古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

桃木八幡神社

 桃木八幡神社周辺は、桃木の名前にちなんで花桃がたくさん植えられていて「花桃の里」と呼ばれていて、三月下旬から四月上旬には社参道で、「花桃まつり」も開催され、多くの人で賑わう。この「花桃の里」には、1本の花桃の木にピンクや赤、白の花を咲かせる「源平花桃」や、濃い桃色の八重咲きの「矢口桃」などが咲き、そしてこの種の「枝垂れ花桃」が道路沿いや庭先に咲く。
 地域住民団体の「花桃の会」のメンバーは、花桃の咲く里づくりによる地域の活性化と、心の触れ合う住みよい地域社会をつくることを目的に、平成八年(1996)から植栽のなどの活動を行ってきたという。
 今回何のレクチャーもなく、4月下旬という中途半端な日に参拝したため、花桃を見ることは出来ず、その点は大変残念。いつの日にか、桜と共に咲き誇る花桃の美しい風景を愛でたいものだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町桃木399
             
・ご祭神 品陀和気命
             
・社 格 旧妙覚郷八ヶ村総鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0047598,139.2657312,18z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社から北西方向にある「五明」交差点を左折、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を右折し、「ときがわ町立都幾川中学校」を左手に見ながら次の信号の手前にある上り坂の路地を左折し、暫く道なりに進むと、右手に桃木八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                        綺麗に整えられている
桃木八幡神社周辺環境
『日本歴史地名大系 』「桃木村」の解説
 関堀村の西に位置し、南西方に弓立山がそびえる。玉川領に属し、いわゆる妙覚郷八ヵ村の一つ。小名に「根キハ・トチ沢・山口」があった(風土記稿)。田園簿には桃ノ木村とみえ、田高九〇石余・畑高二六石余、ほかに紙舟役五〇三文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高一四二石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領。以降、同領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。化政期の家数三〇、用水は平村地内で都幾川から取水した(風土記稿)。
 鎮守は八幡社(現八幡神社)。妙覚八幡大菩薩御縁起(西沢家文書)によれば同社は妙覚郷八ヵ村の総鎮守で、延暦二四年(八〇五)の勧請という。
        
                  桃木八幡神社正面
 都幾川を見下ろす丘の上に鎮座する桃木八幡神社は、明治維新まで当社の別当を勤めていた明覚寺(妙覚寺)の開山僧廣山盛阿法印(釈廣の山盛阿)が延暦14年(805)に創建したと伝えられている。建久4年(1193)には源頼朝が社領を寄付し祈願所としたといい、その後明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守として祀られていたという。
        
        参道は100m以上続く中、周辺の環境整備もしっかりとされている。
 桜や花桃の開花の時期は過ぎてしまったが、新緑が若々しく、木々も活力溢れているようだ。
          空気も澄み渡り、春時期ならではの気持ちよい散策。
        
 境内も広々としていて、神仏習合の名残りが今でも残っている独特な造りの社殿と相まって、良い雰囲気を醸し出している。また社殿の奥に聳え立つ巨木等の木々も良い感じである。
        
さすが明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守の風格といったところか。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 桃木村』
 八幡社
 妙覺郷八ヶ村の鎮守とす、神體木の立像にて、聖徳太子の御作と云、社傳の書に、當社は延暦二十四年の勧請なり、其後遥に星霜を經て建久四年右大将賴朝社領若干を寄附せしめ祈願所となせりと、其頃は末社九十餘宇ありて、頗る繁榮せしが、天正十八年八月丙丁の災に罹りて、社領ことごとく焼失す、其後寛永二年再び造營せしと云、此書は近き頃記せしものにて信じ難けれど、社地のさまなど古き鎮座なるべく見ゆ、本社の乾の方に僅なる池あり、御手洗とす、此水いかなる旱にも涸ることなしと云、
 別當妙覺寺
 もとは明王院と號せり本山修験、入間郡西戸邑山本坊配下、林水山宮本坊と號す、本尊不動は智證大師の作、長七寸許、開山廣山盛阿法印は、弘仁三年八月十三日寂す、開山より文明頃まで、十三世の僧名を記せしものあれど考證とすべきことなし、此邊の郷名を妙覺と唱ふるは、當寺より起りし由寺僧は云へど、此寺もとは明王院と號せしを、近頃妙覺と改めしことなれば、此寺かへりて郷名の字をとりしこと知べし、境内に陶物の薬師あり、小なる石の龕に安ず其傍に椋の大木あり、地上より二尺許上に、口の徑二寸程なる穴あり、其中に冷水涌出す、眼を患ふる者此水をもて洗ふ時は、必驗ありと云、
 寶物愛染像一軀。春日の作と云、長二寸許、右大将賴朝の寄附せし由、云傳ふれど信じがたし、
 鐘樓 延寶六年鑄造の鐘なり、
 地蔵堂蹟。何の頃廢せしや詳ならず、本尊は長一尺許、行基の作と云、今本堂に置り、
 
    社殿左手に鎮座する境内社・稲荷社    社殿右手奥に鎮座する境内社・大洗磯前神社
       
        境内社・大洗磯前神社手前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
「埼玉の神社」によると、神仏分離まで別当を務めた明覚寺は、古くは明王院といい、本山派修験の寺であったが、神仏分離後は西沢姓を名乗って復飾した。当主の泰一で二九代を数えるといい、『風土記稿』や『明細帳』に載る由緒は同家所蔵の社記によったものである。また、当社の本殿の軒には卍の紋が入っており、神仏習合当時の名残が見られる。なお、西沢家は代々当社の鍵を預かっており、当主が氏子総代として神社運営のまとめ役になっているなど、今も当社と深いかかわりがあるという。
 この西沢氏は、八幡社別当修験妙覚寺宮本坊文書に「十世貞山智歓法印・北条氏島崎云ふ、改西沢帯刀光輝靭負正、大永元年八月十三日寂・西沢靭負正道房。十一世寿山林盛法印、元亀三年九月三日寂・西沢靭負尉道光。十二世速山長歓法印、寛永六年四月四日寂・西沢右近将監」と記載され、それ以降も29代と続くこの地域の名主的な存在であるのであろう。
        
              境内社・稲荷社・八坂社・山神社合殿
              
        社殿前には神仏習合の名残を象徴する宝篋印塔が立っている。
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔である。
 宝篋印塔を礼拝供養することによって、亡くなられた方が現世で犯した罪を消し、極楽浄土へ往生できるとされている。また、宝篋印塔は多数の如来が集っているとも考えられており、ご先祖様の供養だけでなく、子孫を守り、一族を繁栄へ導くともいわれている。
 参拝では「宝篋印陀羅尼」を唱え、塔の周りを右繞三匝(うにょうさんそう/仏に対して右回りに3回まわる参拝の作法)することで効力を発揮すると伝えられている。

 この宝篋印塔は寛政九年(一七九七年)神仏習合の時代、当地に造立されたが、明治元年(一八六八年)政府の神仏分離令により解体され、一部は放置、一部は地中に埋められた。
 調査の結果、百四十年の時を経て、平成十九年二月、塔の全部分が発見される。ここに再び地域の繁栄と住民の健康、幸せを祈り、造立当時の姿
「塔 高サ壱丈壱尺、敷石掛ヶ高サ四尺二シテ六尺四方、メ惣高サ壱丈五尺也」
 に復元し供養する。
 平成十九年六月吉日
                             「
宝篋印塔下部供養碑文」より引用

        
                静かに佇む古社の趣のある社
          


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「フォトさいたま」宝篋印塔供養碑文」等
 

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