古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

雲河原四幡神社

 ときがわ町には「雲河原」という一風変わった地域名が存在する。「都心に近い本格的な田舎」というときがわ町のキャッチコピーにあって、更にこの地域は外秩父山地外殻部に位置し、町中央部北側にありながら、四方山に囲まれた長閑な山間地でもある。
「雲河原」は「くもがわら」と読む。名称由来は不明であるが、昔は「雲瓦」と称していたという。
 そしてこの地域には、雲河原四幡神社が鎮座している。地域にとっての主要道である埼玉県道273西平小川線が南北に通っていて、小川町・上古寺氷川神社から南下し、その県道から北側小川町との境手前付近で南東方向に進む道を右折して山道を1㎞程進んでいくと、この社にたどり着くことができる
 杉林に囲まれた中にひっそりと佇む社である。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字雲河原617
            
・ご祭神 不明
            
・社 格 旧雲瓦村鎮守(推定)
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0140945,139.243474,16z?hl=ja&entry=ttu
「雲河原」の名称由来はハッキリとは分からないが、嘗て秩父郡大河原郷(東秩父村)より男衾郡大河原郷勝呂村(小川町)、及び比企郡大河原荘関堀村・田中村・桃木村・平村の四ヶ村(都幾川村)に亘る広範な地域を大河原郷と称していたという。『新編武蔵風土記稿 
秩父郡条』に「椚平村、大野村、安戸村、御堂村は大河原郷に属す、古は大河原村と唱へり」。『同風土記稿 比企郡条』に「大河原郷は雲瓦村の一村に此唱あり、其余数村は皆秩父郡にかかれり、又庄名にも此唱あり」と記載があり、「雲河原(瓦)」が「大河原郷」の名称からの由来ではないかと考えられる。
        
          木製の鳥居、社号標柱はあるが、ここは社にとっては裏参道にあたる。
 当初、この「四幡神社」の「四幡」は、どのように呼んだらよいか分からなかった。一見すると「幡」という漢字が使用されていて、八幡神社系列の社かとも考えたが、「埼玉の神社」によると「シバタ」と読むようだ。また創建時期・由緒も全く不明で、『新編武蔵風土記稿 雲瓦村』にさらりと掲載されているだけである。『雲瓦村条』自体説明もあまりないので全文掲載する。
『新編武蔵風土記稿 雲瓦村』
 雲瓦村は正保及び元祿の改には雲河原と書せり、後何の頃か今の文字に書替しと云、大河原鄕都畿庄玉川領に屬して、江戸より十七里の行程なり、家數四十、東は別所村、南は平村、西は古寺村にて、北は日影村なり、東西十町、南北六町許、御入國の後は御料所にして其後元祿十五年牧野某に賜はり、今子孫大和守知行せり、
 高礼場 村の南にあり、
 小名 上 下
 雷電山 村の南の方、平村の境にあり、
 芝宮明神社 村の鎮守なり、祭神は詳ならず、村持、
 山神社 同持、
『風土記稿』に記載されている「芝宮明神社」がこの社の前身であるとすると、「芝(シバ)」が「四幡(シバタ)」と後世改名したのではなかろうか。
        
                 裏参道から境内に入る。
        
                       拝殿南側には正面にあたる石製の鳥居が立つ。
 表参道正面には石製の鳥居が立ち、その奥には幅の狭い道があるようであるが、人の歩いた形跡もあまりない。地図を確認すると、東南方向にある民家に続いているのだろうと想像はでき、ある程度駆られていて、とりあえず参道らしき体を成しているくらいだが、とても立ち入る程の勇気はない。
        
                             拝殿から正面の鳥居を撮影
   鳥居の先の道が舗装されていない獣道のようにも見え、それ以上の散策は出来なかった。
        
                     拝 殿
            この社の創建、由緒、ご祭神等は調べても不明だった。
        
                       拝殿右側後方に祀られている石祠群及び石碑等
 境内には石祠群が祀られていて、その中央部分には「國造大穴牟遅命」と刻まれている石碑がある。この石碑の前には大黒様の像もあり、その石碑の2つ左側には柄付きの香炉を持った幼少時の聖徳太子像らしい石祠もある
 この「國造大穴牟遅命」は、出雲神話で有名な大国主命の数多い別称の一つであり、『先代旧事本紀』にその名称が出ている。
 大国主命は、素戔嗚尊の子、または6世の孫とされ、出雲大社の祭神。少彦名神(すくなびこなのかみ)と共に、中つ国の経営を行ったが、天照大神の使者が来ると国土を献上して自らは隠退した。医療・まじないの法を定めた神とされる。「因幡の白兎」の話は有名で、中世以来、大黒天と同一視されるようにもなった。別名は大己貴神・八千矛神・葦原色許男命。古事記では大国主神と記されている。
『國學院大學「古典文化学」事業HP』のよると、『日本書紀』では一貫して大己貴神(命・大神)の名で活動しているのに対し、『古事記』では稲羽の素兎や大国主神の国作りなどの神話の展開に伴って、大穴牟遅神・葦原色許男神・宇都志国玉神・八千矛神・大国主神と呼称が変遷している。つまり、大穴牟遅神の神話(稲羽の素兎・根の堅州国訪問)は、王者となるための成長物語とみる説があり、その成長過程の中で、名称の変遷があったのではないかという事だ。
        
                               拝殿左側に祀られている石祠
          石祠の回りの置物から推察するに、稲荷社であろうか。

 この境内に祀られている「國造大穴牟遅命」の石碑を以って、この社のご祭神は「大穴牟遅命(神)」とも考察した。本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま)、また産土神や地主神等の縁故の深い神を祀る摂社とも考えたからだ。しかし、この社に関しての由緒等もないなか、単純に社殿に祀られているご祭神と、境内に祀られている社が、同一系の社であるというのは、絶対的な根拠に乏しい想像の域でしかないからだ。
 何の参考資料もない中で結局一つ解決することも出来ず終了となり、漠然とした不満のみが残ってしまった今回の社散策。ただ「雲河原(瓦)」・「四幡(芝)」というこれらの名称には、何か曰くがありそうである。
        
 裏参道木製の鳥居がある道路を挟んだ反対側には、擁壁上に「青面金剛像」や「馬頭観音像」等の庚申塔、その右並びには林道雲河原線の「開鑿記念碑」がある



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」國學院大學「古典文化学」事業HP」
    「Wikipedia」等


         
          
         

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