古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大野神社

 国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記されている。
『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記されている。一方『日本書紀』では、天地開闢(てんちかいひゃく)のときあらゆる神に先立って現れた第一神で、国土生成の中心的神とされる。但し『記紀』共に、それ以降の具体的な説話はない。
 神名の「国之常立」は、「国」を「国土」、「常」を「永久」と解し、名義は「国土が永久に立ち続けること」とする説や、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説など諸説ある。
 明治時代の神仏分離により、各地の妙見信仰社は祭神を天之御中主神と改めたが、一部には、国之常立神を祭神に改めた社もあった。国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、ときがわ町の大野神社もこの神様をご祭神として祀っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大野329
             
ご祭神 国常立尊  配祀 大日孁貴命
             
・社 格 旧大野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭・送神祭 48日 秋季大祭 817
                  ささら獅子舞 8月第3日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9932149,139.209079,17z?hl=ja&entry=ttu
 ときがわ町・大野地域は、嘗ては秩父郡に属し、村域は都幾川の水源地である外秩父山地の山間にあり、山の中腹、或いは渓流等沿いに民家は散在している。
 五明白石神社が鎮座する五明地域から埼玉県道30号飯能寄居線を南下し、「田中」交差点を右折する。同県道172号大野東松山線に合流した後、7㎞程西行する。「ときがわ消防団第3分団第4部」(消防団といっても小さな2階建ての建物だが)を右手に見ながら更に750m程道なりに進行し、緩やかな上り坂が右方向へカーブしたその先に大野神社が見えてくる
        
                                     大野神社正面
         外秩父の山間地の小さな集落の中、高台上に静かに鎮座している。
『日本歴史地名大系 』「大野村」の解説
 椚平(くぬぎだいら)村の北西にある。近世には秩父郡のうちで、村域は都幾川の水源地、外秩父山地の山間に展開する。東は平村、西方は堂平(どうだいら)山(875.8m)や大野峠(標高853m)などを境として、秩父郡芦ヶ久保村(現横瀬町)など。北西は白石村(現東秩父村)。玉川領に属し、小名に久保・向谷戸(むかいがやと)・道上(どうじよう)・竹ヵ谷・入(いり)・並木・八木成(やぎなり)・田ノ久保・片市・原・峰・小林・藤原・七重・鳥沢などがある(風土記稿)。
「風土記稿」「郡村誌」等によれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え(橋倉屋敷・橋倉館などという)、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。近世を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・「風土記稿」など)。田園簿によると田高五石余・畑高一三四石余、紙舟役一七五文が課せられていた。
        
                石段上にある社号標柱と鳥居
 日本武尊がこの地に来て国常立尊を祭り、「身形神社」と称したのに始まると伝えられる。江戸期になって「北滝山妙見宮」と改め、明治初年に「身形神社」に社号をもどしたが、明治四十三年には地名を採って「大野神社」と改めた。本殿に安置される毘沙門天像は、北方の守護神であるため、北極星を祀る妙見信仰により奉安されることになった。
        
             静謐な雰囲気の漂う境内と、神仏習合時代の香りが今なお残る社殿
 秩父地方では、妙見菩薩が「妙見七ツ井戸」を渡り秩父神社の社地に奉斎された後、秩父妙見の分社を郡境の交通の要所7カ所(第1所・小鹿野町藤倉 第2所・皆野町金沢 第3所・長瀞町矢那瀨 第4所・東秩父村安戸 第5所・都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕第6所・名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕 第7所・飯能市北川)に秩父妙見宮〔現 秩父神社〕の守護神として祀ったと伝えられている。この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれる。
『秩父志』にも、「秩父七妙見」の置かれた位置について「郡境ニ祭ル」「郡境七所ニ往古分祀セシナリ」「群境ノ村々七所ニ遷請シ奉ル」と記され、秩父妙見の分社を郡境の交通の要所7ヶ所に攘災の守り神として祀ったことが分かる。多くが現在の秩父地方に含まれない境界辺りに位置しているが、当時は寄居、嵐山、ときがわ町、飯能市も秩父と称していたのであろう。
        
