古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瀬戸元下雷電神社

 都幾川支流である瀬戸川はときがわ町・大附地域の弓立山(標高426m)を源とする延長約2㎞の小河川で、瀬戸・関堀・馬場各地域を流れ、旧都幾川村本郷・田中地域付近で都幾川と合流する。
 恐らく「瀬戸」地域は、この都幾川支流である「瀬戸川」から派生した地名であるか、その逆パターンであろう。この両者はお互い固有名詞である「瀬戸」が共有していて、加えて隣接して存在している為、何かしらの関連性はあることは確かである。
 さて、この「瀬戸」地名由来には、各説があり、ハッキリとしたものはない。筆者も多くの解説書やHP等を確認したが、この地名の多くは海近くか、河川に面した地域由来が多いが、だからといって陸地にも数多くこの地名は存在する。
 結論から言うと、この地名は、海のあるなしに関わらず、狭い出入口をいうような『狭処(セト)』が本来の意味で、「瀬戸」という漢字は後に転じたものであるという。 「瀬田」「瀬戸」という地名は、狭い海峡のみでなく内陸部の山間や丘陵地等の谷地に多く見られるとの事だ。
        
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町瀬戸元下4471
            ・ご祭神 大雷命(推定)
            ・社 格 旧瀬戸村鎮守
            ・例祭等 例祭 10月15日(ささら獅子舞)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9965833,139.2694904,17z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下雷電神社が鎮座する瀬戸元下地域は、桃木地域の丁度真南側に位置し、現在は瀬戸元上・元下各地域に分かれているが、嘗ては同じ「瀬戸村」を成していた。
 途中までの経路は桃木八幡神社を参照。埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を直進し1.2㎞程進むと、信号のある丁字路があり、その先の路地手前付近に「瀬戸雷電神社」の立看板が見えるので、そこを右折する。そこからは道なりに200m程進んだ瀬戸川に架かる橋の手前付近に瀬戸雷電神社の看板が見えてくる。
 河川沿いに路上駐車できるスペースがあり、そこの一角に車を停め、徒歩にて西方向に進む。
        
                      駐車した地点から暫く徒歩にて社に向かう。
 歩道の右側は「瀬戸川」なのだが、ほぼ「沢」と言っても良い小川であるが、水質も良さそうで綺麗である。この河川沿いを暫し進むと、正面に瀬戸雷電神社の石段が見えてくる。因みに歩道左側は鬱蒼とした森が続いていて、もしかしたら一昔前はこの歩道も参道の一部だったのか、とも感じる位風情がある。
 神社紹介のブログではあるが、このような歩道からのスタートも悪くない。 
        
                  瀬戸元下雷電神社正面
 参拝日は4月後半の平日。春時期とはいえ、日中は真夏を思わせるような日差しであり、少し歩くだけでも汗ばむ陽気だが、新緑に覆われている森に入ると至って涼しく清々しい。舗装されていない歩道も一昔前の風情や情緒があり、どことなく懐かしさを感じながら暫し歩いて行くと目の前に瀬戸雷電神社の石段、そしてその奥に鳥居が見えてくる。
 
 石段を登り終えると正面に石製の鳥居が見える(写真左)。鳥居の左側には社務所も設置されている。どうやら鳥居の正中線上からやや左向きにずれて社殿は鎮座しているようだ。
 河川沿いの歩道は周囲木々に覆われ、ほの暗くもあったが、鳥居を越えると状況は一変し、明るい境内が一面に広がる(同右)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 瀬戸元下雷電神社の創建時期、由緒等は不明。但しその西側で「雷電山」頂上部に鎮座している雷電神社奥宮は、雷除けの神様が祀られているという。因みに雷電山はときがわ町にある標高418.2mの低山で、埼玉百名山に名を連ねている。
 またこの雷電神社で1013日に近い日曜日に行われている「雷電神社ささら獅子舞」は、古文書から江戸時代の享和元年(1801)には、ささらに関する記録があり200年以上のわたり行われていることが分かっており、舞は「花がかり」「雄獅子かくし」「一ツ花」という。
 この雷電神社ささら獅子舞は町の無形民俗文化財に指定されている。
       
    境内は幾多の木々に覆われているが、その中でも特に立派な大杉の大木(写真左・右)
        
                    境内南側に設置されている「助成施設」という神興庫
         この中にささら獅子舞等が大切に保管されているのであろうか。
        
         社殿より境内を眺める。瀬戸地域を静かに見守る鎮守様。
 ところで『新編武蔵風土記稿 平村(現ときがわ町西平)』に「山王社 村の鎭守なり。當社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤氏等の、先祖まつりて鎭守とせりと、(中略)天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり」と記されている。
 この「田中村の市川氏・馬場村の馬場氏・瀬戸村の荻久保氏・腰越村の加藤氏」は、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣で、各村に土着した一族の末裔といわれている。
 瀬戸村の荻久保氏
『新編武蔵風土記稿 瀬戸村』
「舊家者丈右衛門、荻久保を氏とす、先祖某は帯刀先生義賢の臣下なりと云傳ふ、義賢近鄕大藏に舘を構へしなれば、此邊を領せしと見えて、隣村馬場村の馬場氏、田中村市川氏なども、各其の祖先は倶に義賢に仕へしと云、丈右衛門が先祖某歿して、後村内に葬り、後神に崇めて萩明神と唱ふ、其葬地には塚ありて、今福仙坊と呼ぶ、これは此人晩年薙髪して福仙坊と號せし故なりとぞ」

 
         参拝終了時、瀬戸川の流れが気になり撮影(写真左・右)。

 社は2段の石段上の高台に鎮座しているが、その理由が当初分からなかった。せいぜい斜面上に鎮座しているので、参拝者の方々への利便性から石段を設けた、という単純な考えしか浮かばなかったが、社に沿って流れている瀬戸川を見ると、おぼろげながらその理由がわかってくる。
 瀬戸川は現状川底がハッキリ見える位の清流で、穏やかな姿をしている。尚且つ、洪水対策として護岸用のブロックもしっかりと組まれているようであるが、この川幅に対してブロック壁の高さを鑑みても、一旦大水等が発生すると土砂災害による被害が出そうな地域と変貌しそうな外観であった。
 事実「ときがわ町 土砂災害マップ」を見ても、丁度社の東側及び瀬戸川周辺は「土砂災害特別警戒区域」「土砂災害警戒区域」になっていて、この地域の危険地帯の「へそ」に当たる場所に鎮座しているこの社の存在意義を改めて確認したような思いであった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町HP」等

       

        

 

拍手[1回]