古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉川今宮神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町玉川1107
             
・ご祭神 誉田別命 大雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 祇園祭 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0100204,139.3016171,17z?hl=ja&entry=ttu
 玉川春日神社から一旦雀川を渡り南下し、埼玉県道171ときがわ坂戸線との交点で左折し、1㎞程東行する。「玉川工業高校入口」交差点を直進すると、すぐ左手に玉川今宮神社の鳥居が見えてくる。残念ながら鳥居周辺には社務所や集会所もなく、県道に沿って社は鎮座しているのだが、車の往来も多い場所であるため、路駐も不可能。しかたなく、交差点を右折して右側にあるホームセンターで買い物を済ませた後に、徒歩にて参拝に向かう。
        
                                玉川今宮神社正面
 
         南西方向のやや長い参道の先に拝殿が見えてくる(写真左・右)。
『日本歴史地名大系 』「玉川郷」の解説
 現村域の南東端、外秩父山地の東縁に位置し、東部の一部は岩殿丘陵にかかる。地内には都幾川の河岸段丘が発達している。天正一八年(一五九〇)五月日に前田利家が地内光明寺に出した禁制(光明寺文書)には「妙覚郷光明寺」とあり、この頃当地は妙覚郷に属していたと推定される。徳川家康の関東入部後、当地には代官陣屋(玉川陣屋)が設けられた。慶長年中(一五九六―一六一五)には、陣屋の南、根際(ねぎわ)地区に町割がなされ、対岸の一ト市(ひといち)と合わせて三・九の日の六斎市が立ち、周辺一帯(玉川領とよぶ)の政治・経済の拠点となっていたが、天和―貞享期(一六八一―八八)頃から陣屋の機能は縮小、一八世紀の初めには廃止となり、市立ても行われなくなった。
 田園簿によれば田高一五三石余・畑高三六四石余、幕府領。紙舟役永五〇文が課せられていた。陣屋所在地であったためか、高室喜三郎・諸星庄兵衛の二人の支配代官が記される。元禄郷帳では高九一七石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領および地内春日社(現春日神社)領。「風土記稿」成立時には内藤・安藤の旗本二家と幕府領の相給。本検地は寛文八年(一六六八)に代官曾根五郎左衛門によって行われ、三ヵ所あった持添新田の検地は元文五年(一七四〇)に芝村藤右衛門、明和五年(一七六八)に宮村孫右衛門、文化六年(一八〇九)に浅岡彦四郎の各代官が実施。

『新編武蔵風土記稿 玉川郷』において、当地が「村」ではなく、「玉川郷」と称していることに対して「今此村のみを鄕の名に唱ふるはいぶかし、他になぞらふれば、玉川村と云べきをかくいへるは、たゞ古くより唱へ來りしまゝにて、別に故ありとは思はれず、」と解説している。また玉川郷という名称に対しても「村内光明寺に蔵する天正十八年、前田利家が出せし制札に、妙覺鄕光明寺と書したり、其頃は妙覺鄕に屬せしにや」と、天正年間は「妙覚郷」を称していたと記載している。
 
 参道左側の空間にある「猿田彦大神」の石碑   参道右側に手水舎・石祠・石灯篭あり。
    その先にある石祠の詳細は不明      石祠は「三峯神社・御眷属」のお神札あり。
        
                     拝 殿
 玉川郷 龍蔵寺 水月山と號す、前と同寺の末なり(入間郡龍ヶ谷村龍穏寺末)、本尊釋迦を安ず、外に正觀音の像一軀あり、安阿彌の作と云、開山本寺十六世の住僧鶴峯聚孫なり、寛永三年寂す、
 今宮權現社 神明社 雷電社
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

今宮神社 玉川村玉川一一〇七
玉川村の中心地である大字玉川は、近世には玉川郷と呼ばれ、天正十八年(一五九〇)から宝永七年(一七一〇)までは徳川家の直轄地であった。当社は、その一角である一ト市に鎮座し『風土記稿』の玉川郷の項にも「今宮権現社」としてその名が見える。
社伝によれば当社は、天文二年(一五三三)に松山城主上田又次郎が玉川領に陣屋を設けた際、当村において戦勝祈願をするため、郷内の川北(字宮谷戸)に雷電社、川南(字伊勢ノ台)に今宮権現社を勧請したことに始まるという。この両社は共に曹洞宗龍蔵寺の持ちで、松山城主の尊崇厚く、庶民の崇敬もまた厚かったと伝えられる(以下略)。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「
一ト市」は、「ヒトイチ」と読み、比企郡玉川郷字一市は古の村名である。徳川家康の関東入部後、当地には代官陣屋(玉川陣屋)が設けられた。慶長年中(1596〜1615)には、陣屋の南、根際(ねぎわ)地区に町割がなされ、対岸の一ト市と合わせて三・九の日の六斎市が立ち、周辺一帯(玉川領とよぶ)の政治・経済の拠点となっていたが、天和―貞享期(1681~88)頃から陣屋の機能は縮小、一八世紀の初めには廃止となり、市立ても行われなくなったという
 
       拝殿に掲げてある扁額              本 殿
 ところで、玉川今宮神社の末社に「八坂神社」が祀られており、町指定無形民俗文化財の『一ト市祭り囃子』が毎年7月中旬に奉納される。
一ト市祭り囃子』
 玉川今宮神社には末社八坂神社の祇園祭に(天王さま)奉納されるお囃子で、一ト市祭り囃子保存会が保持団体となっています。
 お囃子は、江戸時代の末から明治時代初めにかけて坂戸の赤尾より「神田はやし」を習ったもので「ニンバ」「カマクラ」「ショウデン」「シチョウ」など八曲があります。現在は、雌雄2頭の獅子頭が各戸を巡り疫病退散を祈願し、その後、屋台が出て囃子が奉納されます。一ト市は、江戸初期に宿の町割りが行われ市が立った町場でした。この祭りは、華やかな町場の夏祭りとしての性格を持っており昭和16年戦争により中止となっていたものを昭和50
年に保存会を結成し復活したものです。旧玉川地域を代表する夏祭りで、民俗行事として貴重なものとなります。
                                 「ときがわ町HP」より引用
        
                    境内の風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ときがわ町HP」等
 

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