                     拝 殿
        
            道路沿いに設置されている社の由来の案内板
 大野神社由緒
 所在地 都幾川村大字大野三百二十九番地
 祭 神 国常立尊
 配 祀 大日孁貴命
 当神社は社伝によれば日本武尊が御征討の際この地に国常立尊を祭り、身形神社と称したのが始まりとされています。その後、徳川幕府の時代に北滝山妙見宮と改称され国幣小社秩父神社の姉神として、秩父七妙見のひとつに数えられたといわれています。更に明治四十年(一九〇七)に七重地区の神明社を合祀して同四十三年に社名を「大野神社」と改め現在に至っています。
 特殊神事
 一 送神祭(県指定選択無形民俗文化財)
 送神祭は今から二百六十年前、村中に広まった疫病を追い払うために始まったものと言われています。例祭の四月八日(現在は四月の第二日曜日)には宮司を先頭に青竹と和紙で作った御輿と小旗の行列が笛や太鼓の音と共に地区内を限無く巡って村中の疫病神を村外に送り出してしまうというたいへんめずらしい祭りです。
 二 ささら獅子舞(村指定無形民俗文化財)
 獅子舞は言い伝えによれば、享保年間(一八〇一〜一八〇四)の大旱魃の時雨乞いを祈願したことから始められたと言われています。旧暦の七月十七日(現在は八月第三日曜日)には、花笠四人に「ハイオイ」と呼ばれる先達と獅子三頭が笛の音色に合わせて「白刃」を代表する「七庭の舞」と「願ざさら」等を奉納いたします。
「文化ともしび賞」受賞 昭和六十一年二月十五日
 平成八年八月十八日
 大野神社氏子会
 大野地区文化財保存会
                                      案内板より引用
        
         社殿の左側に祀られている境内社・合祀社、石碑、力石等
合祀社に祀られている社は、山神・天満天神・大山祇・福寿稲荷・稲背脛・山峯等、右側の社は稲荷社。
      石段上には「聖徳皇太子」の石碑が、また右側手前には「力石」がある。
        
                     社殿奥にある記念碑や石碑、その奥には神興庫あり。
                                          記念
                   当社は人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊の創建せら
                   れたもので其の由緒極めて古く社号も妙見宮身形神社と
                   称えた事もあつたが明治四十年大字七重神明社を合祀同
                   四十三年六月大野神社と改称した境内地は元より国有地
                   であつたが昭和二十三年三月二十八日宗教法人令により
                   譲与の申請をしたところ同二十四年四月三十日指令社第
                   一六三六号を以て関東信越財務局長より無償で譲与の許
                   可をされたのであるこの劃期的な事項を永遠に記念する
                   ため碑を建て裏面には当時の神社関係者の氏名を録して
                   世に伝える。
                 大野神社宮司明階戸口保三書
     
     
 ところで「新編武蔵風土記稿」「郡村誌」等によれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。
*大野弾正
『新編武蔵風土記稿 大野村』
「城跡 村の西の方高篠山の麓にあり、此所を橋倉と云。一つ離れし小山なり、山上一町四方許の平坦、巽の方を前とし乾を後とし、民坤の方谷川の流れあり、前に至り此二流合して一流となれり、堀の跡などあり、往昔大野弾正と云へるもの居住せり、」
『新編武蔵風土記稿 薄村(現両神村)』
「此の辺にて大野弾正討死すと云伝ふれど詳ならず。此の弾正は鉢形の家臣なれば天正の頃のことなるべし。郡中大野村に住せしとて其跡あり」
 
 入口正面の参道の左隣にも石段があり、その先には忠魂社が祀られている(写真左・右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「デジタル大辞泉」
    「ときがわ町HP」「神社内案内板・境内石碑文」等 

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