古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

田黒諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町田黒718
             
・ご祭神 建御名方命 大山咋命
             
・社 格 旧田黒村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 410日 例大祭 109日 新嘗祭 1125
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0191288,139.2913478,16z?hl=ja&entry=ttu
 嵐山町・鎌形八幡神社から埼玉県道173号ときがわ熊谷線を南下し、450m程行った信号のある十字路を右折、その後「ふれあいセンター田黒」の建物が右手に見える先の十字路を左折する。500m程進むと「明王院」という看板が見える路地が見えるので、そこを左折し、小川を越えたすぐ右手奥に田黒諏訪神社の鳥居が見えてくる。
 実際は、玉川春日神社から県道を北上してから、上記十字路を左折して社に到着したわけであるが、説明する際には鎌形八幡神社からのルートのほうが近いので、そちらを採用した次第だ。
 鳥居前の石段のすぐ左手に境内に通じる道があり、そこの一角に車を停めたから参拝を開始する。
        
                               
田黒諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』による 「田黒村」の解説によれば、「玉川郷の北に位置し、西は五明村など、村の南東外れを都幾川が北流し、北は同川支流の槻川を挟み遠山村(現嵐山町)など。田園簿によれば田高三八石余・畑高六三石で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領、ほかに地内大福寺領があった。以後、同領のまま幕末に至ったものと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」など)。寛永十一年碑に武州「田畔村」と記載されている。
 検地は寛文八年(一六六八)に幕府代官堀次郎右衛門によって実施された。化政期の家数四五(風土記稿)。明治九年(一八七六)頃には戸数六〇・人数三一二、馬二六。男は農業・炭焼、女は耕・織・紙漉を主とし、おもな産物には繭五〇斤・生絹一三〇疋・塵紙三〇〆・鶏卵五〇〇個・薪一千五〇〇駄・炭一千五〇〇貫などがあった(郡村誌)」と記載されていて、ときがわ町においても最北端のつけ根部に位置し、地形的にも嵐山渓谷一帯に属する地域でもある。
 田黒諏訪神社が鎮座する地は、田黒地域内に在って「入田黒」という字にあり、細い谷の奥部であることから入田黒の地名が付されたという。嵐山渓谷からは南側にあり、若干離れているが、この地域も緑豊かな地域である。
 
    綺麗に整備された石段(写真左)と、その先に見える神明造りの鳥居(同右)。
        
          鳥居の先にはもう一段昔ながらの石段があり、その先に境内の空間が広がる。
           よく見ると、境内中央には「草相撲」の土俵がある。
       
                                      拝 殿
 諏訪神社 玉川村田黒七一八
 当地は玉川村北東部の大字田黒のうち入田黒と呼ばれる地区である。細い谷の奥部であることから入田黒の地名が付されたのであろう。
 当社は、谷の南側にある春日山の尾根上に祀られており、江戸中期に信濃国諏訪神社(現諏訪大社)から勧請されたと伝えられている。
 県内の諏訪神社は、ほぼ全県にわたりその分布が広がっているのが特徴である。勧請の始まりは鎌倉時代で、県内は鎌倉街道上道が通り武将の往来が多かったこと、武蔵武士団の発生地であることが広く勧請される要因となったと考えられる。
 また、その大半は天正年間(一五七三〜一五九二)を中心に前後二百年間に勧請され、新しいものでも江戸中期までである。これは、本社の大祝であった諏訪安芸守頼忠が天正十八年から二年間、奈良梨に移封されたこととかかわるのであろうか。
『風土記稿』には、「八幡社聖天諏訪を合祀す、明王院の持」とあり、当社は八幡社の合祀社の一つであった。また、安政三年(一八五六)に奉納された「諏訪大明神御祭礼」の幟が現存している。
 別当の明王院は、真言宗の寺院で入間郡今市村法恩寺の末寺、開山の栄専は寂年を伝えておらず草創年代は不明である。なお、八幡社と聖天は『郡村誌』に見えず、明治初年には既に祀られていなかった。
                                  「埼玉の神社」より引用

