿の奥に巨木が伐採された跡がある。
 これは大附日枝神社の大欅(目通り幹囲 6.7m、推定樹齢700年、環境庁「日本の巨樹・巨木林 関東版(Ⅱ)」にも掲載された)の跡で、平成31年(2019)に樹形の変化及び樹勢の著しい衰退により氏子により伐採されたという。
 今でも巨木の幹部分には注連飾りが巻かれ、大切に保存されている。当地の方々の御神木に対する崇敬の念を改めて感じた次第だ。
 
 社殿右側に祀られている境内社。詳細は不明。     境内社の正面に置かれている巨石。
                           何か曰く等あるのであろうか。

 都幾川は、比企郡中部を流れる荒川水系の一級河川で、流路延長約30㎞。堂平(どうだいら)山・大野峠・刈場坂(かばさか)峠の稜線を分水界とする外秩父山地の東方を水源地帯とし、都幾川村西平で氷川、玉川村で雀川(玉壺川とも)、嵐山町菅谷で槻川を合せて流れ、東松山台地と岩殿丘陵を南北に分けながら東へ進み、川島町長楽で越辺川に合流する。
 一方、槻川(つきかわ)は、埼玉県西部を流れる延長25㎞の荒川水系の一級河川であり、都幾川最大の支流である。秩父郡東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発する。外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東南東方向から東方向に向きを変える。安戸地区を過ぎると小川町腰越地区へ入り、南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地に達する。
 兜川と合流後、小川盆地を抜けると次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では再度南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地である。渓谷を抜けると東へ直線的に流れ、最終的に嵐山町鎌形で都幾川の左岸に合流する。
 このように、槻川は河床勾配が急な河川で、地形に沿って頻繁に屈曲を繰り返して流れている特徴を持つ。
 合流点までの河川延長は、山地を挟みすぐ南側を流れる水源がほぼ同じな都幾川とは大差はない。また総延長は本河川である都幾川とあまり変わらない。
        
                   境内からの一風景
 筆者が昔から不思議に思っていた事なのだが、「都幾川」と「槻川」は、水源がほぼ同じ場所でもあり、名称(発音)もよく似ていて、「都幾川」を「つきがわ」とも読めそうでもある。
 都幾川に架かる上唐子・大蔵両村の橋を「月田橋」といい、『新編武蔵風土記稿 比企郡』には「都幾川は郡の中程を流る、【源平盛衰記】に木曽越後へ退きしに、頼朝勝に乗に及ばずとて、武蔵国月田川の端あをとり、野に陣取とあり、今下青鳥村は郡の中央にて、則この川槻川と合せしより、遥に下流の崖にあり、ざれば彼記に月田川と記せしは、此川をさすこと明なり、田の字もし衍字(えんじ・間違った文字)ならんにも、當時下流までつき川と號せしならん、されど今は槻川と合てより、下流はすべて都幾川と號して、槻川とはいはざるなり」とある時期までは、嵐山町大蔵地域で槻川と合流したその下流の下青鳥、及び本宿地域附近の都幾川を月(田)川と称していた。
        
                             正面鳥居の右側にある湧水
 また正安三年宴曲抄に「大蔵に槻河の流もはやく比企野が原」とあり、合流している大蔵村の都幾川を槻川と称している。
 ときがわ町平地域の慈光寺は都幾山(つきざん)と称し、平・雲河原地域は嘗て都幾庄(とき)を唱えていたのだが、その由来は、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山(ときざん)より起ったともいう。
 このようにこのときがわ町周辺地域と「つき」は密接な関係があったと考えられる。
 今回参拝した日枝神社の地域名は「大附」。「大附」と書いて「おおつき」と読む。「つき」を共有しているこの地域は、どのような歴史が繰り広げられていたのであろうか。 
       
                大附地域から見た関東平野


*追伸として
 さいたま市浦和区岸町には「調神社」が鎮座しています。延喜式内社で、旧社格は県社という堂々たる格式であります。祭神は天照大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊の三柱。
 社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたといわれています。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとしています。
 このように「調(つき)」は、古代の租税の徴収に当たる職名とも想定され、「シラベ・チョウ・ミツギ」ともいい、和銅6年(713年)元明天皇「二字佳字の詔」により、後代に「月・築・槻・附・都幾」等を用いたといいます。この「月・築・槻・附・都幾」等の漢字は「都幾川」「槻川」にも共有されています。偶然の一致でしょうか。
 また別説では、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もあります。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘され、当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされています。
 ときがわ町北側には、東松山市唐子地域もあり、渡来系の人々が移住した地とも言われており、ときがわ町にもこのような渡来人を祖とする一族(調族)の移動・移住の可能性もありそうです。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町 HP」「Wikipedia」
    「案内板」等    


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