               
          拝殿上部には 「諏訪神社 由来」の案内板が飾っており、
     そこには例祭、本殿等の造り、由来の他に
「諏訪神社の草相撲」の記載がある。 
      但し、この案内板はガラス張りのため、光の反射による見えない箇所もあった。
諏訪神社由来
祭神  建御名方命 大山咋命
祭祀  元旦祭 一月一日
    祈年祭 日 
    例大祭 
十月九日 
    新嘗祭 
十一二十五
境内地 二三四坪四合八勺(七七四平方メートル)
    昭和二十四年四月三十年 無償譲与許可
本殿  木造瓦葺流れ造り
    間口、奥行各一間(一、八メートル)
拝殿  切妻造瓦葺間口二間(三、六メートル)
    奥行三間半(六、三メートル)
〇〇建築物 社務所 木造切妻瓦葺 

      鳥居 石造 神明造 一基
(中略)

 田黒の諏訪神社がこの地に分司されたのは江戸時代の中期で、今から凡そ二百年前と思われる。
明治四年(1871)に社格(村社)となり、明治四十五年(1912
)五月二十二日、字石場沢無格社山神社を合祀した。例大祭は、明治四十五年まで旧七月二十七日であったが、その後九月二十八日に改められ、昭和五十一年より十月九日に改訂された。
 大祭の神賑行事に、古くより相撲が行われた。昔、或る豪族に、子供が生まれたが病弱で育ちが悪かったので、その将来を憂えた当主が、当時有名な力士を神前に招へいし〇〇を抱いて四股を踏ませたところ、その翌(以下略)立派に成育した(以下略)
                                  「諏訪神社由来」より引用
         

             嘗て草相撲が盛んだった往時を偲ばせる佇まいを感じることができる。
       
                              境内にある「新築記念碑」
 新築記念碑
 田黒村鎮守氏神様として氏子崇敬者はもとより、近郊里人にまで信仰の厚い当諏訪神社は、天正年間、信濃国諏訪大社より勧請され、其の後八幡社、聖天社を合祀し、明王院持ちとして護持されてまいりました。
 戦後、社殿は老巧し境内は荒廃して、御神威をけがし畏縮して居りました。茲に氏子崇敬者相計り、御本殿の外霞殿及社務所の新築、境内地及参道の整備拡巾等を実施、平成六年、入田黒土地改良事業、ゴルフ場入口道路砂防事業に境内地一部を協力し、代替地として久保田三六七―七番地七五一平方米を境内地として取得した。
 御神徳の高揚と、地域住民の融和発展を念願して、事業完成を祝し、本碑建立する(以下略)。
                                     記念碑文より引用
 
    境内左手に祀られている境内社         社殿右側に鎮座する境内社
            稲荷社であろうか。               詳細不明
 
 ところで「埼玉の神社」に記載されている「諏訪安芸守頼忠」は、戦国時代から江戸時代初期の武将で、信濃諏訪藩の基礎を築いた。従兄弟に当たる諏訪総領家当主頼重が天文11(1542)武田信玄により自刃させられたため、流寓の身となる。
 諏訪郡は天正
10(1582)の武田氏滅亡後織田信長により河尻秀隆に与えられたが、6月に信長が死ぬと頼忠は諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて本領を回復した。一時北条氏直に属し徳川家康軍と戦うが、のち家康に従い同11年所領を安堵された。
 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い諏訪を離れ、武蔵国比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生に計12,000石の所領を与えられた。文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移された。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。
 慶長
5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、頼水が諏訪勢を率いて出陣し、頼忠は江戸城の留守居役を務め、この功により嫡子頼水と共に諏訪の旧領に復帰した。没年は慶長11年(1606)とされるが、慶長10年(1605)とする説がある。
        
                                    拝殿からの風景
 つまり、頼忠は、天正18年(1590)から2年間、武蔵国比企郡奈良梨・児玉郡蛭川・埼玉郡羽生に計12,000石の所領を徳川家康から与えられ、武蔵国に在住していたことがわかる。武蔵国内に諏訪神社が多く鎮座しているのも、この諏訪安芸守頼忠が一時的にも武蔵国に所領を持った事と関係しているとも考えられよう。
 なにしろ東国では絶対的に有名な諏訪神社の「総領家当主」という肩書を持つ人物に対して武蔵武士は煌びやかに映ったのではなかろうか。平安時代末期、伊豆国に流された源頼朝に対して憧れを抱いた素朴な思いと同じような感情が、そこにはあったのではと推測する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「朝日日本歴史人物事典」
    「Wikipedia」「境内記念碑・由来」等

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